(8)死の無い家
目を開けると、そこには見慣れた建物があった。ワタシの家から
も見える、この辺りで一番大きな高級マンションだ。そう、総合病
院も同じ区画にある。
「ねえハジメ君、ここって」
「うん、そうだよ。時間だけ移動したから、もとあの牧場のあった
所さ。それにしても随分変わっちゃったね。ほんの百何十年しか経
ってないのにね」
ワタシもそう思う。時間を飛び越えるってスゴいコトだ。あ、そ
うだ、さっきからずっと考えていたコトをハジメ君に聞こうと思っ
た。いくらコレが幻覚でも、腑に落ちないコトをそのままにしてお
くのは気分が良くないからね。ワタシは融通が利かないってよく言
われるけど、こんな所がそうなんだろうな。
「あのね、ハジメ君。少し教えてくれないかな?」
「うん、分かってる。時間移動のコトについて聞きたいんだろ?
でもね、コレは説明が難しいんだ。だから一番の本質を教えとくね。
時間は過ぎ去るばかりのものじゃない。そこに留まるものでもある
んだ。今ここで人々が生活しているように、百年前の世界では百年
前の人々が生活をしてる。百年前ではそこが今だからね。いつでも
『今』が基準となって時間は過ぎてゆく。でも過ぎた時間はそこに
留まる。つまりね、一瞬が永遠でもあるんだ。時間移動は『今』を
移動するコトなんだよ」
「ふうん」
「だから過ぎた時間へは、割と簡単に移動ができる。そこに留まっ
ている訳だからね。でもこれからの時間、『今』から先、未来へは
基本的には移動できない。まだそこには時間が留められてはいない
からね。それが出来るのは、総てをお造りになった神様だけさ」
ああ、神様の名前を出されてはもう何も言うことはない。あ〜あ、
これでチョン! か。でも、もしそうならば…。
「それじゃ、ハジメ君の今はどこ? ワタシと同じ?それともワタ
シの今はハジメ君にとったら留まってる時間なの?」
「うん。基本的には私たち『審判役』、『お迎え役』は、同じ『今』
を共有する担当者につくんだ。さっきの先輩、彼は百年前の今を担
当してる。私はキミの今の担当っていう風にね。だからキミの未来
も私は知らない。知らないからこその『審判役』なんだからね。も
っとも人生って奴は何が起こるか分からないからいいんでしょ?
それよりいいかい? 今度は『死』のない家を経験してみるよ」
ハジメ君はマンションの入り口に向かって大股で歩いていった。
ワタシは少し離れて着いてゆく。
なぜって、ワタシは少しがっかりしていたからだ。もしこのハジ
メ君の『今』がワタシの未来なら、ワタシの未来を教えてもらおう
と思ったからね。でもこんなワタシに未来があるとはちょっと信じ
られないけれどさ。
「風野はるかくん、死のない家のサンプルとして、まずここを見て
みよう。ここにはもうすぐ天に召されるおばあさんがいるはずなん
だ」
ハジメ君の声で我に返り、顔を上げると、そこには立派な入り口
があったんだ。門番さんが常駐していて、住人以外の人は簡単には
入れないみたいだ。
「ねえ、ここのなんていうお宅なの」
「ええと、確か山名さんていうんだ」
ハジメ君は例の手帳をパラパラめくりながら言った。
山名? この名前を聞いてドキッとした。高級マンションの山名さ
んといえば、この辺りで知らない者はいない女優さんのコトだ。
「ここの山名さん? ホントに?」
「そうだよ。はるかくん、知ってる人なのかい?」
「うん。テレビなんかで観てる程度だけどね。確か、山名めぐみさ
んのコトだよ。朝のドラマで有名になったまだ若い女優さん。確か
ご両親とおばあさんの四人暮らしだよ。あ、ペットの猫もいるって
話だったっけ。ということは、そのおばあさんがもうすぐ天に召さ
れるっていうおばあさんじゃないかな」
「へえ、詳しいんだ。もしかしてファンなの?」
そんな訳ないよ、とハジメ君には言ったけれど、ホントはファン
だ。近くに住んでるってコトでファンレターを出したコトもある。
お母さんはスーパーで買い物をしてる彼女を見かけたことがあるっ
てのが自慢で、ワタシはそれがうらやましかった。
「それじゃ、おじゃましようか。多分留守にしてるとは思うけど。
ね?」
「留守にしてる? だっておばあさんが天に召されるってのに?」
「ああ。だって、ここは『死』のない家だからね。まあ、入って
みれば分かるさ」
直後からワタシは息を殺していた。よく考えてみれば、バカらし
い話なんだけどね。だって誰からも見えないんだもの。だけど、気
持ちとしてはもう『泥棒』だ。あの牧場の家とは現実味がまるで違
うんだから。
門番さんやオートロックを難なくクリヤしていたんだから今更っ
て気もしたけど、歩くたびにつま先立つ自分が情けない。
玄関だけでワタシの部屋くらいはある立派な玄関を抜け、お寺の
本堂くらいあるリビングを抜け、個室の前にたどり着いた。ドアに
【♡めぐみ♡】のプレートがある。
「ここがめぐみさんの部屋なのね」
そこは、生活感がまるでないモデルハウスの部屋のようだった。
確かにキレイで鮮やかで申し分がない。でも何だか落ち着かない気
がする。
隣の、おばあさんの部屋とおぼしき和室ものぞいてみたけれど、
ここも同じ。その上誰も居ない。
他の個室も残らずのぞいてみた。キッチンもお風呂も部屋という
部屋は総てだ。そしてこんな感想を持った。
ここの部屋はどこもみんな同じ。トイレすらキレイで鮮やかで、
だけど寂しい。そう、この家に入った時から感じていたんだけど、
この家は寂しいんだ。あの牧場の家と比べるとよく分かる。『死』
のない家というよりも、ここには『命』がない。動物としての人間
の痕跡すらない。キレイで鮮やかだけど冷たい造花、そんな気がす
る。
「うん、やっぱり留守のようだね。ご両親はお父さんが事務所の社
長として今日はゴルフ。お母さんはステージママでめぐみさんに付
きっきり。おばあさんは入院中と」
ハジメ君は手帳を見ながらうなずいている。
ワタシは思う。
『死』のない家は、一見理想的だ。清潔でキレイで鮮やかで。そこ
には夢の生活がありそうだ。けれど、なんか違うんだよね。さっき
見たキッチンの大型冷蔵庫。中には立派な食材が溢れていた。野菜
に、お魚にお肉。それはもう立派なものだった。だけどそれらはや
っぱり、白いプラスチックのトレイに乗せられラップがかけられて
いた。
「あの牧場のチビの肉にはみんなが感謝をしてたけど、コレじゃ感
謝しようって気にはならないわね。まあ、ワタシんちも同じだけど」
思わず誰にともなくそう言いたくなった。ワタシはもう気づいて
いた。牧場の家で『死』のある家の意味が少しは分かってたから。
「でも、今の時代じゃしかたが無い面もあるよね。みんなにあの牧
場の家を経験させてあげたいけど、それは無理だ」
ハジメ君がワタシに気を遣ってか、そんなコトを言いだした。
「それじゃ、ハジメ君自身もしかたがないって思うの?」
命を食べるというコトが、軽視されてる時代。それがワタシの今
の時代だ。それがしょうがないと自称神様のお使いにも諦められる。
なんて悲しい、そして寂しいワタシの『今』なんだろう。
「ここでは大量生産、大量消費が当たり前だから、あの牧場の家と
同じ暮らしは無理だ。価値観だって違って当たり前。でもね、簡単
な解決方だってあるんだよ」
「え? ホント?」
この言葉に光を見た気がした。
「うん。要は心構えひとつってコトさ。それにはお金も掛からない
し、今すぐ変えるコトも出来る」
なるほど。心構え、つまりは気持ちの問題って訳ね。ワタシだっ
てあの牧場で気づくまでは思ってもみなかったもの。そう言われれ
ば、人間の気持ち、心って大切だ。牧場の家の食卓だってそうだっ
たじゃない。ワタシは少し気持ちが晴れた気がした。
「さて、それじゃ、総合病院に行こうか。ここのおばあさんが入っ
ている病室にね。この時代の現実の『死』を理解するためには必要
だからね」
うん、と返事をして目を閉じ、ハジメ君の手の感触を待っている
わずかな間、ワタシの足に何かが触れた。ハジメ君じゃない、そう
気付くと産毛が逆立つのが分かった。ワタシは思わず大声を上げた。