第四四話 「続・女中軍師」
広大な小麦畑の中を歩く老人がいた。
彼は、いかにも農夫といった感じで、くたびれた帽子に使い古された作業着を着て小麦の出来を見て回っている。
北国のマルブルでは、麦が冬を越せないので、春に植えて秋に収穫する種を使っているのだ。しかし、老人の表情を見ているとあまり出来は良くないようである。
去年の終わりに国の王都が焼かれ、戦争に敗北したそうだが、彼ら農夫は戦前も戦時中も戦後も変わらず作物を作っていた。そうしなければ生活ができないからだ。だが、今年の作物の出来は悪いと、城郭に野菜を卸している知り合いの男は言っていた。この辺りの小麦畑だけではなく、国全体で不作となっているらしい。土が弱っていると彼は言っていたが、それは老人も感じていた。今年の土は元気がない。肥沃な大地として知られているマルブルでは考えられないことである。
知り合いの男はこうも言っていた。マルブルの天使様が死んじまったからだ、と。老人も天使の噂は聞いたことがあった。しかし、現実に天使がいるなどとは信じず、また興味も薄かった。知り合いの男が賞賛していた天使よりも、自分の所の小麦の出来の方が心配だったからだ。
「天使だろうと悪魔だろうと、この不作を何とかしてくれるのならなんでも良いわい」
そう一人ごちて小麦の芳しくない成長にため息をついていると背後から声がかかる。
「お仕事中すみませんー。ちょっと道をお尋ねしたいのですがー」
なんだかやたらと間延びした声だ。しかし聞き覚えはないが若い娘の声色だ。昔は女好きで知られていた彼は、老いてもまだまだいけると内心ほくそ笑みながら振り返る。
「なんですかな、お嬢さ――」
少し顔と声を作って振り返った彼は、自分に話しかけてきた女性の姿を視界に捉えた瞬間、口説き文句よりも先に腰が抜けて地面にへたりこんでしまう。
その女性は、辺鄙な田舎に相応しくないロングスカートのさっぱりとしたメイド服を纏い、丸縁眼鏡の奥に見える黒い瞳と同じ色の髪を一本の三つ編みにして前に垂らしている。それだけなら彼も腰を抜かすことはなかっただろうが、背から生えている大きな白い翼を見てしまうともう駄目だった。
「私ー、ご主人様にオルトロスに行けと命じられているのですがー。どちらに行けば良いかご存じないですかー?」
笑顔で尋ねる彼女の地名には聞き覚えがなかった。だが、彼がそのことを伝えようと思っても、水揚げされた魚のように口をパクパクさせるだけで言葉にならない。
無理もない。おとぎ話の中の天使が、あまりにも普通に自分の前に現れて、あまりにも普通に道を聞いてきたので、驚いて腰だけでなく顎まで落ちそうになっているからだ。
天使というと、この世界の人間はあるおとぎ話を思い出す。
悠久の太古、この大地の空には翼の生えた天使たちが裕福に暮らしていた。彼らは高い技術力を持っており、自らの生活を一層楽にするために、後の世で古代遺産と呼ばれる道具を作った。そして、彼らは古代遺産を効率よく動かす為に遺跡を作り、そこに古代遺産を集めて稼働させ、苦しみのない生活を何千年にも渡って送っていたのだ。だが、ある時突然古代遺跡が暴走し、古代遺産を動かしていた凄まじいエネルギーが制御を失って天上中に暴れ出した。そのエネルギーに飲み込まれた彼らの文明は一瞬の内に次元ごとバラバラに引き裂かれた。それにより天使は死に絶え、制御を失った古代遺跡は時空の中に吸い込まれていったという。
国ごとに微妙な違いはあるが、これが世界に共通するおとぎ話だ。
「あ、あ、あんた……」
なんとか言葉を搾りだそうと苦戦する彼に、メイド服の天使は満面の笑みのまま待っている。
「あんたは、一体――」
ようやく声を出せるようになった。だが、その頃にはもう丸縁眼鏡の彼女は彼の方を見ておらず、右耳に手を当てて空を見ていた。
「ちょっと失礼しますねー。――あ、ご主人様ー。はいー。セルヴァですー……」
突然誰かと話し始める彼女に、老人は腰を抜かしたまま、地面の土に尻の跡を残しながら一歩後ずさる。
「大丈夫ですよー。ただいま向かっておりますー。え、どこにって、オルトロスにー……。あー、オルテンシアでしたかー。さすがご主人様ー。どーりでたどり着けないわけですねー。ああ、ごめんなさいー。……はい、かしこまりましたー。え? もちろん飛んでいこうかとー……。ああー、確かに見つかっちゃいますねー」
当然ながらこの世界には電波で会話するという連絡手段が存在しないので、虚空に向かって一人で誰かと喋り続ける光景は異様でしかないのだ。
「連れていっていただけるんですねー。はいー。ありがとうございますー。はいー。ではその時刻にー」
腰から伸びる金鎖の先に付いている懐中時計の蓋を開いて時間を確認してご主人様と話し終わった。セルヴァは腰を抜かしたままの老人に向き直り、深々と礼をすると、その弾みで黒髪の三つ編みが暢気に垂れる。
「道が分かりましたー。ご協力ありがとうございましたー」
何もできずに腰が抜けっぱなしだった老人は、ただうなずくことしかできなかった。セルヴァが顔を上げて微笑むと(常に笑顔だが)、彼女は眼鏡の位置を指でついと直して、大きな白い翼を羽ばたかせて空へ飛び立っていく。そのときに抜け落ちた一枚の羽が老人の腹の上に舞い落ちる。
この時の老人は知る由もないが、この地の小麦畑はこの後急に土壌の質が高まり、マルブルでも有数の高級小麦の生産地となる。そして老人は、拾った羽を振りかざしながら、メイド天使との出会いをかなり誇張して、生涯語り続けたという。
☆・☆・☆
大きな白い翼を羽ばたかせ、ロングスカートのメイド服の裾をはためかせながらセルヴァは夕日を左にして飛んでいる。ご主人様からの指示で、地上の人から見えないようにと、鳥も飛ばないような高高度を平然と飛翔しながら。
橙色に染まった空を悠々と飛びつつセルヴァは耳に手を当てて何かを話している。
「え? 今までどこに行っていたかですかー? それはー、えーと……。……怒らないから言ってみろ? さすがご主人様ー。大空より広い心をお持ちなんですねー。お慕い申しておりますー。
実はですねー、北へ向かって飛んでいたら可愛い鳥さんがいたのでー、ついて行ったりー。鳥さんを見失ったら今度は綺麗な蝶々がいたので追ってみたりー。それであっちこっちに行っていたら自分がどこにいるか分からなくなってしまってー。……ああ、ごめんなさいー。怒らないって言ったじゃないですかー」
どうやら叱られているようだが、ご主人様の声も、どうせいつもの事と諦めの色がある。
「それでですねー、あちこちと迷っているとー、ご主人様のような気を感じたのでそちらに向かってみたのですがー……。はいー……。えーと、デブ砦? ああー、デビュ砦ー。はいー、そちらに行ってみようとしたのですがー。そうしたらなんだかとても物々しい雰囲気でしたのでー、近づかずに引き返してきましたー」
その頃のデビュ砦では周囲に罠を設置しており、レージュがリオンと調練して眠って謎の夢を見ている頃だろう。
「ええー、これからもっと物々しいところへ行くのですかー。え? いいえー。ご主人様にやれと申しつけられましたらー、なんでもやりますよー」
セルヴァは沈む夕日に視線を移して、いつもの満面の笑みを少しだけ違う物にする。
「それが、セルヴァの存在意義ですから」
そのセルヴァの言葉を受け、ご主人様も笑ったように息を漏らす。
そしてセルヴァがいつもの満面の笑みに戻ると、前方に大きな城郭が見えてくる。
「あー、見えてきましたねー。オルトロスの城郭がー」
速度を落とし、眼下をきょろきょろと見回して、街道から大きくはずれた小高い丘に生えている大きな木の近くで、セルヴァに向かって手を振っている人影を見つける。そのとき、セルヴァの腰についている懐中時計から穏やかな旋律が流れる。オルゴールに似たその音が奏でるは、現在のこの大陸のどこにいっても聞くことのできない、遠い記憶の曲だ。
そしてこの曲は、レージュの夢の中で彼女が歌っていた曲と同じ旋律であった。
「時間ぴったりにご主人様発見ですー。今お側に参りますー」
セルヴァは白い翼を操り、流星のように高度を下げ、地上に見えるご主人様に近づいていく。そして地上すれすれのところで大きく羽ばたいて減速し、瀟洒に着地しようとするが、つまづいてすっころぶセルヴァを見て、ご主人様はこの日何度目かのため息をついた。
二人はいくつかの言葉をかわすと、セルヴァの足下から光の柱が現れ、瞬きする間にメイド天使の姿は消えてしまう。
そして、ただ一人残ったご主人様は、木の根本に寄りかかり、夕闇に暮れるオルテンシアの城壁を眺めながら、彼女が歌っていたあの曲を口遊んだ。
16/06/30 「餃子軍師」と順番変更。
16/09/29 サブタイトル変更「旧:メイドの降る日」
16/12/27 文章微修正(大筋に変更なし)
17/03/28 文章微修正(大筋に変更なし)
17/03/30 文章微修正(大筋に変更なし)
17/07/13 文章微修正(大筋に変更なし)




