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幽霊の息遣い

作者: 八丘えりす

1.


れい、何してるの?」

「手紙さ。お世話になった人に」

「ー藍子あいこさん?」

「うん」

「片付けも手伝ってよね」


拝啓、臼富うすとみ藍子さま。天国での暮らしはいかがですかーー。



2.


ー俺は、あなたの姪のゆめさんと結婚しました。今、新居に引っ越してきたところです。

俺があなたと出会ったのは、8年前ですね。ちょうど今と同じ春でした。


俺は、昔から霊感が強かった。そのせいで小学校のときは実をいうと人気があったが、中学校に上がると気味悪がられた。俺としてはその人のためになのだが、

「もうすぐつまづくよ。幽霊が君の背中の後ろにいて、押したがっているから」

等と言っても信じてもらえず、本当につまづくと

「お前、仕組んだんだろ?!」

と怒り出すのだ。俺はそんなに暇人ではない。

そんな俺が藍子さんに出会ったのは、中3の春だった。勉強をはじめるため椅子に座ろうとしたら、椅子に先客がいたのだ。

「こんにちは、江上えがみ玲くん」

「…こんにちは」

幽霊と喋るのは初めてじゃない。ただ、幽霊は大抵特定の人につきまとっているため、長くは喋らない。これほど長く幽霊と喋ったのは、藍子さんが初めてだった。

「これからお勉強?」

「はい」

「まったく、江上くんに似て勉強家な息子ねー」

江上くん?

幸男ゆきおくん。あなたのお父さん。私、元同級生なのよ」

“元”。幽霊は、死んだときで年齢が止まっているのだ。

聖子せいこちゃんは勉強なんてどうでもいいような感じだったけどね。おかげで今はあんなんになっちゃって、もーう。親友として情けないわー」

聖子ちゃんというのは、俺の母を指すのだろう。父と母は中学からの同級生だ。

「あっ、私は、臼富藍子。姪があなたと同い年、そして私とも同い年なの」

何だ、そのまどろっこしい言い方は。

「ということは、俺とも同い年? ですか?」

「やだ、敬語なんてやめてよ。そう、同い年なんだから」

藍子さんとの出会いは、こんな感じだった。



3.


初めは、藍子さんのいたずらに困らされていた。

「久しぶりの幽霊以外の話し相手なのよ、もっと喋ってよ!」

そう言って、特殊能力で机の上の勉強道具を蹴散らしたり、俺の膝の上に座ってきたり。幽霊は重さも感じないし感触もないしさわれない。けれどもちろん邪魔になる。

また、一番困ったのは学校だ。授業中のことである。

「…じゃあ、この問題を江上」

「あっ、はい。えっと…」

と答えようとした瞬間、先生の頭の上に藍子さんが見えたのだ。その先生の頭を撫でたり、(幽霊は、物体の手間で手を止めて、触っているように見せるらしい)髭を触ったりして、

「やだー、この男の先生きもーい」

とか叫んでいるのを見ると、思わず噴き出してしまう。

「何、江上は笑っているんだ。真面目に答えんか!」

そしてクラスメイトにはまた気味悪がられ、「どうせ幽霊と話しているんだ」と言われる始末である。実際は一方的に話しかけられているのだが。

「藍子さん、あんなことするなよ」

藍子さんと出会った3日後、早速俺はキレた。

「だって、つまんないんだもーん」

「っていうか、何で俺についてるの」

藍子さんが死んだのは15歳のとき。そして、親と元同級生。親は今年で45歳だったはずだから、幽霊生活は30年目ということになる。

俺と出会うまでの29年間、一体彼女は何をして、誰のもとにいたのか。

「江上くんと聖子ちゃんのひとり息子だからだよー。小さいときから霊感があるみたいだから、隠れて出てくるタイミングを伺ってたのよ」

「…何があったのか知らないけど、ああいうことはやめて」

結局、全てを知ったのは2月だった。



4.


とはいえ、まだ5月の時点では全てを知る由もない。

何も知らない俺は、疑問に思いながらも藍子さんとほとんどの行動を共にした。

「ちょっ、トイレまでついて来んなよ!」

「えー、誰にもわからないって」

「俺が嫌なの!」

といった会話を2日に1回行うくらいだった。

実をいうと、藍子さんに恋をしかけていた。

でも、俺には好きな人がいた。東野ひがしのこずえという、クラスメイト。

小学校のときはバレンタインデーにチョコを貰う仲だったのだが、中学では他の人と同様俺を避けている。東野だけにはそれに怒りが湧いてこないのだが。

だから俺は藍子さんに惹かれる自分に戸惑った。東野がいるにも関わらず…

「どうしたの? 最近元気ないね」

藍子さんはよく気がつく。

藍子さんは幽霊だから、恋愛しない方がいいのだろう。でも東野だって俺を嫌っている。どちらにしろ茨の道だ。

「何か悩み事? それなら、勉強なんかやめて散歩に行こうよ」

俺は遊ぶ友達がおらず、勉強しかすることがなかった。藍子さんの発想はそんな俺にとってはすごく画期的だったので、乗ることにした。



5.


「今まで、玲くんはこんなことしてなかったの?」

「うん」

「へー、もったいなかったねえ」

近所の川沿いを歩いていると、根暗な性格が洗われるような感じがした。

「公園に入らない?」

そう藍子さんが俺を公園に引き連れた。ふたりでベンチに腰かける。

「緑の葉、綺麗でしょ? まぁ、もう少ししたら梅雨になって来られなくなるけどね」

たぶん6月に入るか入らないかといった頃だったろう。たしかに雨の日は、地面が土の公園には入りたくない。

「ちょっとは、気持ち、晴れた?」

「…」

少し楽になったとはいえ、あの問題の突破口を未だ掴めない。

その沈黙の一瞬。

目を閉じた藍子さんの顔が迫ってきたのだ。感触はなかったが、何が起こったかはっきりわかった。初めてだった。

感触こそないが、あたたかみが唇に残っていた。

そのまま彼女を抱きしめようと思ったけれど、

すっ。

と俺の腕は彼女の身体を通り過ぎた。

その瞬間、藍子さんに恋しかけた俺を俺は阿呆だと認識した。



6.


それから梅雨が明けるまでは俺の家で話をして、梅雨明け後は2週間に1回公園まで散歩した。そしてキスをした。

でも恋愛感情はなく、もちろん感触はお互いがいる確認のような軽いものだった。

藍子さんも、どうやら好きな人がいるらしい。

「江上くんったらね、さっきお風呂覗いてきたら、お腹出てるのよ! もう、呆れちゃうわ」

「…江上くんって、俺のお父さんのことだよね?」

お風呂を覗く行為の方に俺が呆れているのにも関わらず、父のことをよく喋っていた気がする。

「昔はもっとイケメンだったのにね〜」

「でも優しいところは変わってないわ。さすが愛しの人」

そんな話にも付き合いつつ、やって来た夏休み。

受験勉強に力を入れ、息抜きに藍子さんと散歩し、部活に行って充実した1ヶ月を過ごした。



7.


ー藍子さんには、様々なことを教えてもらいました。本当は、最初あなたの行動に少し腹を立てていました。けれど、俺はあなたがいないと、きっとあのまま卑屈で勉強しかしない奴だったと思います。本当に、感謝しています。俺と公園へ散歩に行ったことを覚えていますか。何回も行きましたね。楽しかったです。ケンカしたのも全て、いい思い出です。


そこまで書いて、ペンを置いた。

「夢、」

彼女を呼んだ。そして、彼女の肩に手を回した。

やっぱり、感触がある方がいい。



8.


9月になって部活を引退すると、本格的に受験モードになってきた。そして、東野梢と急接近したのは、この頃。

席替えで、隣になった。

その席で初めて話しかけたのは彼女のほう。

「ねえ、江上ってさ、まだ幽霊が見えるの?」

少しばかにした風に言われたのでムッとして、

「見えるけど、何?」

そう言ったら、ふふっと笑って去っていった。

何だ?

最近感じていなかったものを、彼女から感じた。

…あたたかさ?

東野は俺を嫌っているはずなのに、どうして?

それから俺は、教科書を忘れても授業中に「見せて」と言えるくらいになる。

「うふふ〜、よかったじゃないの〜」

その日の夜、俺の部屋で藍子さんはぐるぐると僕の周りをまわっていた。

「私なんか15歳で死んじゃったから、男の人と付き合ったことがないのよ。あなたは良い恋人を作ってよね」

「えっ?」

彼女くらい美人なら、恋人のひとりやふたり、いたとしてもおかしくないのに。

「恋人いなかったの?」

「うん。え、もしかして、私がリア充に見えたの? え、私、可愛い?」

藍子さんは、勝手な推測で上機嫌になる。どうして、30年前に死んだ霊が『リア充』なんて言葉を使いこなせるのだろうか。

しかしその勝手な推測とやらも当たっているので、無視しておいた。彼女はその場で回り出していた。

「あ、やばい、目ぇ回ってきた」

「どんまい」

「ばか、幽霊が目ぇ回る訳ないでしょ。えへへ、私の可愛さに内心ドキドキしてたんでしょう」

「してない」


席が隣だったとき、一度東野に問うたことがある。

「最近、妙に優しくない?」

「そう? まぁ、江上の雰囲気が良くなったからね。どうせ素敵な幽霊に出会ったんでしょ」

は?

俺の雰囲気が良くなった? そして図星!!

ぼーっとした気持ちでトイレに入ったら、

「雰囲気が良くなったんだってー、良かったねぇー」

「うわあああっ?!」

藍子さんがいた。

「トイレには来るなって言っただろ!」

「ごめんね、ちょっとね、ああいう所を見ると乙女の血が騒ぐっていうかー」

「幽霊って、血通ってるの?」

「いいじゃない、細かいことは。まっ、私のおかげなんだからね? 感謝したまえ」

彼女はひとつウインクして、トイレの窓から出ていった。



9.


そんな甘い甘い時間も長くは続かず、次の席替えでは離れてしまった。けれど男子の想像力もとい妄想力はすさまじい。俺はその甘い時間を頭の中で作り出し、もちろん勉強時間は減り、定期テストではたしか過去最低点を取った。

「…やばい」

これは内申にも響きそうだった。

「あららー、玲くんたら恋わずらいー?」

恋わずらい。この感情をそんなきれいな言葉で呼んでいいかわからなかったが、

「そうだろうね」

と答えておいた。

「ふーん。まあ、あなたもお年頃の男の子だもんねー。くだらない妄想とか、しちゃうんだあー」

「くだらないって…」

「くだらないに決まってるよ。妄想なんかで何も変わりやしないんだから。それを行動に移さなかったら、意味ないの。ーさっ、勉強しなさい! 受験まであと3か月よ!」

そのときは、意味がわからなかった。



10.


その後、時はせわしなく過ぎ、‘くだらない’妄想もできないほどだった。高校へ願書を出し、あっという間に冬休みに突入した。

彼女と最初で最後のケンカをしたのも、このとき。俺の部屋でいつも通り話していた。

きっかけは俺の何気ない一言。

「あーあ、幽霊っていいよね。勉強せずに遊んでばかりいられるし。俺も、幽霊になりたいな」

そう言った瞬間、隣から冷気が感じられた。

「藍子さん?」

彼女は、ずっと笑っていると思っていた。それは違った。

「―――――――――――――――――――――!」

「えっ?」

「―――――――あんたなんかに私の気持ちがわかるかよっ!!!」

彼女の周りに風が集まる。冷気が増していく。

「サイテー!!!!!」

彼女の手が机にかけられ、上のものをすべて払い落とした。ノートやペンが床に落ちて、悲しみの叫び声を上げる。

そのまま彼女はドアの隙間から出て行った。

あんたなんかに私の気持ちがわかるかよ。

サイテー。

床に落ちたものを一つ一つ拾いながら、このふたつの言葉を繰り返し唱えた。

その日は、クリスマスだった。



11.


家族でクリスマスケーキを食しているときも、藍子さんは現れない。

「藍子さん?」

呼びかけても、何もない。気配もしない。

布団にくるまって考えても、何も思い浮かばない。

次の日、気晴らしにひとり散歩に出かけた。

その日も、街に幽霊が溢れていた。

「もしもし、ねーねー、明日デートしてくれるー? え、ほんとー?」

若い女性が、道の端で電話している。その後ろには、チャラくて若い男性の幽霊がいた。

「3年前は、俺が彼氏だったんだぜ? 何がよくてあんなへなちょこ男と付き合うことになったんだよ。俺のことなんかどうせ忘れてるんだろ?」

その幽霊は、今にも泣き出しそうな顔だった。

と、そのとき、耳元で聞き慣れた声がした。

「玲くん。わかった?」

「うん…」

俺の方が泣きそうだった。

「藍子さんは、29年間、ずっと自分の好きな人と親友に気づいてもらえずに過ごしていたんだ。しかも、そのふたりは…」

「そう。それ以上言わないで。今では、ふたりのラブラブさも好きなの」

「藍子さん…ごめんなさい」

「いいえ。私も、ついカッとなって。ごめんなさい」

彼女は右手を差し出した。俺はその手を握る振りをした。

そのまま、道端でキスした。離した後、恥ずかしくて家までは無言で帰った。



12.


それからというもの、冬休みはあっという間に過ぎた。正月の日以外は毎日勉強をした。

「A判定じゃないの、よかったね!」

年末の模試の結果は上々で、藍子さんにも褒めてもらえた。

本番の日は、バレンタインデーの少し前。そんなことに気づいたのは、カレンダーを見たとき。

「バレンタインデーは、どうなる予定?」

「えっ?」

「梢ちゃんに聞いてみれば? 好きな人いるの、って」

「何だよそれ、そんなこと…」

「あーもう、あなたのそういうところがムカつくのよ。とっとと聞きなさいよ」

藍子さんって、俺にムカついてたんだ…。

「でも、今は冬休みだし」

「学校が始まってからでいいじゃない! 馬鹿なの?」

彼女はひとしきり騒いだ後、瞳を閉じてうつむいた。

美しい横顔。触れられないその身体。

「玲くんには、嫌な思いしてほしくないの。勇気を出して」

いつも、急に真剣な声色になるから焦らされる。何かあるな、とだけしか感じられなかった。




13.


「あっ、あ…あのさー」

「ん?」

始業式の教室。とりあえず東野に話しかけた。そこまではいいものの、次の言葉が出てこない。

「えっと、その…」

「何よ、早く言って」

「あの、えっ、その…」

「バレンタインデーにチョコをください」

「バレンタインデーにチョコをください!!…って、えっ?」

俺の肩には藍子さんが乗っていた。耳元で変なことを吹き込まれたおかげで、とんでもなく直球な台詞を口にしてしまった。

「は? バレンタイン?」

東野は戸惑った表情。そりゃそうだ。

「…義理チョコなら」

「あっ、そうだよね、うん、ごめ…えっ?」

義理?

これは喜ぶべきなのか?

「もういい?」

「あ、うん。引き止めてごめん」

もう一度繰り返す。

義理?



14.


ーでもやっぱり一番印象に残っているのは、バレンタインデーです。東野に話せたのも藍子さんのおかげだし、チョコを貰えたのも藍子さんのおかげです。


と、夢が視界に入って、


夢と結婚したのにこんな話をすみません。


と付け足した。

夢と、夢の親戚である藍子さんには悪いが、あと1か月分の東野との思い出を回想しなければ手紙は完成しない。今一番愛しているのは夢だから、許してもらうとしよう。



15.


とにもかくにも、義理チョコをくれると約束してくれた。悪くはないだろう。

しかし、ここで一つ重大な事件が発生した。

この時期に厄介なー。

「あー、A型ですね」

しんどくて病院に行ったら、医者にそう言われた。もちろん血液型の話ではない。インフルエンザの話である。

受験前の追い込みの時期、これでは何にも集中できない。

「だめだ…」

苦しい。体がだるい。頭が重い。鼻が詰まって息ができない。

「玲くんもこっちの世界に来る?」

藍子さんの言葉は、この前彼女を怒らせた俺をいびっているだけなので無視しておく。

「ちょっと、ちゃんと合格してよねー」

「わかってるよ…ぐしゅん」

「実は、玲くんの受ける学校にね、私の姪が受けるのよ。きっと仲良くなれるから、会ってほしいな〜」

「姪?」

「そうそう。この前妹の家に行ったら、わかったの。伊藤夢っていう、可愛い子。私ともよく似てるわ」

「ふうん」

そいつが俺の嫁になったのだから、人生というのはわからない。



16.


「ーよし、平熱! 体も大丈夫!」

「でも、あと2日は学校を休まなきゃいけないんだよね?」

「休んでる間に家で勉強するさ」

俺の受験する高校は、県内有数の進学校。科学コースでは専門的な実験ができるのが売りだ。俺は科学部の部長をしていたので少なからず興味があった。

そんな高校に入学できたら。考えただけで口元がだらしなく緩む。

伊藤夢という人も、今頃勉強しているのかと考えると、さらに口元が緩んだ。



17.


受験日は、意外とすぐにやってきた。

「受験票、持った?」

「持ったよ」

「筆記用具は?」

「持ってるって」

「寒いからカイロも持っていけば?」

「もう、うるさいなぁ」

藍子さんとこんなやり取りをした後、

「受験票、持った?」

「持ったよ」

「筆記用具は?」

「持ってるって」

「寒いからカイロも…」

「もう、うるさいなぁ」

母ともこんなやり取りをするはめになった。

「行ってきます」

「行ってらっしゃい」

「母さん、合格祝いのケーキ作っといてよね」

「任せときなさい。頑張ってね」

本番のことは、よく覚えていない。緊張していたのと、学校や先生や学生が怖かったことくらいしか。藍子さんも姿は見えなかった。

と思っていたのだが。

「お帰り〜合格おめでとう〜」

帰ってきた俺に、彼女は開口一番そう言った。

「は?」

「実は、いろんな所に飛び回ってわかった答えと、玲くんの解答用紙に書いていた答えがほぼ一緒でね」

「え、つまりどういうこと?」

「見てたの。後ろから、こっそりと」

なんじゃそりゃ。

全く、何ていう幽霊なんだ。



18.


そして、2月14日がやってきた。

バレンタインデーだ。

朝登校したら、教室の前に東野梢がいた。

「はい、義理チョコ」

「…ありがと」

「何よ?」

「…本命は、いるの?」

「…内緒。じゃあね!」


あっさりしていた。好きと言えなかったし、東野の本命も聞けなかった。

それでも、俺には十分だった。


「ただいま。藍子さん?」

俺の部屋のドアを開ける。いつもなら元気よく出迎えてくれる藍子さんなのに、今日は壁際にうずくまっていた。

「ん、あっ、お帰り」

「藍子さん? どうしたの?」

彼女の目が、潤んで赤かった。

「泣いていたの?」

「…玲くん、私の話を聞いてくれる?」

俺は頷いた。椅子に座って藍子さんに向き合う。

「私が死んだのは、このバレンタインデーなの。最悪な最期だった。

私はね、前言ったかな、江上くんが好きだったの。それは誰にも打ち明けずーもちろん、親友の聖子ちゃんにもーそれで、他の男子から何回か告白されたけど、全て断った。

それから、中3のバレンタインに告白しようとしたの。チョコを作って、帰りに下足室で待っていた。そしたら、江上くんはね、聖子ちゃんと一緒にいたの。それも…手を繋いで。慌ててチョコを隠して、どうしたのって聞いたんだ。その直前、教室の前で聖子ちゃんが江上くんにチョコを渡したんだって。江上くんは元々聖子ちゃんのことが好きで、ふたりは付き合うことになって。

私は、仕方がないからおめでとうって笑って、ふたりの前を走り去った。ふたりの照れ笑いを見て、すごくつらかった。学校の門を出た瞬間、ぶわって涙が出てきて。泣いてたら意識ももうろうとして、ふらふらしながら歩いてたの。後ろから来た車に気づかずに道路の真ん中まで寄ったとき、」

そのままひかれて死んだという。

彼女は大粒の涙を流しながら続けた。

「私の葬式は、幽霊になって上から見てたの。聖子ちゃんが泣いてくれたけど、江上くんが肩を抱いて慰めてたの。それが私はムカついてムカついて。私はふたりのせいで死んだようなものだもん。それに気づいてないふたりが嫌だった」

「それで、うちの家にいるの?」

「そう。初めは恨みが主だったけど、結婚してしまってからはもう吹っ切れたよ。まぁ、まだ成仏できてないんだけど」

彼女はぐすんと鼻を鳴らして笑った。

「いつになったら成仏できるのかなぁ」

「……ごめん、晩ご飯食べてくる」

俺は逃げ出すように部屋を出た。

怖かった。

彼女から「恨む」とかいう言葉が出てきたのも、あんなに泣いていたのも。うちの両親も。

リビングに入ると、父が既に座っていた。

「父さん、今日早いね」

「お、玲か。ちょっと、話がある」

母がその横に座った。

父は重々しく口を開いた。

「今日は…バレンタインデーだな。俺たちの同級生が、死んだ日でもある。俺たちが中3のときだった。今の玲と同じ年だ」

「藍子ちゃん…」

母が口元を押さえた。

「その日、私は父さんに告白したの。バレンタインデーだったし、藍子ちゃんー同級生の女の子が、父さんのこと好きかもしれない、とられないように、って。それで付き合うことになった後、ふたりでいるときその子に会って。私たちを見ておめでとうって笑って、走って帰っていったの。その後死んだみたいでーもしかしたら、その子を殺したのは私なの」

母さんが。

藍子さんを。

殺した。

「それから、俺たちは頭の片隅で彼女のことを考えながら生きてきた。彼女は、許してくれているのだろうか?」

罪の意識ー父はそう言った。

そんなとき、藍子さんの声がした。

「そんなの、許すも許さないもないわよ。ふたりが愛し合ってるなら、それでいいじゃない」

そうだよな…。

「そんなの、許すも許さないもないんじゃない。ふたりが愛し合ってるなら」

自分の親にこんなことを言うのは恥ずかしかったけれど、仕方ない、これは藍子さんの言葉だ。

「…そうか。だよな」

「…そうね」

そして、また藍子さんの声が聞こえた。

「でも、覚えててくれたのね…」

震えた声だった。俺は、ふたりを交互に見た。

「でも、覚えてるってだけで、彼女は救われるよ。きっと、大丈夫」

そのとき、母は取り乱して泣いていた。その姿は、その涙は、今も忘れていない。忘れられなかった。



19.


「結局、私は忘れられたくなかっただけ」

部屋に戻ると、藍子さんが椅子に座っていた。出会ったときと同じように。

「でも今日、ふたりが覚えててくれてる、忘れてないってわかった。それで、十分、満足。

ねぇ、玲くん、相談なんだけど」

彼女は泣き疲れ、息が荒かった。

「…何?」

ふいにいやな予感がした。暖房が効きすぎて、頭がぼうっとしているのだろうか。

「私ね、」

「やめて…」

「私…そろそろ…」

「聞きたくない…」

「私、そろそろ成仏しようと思うの」

真っ直ぐな声で言い放った。瞳も真っ直ぐ前を見つめる。

「……」

「心残りは、ない。強いて言うなら、まだもっと玲くんと居たいけど。でも、あなたはもうすぐ私より年上になる。そして私のことは必要ない」

「そんな…」

そんな。

「俺には藍子さんが必要だ。藍子さんは、俺の唯一の友達なんだ。あなたがいなければ…」

「大丈夫よ。あなたには、梢ちゃんがいる。お父さんとお母さんがいる。高校には、私の姪、夢がいる」

彼女は、俺の身体に腕をまわした。感触はない。心臓の鼓動も、きこえない。きこえるのは、彼女の息遣いだけ。泣いた後の荒い息遣いだけだった。

貫通していることを無視して、彼女を強く抱きしめた。涙が彼女の肩を通り過ぎた。

「あ、最後にひとつ。玲くんは私のことを友達って言ったけど、違うでしょ。私たちは、」

「俺たちは?」

「私たちは、親友だよ」

藍子さんはふふっと笑った。そして、

「さよなら」

囁いた。彼女は一回だけ息を吸って、吐いて、

見えなくなった。



20.


また泣いてしまった。藍子さんが消えて成仏したときのことを思い出すと、必ず泣いてしまう。最近はそれが嫌で、思い出そうとしていなかった。けれど、忘れはしないものだ。

仕方なく涙を拭い、手紙に向かう。


そしてあなたが成仏するときに立ち会えて光栄です。

でも、俺たちは親友じゃありません。親友よりもっと特別な関係です。

夢と出会ったのは、高校の入学式でした。そっくりすぎてびっくりしました。瞬く間に惹かれ、付き合い、今に至ります。

でも、藍子さんのことがあったからこうなったわけではありません。出会いのきっかけにはなりましたが、好きになった理由はきっと違います。藍子さんに似て、強気で美しい素敵な人です。



21.


無事に合格通知が届き、第一志望の高校に入学した。夢は、入学式に列で並んだときに横にいた。

「えっ!?」

たしかに、一目ですぐ分かった。藍子さんにそっくり、というか、同じ顔に見えた。夢の方が目が寄っているとかそういう細かな違いに気づいたのはその随分後で、その日は髪形しか違いが見つからなかった。夢は短いおかっぱ、藍子さんは胸まで髪が伸びていた。ストレートで黒髪、また共通点。

「…何ですか?」

「あ、はい、すみません」

じろじろ見ていたら警戒されてしまった。当たり前だけど。でも、それが恋の始まりだったのかもしれない。

「あなたに似た人が、知り合いにいるんだ」

「へえ、どんな人?」

こういった具合に。


付き合い始めたのは、1年の最後だった。

高1の一年間、一番喋った女子だった。中学と違って友達はたくさんできたが、その友人と同じくらいの時間喋っただろう。家から学校まで、電車が一緒だったからだ。その線の各駅停車には、同じ学年にはふたりだけ。成り行き上、ふたりで帰った。

3月、いつも通りふたりで帰った日のこと。

「ねえ、クラスが変わっても一緒に帰ろうね?」

夢がそう言ってきたので、俺は冗談っぽく

「何年先だって一緒にいてやるよ」

と言った。言ってしまった。

「え?」

あ。やばい。

「あああ、えっと、今のは冗談で」

絶対引かれたよな?!

「あ、うん」

へ?

彼女は一回だけ息を吸って、吐いて、

「…お願い、します」

は?

彼女は、笑った。



22.


藍子さんのことを話したのは、高2のある日。

「ああ、お母さんから話は聞いたことがある。でも、幽霊なんて本当にいるんだ…」

夢は信じてくれた。

「藍子さんのおかげで、俺は変われたんだ。藍子さんがいなければ、人の想いとか、強さとか、知らずにいたと思う。それで、すごく感謝してる」

「へえ。…」

夢の最寄り駅、俺の三つ前の駅のホーム。そのベンチで、ふたり座っていた。

と、左肩に重みがかかった。夢が俺の肩に頭を乗せ、ぽつりと一言、

「嫉妬しちゃうな」

そう呟いた。

たまらなく可愛くて、抱き締めた。

これでは、キスのことなど一生打ち明けられないだろう。



23.


大学は違ったが、時間を作って会ったりもした。4年の冬、プロポーズした。

少し高級なレストランに誘ってディナー、その後夜景のきれいな展望台という最高の流れで

「結婚してください」

と指輪の箱の蓋を開けて差し出したら、

「嫌だ」

即答された。

「え?」

何で、と問う前に、

「ありきたりすぎるし、玲には似合わない」

その晩考えて、翌日デートに誘った。

ふたり行きつけのファミレス。デザートを食べ終わった後、昨日のように指輪を渡した。

「…はい」

彼女は頬を染め、にっこり笑った。こうして、プロポーズは成功したのだった。



24.


―今、俺は食品会社の研究員をしています。最近はうまみの研究です。高校と大学のことが役立っています。もちろん、中学の科学部も。

藍子さんのおかげで、俺は変われました。

ありがとう。

どうか、新しい人生でも、幸せな毎日を過ごしてください。


最後に、力を込めて『敬具』と記した。

「玲、コーヒー飲む?」

「うん」

便箋は、二枚でおさまった。慎重に折る。紙の端をぴったり合わせるのって、こんなに難しかったっけ。

「カップここに置いとくから、気をつけてね」

「おう」

何とか折り終わり、コーヒーカップに手をかけた。

思ったより満杯で、重かった。

ばしゃ。

「え。…あああああ!!!」



25.


「ごめん、本当に」

「いや、入れすぎた私も悪いの。ごめん、大切な手紙を」

こぼれたコーヒーは見事に手紙を濡らした。夢が急いでふきんを持ってきてくれたが、手紙はもちろんびっしょりのまま。

「書き直しだね…」

夢は落胆の声をあげた。

「いいや、」

俺は、その手紙を丸めてゴミ箱に捨てた。

「もういいよ」

「え?」

「きっと、藍子さんが特殊能力を使ったんだ。手紙なんて要らないって――」

「でも、お墓に供えるんじゃ…」

「直接伝えるよ。全く、あの人には敵わないや」

お墓の前で伝えたら、藍子さんは何と言ってくれるだろう。笑ってくれるだろうか。泣いてしまうだろうか。息遣いだけでも、きこえてこればいい。彼女が笑っていても、泣いていても、それだけで嬉しい。

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