Walk through
わたしたちは地面に大きく描かれている矢印の方向に向かって歩き続けている。その矢印が右折すれば一緒になって右に曲がり、左折していれば左へ曲がる。誰もそれがおかしなことなど思わず、そうすることが至極当然のことであると信じきって疑うことをしない。矢印の向いていない方向へ歩くのはルールに外れる行為でかつマナー違反で、矢印通りに進まなければ爪弾きにあう。
誰がそこにその矢印を描いたのかも知らず、その先に何があるのかも分からない。でも全員何の疑問も抱かずに、ただ矢印につき従う。何故だか分からないが、周りの人がそうしているんだからそうするのか、それともそうすることが正しいことだと知っているからか、何も考えずに従い歩く。歩き続ける。
もし仮にこの矢印を時間であると考えてみよう。人々は時間に沿って歩き、戻ることもなければ逸れることもない。うん、大体正しい認識だろう。
逆に考えてもみる。もし時間が矢印だったとしたら? 意地の悪い者がいたら、矢印に背を向けて時間を逆行しようと考えるかも知れない。ただ矢印とは逆に行くだけで、過ぎ去ってきた時間を戻ることが出来るのなら、そうすべきだと考えるかも分からない。
しかし実際のところ、わたしたちにはその矢印は見えず、ただ黙して同じ方向へと歩き続けることしか出来ない。そうする他に術はない。というよりは、そうする以外に選択肢を見つけられていない。矢印は一方方向のみを向いていて、分かれ道はないように見えるからだ。
矢印が一本に見えているのはわたしだけである、という可能性も完全にないとは言い切れない。というのも、わたしが何かを取捨選択するときは決まって、Aを選べばどうなっただろうか? という想像を働かせるからだ。もしBを選んでいたら? Cを取っていたら? そこにはAを手にしたわたし、Bを選んだわたし、そしてCを掴んだわたしが存在することになる。
そのA、B、Cそれぞれの選択肢にはそれぞれの矢印が見えていて、それらは決して同じ方向ではなくて、同じようでも微妙に異なる方向を向いている。つまりわたしがAとBとCの中からどれを選ぼうか悩んでいたとき、そこには矢印の分岐が存在していたということになる。
わたしにはある方向を示している矢印しか見ることは出来ない。それはわたしが選択した結果の方向であって、決して選択する前のいくつもあるはずの矢印は見えないように出来ている。そういうシステムなのだ。
矢印に分岐があるのは分かった。しかし、わたしたちは定められた矢印の上をただ黙って歩き続けるだけで、それを曲げたりゆがめたりすることは出来ない。選択肢があるのを知っていても、その分岐点を見ることが出来ないのと同じようなものだ。その辺りは完全自動化されていて、利用者にはその中で何がど働いているのかを見て取ることは出来ない。仕組みが分からなければ、それを改変することも叶わない。
だがわたしは大変謙虚な人間なので、現存している現実をあるがままにそのまま受け止めている。だから足元にある矢印をなんとかして右や左に曲げたいとは思わないし、後ろを振り返ってちょこっと自分の都合のいいように直してしまおうとは思わない。もし仮にわたしの思うように、好きなように矢印を描いても良いのだと言われたとしても、わたしはこうしたいと思うような矢印は持っていない。だって矢印はいつも勝手に現れて、わたしはそれを追うだけなのだから。
しかし実際のところ、この融通の利かない矢印を自分の思うとおりに動かすことが出来るとしたら、世界は今と全く違う形態を取らざるをえないだろう。矢印が個々の個人によって好き勝手な方向を向き始めたとしたら、そこにあっただろう規則は意味を失くし、過去も未来も自由自在という世界。過去はもはや昔に起こった出来事ではなくなり、未来は昨日のものになってしまう可能性だって充分に考えられる。
時間が自分で向かう方向を決められなくなったら、それはもう時間と呼ぶことは出来ないだろう。それはただの進行方向を示す矢印であるだけで、道路に白く記されている表示となんら違いを持たない。
そんな恐ろしいことは願い下げだ。わたしとしては矢印に行くべき道を先導してもらって、その後ろをぼんやりと何も考えずについて行くだけに留めておいてもらいたいものである。正直なところ、それが一番楽だからだ。楽したいと思うことは何も悪いことではないだろう。
もしかしたら将来的に見て、矢印がわたしの意志に従いたいと申し出てくるのかも分からない。そうしたらわたしもやむを得ず自分でどこに行くべきかと矢印の向きを考えるかも知れないが、出来ればそんな日は来ないで頂きたい。少なくとも、わたしが生きているうちは。今のところは、矢印が楽をしたいと考えないよう祈る他に道はない。祈ったところで効果があるかどうかは不明だが、その辺りは要は気分の問題だ。
ところで、この矢印というものは一人一人によって異なる動き方をするのだろうことは想像に難くない。つまり、誰一人として同じ動きをすることはないということだ。人はそれぞれ独自に取捨選択を繰り返して生きているのだから、至極当然のことである。
矢印はどこかへ向かってひたすらに何も考えていないかのように我武者羅に突き進んでいる。それが真っ直ぐなのか斜めなのか、そもそも何に対して真っ直ぐなのかも分からないが、とにかくどこかへと向かっていることは確かだ。矢印とは往々にしてそういった性質を持っているのだから、そう考えて大ハズレでしたというオチはないと思いたい。
その矢印の行き着く先というのは一体何なのだろうか? わたしのようにただ昔からそうあるからと理由も知らずに流れに身を任せている者はあまり気にならないかも知れないが、自分が強制的に歩かされていると感じている人々の目には、その先が見えているのだろうか? それとも、見えないが故に恐れ、矢印に従うのを拒むのだろうか?
始まりがあるものはいづれ終わりを迎える。言われればその通りな気がするが、始まりがなければ終わることもないと言い換えることも出来る。ではこの矢印に始まりはあったのだろうか?
うっかり背後を振り返ってみるも、矢印の始点が見えるわけでもなく、ただ間抜けな顔を後ろにいる誰かに見られてしまうだけだ。それはそれで恥ずかしいが、とりあえずそれだけでは矢印の始まった瞬間を確認することは出来ない。当然だ。たったそれだけのことで確認できたら苦労はない。
つまりはこの矢印に対して何かしようと思ったところで、こうだああだと具体的なことも出来ず、いくら疑問に感じたところで役に立たないお問い合わせ窓口のように何の回答もない。壁に向かって話しかけても返答がないのと同じだ。じゃあ誰に尋ねればいいのかと言われても、分からないものは分からないのだからわたしには訊かないでほしい。
この矢印が一体どういったもので、いつからそこにあって、どこへ向かって伸びているのか、それに終わりはあるのか、なんてことは将来的にどこかの偉い学者か研究施設が分かったような顔をして世間に発表するだろうから、その日まで待ってみると良いのではないかと思う。
AとBとCのどれを選択するのかという質問に対し、小一時間以上も悩むことが出来る奴に尋ねたところで、今はそれどころじゃなく忙しいんだと無下にもなく断られるだけだろうから。
〈了〉