「子供に勉強しろ」と言う時の「勉強」ってなぁに?
お三方のエッセイを拝読して、感じたことを少々。
もしも、自身の記憶を保ったまま現代日本に転生したなら、皆さんはどう過ごしますか?
ちょうど、ローファンタジーで似たような設定の秀作がランクインしておりますね。
私なら、その作品の主人公同様に(環境が許す範囲で)心身を鍛えて勉学に励みたいと思います。
なぜなら、こうなれたら良いなという自分なりのイメージがあるからです。
もちろん、ゲームのレベル上げが苦にならない人と、そうでない人とがいるように、誰もが強い意思で努力を継続できるわけではないでしょう。現実社会では、なかなか結果が目に見えないことも多いですから。
でも、努力の程度や結果の如何は別として、帰属するグループ内での序列を上げたいと願うことは、群れを作る生き物として自然な感情だと思います。(そう思わない人物を否定しているわけではありません)
狩猟社会の頃に、獲物の狩り方を教えられて学び、そして自分の生活の糧を得られるようになって独り立ちしたことと、現代社会で自立していくために、様々なことを学び成長して社会人となることとの間に、大きな差異はないと思います。
ただ、「勉強」という言葉が指し示す内容や範囲が時代背景や体験によって異なり、読者によってもまちまちであるために議論がかみ合っていないように感じました。
私は、「勉強」とは、なりたい自分に近づくために足らざる部分を求めることだと思っています。
そのため、自分が知らない知識や考え方を習得することは、生涯にわたり必要だとも考えています。
学校での座学だけが、ましてや受験勉強だけが「勉強」だとは思っておりません。
家族との触れ合いや様々な体験――友達と遊ぶことも喧嘩をすることもテレビを見ることもゲームをすることも、それぞれに意味があると考えています。
ただ、学びにあてられる時間が有限なのに対し、学ぶべきことは時代を経るにつれてどんどん増えてきているようにも思います。
また、学びに要する費用も、昔に比べて極端に増えているのも事実なのでしょう。
さりとて、学ぶべきことを取捨選択できるほどの知見は、転生者でもない限り、誰も持ち得なくなっているのが現代です。
昔に比べ、各世帯の暮らしむきは余裕が少なくなってきています。
その中で、私が考えるような「勉強」は単なる理想論かもしれません。
ただ、「どうして勉強しないといけないのか」について、子供と一緒に考えてみることは大切だと思います。その意味では、「勉強」しない子供を見かけた時こそがチャンスだと思います。
子供がなりたい将来像を一緒に探す行為は、大人にとっても十分「勉強」になることでしょう。
読解力が足りなかったらすいません。