冬ごもりは春の兆し
逆さ虹の森に、大きな大きなクマがやってきました。だあれも来ない森の一等端っこの小さな小さな洞穴にひっそりと住み着きました。
大きな大きなクマは、その大きさとは反対にとてもとても怖がりでした。だからクマは皆から『怖がりのクマ』と笑われておりました。
怖がりのクマは、とても怖がりだったので、そう揶揄われるたびにもっともっと怖くなってしまい、ネグラの暗い洞穴から顔を出すのにも勇気がいるのでした。
そんな怖がりのクマにも一人だけ友達がいました。いたずら好きのリスです。クマが初めてこの森にやって来た時、食いしん坊のヘビに追いかけられていたリスを助けたのがきっかけで、仲良くなりました。助けたといっても、リスが勝手にクマの頭に乗ってきたのを振り払わなかっただけですけれど。
いたずら好きのリスは、大きなクマに比べると両手のひらに乗るほど小さいのですが、ちっともクマを怖がったりしません。
いたずら好きのリスはいたずらが大好きで、クマにもよくいたずらをしかけましたが、クマのことを怖がりだと揶揄ったことだけはただの一度もありませんでした。
だから、怖がりのクマはいたずら好きのリスのことが、本当に本当に大好きだったのです。
怖がりのクマはドングリ池に来ていました。
ドングリ池の周りには、たくさんのドングリの木がおいていて、たくさんのドングリが拾えるからです。
もうすぐ冬がやって来ます。逆さ虹の森も厚い雪に覆われて、音まで白さに吸い込まれてしまうでしょう。
そんな雪が降り出す前に、怖がりなクマもいたずら好きのリスも冬ごもりの準備をしなければなりません。だから二人でそろって木の実を集めようと、今日はここで待ち合わせをしていたのです。
遅いなぁ……。
何時まで経っても現れないリスに、クマは心配になりました。
あんなに小さなリスのことです。
オンボロ橋で落ちてしまったのかもしれない。途中の小道で何かあったのかもしれない。
そんなふうに考え始めると、クマは怖くて怖くてたまらなくなってしまいました。
探しに行こうか。どうしよう。どこに行ったらいいのかもわからないし、行き違いになっても困ってしまう。
考えてみたけれど、良い方法は思い浮かびません。
その時、チチチチと歌上手のコマドリの歌が聞こえました。気持ちが良さそうに木の上で歌っています。
クマは空を見上げました。
コマドリさんに聞いてみれば分かるかもしれない。
そうは思うのですが、どうしたらいいのかわかりません。
コマドリは歌を歌っています。話しかけて気を悪くしたら困ります。怖がりのクマが歌の邪魔をしたなんて、歌にされたら困ります。
いたずら好きのリスは、いつになってもやってきません。やっぱり、やっぱり心配なのです。
クマは勇気を出してコマドリに声をかけてみようと思いました。
大きく息を吸って、吐いて。
胸に手のひらを置けば、ドキドキと体全体が波打っているのがわかります。クマはじっとコマドリを見つめ、歌い終わるのを待ちました。話しかけるタイミングを探していたのです。
歌上手のコマドリは、クマに気が付いて歌を止めました。そして不思議そうに小首をかしげます。
今、話しかけよう!
クマが思ったその瞬間。
「クマさん、クマさん」
足もとから小さな声が聞こえました。
驚いて足元を見れば、息を切らしたいたずら好きのリスがクマのことを見上げていました。
「遅れてゴメンね」
ションボリとしたいたずら好きのリスを、クマは両手で抱き上げました。
「どこも怪我はない?」
「怪我なんてないよ」
「良かった。心配していたよ」
クマはホッとしました。リスが無事に来てくれた。そのことだけでとても嬉しかったのです。
それから二人は一緒に木の実をいっぱい集めました。クマはリスの家に木の実を運んでやりました。そうやって二人は一緒に冬ごもりの支度をしました。幾日も幾日も一緒に支度をしました。
でも、いたずら好きのリスはいつだって約束の時間に遅れてきたのでした。
初めのうちは、遅くやってくるリスの心配をしていたクマでしたが、だんだんと怖くなってきてしまいました。
楽しみにしているのは、自分だけではないだろうか。
リスにはたくさんの友達がいるのだし。
本当は迷惑なんじゃないだろうか。
だってクマはリスより、ずっとずっと大きいのです。リスを一指で傷つけてしまうことも可能です。だから本当は怖くて仲良くしてくれているだけだったのかもしれません。
クマのことが怖かったから、揶揄ったり出来なかっただけなのかもしれません。
そう思ったら、クマは悲しくなりました。
苦しくなりました。
だって、だって、クマはリスに嫌われたくありません。
リスに嫌な思いをさせたくありません。
リスのことが好きだから、リスが困るようなことをしたくはないのです。
クマは心に決めました。本当はとても怖かったのですが、それでも、それはリスのためだから、クマには我慢が出来ました。
今日は朝からあいにくの土砂降りの雨です。
二人はドングリ池で約束をしていました。だからクマは土砂降りの中を泥も気にせず歩いてゆきました。
池につく頃には、雨は上がっておりました。
やっぱり、いたずら好きのリスは時間になってもやってきません。
ドングリ池には逆さの虹が映っていました。クマはじめて逆さの虹を目の当たりにして、ため息をつきました。クマの生まれ故郷では、逆さの虹を見たものは幸せになれると聞いていたのです。
それなのに。
ポチャンと池の魚が跳ねます。波紋で虹がゆがみます。
やっぱり、今日も遅れてる。やっぱり、迷惑だったんだ。
クマは悲しくなりました。そうしてブルリと体を震わせました。
水しぶきが辺りに散らばって、プリズムのようでした。
コマドリは歌声を高く高く羽ばたかせ、その歌はまるで天に突き抜けてしまいそうです。
「ゴメンね、クマさん。遅れちゃった」
リスが慌てたようにクマの足元にやってきました。
クマはもうリスを抱き上げたりしませんでした。
「もう、いいよ」
クマは笑いました。怖がらせないように、怖がられないように、目一杯笑いました。
「なにが?」
リスは尋ねます。
「もう、冬ごもりの準備はお終いにするよ。今まで付き合ってくれてありがとう。さようなら」
クマはそれだけ言うと、怖くなって逃げ出しました。怖くて怖くて、怖くて怖くて、これから来る真っ暗な冬が、そして、その先の明るい春が、怖くて怖くて仕方がありませんでした。
翌朝、お人好しのキツネが怖がりのクマのネグラにやってきました。
「怖がりのクマさん、あなたのお友達、いたずら好きのリスさんが根っこ広場の根っこにつかまってしまったの! 助けてちょうだい!」
クマは驚きました。根っこ広場には、木の根っこがたくさんたくさん飛び出しています。この広場で嘘をつくと根っこに捕らえられてしまうと、以前にいたずら好きのリスが教えてくれたのです。
だからリスは知っているはずです。どうして嘘なんかついたのでしょう。
「どうして?」
「分からないけれど、早く来て! 私たちでは助けられないの!」
クマは走り出しました。お人好しのキツネをおいて、一目散に駆け出しました。だって、あんなに小さなリスです。あの大きな根っこに捕まったらひとたまりもありません。
クマが広場につけば、リスは木の根にグルグルに捕らえられておりました。
「リスさん、今助けるよ!」
「クマさんなんか嫌い! もうこっち来ないで!」
リスが怒鳴ります。
木の根がギュっと締まります。
「リスさん!」
クマが駆け寄って、木の根をウンウンと引っ張ります。木の根は存外に硬く強くて、クマの爪すら剥がれそうです。こんなに強い力では、リスはきっと苦しいでしょう。
「助けてくれなくていい!」
リスは怒ります。怒る度、根っこがリスに絡みつきます。そうです、リスは助けて欲しいはずなのです。
「どうして?」
どうして嘘なんかつくんだろう。
助けて欲しいなら、助けて欲しいと言えばいいだけなのです。そう言えば絡まった根っこは解け、リスは自由になるはずなのです。
「だって、急にお終いって言った! さようならって言った! またね、って言わなかった! もう友達じゃ、ないんでしょ? だったら助けてくれなくていい」
根っこが動きを止めました。
「それは、君の迷惑になると思ったから……」
クマがつぶやけば、根っこがグルグルと音を立てました。
「そんなこと思ってない! そんなこと言ったことない!」
リスが答えれば、リスに絡まった根っこが緩まっていきます。
「だって、君、いつだって遅れてくるし、本当は怖くてイヤイヤ付き合って」
根っこがクマに絡みつきます。クマはギョッとしました。だって、クマは嘘なんかついてないのです。本当にそう思ったのです。
クマは驚いて根っこを見ました。
「だって、キミ、ちっとも怒らないんだもの」
リスは気まずそうに言いました。
「最初はいたずらのつもりだったんだ。君を怒らせてみたいって。それなのに、どんなに遅れたって、ちっとも怒らなくって、何にもなかった風にする。だから待っている間どんなふうに怒っているのか見てみようと思ったら、コマドリさんを見つめるばかりだし」
「見ていたの」
「うん、見てた」
リスの根っこは綺麗に外れてしまいました。
クマは恥ずかしくなりました。何もできなくてオロオロとするばかりの、情けない自分をずっとリスに見られていたのです。
心配していたなんて言いながら、コマドリに聞くことすらできなかった、臆病な自分を見られてしまっていたのです。
さすがにリスも、クマのことを怖がりだと思ったに違いありません。
「どうして怒らないの。こんなに酷いことしたのに。呆れて怒る気もしなくなった? 何も言わなきゃわからないよ?」
リスが不安そうに尋ねました。
「だって、君の迷惑に」
口にした途端、太い根っこがクマの体に巻き付きました。
どうして? 嘘じゃないのに。
ギュウと巻き付いてくる太い根っこは、しっとりと濡れた土がところどころについていて、苔むした匂いがします。冷たい肌触りのつるりとした根は、クマを容赦なく締めあげました。いくら大きな大きなクマだとて、たまりません。
「本当は?」
リスは木の根の間をチョンチョンと渡って、クマの目の前にいました。
「本当は?」
クマは考えます。
本当はどうして怒らなかったんだろう。どうして怒れなかったんだろう。
「君に嫌われるのが、怖かったから」
そうです。クマは怖がりのクマなのです。初めてできた大切な友達を、嫌な気分にして失ってしまうのが怖かったのです。
だって、だって、大好きだから。
すごく、すごく、大切だから。
だったら、自分が我慢すればいいんだって、そう思っていたのでした。
「馬鹿だなぁ。そんなことで、嫌いになったりなんかしないよ」
リスはクマの大きな大きな鼻を、小さな小さな掌で包み込みました。
「悪いことしてたら叱って。嫌なことは嫌だと言って。それができるのが友達でしょ?」
「だって、怖くない?」
「怖くないよ」
「無理してない?」
「無理してないよ。無理してるのはクマさんじゃない」
リスは笑いました。
「そうか。無理してたんだね」
シュルシュルと根っこが解けていきます。リスの乗っていた根っこが突然なくなって、リスはクマの鼻にぶら下がりました。クマは慌ててリスを両手で抱き上げました。
二人で笑います。
「ゴメンね、クマさん」
リスが謝りました。
「ゴメンね、リスさん」
クマも謝りました。
「冬ごもりの準備、まだ終わっていないんだ。手伝ってくれる?」
リスがクマに頼みます。
「もちろんだとも!」
クマが胸を叩きました。
「この間の雨でね、家がなくなっちゃったんだ」
いたずら好きのリスが言いました。
「だったら、家に来たらいいよ」
クマも答えます。
もう、根っこは音も立てません。
二人は一緒にクマのネグラに帰りました。
洞穴の外には、今年初めての雪が舞い降りてきています。
しかし、今まで暗く寂しかったネグラは、今ではなんと明るいことでしょう。
丸くなったクマの丸くなったお腹に、リスも丸くなりました。
二人の心臓の音が重なります。
大きくて緩やかなドーンドン。小さくて軽快なトトトトト。
まるで音楽みたいです。
二人はそれが可笑しくて、クスクスと笑いました。
きっと今年の冬はとてもとても暖かいでしょう。その先の春だって、いつもよりずっとずっと華やぐにちがいありません。冬が始まろうとする前に、もう春の兆しが見えてきました。