第15話 今日の水≠昨日の水
数日後、5月も終盤とも言うべき第4週目の金曜日の事でした。
折しも高校では中間テストのシーズン。霧船女学園も例外では無く、今週の水、木、金の3日間連続で試験は行われました。
今日はその最終日で、試験の全過程は午前中を以て全て終了していました。
これは、ホームルームとその後の清掃を終えた放課後の事です。
「はぁ~~~っ……古典と英語駄目そう………。」
「私は化学が自信無いかな……。」
帰り支度をしながら、葵と更紗が自分の苦手な教科の成績に嘆息していると、深優が葵に話し掛けて来ました。
「何?また葵古典と英語駄目だったの?」
「あんたは良いわよね。何時も成績トップでさ………。」
其処まで勉強の出来る訳でも無い自分と違って成績優秀枠である深優に対し、葵はもう何度目かと言わんばかりに羨望の眼差しを向けます。
「じゃあ明日はみっっっっっちり特訓しないとね葵♪」
嗜虐的な笑みを浮かべてそう葵に言い掛けると、当の相手は先程げんなりしていたのが信じられない位の脱兎の速さで教室から飛び出して行きました!
「ヒッ!か、勘弁して~~~~~~ッ!!」
「あっ!コラ葵待て~~~~~~~ッ!!」
それを猛然と深優が追い掛ける中、教室に未だ残っているリラに対して更紗が尋ねます。
「この3日間のテスト、リラはどうだったの?」
「えっ?う~ん、数学がちょっと心配だけど、他は皆大丈夫かな?」
意外にもリラは学力自体は決して低くなく、寧ろ高い方でした。通常、虐められっ子の学力は平均かそれより下とされている様ですが、少なくともリラに限ってはそれは当て嵌まりません。
身体能力も決して低くは無いのですが、如何せん元々の彼女は気が弱くて相手に強く出られると言い返せません。結果、何時も非難や暴力を受けてもそれに甘んじるだけの弱い人間だと思われてしまいがちです。
また、妄想や空想に耽る癖が有る為、それが悪い方向に作用してネガティヴな考えや被害妄想に繋がり、結果として空気が読めず冗談の分からない人間と受け取られ易く、それも虐められる原因になっていたのでした。
社会と言う物が、能力以前に自分を周囲が如何に思っているか、その評価が大切であるかがそれだけでも良く分かります。
虐められたくなければ周りに取り入れず、戦う事の出来ない、そして己の意見を持たぬ我の弱い弱者だと、表向きだけでも思われない様に努めねばなりません。
要は自分と言う物をしっかりと持った『強者の仮面』を、好むと好まざるとに関わらず被らねばならないのです。
学校ならその学校の模範に即した行動の出来る生徒、会社ならどんなに下手でもサラリーマンとして必要最低限それらしく振舞える人間と言う様に、社会とはその場の人間に相応しい人物像を無理無く演じられる者しか受け入れて貰えない様に出来ている物なのですから当然でしょう?
有りのままの弱くてだらしない自分を、そのまま受け入れて存在を許してくれる程、社会は決して寛容では無いのですから………。
アクアリウムの力を得て、虐めとの戦いを乗り越えてリラは変わりました。然し、今この場でその話をする事は出来ないのでそれは次の機会に回しておきましょう。
「そっか……じゃあ私もリラから化学、教えて貰おっかな?」
「うん、良いよ。じゃあ明日の土曜日……は水泳部の練習が有るから、明後日の日曜日にね!」
「離~な~し~て~……深優~~~~許してぇぇ~~~~~っ………」
すると其処へ、葵の腕を掴んで連行して戻って来る深優の姿が視界に入って来ました。
「じゃあさじゃあさ、勉強するなら蒼國図書館行かない?」
「蒼國図書館?」
初めて耳にする言葉にリラは首を傾げました。そんな彼女に葵と深優が言いました。
「あぁ、リラは蒼國に引っ越して来たばっかりで知らないんだったわね。」
「駅前の蒼國総合文化センターに有る図書館だよ。あそこは色んな本が漫画も合わせて一杯有るし、勉強するスペースも広いから丁度良いよ♪」
すると突然、更紗の携帯に着信が入ります。画面を見ると、彼女の母親からです。
「お母さんから……?」
何事かと思って更紗が電話に出ます。
「もしもしお母さん………えっ?お祖母ちゃんが………?」
お祖母ちゃん―――――その言葉がリラの心にダツの様に突き刺さります。
更紗のお祖母さん―――つまりしず枝に何か有ったのでしょうか?
「うん、分かった。じゃあ、明日―――――。」
「どうしたの更紗?お母さんから電話が有ったみたいだけど…?」
心配そうに葵が尋ねると、更紗が数秒の沈黙を置いた後で答えます。
「――――お祖母ちゃんの容態が急に悪化したって………。」
「えぇっ!?」
真っ先に反応したのはリラでした。
「明日、ううん……今直ぐに家族皆でお見舞いに行かなきゃ行けないって………。」
明らかに更紗は動揺しています。傍から見れば口調こそ何時も通り感情の抑揚の少ない落ち着いた雰囲気ですが、声が微かに震えており、身体はそれ以上に断続的に震えていました。
「ごめん………私、今日はもう帰る!」
そう3人に言い放つと、更紗は大急ぎで教室から走り去ります。
そのまま何処へ行くのか、リラは直ぐに察しが付きました。
言うまでも無く、あの下北沢に有る特別養護老人ホームまつばらです。
最終日とは言え、テスト期間である事に変わりはない為、この日は部活動が有りませんでした。勿論、リラ達の水泳部も例外では有りません。
尤も、其処は蒼國市民。忍やみちる、それに下の2年生の子達は自主的に市民プールや、流れが緩やかな程良い深さの水路や川で練習するのですがね。
突然自分達のスマホに鳴り響いた着信音。それを受けてリラ達が画面を見ると、其処には部長のみちるや忍から市民プールで練習しないかと言うお誘いでした。
『私と忍はこれから蒼國市民プールで練習するわ。2年の子はみんな来るって言ってるけど、あなたたち1年も一緒にどう?』
みちるからのメッセージに対し、リラと葵と深優は同意の返事を出しました。然し、当然ながら更紗は家庭の都合で来れない旨のメッセージを伝えましたが……。
一方その頃、更紗は家族を連れて下北沢へと続く小田電鉄の快速車輛に乗って一路下北沢を目指していました……。
因みに更紗の家族構成は老人ホームに居る祖母のしず枝を含め、父、母、弟、妹に自分を入れた6人家族です。
(お祖母ちゃん……。)
線路の上を揺れながら走る列車の音をBGMに、更紗は自身のお祖母さんの安否を気に掛けているのでした―――――。
さて、それから時間も幾分経ったPM17時頃、練習が終わったリラ達は市民プールを後にして先輩達とも別れ、それぞれの家路に就いていました。
「ふーっ、久し振りに思いっ切り泳げで凄っごく気持ち良かった♪今までテスト期間であんまり泳げなかったし!」
「先輩達の胸も良い感じに触れたしね♪」
「水霊の皆とも楽しくお話し出来たし、やっと解放されたんだって改めて感じる。」
此処最近、テスト勉強で忙しかった事も有って部活で泳ぐ時間も自然と短くなってましたし、試験も間近ともなれば原則的に部活動もストップしてしまう物です。
その縛りから漸く解放されて泳ぐプールと、その際に触れる水の感触はリラ達にとって格別でした。同じ事は忍や潤と言った上の学年の先輩達も思っていたでしょう。
入部して間も無いとは言え、泳ぐ事に快感を覚える旨の発言をしている所から葵もすっかり水泳の楽しさに目覚めていた様です。
「でも、更紗も一緒ならもっと良かったのにね……。」
「いきなりお祖母ちゃんの容態が悪くなったなんて言われて、そのまま飛び出してっちゃったもんね……。」
此処にはいないもう1人の友達の事を話す葵と深優の顔には、遺憾の表情が鮮明なまでに浮かんでいました。
「この前は私のパパがガンで倒れて、今度はサラサラのお祖母ちゃんかぁ……。本ッ当悪い事って良い事と同じで立て続けに起こる物なんだってつくづく思うよ……。」
一週間前に起きた深優のお父さんのガンの話が記憶に新しい中、今度は更紗のお祖母さんであるしず枝が生きるか死ぬかの瀬戸際。
“泣きっ面に蜂”だの“弱り目に祟り目”だのと論う訳では有りませんが、狙い澄ました様に立て続けに友人に降り掛かる身内の不幸は、「神の悪戯」と呼ぶには余りに悪質過ぎます。
然し、だからと言ってリラに出来る事はと言っても………。
「ねぇリラ、深優のお父さんの病気治せたみたいに、更紗のお祖母ちゃんの事もアクアリウムで何とかならないの?」
「そうだよ、パパを治せたリラっちなら出来ると思う。」
一般人の感覚なら至極真っ当な考えを口にする葵と深優ですが、それに対するリラの答えは無情な物でした。
「無理言わないで2人とも……。アクアリウムには死んだ人を生き返らせる力なんて無いし、水霊士は水を癒せても人の寿命まではどうする事も出来ないの。命は水に生まれて水に還る物だけど、『その時まで生きたら水に還ろう』って言う命の意思が決めるのが寿命なの。その命の意思だけは水霊士にも変えられない。受け入れるしか無いわ。」
リラのその言葉に、葵と深優は何も言わずに俯くだけでした。リラは続けます。
「仮にそれが出来たって、1つの命を死の淵から救うのがどんなに難しいか、私と一緒にお父さんのガンを治した深優ちゃんだったら良く分かるでしょ?命に関わる病気でさえそんななのよ?死んだ人を生き返らせるなんて限り無く無理に近いって、ちょっと考えれば分かるじゃない。」
気が付けばリラの身体は震えていました。それは1つの命がこれから喪われるかも知れないと言う現実を前に、何も出来ない無力な自分への遣る瀬無さから来る震えでした。
「ごめんリラ……何も知らないで都合の良い事言って………。」
「でもリラっちには本当に感謝してるのよ?パパがまた元気になったのだって、リラっちが居てくれたから……。」
震えるリラの左右からそれぞれ手を繋いで、葵と深優がそう言いました。
「2人とも………。」
ともすれば深海の水圧の如く自分を押し潰そうとするリラ自身の弱さを、この2人は受け止めようと言うのでしょうか?
その時手に感じた温もりが、自身の記憶に深々と刻まれて行くのを、リラは本能的に感じ取っていました。
今まで誰かと手をまともに繋いで歩いた記憶なんて、祖母であるユラ以外無かった物ですから……。
「でも、更紗今頃どうしてるかな?」
「お昼に出てってからもう5時間も経ってるけど、お見舞い終わって帰ったんじゃない?」
「確かにそれは気になるよね……あっ、そうだ!テミス!!」
2人が更紗の事を気に掛かける中、同じ気持ちのリラは何を思い立ったのか、徐にテミスの名を呼びました。
気付けば辺りにはすっかり夕闇が立ち込め、人の通りもまばらになり、水のせせらぎだけがその場に響いています。遠くに一望出来る海は、今にも沈もうとしている夕陽の輝きを受けて朱色に輝いていました。
けれど、リラが呼んだにも関わらずテミスは現れません。何時もなら直ぐにでも姿を現すのに………。
「どうしたの?どうして出て来てくれないの?テミス!テミス―――――――ッ!!!」
すると数秒のインターバルを経てコバルト色の水滴が周囲に集まり始め、シクリッドとグラミーを掛け合わせた様な姿の魚が姿を現しました。テミスです。
「テミス、お願いが有るの。更紗ちゃんが今どうなってるのか教えて頂戴!」
地球を廻る水霊達の情報網なら、地球全土でリアルタイムで起きている出来事が新たな情報として累積、更新されて行きます。それを脳内に流して貰う事で知りたい情報を逸早く掴む、『ストリームメモリアル』と言う術法で更紗の同行を知ろうと言うのがリラの意図でした。
けれど、テミスは何も言わずに只黙っているばかりです。リラは言いました。
「どうしちゃったのテミス!?早くストリームメモリアルを私達に流して!何時もだったら直ぐにやってくれるのに何で!?」
リラがそう叫んでも、テミスは何も言わずにリラの顔をジッと見つめるばかりでした。しず枝の老人ホームの訪問とユラの墓参りに出掛けたあの日から数日、テミスは何やら様子が可笑しいのです。
何やら考え事でもしているのか、リラが話し掛けても何も言わずに黙っている事が多くなりました。しず枝かユラの事で何か思う事でも有るのでしょうか?その事でリラが尋ねても―――――。
「貴女には知る必要の無い事よリラ。」
……とにべも無くそう突っ返すだけで、肝心な事には何1つ答えてはくれません。その事も有って、リラはテミスの事が心配でなりませんでした。
「ねぇお願いテミス!どうして何も言ってくれないの!?更紗ちゃんとしず枝さんの事だって心配だけど私、テミスの事はもっと心配だよ!!」
その言葉に漸く絆されたのか、テミスはリラに対して小さく頷くと同時に人間態になってこう返しました。
「……分かりました。だけどリラ、ストリームメモリアルを流せるのは水霊士の人間だけ。普通の人間に流すと余りの情報の奔流に脳が破壊される恐れが有るわ。」
「え……?」
ストリームメモリアルの致命的欠点を聞いて、リラは唖然としました。水霊士としてそれなりに時間は経つし、経験も相応に積んでは来ましたが、まだまだ水霊士の事もその術法の事も、リラには知らない事が多過ぎるのです。
テミスが術法を教えてくれるのは、必要に迫られた時だけ。以前忍を癒した時のミラーリングアクアリウムも、深優のお父さんである航を癒した時のポゼッションアクアリウムも、その時になって初めて知らされた物ばかりでした―――――。
「アナログなやり方にはなるけれど、葵さんと深優さんにも同じ情報を共有させるなら他に良い手段が有るわ。近くに丁度に大きめの川が有るから私について来なさい。」
テミスに促されるまま、リラと葵と深優は近くの土手を降りて川の畔にまで歩いて行きました。
するとテミスは川の水面を歩き始め、3歩進んだ辺りでしゃがみ込むと、コバルトブルーの輝きで足元の水面を染め上げました。
気付けば周囲にも同じ色の光の粒子が漂い始めまています。
「綺麗……。」
「あっ、水面が!」
葵と深優がその幻想的な光景に見惚れる中、テミスがその場からバックステップで飛び去ると、やがてコバルトブルーの輝きを放つ水面に何かが映り始めます。
水面に映ったのは更紗の顔でした。目に涙を浮かべた悲痛な表情をしています。
「更紗ちゃん!」
「更紗!」
「サラサラ!」
やがてハッキリと、クリアなまでに水面に映し出された映像に、3人は思わず声を挙げずにはいられません。
何故なら其処に映し出されているのは、ベッドでチューブに繋がれて点滴を受けたまま、意識不明のしず枝の手を、孫の更紗がギュッと握って涙ながらに呼び掛けている姿だったからです。
幸いしず枝のベッドに設えられた生体情報モニターの各数値はは未だ0を記録してはいませんし、心電図も辛うじてその波形を維持していますが、それももう風前の灯と言って良い状態でした。
映像だけなので音声までは聴こえませんが、その悲痛な表情と口の動きを見れば更紗が何と言っているのか容易に想像が付きます。そう―――――。
「お祖母ちゃん!しっかりして!!」
「嫌だ!目を開けてよお祖母ちゃん!!」
そんな悲痛な叫びが、白黒では無くカラーと言う違いは有れど、昔ながらの無声映画さながらの映像からもハッキリ伝わって来る様です。
普段クールで大人びた雰囲気の更紗からは、到底想像も出来ない様な表情に3人は言葉も有りませんでした。
「……リラ。」
「リラっち………。」
重い沈黙を破って葵と深優はリラの名前を呼ぶや否や、真っ先に彼女に縋り付いてこう叫びます!
「お願いリラ!!更紗のお祖母ちゃんの事何とかしてよ!!これじゃあ更紗が可哀想だよ!!」
「人間何時か死ぬのはしょうがないって分かってるけど、それでも私、目の前で死にそうになってる人放っとくなんて出来ないよォッ!!」
「そっ、そんな事私に言われたって……!!」
散々2人にせっつかれ、リラはどうしたら良いか分かりません。口では人の生き死には水霊士にもどうする事も出来ないとは言いましたが、リラだってやっぱり人間。助けられる物なら今直ぐに行ってどうにかしてあげたいと考えるのは、極めて自然な考えです。
そんな3人の様子を眺めながら、テミスは“或る事”を思い出していました。『遠い昔に封印した記憶』の断片を―――――。
「嫌だよお祖母ちゃん!!目を開けてよ……お祖母ちゃアァァァ―――――――――ん!!!」
河原で倒れ、運ばれた先の病院で帰らぬ人となったユラの亡骸の前で慟哭する、まだ小学生だった頃のリラの記憶………。
その時のリラの姿と、今水鏡の向こうで泣き叫ぶ更紗の姿とテミスの中で被って見えたのです。
「………ッ!!」
意を決したテミスは何を思ったのか、突然リラの前に飛び出して来ると、不意に彼女の胸に手を突っ込みます。
「リラ、少しの間だけ眠ってて!」
「えっ!?ちょっと、テミス……うッ!?」
困惑するリラの事など御構い無しと言わんばかりに、テミスはリラの体内に手を突っ込んで中からクラリアを取り出すと、本来の魚の姿になって遥か空の彼方へと物凄いスピードで泳ぎ去って行きました。
同時に、リラがその場に倒れて気絶します。
「えっ!?ちょっとリラどうしたの!?」
「リラっちしっかりしてよ!!」
慌てて葵と深優が倒れたリラを介抱すると、突然リラは目を覚まします。
「大丈夫。リラなら今、テミスの所だから―――――。」
目を覚ましたリラが急に無表情且つ淡々とした口調に変わり、2人は唖然となるばかりでした。
一方、場所は変わって下北沢の特別養護老人ホームまつばら。
更紗の必死の訴えも虚しく、とうとうモニターの各種生体情報はどれも0の数値を記録し、心電図も連続した点が流れて行くだけになっていました。事実上の御臨終です。
「うっ……うぅっ………お祖母ちゃん……………!!」
「うええぇぇぇ~~~~~~ん!!お祖母ちゃんが……お祖母ちゃんがあぁぁ~~~~ッ!!」
「あああぁぁぁ~~~~~~~~ん!!!」
とうとう帰らぬ人となったしず枝の亡骸にしがみ付き、更紗はめそめそとすすり泣くばかりでした。更紗の傍らでは、同じ様に弟と妹も慟哭の声を上げています。
「もう諦めなさい3人とも!」
「そうだ!お祖母ちゃんはもう……。」
深い悲しみに打ちひしがれる更紗とその弟と妹を、両親は何とか宥めようとします。しず枝の死亡が確認されたのを受け、既に看護師達は末期の水の準備の為に部屋を出ていました。
然しその時、更紗達には見えていませんでしたが部屋の中にテミスが立っていました。
テミスは一緒に連れて来たクラリアに言います。
(リラ、起きなさい。)
テミスの言葉を受けてクラリアが目覚めると、突然彼女は自身の変化に驚きました。
(ん………テミス?って、えぇっ!?どうなってるの?私、クラリアになっちゃったの?)
何と、リラの人格がクラリアの中に入ってしまっていたのです。逆にリラの肉体にはクラリアの意識が入り込んでいたのでした。テミスは言います。
(強引なやり方だったけど、これは『ストリームマインド』。自らの意識を水霊に宿す事で、その水霊を遠隔操作出来る術法なの。宿せる相手は周りの水霊でも誰かの中の内なる水霊でも可能で、発動中は元の内なる水霊の人格が肉体を守るわ。尤も、多くの場合は術者の内なる水霊に使うのが鉄則ですけどね。)
(じゃあ、テミスは私の意識をこのクラリアの身体に無理矢理宿してこんな所まで連れ出して、私の元の身体には今クラリアの意識が入ってるって事?)
クラリアと化したリラがテミスに尋ねると、テミスは頷いて言います。
(その通りよ。さてリラ、早速だけど私と一体化して頂戴。)
(えっ?)
一体化と聞いてリラの頭の中に浮かんだのは、深優のお父さんを癒した時にテミスと一体化した時の事でした。まさか、あの時と同じ様な事になるのかと思わず警戒します。
(心配しなくても貴方の想像している様な事にはならないわ。只、私の中で少し眠るだけよ。考え様によっては懐かしい夢が見られるかも知れませんよ?)
(懐かしい夢って……あっ!ちょっとテミス―――――――)
有無を言わさずテミスの手によって青白い光球に変えられると、そのままリラは彼女の中に取り込まれて意識が深海の様な闇に溶けて行きました。
クラリアとなったリラを取り込むと、テミスは更に更紗の中から密かにプラチナを取り出してこれも内側に取り込みます。
そしてそのまま何と、しず枝の亡骸目掛けてダイビングしたのです!
(しず枝―――――しず枝―――――――!!)
肉体の死を以て深海の様な闇に閉ざされたしず枝の心象風景の中を、テミスは彼女の名を叫びながら泳いで何かを探し続けました。
やがてテミスは、闇に蠢くしず枝の内なる水霊の姿を見つけました。形としてはスズメダイに似ていますが、それが向かう先には今にも消えそうな一筋の白い光が有りました。しず枝の魂です。
肉体の死を以て其処から出る前にしず枝の魂を呑み込もうと言う、彼女の内なる水霊に先んじられては堪りません。
テミスはコバルトブルーの閃光となり、その光を目指して全速力で向かって行きます!
(待ちなさいしず枝!!)
白い光とコバルトブルーの光がぶつかり、しず枝の心象風景を黒く覆う闇を眩く照らしました――――――。
「此処は……?」
目を覚ました時、しず枝が立っていたのは大きな海が目の前に広がる浜辺でした。
頭上には何処までも澄み渡る青い空と白い雲。
足元には緑の草原と海に面した白い砂浜。
まさか、此処が俗に言う“三途の川”なのでしょうか?
「私は確か、病院のベッドで意識が無くなって………と言う事は………。」
自分の姿も、何時の間にか15~6歳の少女になっている事にしず枝は気付きました。服装も学生時代のセーラー服です。
「そっか、私は死んだのね………。」
意識が闇に溶ける直前、孫の更紗が自分の名前を涙声で必死に叫んでいた気がしますが、今となってはどうする事も出来ません。
「ごめんね更紗……でも、私はもう耐えられないの。これ以上、ユラのいない世界で生きてたって………。私を1番応援してくれたあの子のいない世界なんて………。」
思えば、しず枝の生命力が急に衰えたのはユラが死んで少ししてからでした。
実を言うとしず枝は、ずっと後悔していました。今から5年前の昨日、78歳で死んだユラの訃報を聞いた時、既にベテラン声優として知名度も相応に高い存在になっていた自分が、幾等高校時代に親友だった所で名も無き一般人の葬式に出るなんて出来ないと言う考えから、ユラの葬式に参加してあげられなかった事を………。
それは83歳になった今も尚、絶えずしず枝の心に影を落としていたのです。
長い人生の中で、これ程までに深く後悔した事は彼女の中では有りませんでした。
「待っててユラ、私もこれから貴女の所に行くわ!貴女に会って謝らなくちゃ……お葬式に出てあげられなかった事………!!」
「何言ってるのしず枝?私なら此処に居るけど?」
不意に聞こえた懐かしい声に思わず後ろを向くと、其処には自分と同じく15~6歳で、自分が着ているのと同じセーラー服に身を包んだ少女の姿が有りました。
「ユラ!!」
その姿にしず枝が驚いたのも無理は有りません。何故なら目の前に立っている少女こそ、紛う事無き自分の1番の親友だったユラその人だったのですから。
もう現世では永久に会えないと思っていた親友の姿を目にし、しず枝は目に大粒の涙を流してユラに飛び付きます。
「ユラァァァッ……会いたかった……会いたかったよユラァッ!!」
あらんばかりの腕の力でユラを抱き締めるしず枝ですが、直ぐにユラはしず枝を強引に引き離します。
「もう!いきなり抱き着いて来て何よ!?久し振りに会えて嬉しいのは分かるけど、急にこんな事されたら私だって迷惑なんですけど!」
「ごめんなさいユラ……でも、久し振りに会えたのが嬉しくって……。」
そう謝るしず枝に対し、ユラは表情1つ変える事無く単刀直入にこう言い放ちました。
「そんな事よりしず枝、貴女の大事な孫が呼んでるわよ。あの子の為にも早く戻って!」
その言葉に、しず枝は困惑せざるを得ませんでした。折角会えた親友ともうお別れなんて、そんな事出来る訳が有りません。
「えっ?でも私はもう死んだのよ?もう戻れないわ。だからこれからはずっとユラと一緒に……」
「馬鹿ッ!!」
自分の言葉を遮って発せられたユラの怒声に、しず枝は思わず怯みます。ユラは続けます。
「私は未だ小学生だったリラを置いて死んだの!!本当はあの子が二十歳になって、それから結婚する所を生きて間近で見たかった……でもそれももう叶わないの!だけど貴方は違うでしょ!?私と違って貴方には、未だ必要としてくれる人が何人もいる!!更紗ちゃんや貴女の声を待ってる人が残っているなら、その人達の為に命を振り絞って!!」
「ユラ……でも私、貴女が死んだ時、お葬式にも出てあげれなかった………。声優界の大御所なんて立場の所為で………本当にごめんなさいユラ!!こうやって死んだのも、貴女からの罰だって受け入れてるから……。」
大御所声優と言う世間体に縛られ、自分の1番大事な友達を弔ってあげられなかった後悔の念を、この場を借りてユラにしず枝は謝罪と共に打ち明けました。
然し、ユラはそんなしず枝を見て口元にフッと笑みを浮かべたかと思うと、怒る処か溜め息を吐いてこう言い放ちます。
「何言ってるのよ?私はそんな事、ちっとも怨んでない!それに許すも許さないも無いわ。貴女は私にとって1番の親友で、私は死んでもずっと声優『長瀞しず枝』のファン!それ以上でも以下でも無いから!!」
その言葉に、しず枝はハッとなり、目を大きく見開きます。
「私の事で後悔してるなら、貴女を待ってるファンの人達の為に残った命を使って頂戴。そして私が出来なかった分まで、孫の更紗ちゃんの傍にもう少し居てあげる事!良いわねしず枝?」
「………うん、分かった!有り難うユラ!もう1度会えて良かった!!」
涙を浮かべた目でしず枝がユラの手を握ってそう言うと、ユラは満足そうな笑みを浮かべました。
すると突然ユラの身体からコバルトブルーの大きな魚が現れて光の奔流を放ったかと思うと、しず枝の全身はその光の中に包まれ、意識と共に溶けて行きました―――――。
「う……ん………。」
目を覚ました時、自分が元の部屋のベッドの上に居る事にしず枝は気付きます。自分の家族全員が看護師の立会いの下、これから末期の水を行おうとしていた事に。
「貴方達、一体何をしているの……?」
「え………?」
家族達が一斉に声のした方を振り向くと、其処にはついさっき死んだ筈のしず枝が上半身を起こして更紗達を見つめていたでは有りませんか!
ベッドに設えられた生体情報モニターはしず枝の心電図、呼吸、非観血血圧や体温等の各コンディション全てが正常値に戻っている事を告げています。
「うわあああぁぁぁぁあああ―――――――――――――ッ!!お袋が……お袋が生き返ったアァァ―――――――――――ッ!!!」
「嘘でしょ!?お義母さん、さっき死んだのに……!!」
当然ながら更紗の両親は驚愕しました。
「信じられない」
「まさか……バイタルだって0になってたのに………。」
同じ事は看護師達も思っていました。まさかついさっき死んで意識の無くなった人間が突然復活するなんて、普通は絶対に有り得ない事なのですから……。
「お祖母ちゃん……!!」
祖母が死の淵から生還した事を驚きながらも、嬉し涙で歩み寄る更紗にしず枝は優しく微笑み掛けます。
「更紗、私ね、夢を見ていたの。夢の中でユラに会ったのよ―――――。」
意識を取り戻したしず枝は、目に涙を浮かべる更紗の頭を撫でながらそう語り掛けるのでした―――――。
一方その頃、しず枝を死の淵から無理矢理呼び戻したテミスはそのまま元の蒼國へと戻るなり、ストリームマインドを解除してクラリアとリラの意識を元に戻しました。
「ハッ!!」
意識を取り戻したリラは、直ぐにテミスの方を向いて尋ねました。
「テミス、さっきのは一体どう言う事なの?ストリームマインドがどうとか言ってたけど、私が寝てる間に貴女、一体何をしてたの?」
どうやらリラは自分の身に何が起こったのか、未だ理解が出来ていない様でした。テミスにクラリアを抜かれてからの記憶がまるで曖昧で、何が何だかさっぱり分かりません。
「あ~~~もう、クラリアが私で私がクラリアで、何がどうなってるの~~~~~~ッ!?」
幾等尋ねても、テミスはフッと微笑むばかりで何も答えてはくれません。
さながら苔塗れになって緑一色になった水槽の様な圧倒的なモヤモヤ感に、リラは頭を抱えてそう叫ばざるを得ませんでした―――――。
その後、テミスの力が効いたしず枝の生命力は右肩上がりに回復し、車椅子に座っていた頃とは打って変わって生命力に溢れていました。
それから1週間が経ち、5月も残り僅かになった頃、リラが葵と深優を連れて更紗の家に遊びに言ってみると、其処には何としず枝の姿が有りました。
「こんにちは、リラちゃん。」
「えっ?しず枝さん!?どうして……?」
東京の老人ホームに居る筈のしず枝が何故、更紗の家に居るのでしょう?その疑問に答えたのは、当然と言うべきか更紗本人でした。
「お婆ちゃん、老人ホームを引き払ったの。」
「引き払ったってどう言う事なの?」
更紗は答えます。
「東京から蒼國の私達の家に引っ越して来て、私達と最期まで暮らすって。」
しず枝にとって蒼國は、親友だったユラと共に青春時代を過ごした思い出の場所。彼女にとってもとても感慨深い場所だったのでしょう。
其処で家族と楽しく暮らして、最期は笑って逝く―――――。苦しまない様に安らかに他界させる――――――。
それが生死の境を彷徨っていたしず枝の意識に対し、テミスがユラの亡き魂を介して交わした約束でした。
因みにしず枝は今、声優としての本業にも奇跡的に復帰。精力的に地元のTV番組やラジオのナレーターとして活躍する様になり、往年のファンを歓喜させるのですが、それに関して言及する必要は無いでしょう。
「ユラが私に言い聞かせてくれたのですよ。『更紗ちゃんの為にもう少しだけ生きてあげて』って。もう5年前に旅立ったのに、貴女達位の女の子の姿になって現れて私も驚いたわ………。」
「私のお祖母ちゃんが……しず枝さんを?」
まさか、テミスが自分の意識をクラリアに宿して連れ出したのは、自発的にしず枝を助ける為だったのでしょうか?それに気付いた時、リラは開いた口が塞がりませんでした。
水の穢れを癒す水霊達は、基本的に神様と同じく人類の事には終始一貫して傍観者の立場を貫く物の筈。なのにそれが特定の人間一個体に対してそんな肩入れをするなんて、リラにとっては信じられない話でしたから無理も有りません。けれど、一体何故テミスが自分の意識をクラリアに宿し、更にその内に取り込んだのかまでは遂に分かりませんでした。
ともあれ夢とは言え、生きてもう会えないと思っていた親友と会えた嬉しさからか、目に薄らと涙を浮かべてそう言うと、しず枝はリラに自身の学生時代の写真を自室の棚から取り出して見せました。
「ホラ、この子ですよ。この子が私の1番のお友達のユラ――――――。」
「えっ!?これって―――――――――。」
指差した先に映っていた、学生時代のしず枝の友人だったユラと言う女生徒の顔を見てリラは驚愕するしか出来ません。
そしてそれは、一緒に見た葵、深優、更紗の3人も同じでした。
何故なら―――――――其処に映っていた少女時代のユラの姿形は、顔まで含めてテミスの人間態と酷似していたのだから……。
次回はいよいよエピソード葵!だけどこちらは1話完結で終わりの予定です。
それが終わったらいよいよ次章に突入します!
キャラクターファイル16]
ユナーシャ
年齢 無し
誕生日 無し
血液型 無し
種族 水霊
趣味 下級水霊のお世話
好きな物 元気で強い心身の持ち主
緋色のピラルクの様な姿をした中級水霊。エフィアと共に南半球を雲と共に回遊しているが、雨となって日本にもやって来る。
現段階で上級水霊に近い存在と目されており、その癒しの力は中級水霊の中でエフィアと並ぶツートップ。
深優の父である航のガンを癒して根治させるべく、初めて扱う上級水霊であるテミスを行使する事で生じるリラの肉体の負荷をエフィアと共に防いだ。
肝っ玉母さんを地で行く性格をしている。




