第一一八話 「戦意軍師」
キント以外の人間の臭いに気づいたキリンが寝ていた体をゆっくりと起こして警戒していると、一人の女性が秣を抱えてやってきた。
「起こしてしまったか、すまないな」
『人間、何をしに来た』
キリンの声は主人であるキントにしか理解できない。ほかの人間からはうなり声にしか聞こえないのだ。
「そう怒らないでくれ、お前の主人が起きてしまうよ」
言葉はわからないが、それでも騎馬隊を率いる将として優れた実力を持つヒカイトには、馬であるキリンの表情がなんとなく理解できた。
「お前たちの食事と包帯を持ってきただけだ。他の者はここへ近づこうともしないのでな」
キリンがあまりに大きいので屋敷内にある馬小屋には入らず、外の森の中で二人は寝泊まりをしている。当然ながら小屋などはなく野晒しだ。
「と言ってもお前の分は私一人ではとても持ちきれないので一口にもならないがな。すまんが自分で取ってきてもらうしかない」
彼女が抱えてきた秣は、キリンにとっては舌でなめるだけで終わってしまう量だったが、キントの分の食事は粗末であるが一応あったので黙っていた。
「秣の積んである場所はわかるだろう? あとで食べてくれ。また戦いに行かねばならないのだからな」
『戦から離れたと思ったらまた戦。人間は本当に同族を殺すのが好きだな』
「まったく、この戦はいつ終わるのだろうな」
キリンの言葉がわかるはずはないが、それでもヒカイトは語り出す。
「死神がこの領地を燃やしていったあの日からもう二年は経つのか……」
先のマルブル戦線の時、アッシェの屋敷も襲撃を受けた。補給地点として多量の物資をため込んでいたからである。そこを死神レージュに狙われた。
レージュの作戦は成功し、貯蔵していた物資は燃え、混乱を拡大させるために屋敷や領内中に火を放っていったのだ。ヒカイトも鎮圧に奔走したが、力及ばずに物資を焼かれただけでなく、愛馬の為に火に飛び込んだアッシェ領主の子息も救うことが出来なかった。
それからアッシェ領主は死神を殺すことだけに躍起になり、領民の税を増やして兵力を強化し始める。募る領民の不満は力で押さえつけた。
そして今、アッシェとヒカイトは再び死神の軍と対峙することとなる。
「全て私の力不足が原因だ。死神を討つことで償いになるわけではないが、奴だけは私がこの手で必ず倒す」
『力なき人間が自分を許すためにやっている仇討ちという奴か。くだらん』
「奴は今オルテンシアにいるのかいないのかよくわからんが、たとえいなかったとしても、この大陸全土を巻き込んだ戦はまだまだ続く。戦いのあるところに必ず奴は現れる。その時を待つだけだ」
ヒカイトは腰に佩いた剣を力強く握りしめる。
『俺はこいつがいれば他の人間がどうなろうと知ったことではない。ただ、あの死神については俺も他人事ではないがな。奴は、潰す』
「不思議だな。お前には何故か語りたくなってしまう」
言葉は交わせなくても、多少の齟齬があっても、彼らの目的は同じだった。
死神レージュを倒す。
それだけを目的に彼らは戦場に向かうのだ。
「もうすぐ我々は出撃するだろう。その時は頼むぞ。キントも守ってやれよ」
『言われるまでもない』
「言われるまでもないって顔だな」
図星を指されたキリンはヒカイトを無視するように顔を背け、体を休める。ヒカイトが去っていった後、寝返りを打ったキントの体をそっと自分に引き寄せた。
☆・☆・☆
オルテンシアの城郭を一人の男が歩いていた。義勇兵のフィスである。
今日は、彼が義勇兵になって初めての休日なのだ。義勇兵は、いくつかのグループにまとめられ、休みなどもそのグループ単位で取ることになっている。フィスの所属しているグループは、ここ一月ほどは休暇などなく、ひたすら調練に明け暮れていた。といっても、朝から晩までただ走って棒で殴られていただけであるが。
義勇兵になると言って実家を飛び出していったからなんとなく帰りづらいけども、せっかくの休日をただぶらぶらして過ごすのももったいないと考えて実家へ足を向ける。
一ヶ月ぶりの実家に帰ると、彼の母が出迎えてくれた。母は余計なことは何も言わず、ただ「おかえり」と言った。
「……ただいま」
むず痒い気持ちで挨拶を返すフィスだが、やはり実家に帰ってくるとどこかほっとする。
仕事の途中だという母について行って家の中のある部屋に着くと、嗅ぎ慣れた革のにおいがする。
フィスの実家は靴屋であった。
母が椅子に座って仕事を再開すると、フィスも一緒に靴作りを行う。
「お父さんがこの前のオルテンシア解放戦線で死んでから、あんたは人が変わったように体を鍛え始めたよね」
「当然だ。親父には止められたけど、俺は兵士になりたかったんだ。義勇兵募集も良い機会だった」
「義勇兵なんてねえ。危ないことはして欲しくないんだけれどね。戦争は騎士様たちに任せておけばいいのに」
「そんなわけにはいかない。マルブルは敗残国で兵力が足りないんだ。もう文化の国とか言ってのんびりしていることはできない」
彼の母はゆっくりと息を吐く。
「家にはいつまでいられるんだい?」
「今日だけだ。明日からまた調練に出る」
「辛くないかい?」
「平気だ。それに、兵士になれれば金が入る。そうすればお袋をもっと楽にしてやれる。だから、もうしばらく辛抱してくれ」
「あんたも、レジスタンスにいたお父さんと同じで、言ったら聞かないからね。口うるさいことは言わないよ。……ただね、戦場で武勲を立てようなんて思うんじゃないよ。あんたが無事に帰ってきてくれることが、あたしの唯一の望みだからね」
「……ああ、わかっているさ」
それからはお互いに無言で作業を進め、あっという間に太陽が赤くなり始めた。
「さあさ、今日はここまでにしようかね。息子が久しぶりに帰ってきたんだ。料理は豪勢にしないとね」
「普通でいいから。無理するなよ」
「そういうわけにもいかないさ。あんたも休んでな」
母が仕事場から出ていっても、フィスは黙々と靴を作っていた。
俺は、こんな靴屋じゃなくて、兵士として国とお袋を守りてえ。そのためには、もっともっと強くならないといけない。強くなれるなら、あのイネブランとかいう将軍のしごきにも耐えてみせる。
必ず、強くなってやる。




