第一二〇話 「欺瞞軍師」
「えっへっへ、ひっかかったッスね。このスープの後に水を飲むとめちゃくちゃ辛くなるんスよ」
悶えるヴァンにパッセルは革袋を投げ渡す。
「飲むと良いッス。辛さが消えるッスよ」
ヴァンは一心不乱に革袋の中身を口に含む。すると、口の中の痛みが引き潮のように消えていき、今度は生臭い味が広がる。
「……なんだ、これは?」
「山羊の乳ッス。南部の人間はこのスープを食べるとき、こうして山羊の乳で辛さを収めるんス。こっちでも売ってて良かったスね」
えっへっへと笑うパッセルにつられて笑うヴァンだが、まだ舌がひりひりしている。それでもさっきよりはだいぶマシだ。
「俺をハメやがったな」
「ウチはいつもハメられているッスからね。お返しッス」
毒が入っているのではないか、などという考えは最初からヴァンの頭にはない。彼女はそんなことはしない。何の根拠もないただの直感でしかないが、ヴァンはスープを恐れずに飲んだのだ。
「ポーブルさんはヴァン王太子って知ってるスか?」
一息ついて座り直したら唐突に自分の名を呼ばれてヴァンは一瞬身構えそうになる。
「王太子なんて高貴な人には会ったことはねえが名は知っている。なんでもローワ陛下の御子だそうだな。この城郭を解放するときにも活躍したと聞いている。それがどうした」
「一目見てみたいなーと。きっと超カッコいいと思うんスよ」
「俺みたいにか」
「えっへっへ、ポーブルさんは面白いこと言うッスね」
間の抜けた笑顔でパッセルはヴァンを肘でつつく。
互いに正体がバレていることは分かっていたが、それでも何事もなく、ヴァンは店を出て、パッセルはそれを見送った。
また来てほしいッスよ、と手を振ってヴァンを送り出し、彼の姿が見えなくなるとパッセルは長いため息を吐く。
……どうにも、ダメダメッス。ウチってもっと作業的に仕事ができると思ってたんスけどね。
料理を作っている間、毒を入れようかと何度思ったことか。しかし悩んでいる間に着々と料理は出来上がり、ついに入れることは無かった。
……美味そうに食ってたッスね。
自分の作った料理を美味そうに食べるヴァンの顔を思い出すと自然と口角が上がる。
『誰もが安心して美味い物を食える世界を作る』ヴァンはそう豪語していた。
ウチの料理、安心して食えたんスかね……。
ま、まあ、まだ捕まえるにしてもチャンスはあるッス。とりあえず戻ったら先輩と作戦会議ッス。めっちゃ怒られるかも知れないッスけど、あんまり怒るようなら殴って止めれば良いッス。
☆・☆・☆
「先輩ー、ごめんなさいッス。失敗しちゃった……」
安宿のドアの取っ手に伸ばした手が止まった。
部屋の中に誰かいる。シュトローではない。見知らぬ人物が自分たちの部屋の中にいる。
パッセルは木製のドアを蹴破って部屋の中へ飛び込む。舞い上がった埃でせき込むが、そんなことを気にしている場合ではない。
「なんだい、最近の若い娘はドアは蹴破るものって親から教わるのかい」
部屋の中には老婆が一人いた。
「そんなこと教わる間もなく死んじまったッスよ。お婆さん、誰ッスか。先輩はどうしたんスか」
「先輩? ああ、あの狡い男のことか。お前さんのことを洗いざらい喋らされて殺されたよ」
シュトローが殺されたと聞いてパッセルは血がにじむほど強く拳を握りしめた。
「情けないねえ、爪一枚はがしたぐらいで赤子のようにギャーギャー泣きおった。まあ、手間が省けて良かったろう。殺し屋」
「分かったッス。お婆さん、前に先輩が言ってた影の集団ッスね。オルテンシア解放に暗躍していたって聞いたッス」
「ほう、ちゃんと情報は集めているようだね」
枯れ木のような笑い声がエスクドの口から漏れる。
「まあ、ここいらで話は終わりにしようかね。年寄りの寝る時間はとっくに過ぎているのでな。ではさようなら」
エスクドの最後の言葉と同時に、パッセルの背後から音もなく斧が振り下ろされる。
不意の攻撃にも、パッセルは持ち前の身体能力で体を捻って避け、攻撃してきた相手に殴りかかる。斧を持っている男はパッセルの拳を防御し、捕まえようとするが、パッセルも素早く手を引いて距離を取った。
「グハハ、やるもんだな、ねえちゃん」
斧を振り下ろしてきた男は大きな笑い声を発する。背格好から見るにおそらく猟師だろう。なぜ猟師がこんなところにいるのかは考えなかった。
蝋燭に照らされたその顔は楽しそうに笑っている。
「つーかよ、そんな前髪で見えてんのか? 俺が散髪してやろうか。グハハ」
「アクスト、でかい声を出すんじゃないよ。やかましいだろう」
「すまねえな婆さん。声がデカいのは生まれつきなんだ」
部屋の中へと追い込まれてしまったパッセルはこの状況を脱出できる方法を探す。この狭い部屋には窓と扉が一つずつある。扉まではアクストと呼ばれた猟師が塞いでいるが、窓なら自分のすぐ後ろだ。木枠がはまっているだけの安窓なのでぶち抜くことは簡単だろう。
パッセルは意を決してアクストをにらみつける。
「そんで、お前さんはどうする。先輩とやらの仇を取るか? それとも尻尾を巻いて逃げ出すか?」
「両方ッス!」
パッセルは窓には逃げずにアクストに向かって跳び蹴りを仕掛ける。しかし斧の柄で防がれた。受け止められた足を軸にしてもう片方の足で上から蹴りつける。パッセルの並外れた身体能力に不意を突かれたアクストは対応できずにもろに食らってしまう。
「ぐっ」
しかし倒れない。手応えが変だ。蹴りが当たる直前に芯をずらされている感じがする。それでもかまわず攻撃を仕掛けるが、相手は全くひるまず反撃してくる。
不利と感じて一度距離を取ろうと跳躍したパッセルは着地時に膝から崩れ落ちた。猟師風の男は籠もった笑い声でパッセルを見据えている。
「ところでどうだ、そろそろ体中に回ってきたんじゃねえのか。もう逃げることはできねえぜ」
瞼が重い。足がふらつく。手に力が入らない。
「俺のお仲間にな、毒に明るい奴がいるんだよ。さっきドアを破ったときにせき込んだろ。あれは埃のせいじゃねえ、微量だが毒を振っておいたのさ。結構効くだろ?」
しまったと思ってももう遅い。手足のしびれは徐々にひどくなり、今では立っているのがやっとというくらいだ。
「さて、大人しく縛られてもらおうか」
「……ウチは」
それでも、彼女の目に諦めの色は無い。
「ウチは、約束したッス。ウチが先輩を殺すまで、ウチは先輩を守り続けるって」
「……あん?」
わけの分からぬことを言うパッセルにアクストは首を傾げる。
「だから、絶対に先輩の仇を取るッス!」
毒のしみこんだ体を無理矢理動かし、踏み込もうとしたパッセルの足に縄が巻き付く。縄の先端には細い槍の穂先が付いていた。そのことを確認する前に縄が引かれてパッセルは倒れてしまう。そこにアクストが体重をかけて飛び乗った。その強烈な衝撃で一瞬呼吸が止まる。
「――ゲホゲホッ!」
「悪りぃな、良い体したねえちゃん。俺らの戦い方は正々堂々じゃないんだ」
口から泡を吹き、朦朧とする意識の中で、乱れた前髪の隙間からパッセルは憎しみのこもった紫の瞳をアクストに向ける。
「……あばよ」
そして、パッセルの意識は闇へ沈んだ。




