4月26日 2種類
今日は、朝から昨日、諏訪と話していたことを思い出していた。私たちの生きる世界は、"残酷"。思いのほか、その言葉が、私の胸に響いていた。その言葉が響くというのは、ある意味、"私の人生は、残酷"と言っているようなものだろうか?
走れなくなり、勉強できなくなり、自分の想いをどこかで抑圧していたのかもしれない。本当は、"走りたい"、"勉強したい"という想いが心の中で溢れているのかもしれなかった。ちゃんとしないといけない、何か失っても立ち上がらないといけないという想いが強すぎるのだろうか?
高校生であれば、機械のように毎日授業を受けて、テストが行われる。テストの点数だけで、私たちを判断する先生。素行が悪い生徒は、あらゆる手段を使って、改心させる。改心できない生徒は、退学させる。
生徒一人一人をロボットのように扱い、教育を受けさせる。その教育に打ち勝ったものだけが、自由を手に入れることができるのだ。一方、負けた者は、補習を受けさせられ、
先生の言いなりになる。興味のない勉強をして、覚えさせられて。部活でも、怒られて行きたくなくなるという負の連鎖。
私は、人間には、2種類の人間がいると考えている。一つは、勝ち続ける人。もう一つは、負け続ける人。ずっと、前者のような人生を望んでいたが、ある日突然、私の人生は、後者になっていた。部活動では、もう走れなくなり、勉強では、しても意味がなくなってしまっていた。
前者は、颯希や真波をさすのだろう。つらいことがあっても、二人とも前向き。どちらもめげずに立ち向かう強さがあった。颯希や真波みたいな人が稀なのか?それとも私たちがダメなのか?
ただ、前者か後者かというのは、あくまでも二元論的な考え。本来なら、その中間があるのかもしれない。なんでもバランスが大事だという。そのバランスがとれている人こそ、ホントは生きやすいのかもしれない。聖徳高校で言えば、渡邉祐奈や宮城栞がそれにあたるのだろう。
後者が悪いということを言いたいわけではない。ただ、いつしか前者を目指そうとしない自分自身にすごく絶望感を感じていた。自分のできないことを何かや誰かのせいにして、目の前の現実から目を逸らしてしまっていた。そんな自分がなによりももどかしかった。今も、その状況から抜け出せることができていない。残酷な社会で、私が生きる場所はあるのだろうか?昨日の諏訪の話を聞いて思い出した。




