第7話 揺らめく水面に戯れる(破)
「もう、駄目じゃんリラ!初対面の相手に対して「何か悩み有りませんか?」なんていきなり訊いてさ!」
「しかも強気で食い入る様な態度になるんだもん。しかも地味に穢れがどうとか言ってるし…。前からそうだけど、本ッ当リラっちって目の前の使命の事になると周りが見えなくなるよね!」
更衣室を後にした4人は、そのまま廊下を歩いて教室へと一旦戻ります。然しその道すがら、リラは葵と深優から“水霊士としての自身の使命にかまけた周りの見えない言動”について叱責を受けていました。
「ごめんなさい……3人とも。でも私、早く穢れに苦しんでる水霊を助けてあげたくって………。」
「気持ちは分かるけど、別にその人の中の水霊って言うのだって死ぬ訳じゃ無いんでしょ?水が死ぬ訳無いもんね。」
深優のこの的を射た発言に、リラは思わず目を丸くしました。確かに、水に死と言う概念等有る筈も有りません。それは固体、液体、気体と形を変えて絶えず流れ続けてこの星を循環し、生命の誕生と生育を齎す存在。
そんな大自然の一部であり、生命の源足る物質である水に、本来生も死も無い。況してや水の精霊足る水霊は、大局的な視野で見ればそんな大自然の意思が水と言う属性を以て具現化した物。
例え穢れに苦しんだとしても、それは何千、何万、何億年と連綿と続く時の流れの中のほんの一時の事に過ぎないのです。時が経って宿主が死ねば、内なる水霊も其処から解放されて自由になる。
勿論、穢れがどうしようもない位に蔓延すれば苦しいでしょうが、そのまま活動停止に陥るだけで死ぬ訳では有りません。
只、それでも活動停止して動けなくなっている間でも、別に意識が無くなる訳では無いのでやはり苦しい物は苦しいのですが………。
「でも、普段大人しいって言うか引っ込み思案なのに、水霊士の使命になると急にアクティヴになって押しまで強くなるなんて、リラって面白いよね。」
普段のリラの性格を間近で見て知っているだけに、更紗は水霊士として行動している時のリラとのギャップに対して素直な感想を述べます。
「え?……いや、まぁね。水霊を早く癒さなきゃって思ったら、居ても立っても居られないし、相手に強く出られたって負けちゃいけないって思うから……。」
顔を赤らめながらリラがそう返す横で、深優が右手の五本指を屈伸運動させて言いました。
「でもあの先輩大っきかったよね。水泳部に入ったら毎日あの先輩と一緒……う~~ん楽しみだなぁ♪」
「えっ?何が?」
「深優、あんた………。」
突然それまでの話とかけ離れたそれをする深優に、リラは困惑するばかりでした。然し、葵は幼馴染みと言う事も有ってそれがどう言う事か直ぐに理解し、同時に呆れた目で深優を見遣ります。
すると深優は突然リラの横から消えたかと思うと、不意に更紗の背後に現れて……。
「えっ?消えた?」
「何?」
「だけど取り敢えず更紗からにするね!それじゃ、揉みしだきまーす♪」
そう言うと深優は徐に更紗の脇の下から手を潜らせると、何とそのまま堂に入った手付きで彼女の高校1年生の女子にしては大きい胸の膨らみを容赦無く揉み始めたのです!
「なッ!?ちょっと深優……何を……んんッ………!!止めてっ♥止め………んはああ~~~~~んッ♥」
「う~~ん、教室で最初会った時から気になってたけどやっぱ更紗って大きいよね♪ずっと揉みたかったんだ~~~~♪前橋先輩の前に更紗の事一~~~~っ杯揉んであげる♥」
「なッ、ななな何やってんの深優ちゃん!?ねぇ葵ちゃん、一体深優ちゃんどうしちゃったの!?」
突然の出来事にリラは全く理解が追い付きません。思わず葵に尋ねると彼女は溜め息を一息吐いて説明します。
「ごめんリラ…、それに更紗にも未だ言ってなかったわね。深優って“おっぱい星人”なの……。」
「おっぱい星人!?」
「…って何?ってあぁぁあはあああぁぁぁ~~~~~んッ♥……ウゥゥゥッ………♥」
意味不明な単語に思わずリラと更紗に対し、葵は続けます。深優は依然更紗の胸揉みに夢中です。
「簡単に言うと巨乳大好物の胸揉み魔。つまり胸の大きい子が好きで好きで仕方無くって、見つけると今更紗にやってるみたいに揉まずにいられないの。さっきみたいに『揉みしだきます!』って言ってね………。」
「み、深優ちゃんにそんな癖が……。」
「癖って言うより重度の悪い病気ですねこれは……。まぁ命に関わる様な物じゃないから治さなくても良いのだろうけれど。」
唖然とするリラを他所に、突然背後から響く声。何事かと思うと、深優が更紗の背後に回って抜けた間を通り抜け、テミスが現れました。
「テミス!?」
「えっ?テミスが居るの其処に!?」
「うん、ちょっと待ってて……。」
そう言ってリラがアクアフィールドをその場にいる自分以外の3人を包む様に展開すると、葵の目にもハッキリとテミスの姿が見える様になりました。4人の周囲にしかフィールドを展開していない為、他の人間にテミスは見えません。
当然、周囲には泳ぐ大小様々な水霊達の事も――――――。
「あっ、ホラ深優!テミスが出て来たから止めて……。」
「えっ?テミス?あっ、本当だ!」
アクアフィールドによってテミスの姿を視界に捉えると、深優は漸く胸揉みを止めて更紗から離れました。漸く解放された更紗は「ハァハァ…」と喘ぎ声を出しながら、その場に膝を折って蹲っています。
「リラ、これから貴女はあの水泳部に蔓延する穢れの元を浄化しに行くのね。」
「うん。その心算だけど?」
人間態に変化したテミスの問いにリラがそう答えると、テミスは3人の友人の顔を一通り見回して言います。
「これから貴女が浄化しようとしている者の穢れは、恐らく一筋縄では行かないわ。その子の心は絶望で頑なに閉ざされているから……。」
「えっ、絶望で……?」
「そう、絶望はあらゆる穢れの中でも最も除去が困難と言われているわ。水霊士がどれ程手を尽くしても、それだけでどうにか出来る程簡単じゃない。「クラリファイイングスパイラル」や「ハイドロスパイラルシュート」では難しいでしょう。」
「そんな……じゃあ、一体どうすれば良いの?」
何時もの得意技が通用しない程の穢れだと聞かされ、動揺を隠し切れないリラに対し、テミスは言います。
「―――――1人で癒せない穢れでも、友達の力を借りればきっと洗い流せる。自分と友達の内なる水霊の力を信じなさい……。」
そう言い残すと、テミスはコバルトブルーの飛沫となって消えて行きます。
「待ってテミス!そんなに酷い穢れの持ち主は何処へ行けば会えるの!?」
リラの問い掛けに対し、テミスは答えます。
「貴女の住んでいるアパートの直ぐ近所の家に住んでいるわ。アクアフィールドを展開すれば分かる筈よ…?」
そう言い残すと、テミスは再び何処かへと去って行きました。気付けばもう時刻は17時半を回り、空はすっかりオレンジ色の夕焼けに染まっていたのです。
「私達の内なる水霊……クラリアだけじゃ駄目って事?」
リラの内なる水霊であるグッピーの姿をしたクラリアが顕現し、4人の周りを下級水霊を率いて泳ぎ回ります。
「じゃあ、私の水霊……アンジュの力が必要な時が近いって事なのかな?」
葵がそう言うと、彼女の中からエンゼルフィッシュの姿をしたアンジュが顕現しました。
「えー?違うって!ブルームでしょブルーム!」
負けじと深優が言うと、彼女の中からフラワーホーンシクリッドの姿をしたブルームが顕現します。
「プラチナじゃない?」
更紗の内なる水霊であるアロワナの姿のプラチナも負けじと顕現し、悠然と4人の周りを泳いでその巨体を誇示しました。
「3人とも喧嘩しないでったら!明日その人の所へ一緒に行こ?その時に3人の力借りるから!ね?」
「リラがそう言うなら……」
葵がそう返すと、そのまま4人は教室に一旦戻ると、学生鞄を手に職員室へと足を運びました。水泳部入部の為に必要な入部届を貰う為です。
「お前等か。前橋が言ってた水泳部に入りたいって1年は?」
マイペース且つ中性的な口調のこの人物こそ水泳部の顧問である『村上先生』その人。みちるのクラスである3年B組の担任で世界史の担当でも有る女教師です。歳は26で彼氏いない歴=年齢ですが、本人の前では禁句である様子。どう見てもそんな事気にする様な顔にも見えないのですけれどもね?
何はともあれ、みちるはあの後先生に携帯で事情を話してくれていた様子。その甲斐有ってスムーズに入部届を先生から受け取ったリラ達は、 それから何時も通りの取り留めの無いガールズトークに花を咲かせながら家路に就いたのでした。
やがて3人と別れて自宅のアパートに着くと、早速リラはアクアリウムの能力を発動させて周囲の民家を見渡しました。すると―――――。
「もしかして……あの家?」
リラの住むアパートの向かいから東に数軒離れた家。その2階の窓がまるで深海の様に真っ黒に染まっていました。穢れが酷く充満しているからか、窓の隙間からも微量ながら抜け出ています。
穢れの濃度が余りに酷い為か、近くを泳ぐ水霊達も避ける程です。
「日浦……さん?」
恐る恐るその自宅の表札を見ると、其処には『日浦』と書かれていました。テミスの話とみちるの言葉を総合すれば、この家に住む日浦と言う人は恐らくみちると仲の良い先輩で、それが何か大きな問題を抱えて今苦しんでいる―――――。
そう考えるのが自然な流れでしょう。けれど、見ず知らずの自分が今堂々とこの家に上がり込む訳には行きません。
然るべき手順を踏まなければ、いきなり上がり込んでも拒絶されてますます穢れを溜め込んでしまうでしょう。
「う~~~ん、どうしよっか……。」
何とか日浦と言う人に近付く為には、やっぱりみちるに取り入るしか無い。そして取り入る為には先ず、水泳部に入ってお近付きになるしか有りません。
だけど入ってからどうやってみちるに近付き取り入るか?残念な事に今の自分の頭では幾等考えても答えなんて出て来ません。
「あ~もう考えんの止めよ!取り敢えず晩ご飯にしようっと。一緒にアロマも買って来なきゃ!」
そう言ってリラは近くのスーパーへと、近くの川や水路から流れる水の心地良いせせらぎをBGMに、夕飯の材料を買いに出掛けて行きました。
さて、当の日浦家では――――――。
ツリ目に黒髪にショートヘアーが特徴のボーイッシュな少女が、部屋で1人で静かに学校の教科書に目を落として勉強していました。
けれど、その目には光が無く、何処か満たされない、やり場のない鬱屈した感情を抱えているのがありありと伝わって来るかの様でした。
その時、彼女の携帯にメールが届きました。
「何だ?みちるから―――――?」
ぎこちなく左腕を伸ばして携帯を掴んだその瞬間でした。
「痛ッ……~~~~~~~ッッ!!!」
不意に左肩に走る激痛に彼女は携帯を床に落としてしまいます。
「糞ッ……もうあたしは一生このままなのかよ……?もうこのまま……ずっと……ずっと泳げないままなのかよ………!?畜生……畜生オオォォォォォッ!!!」
目から大粒の涙を流し、苦悶の表情で自分の左腕を睨みながら、少女はその場に蹲って呻いていました。
一方、当の携帯の画面には送られて来た1通のメールが送られて来ましたが――――――――。
『忍……今年また新しい子が水泳部に入って来たよ?皆1年の頃の貴女みたいに目がキラキラしてた………。ねぇ忍、本当にもう駄目なの?皆と一緒に泳げるの、今年で最後なのに………。』
市民プールからの帰りでしょうか?濡れた髪を風になびかせながら、自分の文面が綴られた携帯の画面を見ながらみちるは1人、寂しく家路に就くのでした―――――。
次の日の放課後の事です。4人は昨日の内に記入の終わった入部届を、顧問の教師の所に提出しに来ていました。
「んじゃ、これでお前等4人も晴れて水泳部の一員だな。宜しくな、汐月、五十嵐、吉池、長瀞。」
必要事項の記入され、捺印の入った入部届を受理すると、気怠そうに顧問の村上先生は今年水泳部に入る1年の4人の新戦力にそう挨拶します。
「はい、宜しくお願いします!」
「宜しくお願いします!」
「宜しくお願いします、先生――――――。」
「頑張りますから先生の胸揉ませて下さい!」
「駄目だ。」
顧問の気怠げな挨拶とは対照的に、元気と若さに溢れた言葉でリラ達は挨拶を返します。尤も、最後の深優の請願は即刻却下されてしまいましたが…。
すると村上先生は次の瞬間、リラにとって興味深い発言をしました。
「然っかし今年は新しく入る奴が多いな。お前等4人の前に、2年からも新しく入るって奴が3日前に出て来たしよ。」
「えっ?2年からもですか?それって一体――――――」
リラが口を開くより先に葵が尋ねると、村上先生は答えます。
「“飯岡”って名前の奴だよ。2年3組で出席番号4番の飯岡潤……ってお前等に言っても分かんねーか。」
「やっぱり飯岡先輩だったんですか!?」
先生の口から出た“飯岡”と言う単語に、思わず反応するリラ。然し、直後に周りの先生がさも迷惑そうに口元に人差し指を立て、無言で抗議をし始めた物ですからそのまま委縮します。
「……ごめんなさい。」
「何だ?お前、知り合いだったのか?」
「はい、この前知り合ってちょっと話しただけですけど、あの人も水泳部に入るんだなって思うと何だか嬉しくって……。」
そう、リラはとても嬉しかったのです。あのいじめられっ子だった潤が宣言通り水泳部に入って、これから入部すれば自分達と一緒に泳ぐ事が出来る―――――。
やっぱり自分の入る部活は此処しか無いと、この時リラは改めてそう確信しました。
「じゃあ前橋部長にも改めて挨拶しに行きますから、私達はこれで…。」
「あぁ、待てお前等。」
職員室から出て行こうとするリラ達4人を、不意に村上先生は呼び止めました。一体自分達に何の用が有って先生は自分体を呼び止めるのか?
気になりながら再び村上先生の下に集まると、先生は言いました。
「前橋と昨日会って話したそうだな?お前等、あいつの様子はどうだった?」
「えっ?どうって言われても……」
突然みちるの事で質問され、葵は困惑してどう答えたら良いか分かりません。
そんな彼女に代わって口を開いたのは、意外にもリラでした。
「はい、悩みが無いか訊いたら凄く怒ってました!」
あっさりと昨日の事をぶっちゃけるリラの前に、友人3人と村上先生は目が点になりました。
「…お前、いきなりそんな事訊いたのか?」
若干ドン引きしながらそう切り出す村上先生に対し、リラは澱む事無く続けます。
「はい。でも怒ってムキになって否定するなんて、何か訳が有るんですよね?」
「ちょっとリラ!見ず知らずの相手にいきなりそんな事言われたって迷惑に決まってるって昨日言ったでしょうが!」
昨日の事を蒸し返すリラを、葵が再び怒って一喝します。
「でも葵ちゃん、本当に悩みが無いなら取り乱さないで面と向かってキッパリと『無い』って言う筈だし、有ったとしたって笑ってとぼける位の事はする筈でしょ?なのに尋ねた途端露骨に表情が変わって、しかもあそこまで怒るなんて、やっぱり人に言えない大きな悩みが有るんだよ。」
「だから!そう言うプライベートな事はいきなり第三者が立ち入って良い事じゃないって!」
深優も負けじとそうリラに抗弁する中、村上先生は先程からリラのその真剣な藍色の瞳をじっと見つめていました。
(へぇ、こいつ中々綺麗な瞳してるな……。思わず吸い込まれそうな位に――――――)
一点の穢れも無い、真っ直ぐ澄み切ったその目を見ていると、不思議と疑いや警戒心と言う物が意識の内から削ぎ落されて行く様です。
「分かってる……分かってるけど、それでも私、前橋先輩の力になりたいの!だって先輩、優しそうに笑ってても何処か苦しそうだったから……!!」
リラのその藍色の瞳は、人間の苦しみや悲しみ、それに見たくも無い様な汚い部分をクリーン過ぎる程鮮明に映して来ました。水霊士として水霊と触れ合い、それを通して人と関わる内に、何時の間にか彼女の中の感度は強く研ぎ澄まされていたのです。
だからこそ、リラは一目見た時にみちるの内奥にある“懊悩”と言う濁った澱を見落さなかったし、自分自身でもそれを取り除きたいと思うのでした。これは最初は水霊士としての使命からでしたが、今や彼女自身の信念となっていました。
そしてリラは再三、村上先生の方を向いて懇願します。
「お願いします先生!どんな小さな事でも良いです!前橋先輩に何が有ったか教えて下さい!!」
そんなリラの言葉に絆されたのか、村上先生が不意に立ち上がって言いました。
「ちょっとリラ!!」
「先生だって迷惑そうだから謝った方が良いんじゃ……」
そう警戒する葵と更紗ですが、村上先生からのリアクションは意外にもリラにとって好都合なそれでした。
「分かった分かった。あいつの事知って何になるかは知らんが、其処まで知りたきゃ話してやる。話してやるから静かにしろ。五月蠅くて敵わんし他の先生方にもご迷惑だかんな…。」
村上先生の教卓の近くで仕事をしている他の先生方が、再度迷惑そうに人差し指を口元に当ててこちらを睨んでいます。
「あー…取り敢えず此処じゃ駄目だな。場所変えるぞ。ついて来い。」
そう言って村上先生は、リラ達4人を連れて職員室を出て行きました。そうしてやって来たのは水路が縦横無尽に張り巡らされ、心地良い水のせせらぎが響くあの中庭でした。
同じ長椅子に4人を座らせると、先生は話を始めました。
「あいつには同級生の親友でライバルだった奴がいてな。名前を『日浦忍』って言うんだ――――――――。」
先生の話してくれた事はこの様な内容でした。
この霧船には2年前、未だみちるが1年生だった頃、彼女と並ぶ水泳部のエースがいました。名を『日浦忍』。
中学3年間の女子の水泳の大会で何度も優勝する程の天才的スイマーで、彼女とみちるが当学年のツートップ。バタフライが得意でその腕は国体に出る程でした。
所が、一昨年の大会の最中、彼女は選手生命に関わる怪我を負ってしまったのです。エースの名に恥じない様に、絶えず彼女は自分に厳しい練習を課して来ましたが、その度重なる過剰酷使が仇になり、それがこの大会でとうとう故障と言う形で訪れたのでした。
忍が負った故障―――――――それは「水泳肩」。バタフライ選手に多い怪我です。
言うまでも無くバタフライは、腕の力が物を言う泳法。ですが腕を回す際、肩甲骨の靭帯と上腕二頭筋の腱が擦れ合う為、炎症が起こり易いのがこの泳法の難点なのです。
そのまま炎症が悪化すれば、肩関節に痛みが生じる――――――それが忍を襲った悲劇でした。
折角の大会の晴れ舞台も、忍が肩を壊して途中棄権した事で、全てが水泡と帰してしまったのです。それから彼女に待っていたのは、部活を休部してのリハビリの毎日と言う、本人にとって地獄の様な辛い日々。治ったと思ったらまた再発してリハビリ生活へ逆戻りと言う繰り返し―――――――そんな悪循環がずっと続いて大会にも出れぬまま、未だ復帰の目途が立っていないのが現状だったのです。
霧船で水泳の出来る最後の1年に彼女と泳げない事をみちるは大層残念に思っていたし、同時に忍もまた、もう自分は水泳が出来ないし、出来たとしてもブランクが祟って周りに置いて行かれていると言う絶望から、すっかり心を閉ざしているのでした。
「―――――とまぁ、これが前橋の抱えてる問題っつーか闇だな。一応日浦の肩は日常生活を送る分には支障は無いんだが、それでもちょくちょく痛むらしいし、もう大会に出れねぇっつってずっと塞ぎ込んでんのが現状だよ。前橋も心配で毎日メールして家にも度々足運んで見舞いに行って……」
村上先生の話が終わらない内に、リラは立ち上がって何処かへ行こうとします。
「っておいコラ、何処行くんだ汐月?未だ話は終わってないぞ?」
「有難うございます先生。大事な事を話してくれて……。それだけ聞ければ充分です。」
「充分って……何考えてんだお前?あいつと日浦の為に何が出来るってんだよ?日浦がまた五体満足に泳げる身体にでも出来るってんなら未だしも……」
「『その通りだ』って言ったらどうします?」
「何?」
リラの言う事が全く理解出来ない村上先生はそのまま思考を強制的に凍結させられ、銅像の様に硬直した状態で只々視線の先のリラの顔に視線を送るばかりでした。
「私が日浦先輩の事、きっと癒して見せますから!」
そう言い終ると、リラは鉄砲水の様な勢いでその場を駆けて行きました。
「あっ!ちょっとリラ待ってったら!!」
葵達3人も、彼女の背中をそれを追って立ち去ります。その場にポツンと残された村上先生はリラの言葉の意味を1%も理解出来ぬまま、中庭に心地良く響くせせらぎの音をBGMに、唖然とした表情で遠ざかる4人の後姿を見つめていました―――――。
キャラクターファイル8
アンジュ
年齢 無し(強いて挙げれば葵と同じ)
誕生日 無し(同上)
血液型 無し(同上)
種族 水霊
趣味 葵を通して色々な人間や水霊と交信する事
好きな物 葵の好きな物なら全部
葵の中の内なる水霊。白に水色のストライプが走るエンゼルフィッシュの様な姿をしている。社交性の高い葵が宿主なだけに、彼女は穢れによって閉ざされた人間の心を開き、内なるを外に連れ出して浄化する事が出来る。
内なる水霊を取り出す事の出来る水霊士でも、穢れが酷いとそれも難しい。葵の水霊であるこのアンジュはそう言う人間相手だと非常に役立つ。おしゃまな性格をしているが葵同様に社交性に優れる…と言うより孤独が嫌いな構ってちゃんである。