第三一話 「嘔吐軍師」
不敵に笑ってスーリを送り出した後、一人になったレージュはしばらくその場でじっとして動かなかった。耳を澄ませてスーリが十分に離れたことを判断すると、階段を急いで上がって外に出る。
出入り口付近には背の低い草が生い茂っており、近くに城壁もあるので目の前は狭くて暗い。さっと周囲を見回して誰もいない事を確認すると、レージュは青くなった顔で地面を睨みつけて固まる。
そしてじっとりとした脂汗が顔に滲み、腹部が異常な動きを始め、胃の内容物が込み上げてきて喉の奥に酸っぱい味を感じると、堪えられずに朝食を全てぶちまける。続けてもう一度吐く。三度目は胃液しか出てこなかった。何度かえずいた後、ようやく落ち着いた。
「……気持ち悪い」
まだ指に眼球の感触が残っている。着ている白いワンピースにこすりつけて紛らわすが、しばらくは消えそうにない。十字架の眼帯が痛いほどに締め付けてきて、自身の吐瀉物を避けるように座り込む。壁に背を預けて、フクスの眼に突っ込んだ右手を抱えるようにうずくまり、片翼で自分を覆い隠すようにして小さく震える。
レージュは、その場その場で最適だと思った行動を躊躇なく選択できる。それは抜群の決断力であり、戦場ではとても有用なのだが、本人にとってはそうでもない時もある。先ほどの脅しの声も、怒りで震えていたわけではない。人の目に指を突っ込むという嫌悪感からこみ上げる吐き気を抑えていたために震えていたのだ。
そのとき、目に指を突っ込むという状況からか、マルブル崩落の日の記憶がフラッシュバックする。
あいつに敗北したレージュは、全身に剣を突き立てられ、宝玉の目を抜かれ、空飛ぶ翼をもがれた。さらに、意識が飛ぶ直前には胸を切り開かれて心臓を取られた様な気がする。
「なんで、あたしは、生きているんだ……」
心臓を切り離されて生きていられる人間など見たことも聞いたこともない。キメラでさえそんなことをされれば死ぬ。しかし、自分はこの通り生きて動いており、心臓の音もちゃんと聞こえる。心臓はもしかしたら取られていないのかもしれないが、全身に刺さった剣は致命傷に違いなかった。
羽があるので、普通の人とはちょっと違うのではないかと思っていたが、まさか自分は彼らとは違う化け物なのではないのだろうか。
「……やめだ、やめ。こんなの、あたしらしくない。こういうことは戦いが終わったら考えよう」
暗い考えでくよくよ悩むなんて自分らしくない。そう考えて陰鬱な気分を振り払うように純白の片翼を羽ばたかせて空を見上げる。
「……空、飛びたいな」
憔悴したレージュは、彼女の最も好きな場所である空に想いを馳せる。後ろに壁、すぐ前には城壁が伸びるこの場所では、見上げた青空は細く狭い。
一服しよう。空を飛べなくても、空に昇る煙を見ると少しだけ心が安らぐ。そう思ってパルファンを取りだそうとした時、近くの木から一人の男が降り立った。
無感情な顔で男はレージュを見ている。レージュは彼を見たことがあった。
「あんたは、確かヴァンの所の……」
「ガビーだ」
ガビーと名乗った男は、その巨躯と頑丈さと馬鹿力を買われた元奴隷である。頭髪は全て剃っており、身につけているのは粗末な腰巻きのみで、露出して見える色黒の体には逞しい筋肉の鎧が備わっている。その瞳には、悲しげな色が多く含まれている。以前は主人の元で働いていたが、戦火に巻き込まれて主と仲間と家族を失い、あてもなくさまよっていたところをヴァンに拾われた。家族を失ったショックからか、心を閉ざしてしまっている。
その辺りのことはヴァンから聞いているが、なぜ彼はこんな敷地内の端っこの木の上にいたのだろうか。そんなレージュの疑問をよそに、ガビーはいきなり地面を素手で掘り始める。何の道具も使っていないのにどんどん土が掘られていく。ある程度土が集まると、その土を先ほどレージュが出した吐瀉物にかけて隠す。完全に土に埋もれた所で、今度は草を引っこ抜いてその上に乗せる。これで、一見しただけではなんの変哲もない草むらに見えるようになった。新たに穴ぼこはできたが。
「俺は何も見ていない」
最初は彼がどういう意図で言っているか分からなかった。しかし、自分の思いを察し、配慮してくれたのだとすぐにレージュは気づいた。
スーリの前で気丈に振る舞ったのも、周りに誰もいないことを確認したのも、全て自分の弱い姿を誰にも見せないようにするためだった。弱さを見せたくないのではない。軍師たる自分が弱い姿を見せてしまうと、兵たちは不安になり、士気が落ちてしまう。士気の下落は絶対に避けなければならないことを彼女は知っている。まだほんの幼い少女だが、戦争の才を持つ軍師だからこそ、そのように自分を制御して行動できるのだ。
「……にひひ。ありがとね。あんた無口だけど良い人だ」
「……」
「よーし、もう大丈夫」
反動をつけて立ち上がり、首に巻き付けた赤いリボンを後ろへなびかせ、純白の片翼を羽ばたかせてみた。飛べるわけが無いはずなのに、彼女は自分の体が浮き上がる感覚に襲われる。
「わわ!?」
一つしかない羽を広げてバランスを取って目の前の突起物にしがみつくと、それがガビーの頭であることを知る。
そこでレージュは、背後からガビーに持ち上げれて肩車されていることに気づく。この寡黙な男が何を考えているかは分からないが、レージュは自分を励ましてくれているのだと考えた。
「空が近くなった」
ほんの僅かでも空に近づけた事で、レージュの顔はほころびる。
「よーし、ガビー前進だ。正門まで走れ!」
綺麗に剃られた頭をペチペチと叩いて前進を指示する。本人さえも気づかないほどわずかに口角をあげたガビーは、めくれ上がったワンピースから伸びるレージュの細い足をしっかりと掴んで走り出した。
☆・☆・☆
「ああ、レージュ。殿下を見かけませんでしたか?」
正門近くまで来た所でローブ姿のビブリオに呼び止められる。長い銀髪と細長い体を見て本に挟まっていた栞みたいだなとレージュはいつも思う。口には出さないが。
「いや、見てないけど。もしかしてまた逃げ出したの?」
ビブリオはため息をついて眼鏡の位置を指で直す。
「その通りです。まったく、殿下には学んで頂かねばならないことがたくさんあるというのに……」
義賊上がりのヴァンに王としての教養などあるはずがなく、知識人のビブリオが教育に当たっているのだが、少しでも目を離すとすぐに逃げられてしまうという。
「さすがは義賊だね」
「感心している場合ではありません。ともかく、見かけたら執務室に戻るように言ってください。次は逃げられないように椅子に縛り付けておかねば……」
ビブリオがなにやら物騒なことを呟いている。彼は仕事を完璧に仕上げる人間なので、やると決めたらとことんやるのだ。
「ところでレージュ、そんな格好で肩車されたらはしたないですよ。いいですか、あなたは陛下のご友人であらせられますからそんなに強くは言えませんが、もうちょっと淑女としての慎みを持ち、人としての模範となるよう……」
レージュが無言でガビーの頭をペチペチと叩くと、彼らはビブリオを残してどこかへ走り去っていった。
☆・☆・☆
ガビーがレージュを連れて去った後、木からもう一人の男が降りてきた。赫赫の髪の老け顔の男は笑ったように息を漏らす。
「まるで親子みたいだな」
親を知らぬ拾われ子と戦火で子をなくした親の取り合わせは、どうやら功を奏したようだ。レージュもいつもの彼女に戻ったし、あとはガビーがレージュを通じて心を取り戻してくれれば良いのだが。
「まったくだ。ほとんど正反対のような組み合わせなのにな」
まだ木に登ったままのオンブルは、籠に仕舞われた伝書鳩を指でからかいながらヴァンの意見に同意する。
「あの嬢ちゃんにも色々深い事情がありそうだな。まあ、あんななりしてて一般人ってことはないだろうしな」
先ほどのレージュの弱い姿を彼らは見ていた。レージュは、殺意や敵意に対しては敏感に感じ取るが、危害を加える気のない盗賊を見つけだすことはできない。
ヴァンとオンブルは、もう少し様子を窺っていようと思っていたのだが、ガビーの父性がうずいたのか、彼は何も言わずに木から飛び降りてレージュの方へ向かってしまったのだ。
「んで、さっきの話の続きだが……」
「俺の腹は決まっている。差別のない、苦しみのない世界を作る。そのためには、今はレージュの側にいるのが一番だ。何より、レージュには大いに興味がある。それに、あんな小さな子供があそこまで頑張ってるんだ。ここで見捨てたら男がすたる」
「だろうな。お前はそういう男だ」
損得よりも義を重んじるヴァンにとってそれは当然のことであった。オンブルもそんな彼を好ましく思い、そばにいるのだ。
「今度は無血ってわけにゃあいかないだろうな。いや、この砦の奪還だって、本来は無血では行かなかったはずだがな。次は本物の戦だ。こっちにも犠牲が出るぜ」
「そんなことは言われなくても分かっている。恐くなったら降りても良いぞ」
「まさか。俺はどこまでもお前について行くさ。あの時の約束もあるからな」
「頼りにしているぜ、親友」
ヴァンの鷹の目に力強い光が宿る。
差別のない国を作る。そして、頑張っているレージュの力になってやりたい。真っ直ぐと前を見、ただそれだけを見つめて目指している。
16/12/27 文章微修正(大筋に変更なし)
17/03/14 文章微修正(大筋に変更なし)
17/03/27 文章微修正(大筋に変更なし)
17/07/09 煙草削除(大筋に変更なし)




