第29話 私が船なら貴女は帆(前編)
今回、リラの交友関係がまた1つ明かされます。
突然ですが、リラ達の在籍する霧船女学園水泳部は、水の都である蒼國市各校の水泳部の中でも、況してや全国の高校水泳の中でも決して弱小ではありません。それは確かに全国大会や国体で優勝した事も無ければ、年によっては関東大会止まりの時も有りますが、それでもそうした大会にはほぼ毎年出ており、国体でも何人かは必ず出場していると言う常連―――見方を変えれば“隠れた強豪”と言うべき学校なのです。
部員数も毎年3学年合計しても何時も十数名程度ではありますけれど、それでも少数精鋭な所が有って1人1人の泳ぎの能力は高い方ですので、人気、知名度の高いその他の名門校には及ばぬ物の、それ相応に評価されています。
蒼國の人間は皆泳ぎが上手です。然しそれは彼等の中では当たり前で特に自慢すべき事でもなく、競泳でわざわざ泳ぎを競うのは三度の飯より泳ぐのが好きと言う余程の物好きか、抜きん出た実力を持つ者ばかり。
以前にも蒼國を自身の練習場に選ぶ水泳のアスリートは多く、金メダリストも御用達の環境だと述べた事が有りましたが、そうした蒼國市民の間で揉まれればその中から金メダリストが生まれるのも改めて納得と言う物でしょう。
然し、そうした物好きや泳ぎの天才は他の龍洋や希望ヶ浜の様な部員の多く、レギュラー争いの激しい所謂「強豪校」に流れてしまいます。それ故に霧船女子に入って来る部員は毎年少なく、3学年併せても部員数の平均が十数名程度と言うのはそうした理由からでした。
にも拘わらず彼女達の泳ぎの腕は、決して蒼國の中でも並みのその他大勢のレヴェルではありません。それ処か強豪校とも渡り合えるポテンシャルを有した者が、どう言う訳か例年入って来るのです。
どうも『周りに流されずに自分だけの泳ぎを極める』と言う伝統が霧船女子には不文律として存在するらしく、その自分の泳ぎを周囲と競うでも無く追求し続けた姿勢により、結果論ではある物の毎年関東大会、年によっては全国に出場したり、国体に至っては常連と言うのですから大した物でしょう。
水泳とは常に己との戦い……故に己の泳ぎが何か向き合い、極めんと日々精進するのが霧船女子擁する人魚達の原点であるならば、葵が美珠相手に心乱して敗退したのも、忍が故障したのもそう言う大事な原点から逸脱した結果なのかも知れません―――――。
さて、些か前置きが長くなったが此処から本題に入りましょう。そんな水泳部と並んで霧船女子が誇る部がもう1つ存在します。それはズバリ、漕艇部です!
もうお分かりかと思いますが、今回は漕艇部に籍を置く少女とリラの心の交流のお話をしましょう。
此処で時系列はほんの少しだけ遡ります。それは6月の下旬、霧船女学園水泳部が総体を勝ち抜いた翌日の事でした。
「ごめん葵ちゃん、私寄りたい所在るから先に行くね?」
一足先に制服に着替えたリラは、そう言うと共に葵達より逸早く更衣室を出て行こうとします。因みに霧船女子の中で、1番早く制服に着替え終わるのは他でも無いリラなのです。水霊士としての力を使い、リラは身体と競泳水着の水を全て瞬時に取り払い、その上に制服を羽織って靴下を履けば良いのですから当然です。蛇足ですがリラは他の水泳部の女子の例に漏れず、下に競泳水着を着て登校してますが、行きも帰りも下に競泳水着を来ているのは彼女位の物です。尚、水霊士になった潤にも同じ事は出来ますが、未だなりたての彼女はリラ程素早くは出来ません。
「えっ、リラ!?」
「リラっち何処行くの!?」
面喰う葵を横目にそう尋ねる深優に対してリラは答えます。
「漕艇部が練習してるとこ!」
それだけ言ってリラはさっさと出て行ってしまいましたが、漕艇部と聞いた葵達は「あぁ~……」と得心の言った表情でした。
「ボ、漕艇部?」
「何だ?汐月の奴、漕艇部に誰か知り合いでも居んのか?」
「葵ちゃん、知ってる?」
漕艇部と聞いて先輩達が疑問符を浮かべる中、忍と潤が葵に尋ねます。葵は直ぐに口を開いて答えました。
「あっ、はい潤先輩、忍先輩。同じ1年でウチのクラスの―――――」
葵の口から出た知り合いの名を聞いた時、1番反応したのは意外にも瑠々でした。
「えっ?その子って――――」
「瑠々先輩、知ってるんですか?」
葵達が驚いて瑠々と言葉を交わす中、当のリラは一目散に漕艇部が練習している場所へと向かっていました――――。
そうしてリラが向かった先は、嘗て彼女が葵達にアクアリウムを披露したウォーターフロントの河口付近でした。其処は蒼國でも一際大きな一級河川で、名を『龍涯川』と言いました。
この川にはその昔、天から巨大な龍の亡骸が落下して出来たという伝説が有り、リラ達の通学路にある神船川もこの川の傍流でした。伝説を裏付ける様に、街外れの上流にある『蒼溟神社』には『蒼龍玉』なる藍色の宝玉が御神体として納められているそうです。
無論、龍涯川以外にも多くの河川や水路が蒼國には存在しており、それぞれがそれぞれで河口へと繋がってますが、霧船女子を始めとした多くの学園の漕艇部が龍涯川河口を練習スポットとして利用しています。
「――――居た!」
龍涯川の河原を訪れたリラの視界に飛び込んで来たのは、他の部員達が帰り支度を始めている中、1隻だけで練習している漕艇部の少女でした。
霧船指定の1艘のシングルスカルのシェル艇を漕ぐその少女こそ、リラのクラスメイトの少女で、名を『三河ヤマメ』と言いました。
「あれ?あんた確か三河の知り合いの―――――」
「はい!ヤマメちゃんのクラスメイトの汐月リラです!」
先輩の1人から話し掛けられたのに対しリラがそう答えると、彼女は改めて川の向こうに居るヤマメに声を掛けました。
「お~~~~いヤマメちゃ~~~~ん!!」
リラの姿を遠目に確認すると、ヤマメは徐にボートの舳先を方向転換すると、そのまま岸へと戻って来ました。
「リラ、どうして此処に?」
戻って来たヤマメに対し、リラは答えます。
「どうしてって、ヤマメちゃんに未だ言って無かったから……。」
「何が?」
「ヤマメちゃん、全国進出おめでとう!」
一般的に漕艇部は5月に県総体が行われ、更に6月に関東大会及びインターハイ県予選が有ります。そして7月に各地方毎に国体のブロック大会が行われ、8月にインターハイ及び1年生大会、9月には新人戦、10月に国体、11月に関東選抜大会、翌年の3月に全国高校選抜大会が有ります。特に3月のは『ボートの甲子園』と言っても過言では有りません。
その大いなる第一歩として、ヤマメは総体を見事勝ち抜き、6月の県大会も同様に突破し、更にはインターハイ県予選も勝ち抜いて見せたのです!リラと同じで未だ1年生なのに何と言う卓越した才でしょう!
「有り難う。リラ達も関東大会進出で来て凄いわ!」
リラからの祝福の言葉を受け、対するヤマメもフッと微笑み返します。
此処で更に時間を遡り、リラが未だ体験入部の為に部活動廻りしていた頃のお話をしましょう。
それは何時もの様にリラ達が入る部活を決めるべく、アクアリウムで女生徒達の穢れを癒やす目的でバスケ、バレー、テニス、美術と体験入部を繰り返し、部活動廻りしていた時の事でした。
「次の部活、此処にしよっか?」
そう言ってリラ達が立ったのは漕艇部の部室の前の扉。すると其処には、既に入部を決めていたヤマメの姿がありました。
「あれ?汐月さん、五十嵐さん、吉池さんに長瀞さんまで……。」
「あっ、三河さん……。」
まさか同じクラスメイトのヤマメが既に入っていたとは思いませんでした。元々4人とヤマメはクラスが同じと言うだけで別段仲が良い訳でも無かった為、相手の事情にもノータッチで知らなかったのも無理からぬ話です。
ですが、リラだけは事前に知っていました。この部活で穢れを抱えた者が誰なのかを――――――。
「どうしたの?もしかして友達?」
「えっ?あっ、いや、只のクラスメイトです。」
2年の先輩に関係を問われるも、そう答えるだけのヤマメでしたが、リラの藍色の瞳はそんな彼女をジッと見つめていました。アクアリウムをこっそり発動させると、ヤマメから薄らと小さな黒い泡の様な物が断続的に出ているのが分かります。穢れです。
そう、彼女が此処に入ったのも漕艇部の人間の穢れを癒やす為だったのです。とは言え、今は体験入部の真っ最中なので、お試しではあっても漕艇部の練習に参加せざるを得ません。
ですが、リラ達を待っていたのは肉体的にもかなりハードな練習メニューでした。彼女達にとっての不幸は、その日の天候が生憎の雨だった事です。
「うあぁキッツゥ~~~ッ!!」
「1回回すだけでも一苦労じゃんこれ………。」
「これがエルゴメーターなんだね………。」
「漕艇部って言うからボート漕げるって思ったのに……。」
葵と深優が音を上げ、更紗とリラがげんなりしながら取り組んでいるのはエルゴメーター、通称“エルゴ”と呼ばれる機器を使った室内練習でした。この機器は冬の間や悪天候でボートが漕げない時にもボートを漕ぐ練習が出来ると言うバーチャルな代物で殆どの漕艇部、更には高校野球の練習にまで取り入れられており、1人乗りボートのシングルスカルは勿論、2人で漕ぐダブルスカル、4人で漕ぐクォドルプルに於けるチームメイトとの連動した動きも可能。体幹や股関節周りの筋肉を鍛え、素早く漕ぐ等の速さを磨くトレーニングにも最適。そして最大酸素摂取量の底上げも出来ます。
「(ゼーゼー)も、もう駄目……。」
「(ハーハー)私も……これ以上無理………。」
肺活量まで鍛えられるのは大いに結構なのですが、それの向上ともなれば肉体に掛かる負荷がどれ程の物かは推して知るべしでしょう……。10分経つか経たないかの内に4人が余りの疲労感に肩で激しく息をする中、リラの視界に入って来たのは、殆ど表情や呼吸を乱さずに黙々と漕ぐヤマメの姿でした。
「す、凄いね三河さん……こんなキツイ練習に音を上げないなんて………。」
疲労で尚も弱音を吐く葵と深優。更紗は比較的体力がある方だから其処まで苦しそうでは有りませんでしたが、やはりキツいのか肩で息するだけで喋っていません。リラはテミスのバックアップのお陰で疲労を現在進行形で回復しており、疲れてはいても3人より幾分余裕が有りました。
疲れに参っている3人を横目にリラがそう感心していると、近くにいた1年生が意外な言葉を発します。
「そりゃそうでしょ。あの子……ヤマメは中学の頃からずっとボート漕いで来たんだから。」
中学の頃の彼女を知っていると言う事は、その1年の女子はヤマメと同じ中学出身なのでしょう。続いて近くに居る3年の先輩も口を開きます。
「聞けばあの子、三河部長の妹みたいだし?あれ位は出来て当然よ!」
聞き慣れない人物の名を耳にしたリラは当然質問します。
「“三河部長”って……?」
「ウチの漕艇部、去年全国で優勝したんだけどその立役者こそ『三河桜』先輩なの!そんで、あの子は三河先輩の妹って訳。」
「まっ、今年3月に卒業した人だし、4月に入って来たばっかの貴女達が知らないのも無理無いけどさ。」
先輩達の言葉を聞いて4人は唖然となります。まさかヤマメがそんな凄い子だったとは夢にも思わなかったのですから当然です。とは言え、中学時代のヤマメを知っていると思しき先程の子を含めた1年生の新入部員達は、既にヤマメの姉の事も知っていたのか、別段驚いてはいませんでした。
何れにせよ、漕艇に於ける有名人の妹としてボートに打ち込んで来たのであれば、あんな拷問器具での練習に耐えられるのも納得と言う物です。
ですが、それを踏まえてもリラにはどうにも腑に落ちません。そんなボートのサラブレットみたいな子がどうしてあんなに苦しそうに練習してるのでしょう?肉体的にキツイからとか、そんな次元の話では無い気がしてなりません。アクアリウムで見ても、未だヤマメからは沸々と黒い泡が出ています。
「へぇ、三河さんって凄い子だったんだ……。」
葵がそう何とは無しに口にすると、2年の先輩が口を開いて言います。
「そうね。あんな凄い人の妹なんだもん。優勝するとこまで行って貰わなきゃ示し付かないでしょ?」
「でもさー、桜先輩が凄かったからって妹までそうとは限んないじゃん?」
すると部長と思しき3年の先輩も続きます。
「まっ、どっちにしたってあの三河部長の妹なんだもん。どんだけ出来るかに期待ね!」
こうした先輩達の言葉を受けてリラは何と無くですが悟りました。姉であるその桜と言う人の存在がヤマメにとっては重荷であり、周囲の期待が深海の水圧の様に圧し掛かって苦しい。それが彼女の穢れの原因だと。
然し、それを分かった所で今は練習中の身。今直ぐにどうこうは出来ません。海底の砂に潜って獲物を待ち受ける鮃か鰈の様にじっとチャンスを待つしか無いのです。
すると折しも雨が止んで空が晴れました。その様子を受け、急遽予定を変更して学校の近くの龍涯川でボートを繰り出して漕ぐ事となりました。
無論、先程まで雨が降っていた手前、川の水嵩が増して流れも少し急になっているかも知れませんが、基本的に河口は川の中でも下流に位置しており、水も多くて緩やかな物。多少急になろうが水嵩が増そうが大した変化は有りません。
とは言え、それでもリラ達はボートに関してはずぶの素人。ライフジャケット着用及び先輩と顧問教師の監視の下、ダブルスカルで慎重に漕ぐ事となりました。組み合わせは先程のエルゴと同じく葵と深優、リラと更紗です。
「うわ、ボート細っ……。」
「バランス崩したら即ボチャンだよね……。」
「馬鹿ね、あんた達素人にシェルは早いわよ。乗るのはナックルの方だから安心なさい。」
漕艇で使われるボートには主に『シェル艇』と『ナックル艇』の2種類があります。後者はオーソドックスな大きさのボートで安定性が有り、沈みにくい為に初心者向けのボートと言えます。一方、前者のシェル艇は細長く、水との摩擦を軽減して早く動ける様に設計されたボートですがバランスを取るのが大変で、十分技術を磨いた経験者向けのボート。
てっきり細長い方のシェル艇に乗る物とばかり思っていた葵と深優でしたが、直ぐに3年の先輩から程良い大きさのナックル艇を宛がわれたので4人はホッとしました。
とは言え、やはり初めての船出は難しい物です。漕艇競技の基本姿勢として、先ず自分の向いてる方向と逆方向にオールを漕いで前進するのが大原則です。
更にオールで水を漕ぐ際も色々と大変で、先ずはオールの先端にある「ブレード」と呼ばれる平たい部分を水面と垂直にして水中に入れる『キャッチ』。
次に着水したオールをなるべく一定の深さのまま引かねばなりませんが、その為には先ず脚を伸ばし、伸ばし切ったら上半身を後ろに振って最後に腕を引き、引き切ったら素早くオールを水中から引っ張り出す『ソー』。
最後は先程とは逆に腕を伸ばし、上半身を前に倒して脚を曲げます。そして再びキャッチ、続いてソーと繰り返す………この一連の所作を『ロー(raw)』と呼びます。
「ホラ、声出して!キャッチ、ソー!キャッチ、ソー!!」
「は、はい…キャッチ、ソォ~!キャッチ、ソォ~~ッ!」
監視役の先輩から促され、リラ達はそう掛け声を上げながら下手なりに何とかオールを漕いで進んで行きます。
リラの場合は何とか更紗が頑張ってくれたのと、周囲の水霊達が楽しそうに泳ぎながら話し掛けて来る為、大変でも遣り甲斐を感じて何とかオールを動かす事が出来ました。一方、葵と深優の歩みは遅く、余り前に進めていませんでした。
ですが、自身の問題以上にリラが気になっていたのはヤマメです。経験者である彼女は1年の中では唯一シェル艇に乗り、しかもシングルスカルでグングン前に進んでいるのですが、遠目から見ても彼女が何処か苦しそうで楽しんでいない様に見えてなりません。それが証拠に依然としてヤマメの身体からは穢れが立ち昇っています。
(三河さん……。)
リラが心配そうに前を行くヤマメのボートを眺めていると、更紗から声が掛かります。
「ちょっとリラ!何後ろ向いてんの!?それとちゃんと声出して!!」
「あっ、ごめん!キャッチ、ソー!キャッチ、ソー………」
更紗の言葉で現実に引き戻されたリラが再び目の前の作業に集中している時でした。
(頑張らなきゃ……!お姉ちゃんみたいにならなくちゃ………!!)
ヤマメの心には、姉に対するコンプレックスが鳴門海峡の様に渦を巻いていました。去年霧船を優勝に導いた姉の桜……彼女の背中に追い付き追い越そうと頑張ってるのに、全然追い付けてない自分への苛立ち―――――。
ボートだけに限らず、姉は日常でも色んな事を卒無くこなしているのに、不器用な自分は姉の様に出来ない―――――。
憧れの姉に追い付くべく漕艇部に入って頑張ろうと思っていたら、待っていたのは桜を知る先輩達からの『昨年部を優勝に導いた英雄の再来』と言う期待と羨望―――――。
色んな物が海底に沈殿して行くヘドロの様にヤマメの心に堆積し、苦しめていたのが穢れの正体でした。
ヤマメがこれから岸に戻ろうとしたその時です。不意に風が強く吹いたかと思うと、ヤマメのボートはバランスが崩れてグラグラとフラ付き出しました、それ以前からヤマメは室内練習での疲労も十分取れていないまま、ペース配分を考えずに漕いでいた為にバテていた為、何とそのままボートは横転してしまいました。
「えっ、あっ、あぁ~~~~~ッ!!」
突然響いたヤマメの悲鳴に、リラや漕艇部のメンバーが声のした方を向くと、視界に飛び込んで来たのは横転した1艘のシェル艇でした。
「えっ!?」
「三河さん!?」
「ちょっ、嘘でしょ!?」
突然のアクシデントに現場は騒然となりました。まさかボートが横転する事故が発生するとは夢にも思っていなかったのですから当然です。
幸い彼女は蒼國市民で泳ぎは得意だったし、ライフジャケットを着ていた為に溺れる心配も無く、直ぐに顧問の先生が駆け付けて自らのボートの上に乗せた為に事無きを得ました。
「全く……何を考えてるんだお前は!?」
岸へ戻った時、ヤマメを待っていたのは顧問教師からの叱責でした。
「風や波を読まず無茶な漕ぎ方するからそんな事になるんだ!去年部を優勝させた三河の妹だって言うから期待したが、そんな姿を見たらあいつだって泣くぞ!?」
その言葉を聞いたヤマメの心は、悔しさと劣等感で時化の様に荒れ狂い始めました。リラがこっそりアクアリウムで見ると、既に穢れが激しく迸り始めていました。彼女の中の内なる水霊もさも苦しく転げ回った末、死んだ様に動かなくなりました。
(あれは不味い!早く癒さないと……!!)
「あーあ、三河部長の妹だって言うからどんだけ凄い子だろって思ったんだけどなぁ~…。」
「姉は姉で妹は妹か。まっ、片っぽ優秀で片っぽ出来損ないなのは兄弟姉妹あるあるだから仕方無いよね。」
口々に先輩達が失態を犯したヤマメの事でそう野次ると、当のヤマメは俯いたままワナワナと身体を震わせます。
「ちょっと先輩達!幾等何でもそんな言い方……」
此処で葵が抗議の言葉を上げた瞬間、追い詰められたヤマメはその場から逃げ出してしまいました。
「あっ、三河さん!?」
「待って!」
咄嗟にリラ達4人がヤマメを追って走り出します。
「……どうする?」
「放っとけば?あれで逃げ出す様ならそれまでの子なんだし!」
「そうだね。放っとこ。あんな1回ミスした位で逃げ出す様な子なんて…。」
精神的に追い詰める切っ掛けを作ったのを棚に上げ、冷たい態度を取る3年の先輩達ですが、顧問の先生は御構い無しに練習の続行を促します。
「安藤の言う通りだ。さっ、皆気を取り直して練習の続きだ!」
「はいっ!」
(三河……本当にお前はこれで終わりか?違うよな?お前はあいつの妹なんだから……!)
ですが先生は信じていました。ヤマメなら必ず再起すると……!
一方その頃、ヤマメは部室に戻り、帰り支度を始めていました。
「ごめんお姉ちゃん……やっぱり私、お姉ちゃんみたいには………!!」
今回の失態の所為で周囲からの評価が下がり、やり切れない思いのヤマメはそのまま辞めようかと追い詰められていました。部室に飾られた、在りし日の姉の写真を見ると、ヤマメの目からは悔し涙が決壊したダムの水の様に溢れ出します。
「三河さん!!」
そこへ現れたのは我等が水霊士のリラです。後ろには更紗、そして疲労の中で遅れて葵と深優も駆け付けました。
「汐月さん達、どうして此処に?練習は?」
突然現れたリラの存在に面食らうヤマメに対し、リラは答えます。
「練習よりも三河さんの穢れの方が私には大事よ!」
「穢れって……何の事?」
聞き慣れない「穢れ」と言う単語にヤマメがキョトンとするが早いが、リラはアクアフィールドを展開。忽ち部室は水中の様に泡が立ち昇り、魚を始めとした水生生物が泳ぎ回る空間に早変わりです。
続いてリラはそのままブルーフィールドを形成。周囲の色彩に青色のオーバーレイが掛かり、いよいよ深い水の底にいる様な奇妙な感覚がヤマメを襲います。
「なっ…何なのこれ?って言うか息が……苦しい……?」
「息が出来ないのは当たり前よ。だって三河さん、心と身体に穢れを抱えてるから……。」
リラがそう言って両手を広げると、無数のグッピーやプラティ、モーリーと言ったメダカ科の熱帯魚を思わせる水霊の大群が一斉に部室を埋め尽くしたかと思うと、その内の数割がリラの両手に集合するとコバルトブルーの光の球を形成します。
「リラっち、外の様子は私達が見てるね?」
「うん、お願い!」
深優の言葉を受け、第三者が来ない内に早く癒そうとリラは両手の光の球を前に突き出します。
球は光の水流へと変わってそのままヤマメを取り囲んだかと思うと、そのまま二重の螺旋を形成。螺旋の中でヤマメの身体は宙に浮き、さながら波間に漂う流木の様にゆったりと公転し始めました。アクアリウムの基本の術『クラリファイイングスパイラル』です。
光の螺旋からは非常に心地良いせせらぎの音が発せられ、“1/f揺らぎ”との相乗効果でヤマメの中からストレスによる毒を消し去って行きます。
「さっきから…訳が分かんないけど……何だろう………?とっても温ったかい…………。」
朦朧として行く意識の中、ヤマメの身体から出て来る黒い穢れの泡は白い光の泡になり、彼女の中の水霊も復活して活性化。
最後にクラリア達が彼女の身体を光の二重螺旋となってヤマメを貫き、彼女の内なる水は完全に癒されました。
「んっ……!」
くぐもった声と共に目を開けると、ヤマメの視界にはリラの姿が飛び込んで来ました。
「汐月さん……?」
「気分はどう、三河さん?」
リラに話し掛けられ、ヤマメは気付きました。先程までの懊悩や劣等感、苛立ち――――そう言った負の感情が自分の中からすっかり消えており、代わりに体力と気力が練習に臨む前…いいえ、それ以上に回復していた事に――――。
「不思議……心も身体もスッキリして、元気が湧いて来るみたいな感じ………。」
「良かった!」
ヤマメのリアクションに対して喜色の表情を作ると、リラは続けます。
「あのね三河さん、実は私は―――――」
リラは説明しました。
自分は水霊と呼ばれる水の精霊の力を使って穢れた水を浄化し、人の心と身体を癒やす水霊士である事を―――――。
そして今回の体験入部は、ヤマメの穢れを癒やす為に参加した物であった事を――――。
「そうだったの……。水の精霊なんて言われたって信じられないけど、さっきの汐月さんを見る限り信じるしか無いわよね………。」
「三河さん、それとこれが貴女の中に宿る水霊よ。ホラ!」
そう言ってリラがヤマメの胸元に手を伸ばすと、中から出て来たのはメンダコの様な姿をした水霊でした。黄肌色の身体の円周上に青や紫の宝珠が付いています。
「やだ、可愛い……。」
自身の中に宿る水の精霊の姿を見て、思わずそう声を漏らすヤマメでしたが水霊は直ぐに彼女の中に戻ってしまいました。
「あっ、戻っちゃった。ねぇ、名前何て言うの?」
(ブレラ………私はブレラだよ…………。)
リラの問い掛けに対し、ヤマメの内なる水霊は恥ずかしそうな声で『ブレラ』と答えました。どうやら余り表に出たがらないシャイな性格の様です。
「ブレラか……ねぇ三河さん、もしかしてお姉さんの事で何か嫌な事でも有ったの?」
リラが優しくそう尋ねると、ヤマメは俯いたまま口を開いて言いました。
「違うの……私にとってお姉ちゃんはずっと憧れだった………。ボートに乗ってるお姉ちゃんはカッコ良くって、料理も裁縫も勉強も出来て………でも私はお姉ちゃんみたいに上手に出来なくって………なのに皆からまるでお姉ちゃんの代わりみたいに期待されて………それに応えようとしたらどんどん苦しくなっちゃって………。」
気付けばヤマメの目から再び涙が滲んで来るのが見えました。すると葵が言いました。
「本当にそれだけなの?」
ヤマメは答えます。
「お姉ちゃん……高校出た後に海外の大学に行っちゃって………寂しかった………一緒にボート乗れなくなって、教えて貰いたい事だって色々有ったのに………うっ、うぅっ………!」
そう言ってヤマメは両手を覆って静かに啜り泣きを始めました。そんな彼女の姿に、リラは孤独な自分の身の上がダブって見えたのか、悲しそうにヤマメの姿を見つめるしか出来ませんでした。
(リラ………。)
窓からリラの様子をテミスが見守る中、当の彼女は暫しの沈黙を破り、ヤマメの両肩に手を置いて言いました。
「…三河さんはどうしたいの?」
「えっ……?」
「三河さんはボートに乗るの楽しくないの?お姉さんがどうとか、そんな事の為に頑張ってるの?」
このリラの問い掛けに対し、ヤマメは沈黙せざるを得ませんでした。
「1回お姉さんとしっかり向き合って話をしたらどうかな?ボート続けるかどうかは、そうやって自分の気持ちを見直してから決めようよ?それが今の三河さんに必要な事じゃないかしら?」
透き通るリラの藍色の瞳に見つめられ、ヤマメは暫く言葉を失っていましたが、直ぐに頷きました。
「有難う、汐月さん……。」
「私の事はリラで良いよ。こっちも貴女の事はヤマメちゃんって呼ぶね!」
「うん……リラ!」
その後、ヤマメは海外にいる桜に電話で自身の苦しみを打ち明けました。妹に対して桜は、「ヤマメはヤマメらしく頑張りなさい。焦らないで自分を信じて!」と優しく励まし、その言葉に吹っ切れたヤマメのボート捌きは見違える様に上手くなり、徐々に頭角を現して行ったのです。それにつれて周囲も、そんなヤマメの事を少しずつ認め始めたのでした。
一方、リラはボートの上で水霊と対話するのは楽しいけれど、やっぱり直接水と触れ合うのが1番と言う事で漕艇部への入部を見送り、その後、紆余曲折を経て水泳部への入部を考えて今に至ったのでした。
尚、今回の件でリラの正体と水霊の事を知ったヤマメは、自身が姉への劣等感を脱して一皮剥ける切っ掛けを与えてくれたとして、リラやその延長として葵達ともその後の学校生活での交流を経て親しくなり、水霊の秘密を共有する仲となりました。言うなればヤマメも水霊仲間なのです。
余談ですが、彼女が5月の総体で見事に結果を出せたのも、やはりリラのアクアリウムとその後のアフターケアが彼女の心を癒やし、より大きく成長させたのも理由の1つでしょう。これが続く6月の関東大会及びインターハイ県予選にも繋がっていると思うと、リラとしても感慨深いのは確かです。
さぁ、水泳部入部前にリラに起きた出来事について一通りお話して来ましたが、次からは現在進行形の話の流れを辿って行きましょう!
キャラクターファイル30
三河ヤマメ
年齢 15歳
誕生日 6月14日
身長 159㎝
血液型 B型
種族 人間
趣味 ハーブの栽培
好きな物 屋形船
霧船女学園1年生でリラのクラスメイト。リラ達と違って漕艇部に所属している。
家は造船所を営んでおり、競艇やレガッタに使われる様なボートからイベントに於ける屋形船のレンタルまで幅広く扱っている。その関係か、家が漁師と養殖業を夫婦で営んでいる縷々とは顔見知りの仲であり、同時に彼女とは同じ中学出身である。
リラ達4人とは仲が良く、漕艇部に4人が体験入部に来た際にリラから癒された所から確かな縁が生まれ、その後の学校生活の中で彼女と確かな友人関係へと発展して行った様だ。
嘗て霧船のボート部には自分の姉の『三河 桜』が在籍しており、彼女はその卓越した腕とリーダーシップでチームを纏めて前年霧船を優勝に導いた才媛であった。ヤマメも妹としてそんな桜を尊敬していたが、同時に姉の様に上手く出来ない自分に対してコンプレックスを抱いていた。
桜を知る先輩達からの色眼鏡も有って上手く漕げず、そのままうっかりボートを横転させると言う失態を演じて穢れを生じさせたのをリラから癒されたのを機に、姉に弱音を打ち明け、励まされてからは自分らしい漕艇を追求すべく日々精進している。
ボート自体は中学の頃からずっと漕ぎ続けて来た為に決して初心者ではなく、それ処か天才的なボート乗りの姉から教わって来た為に腕は高校1年にして頭角を現す程高く、その性格も一途な努力家である。




