(9)福ちゃんと
「ねえ、君たちにはボクが分かるのかい?」
そこにはスマートな黒猫が、長いしっぽを振り振り座り込んでいた
んだ。
「ああ、まったくなんてコト? 猫が喋ってる! もう、ここまで
来ると何が起きても平気だわ。さあ、次は何が起こるの?ワタシの
コトをアリスって呼ぶの? それとも怪獣が襲ってくるの? それ
とも宇宙人?」
ワタシは興奮してそう叫んでしまった。黒猫はそんなワタシに
「まあまあ、そんなに騒がないでよ。でもこれで分かった。ボクの
姿は見えてるんだね」
そう言うと安心したかのように自分の体の手入れをはじめた。自
分の手を舐めてから耳の辺りをこすったり、ヒゲをなでたり、それ
は丁寧にやっている。
「ふうん、キミ、ひょっとしたらここんちの飼い猫だね。めぐみさ
んのペットの」
ハジメ君は興味深そうに黒猫を観察してからそう話しかけた。
黒猫はこれを聞くとキッとハジメ君を睨みつけ
「飼い猫? ペット? このボクが? とんでもない!」
そう言うと体をブルブルッと震わせてからリビングのソファに飛
び乗った。
「ボクはね、この家の息子だよ。お姉ちゃんは女優の山名めぐみな
んだぜ。ねえ、君たちもテレビくらい観たことがあるだろ?」
黒猫は自慢げに、アゴでソファを示すと
「まあ、突っ立ってないで座りなよ」
と勧めてくれた。
「ああ、これはどうも」
ワタシたち二人は思わず頭を下げていた。けれどその後で何だか
悔しいし、惨めな気もしてきたんだ。そう、まるで随分偉そうな猫
相手に無条件降伏した気分だ。でもここらでハッキリと思い知らせ
てあげなくちゃ。
ワタシはお腹に力を入れると
「あのね、あなた、確か名前は福ちゃんだよね。前に雑誌で読んだ
コトがあるから知ってるの。山名めぐみさんのペットは、黒猫の福
ちゃんだってね。あなたはね、ここの飼い猫。ペットなの。ここの
息子だなんて思い違いよ」
ワタシの言い方がキツかったんだろう、福ちゃんは目をまん丸に
して固まってしまった。
「まあまあ、そんなにストレートに言わなくても。あのね福ちゃん、
見たところキミ、死んだんでしょ? 私たちが見えて会話が出来る
となると間違いないね。でもどうして天に昇らなかったの?」
ハジメ君の方がよっぽどストレートだと思った。福ちゃんは二重
にショックのようで、しっぽを大きく膨らませると、放心状態に陥
ってしまった。
「ねえ、どうするの? このまま置いておけないでしょ。とりあえ
ずは本人から理由を聞き出さなくちゃ」
「そうだね。まあ、担当は違うにせよ、私も神様のお使いの端くれ
だ。困った魂をほっとけないからね」
この後、福ちゃんをなだめすかして、話を聞き出したところ、理
由が分かった。
つまりね、福ちゃんは生まれてから一歩もこの家から出たコトが
無く、遊び相手はここの家族だけだったんだ。その家族からは息子
だ、弟だと言われ続けたからすっかりその気になっちゃったって訳。
それで先月、何とかっていう伝染病で、意識不明の緊急入院。それ
が初めての外出だったんだけど、手当ての甲斐もなく魂が離れたっ
てコトらしいんだ。
「ふうん。で、福ちゃんは動物病院からここに、ひとりで戻って来
たって訳だね」
話を聞き終わるとハジメ君は腕を組み、何かを考えてる。
「そうなんだ。でも帰ってきても誰もボクのコトを相手にしてくれ
ない。家にいるお姉ちゃんは泣いてるコトが多いし、おばあちゃん
は姿も見せないんだもの。元々お父さんは家には滅多に帰らないし、
お母さんもお姉ちゃんの仕事の件で忙しいから」
「ははあ、なるほど」
一人で納得したかのようにハジメ君はうなずいた。
「ねえ、ワタシにも分かるように説明をしてよ。福ちゃんも聞きた
いよね?」
うなずく福ちゃんにハジメ君は説明を始めた。
「いいかい。まずは黙って聞いてよね。キミは人間じゃなくて猫だ。
薄々は分かっていたよね? 何よりも種が違うし姿形だって違う。
これを認めなくちゃ話は始まらない」
福ちゃんはぎゅっと目を瞑っていたけれど、小さくうなずいた。
「うん。それでキミは病気になった。手当ての甲斐もなく動物病院
で死んだんだよ。この家は『死』のない家だから、それは仕方がな
いし、病院に連れて行ってもらえただけでも恵まれてると言える。
ここに戻れたのは、キミの思いが一番こもっている場所だからさ。
まあ、いいから最後まで聞きなって。あ、はるかくんもね」
何かを言いたそうな福ちゃんを制してハジメ君は続けた。ここで
ワタシに話しかける形になったのは、福ちゃんの気持ちを考えての
コトなんだろう。
「あのね、人間とは違って総ての動物は、お迎え役がいなくても、
死ぬ時は自然と魂が天に昇るのさ。行き先はみんなが言うところの
【天国】なんだ」
「へえ、そういうものなの」
ワタシも思わず感心してしまう。
「人間の場合は天に昇った後で、一般に言われるところの天国、地
獄に振り分けられる。でも、動物って純粋でしょ? 当然魂も素直
なんだ。だからそのまま天国直行。中には思いが強い余りに、現世
に魂が残る場合もあるけれど、四十九日までに、普通は天に昇る」
「四十九日って?」
「簡単に言うと、死んでから四十九日間の間。まあ、一月半だね」
「ふうん」
「けどね、この福ちゃんみたいに自分は人間だと思い込んでるケー
スでは、そうはいかない。お迎え役がいないと天には昇れないし、
そうかといって普通、動物にはお迎え役はつかないからね。だから
四十九日を過ぎても留まってしまうコトもあるんだ。もしそうなる
と、魂は天には帰れない。ずっと現世に残ってしまう。このところ
割とあるケースなのさ」
う〜ん、ペットを人間として扱ってる人も多いからね。ワタシの
知ってる人だけでも三、四人はいる。でも、ペットのコトを考えれ
ば、ペットはペットとして扱う方がいいってコトなんだ。
福ちゃんは少し首をかしげて考えていたけれど
「ボクは猫で、その上死んでる…天にも昇れない…ボク、それでも
いい」
目を伏せたまま続けた。
「ずっとみんなと居れるならそれでもいいや」
ワタシは胸が熱くなった。なんていじらしい。
「でもね、このままここに居たって、キミは誰にも相手にはされな
いよ。まずキミの存在に気づいてもらえない」
ハジメ君の言葉はキツいけれど、福ちゃんへの眼差しは暖かい。
「うん。何度もボクはここだよって合図をしてもダメだった」
「そうだろ。だってキミは死んでるんだからね。普通の人間には死
んだものの姿は見えないし、声も聞こえないんだ。今はまだいいさ。
けど、そのうちにキミだって腹が立つ。こんなに大好きで、こんな
に話しかけてるのに相手は無視を決め込んでるんだから。必ずみん
なに意地悪をしたくなるんだ」
「ボ、ボクは…」
福ちゃんはうつむいてしまった。
「それはキミが意地悪だからじゃない。でもそうなる。キミはみん
なを困らせるのはイヤだろ?」
うなずく福ちゃん。
「キミが天国に行ったら、めぐみさんだって気持ちが安らぐと思う
な。今彼女が泣いてばかりいるのだって、キミの乱れた気持ちが、
彼女に影響を及ぼしているんだからね」
諭すように話すハジメ君は、確かに神様のお使いに見えた。
「お姉ちゃんはまた笑うようになるかな。ボク、笑顔のお姉ちゃん
が一番好きなんだ」
福ちゃんは何かを思い出すように言った。
「もちろんだよ。気持ちが安らいだめぐみさんの中には、福ちゃん、
キミとの楽しかった思い出が残るんだもの。キミはめぐみさんの心
の中で生き続けるコトになるんだ」
死んでも心の中で生き続ける。いい言葉だなとワタシは思った。
死には色んな形があるんだ、そう気がついた。
福ちゃんはハジメ君を真っ直ぐに見つめると
「わかったよ。ボク、天国に行くコトにするよ。だってボクは猫で、
死んでるんだもんね。けど、お姉ちゃんやみんなの中では生き続け
るんだ。お兄さん、ありがとう!」
そう言い終わらないうちに、福ちゃんの姿は次第にぼやけてきた。
そして急に光り出したかと思ったら、スッと音もなく消えてしまっ
た。
「あ! 消えた! 天に昇ったのね」
「うん。素直な魂でよかったよ。自分が動物であるコトを認めたか
ら一人でいけたんだ。まだ四十九日前だったせいもあるしね。でも、
これできっとめぐみさんにも笑顔が戻るだろうね」
「『死』のない家の、自分は人間でその上死んでないと思い込んで
る猫の魂か。もっと身近に『死』があれば、こんなコトにはならな
かったのにね」
ワタシは自分のコトは棚に上げてそう思った。
「そうだ、総合病院! おばあさんの病室!」
ハジメ君がそわそわし始めた。
「この時代の現実の『死』でしょ。動物じゃなくて人間の」
目を瞑ったワタシにハジメ君は
「とんだ道草だったけれど、これもいい経験だったよ。ねえ風野は
るかくん?」
耳元でそう囁くように言ったんだ。