(15)カゲロウ、魚、そして
「ゆっくりと目を開けてごらん」
言われた通りにすると、目の前に雄大な自然が現れた。山があっ
て川があって、森がある。マイナスイオンの固まりみたいな空気が
充満してるのが分かる!自分の周りすべてが、手つかずの自然みた
いだ。
「ここって…」
「まあ、それはいいじゃない。とりあえず、ここは自然の中。そう
だ、三百六十度全方向の巨大スクリーンで、映像を観てるって思っ
てくれてもいいんだ。キミにはそっちの方が分かりやすいかもね」
そう言われればそうだ。ワタシの足下を鹿が駆け抜けてゆく。鼻
先をかすめて、大きな鳥が飛んでいった。
「ウワッ、スゴいバーチャル! コレって物凄く豪華よね。こんな
システム造ったら、一体いくらかかるのかしら? 一億? 二億?
ううん、そんなもんじゃないわね」
万国博覧会でバーチャルを売りにした施設があったけれど、それ
と比べても比較にならないくらいだ。
「はははっ、はるかくんは現実主義者だからね。でもコレはすべて
幻覚、そうなんだろう? だからタダだよ。無料。そう、ロハとも
言ったっけ」
いたずらっぽい目のハジメ君だ。
「ほら、そこに川が流れてるだろう? ちょっと視線を下ろしてみ
よう」
目の前に川が広がった。移動した訳でも無いのに、川面に小さな
虫が飛び回っているのまでハッキリと見える。
「おおっ、ホントにスゴイ! 水の匂いまでする」
水は透明で、そのままでも飲めそうだ。ココの水をペットボトル
に入れて『天然水』とでも銘をうてば、充分コンビニで売れるよ。
「はるかくん、その虫を知ってるかい? それはね、カゲロウって
言うんだ」
はしたないコトを考えてたワタシは、ハジメ君のこの言葉でハッ
とした。ちょっと恥ずかしくなり、咳払いをしてごまかした。
「なに? どうかしたの」
「ううん。なんでもない。飛び回ってるその虫が、カゲロウってい
う有名な虫なのね。で、その虫が何なの?」
ワタシの顔にちょっぴり動揺の色が出てたんだろうな。ハジメ君
はワタシの顔をのぞき込んだけれど、そのまま続けた。
「うん。カゲロウは、寿命が短い虫として有名だよね。ま、本当は
二年近く生きるんだけどね」
「ふうん。そんなに生きるんだ。ワタシ、生まれて直ぐに死んじゃ
うんだって思ってた」
よくカゲロウのようにはかない一生って表現を聞くからね。
「それはね、成虫になってから、つまり羽化してからの寿命が短い
からなんだ。カゲロウは卵から幼虫、ほら、川虫って知ってるかい?
あ、チョロ虫なら聞いたコトがあるだろ?」
「知らない」
ワタシのコレまでの人生にそんな概念はなかった。第一、虫は苦
手だ。
「まあいいや。チョロ虫は川虫の別名で、その川虫がカゲロウの幼
虫なんだけど、二年近くかかってようやく成虫になる。で、そうな
ると数時間から長くても二〜三日で死んでしまう。コレがはかない
って言われる由縁なんだよ」
「ふうん。じゃ、死ぬ為に成虫になるみたいなものじゃない。何の
為に生きてるのか分からないよ」
やっぱり、はかない一生だ。カゲロウの名は伊達じゃなかったっ
てコトだよ。
「いいや。成虫になるのには立派な目的があるんだ。次の世代に子
孫を残すっていう立派な目的がね。何の為に生きてるのって問われ
たら、子孫を残す為さって彼らは答えるだろうよ。ちなみに成虫は
死ぬまで何も食べないんだよ。コレも驚きだろう?」
ハジメ君は目の前を飛び回る虫を、まるで大切なモノを愛おしむ
かのように眺めている。
ワタシは驚いた。ただそれだけの為に生きてきたの? 楽しいコ
トとか何も無しで?
「子孫を残す為に生きてるのは、何もこのカゲロウに限ったコトじ
ゃないけどね。似たもので言えば、蝉だってそうだろ? 土の中に
七〜八年いて、成虫になって一週間足らずで死んでしまう。ま、食
事はするけどね。その目的だって子孫を残すコトさ。うん、蝉だけ
じゃない。ほとんどの虫がそうだ。いいや、虫だけじゃないね。人
間以外の動物はみんなそうかも知れないよ。やっぱり最終目的は子
孫を残すコト。まあ彼らが自分で考えてそうしてる訳じゃないけど
ね」
「考えないで?」
「うん。本能って言うのかな? まあ、そういう風に出来ているん
だな」
「つまらない一生ね」
ワタシは虫たちを眺めながら続けた。
「ただ子孫を残す為だけの命、一生なんてつまらない。だって、生
き甲斐とか、やり甲斐とか、そんなモノは無い訳でしょ? だった
らいてもいなくても同じよ」
ハジメ君はふうん、という風にうなずくと、指を指しながら
「川面を見てごらん。ほら、時々魚がジャンプしてカゲロウを食べ
ようとしてる」
ワタシも気がついてた。魚に食べられちゃうのもいるし、うまく
逃げるのもいる。せっかくココまで来たのに、目的を遂げられない
なんて何だか可哀想だ。
「あ! また来るよ! うまく逃げて!」
思わずワタシは声を上げた。でも、ワタシの目の前で、また一匹
のカゲロウが魚に引き込まれていった。
「だから言ったのに。ほら、また来るから!」
「はるかくん、まあ、興奮しないで。魚たちは魚たちで必死なんだ
から。魚たちにとっては貴重な食料なんだからね」
深呼吸してみた。その通りだ。
「さっきはるかくんは、いてもいなくても同じだって言ったろ?
でも、ほんの小さなこのカゲロウだって、いないと魚が困る。と、
言うコトはだね、魚を食べる他の動物だって困るよ。ほら、食物連
鎖って習ったろ? はるかくんだってお魚、好きだよね?」
「うん。お魚は好き」
ワタシはお肉も好きだけどお魚はもっと好きだ。お魚なら、川の
モノでも海のモノでも、お刺身でも、焼き物でも煮物でも、何でも
ござれ、だ。
「だったら、はるかくんが困るコトにもなる訳だ。生き物はお互い
に影響しあって生きてるんだから。カゲロウはいてくれなきゃ、み
んなが困る。それにね」
ハジメ君は続けた。
「カゲロウに生き甲斐だとかやり甲斐だとか、そんなモノは無いっ
て決めつけてるけど、それは分からない。はるかくんがそう思うだ
けで、もしかしたらカゲロウにはとてつもない生き甲斐があるのか
も知れない。それに楽しいコトだってね」
「それって何なのよ。あ!」
ワタシは自分で言って自分で気がついた。もしかしたら、子孫を
残す為に生きてるコトが生き甲斐かも知れないって。それが楽しい
コトかも知れないって。
ハジメ君はニコッとして
「そうさ。でも本当のところは、カゲロウだけにしか分からないん
だろうね」
そう言うと指をぱちんと鳴らした。目の前が、川から森に変わっ
た。
「森には沢山の生き物が暮らしてる。それこそ小さな虫から、大き
な獣までね。ココでの頂点は、そう、熊だね」
巨大な熊が、子供を二匹連れて、食べ物を獲ろうとしている。狙
いはどうやら魚のようだ。川に入り込んでうまいこと何匹かキャッ
チした。子供が争って魚の取り合いをしている。
「ココの森では、熊を頂点にして食物連鎖がある。その間の、どの
生き物がいなくなっても、連鎖は崩れてしまう。それは森自体にも
言えるコトだ。森が無くなれば森以外の生き物にも影響が出る。人
間にだって影響はあるんだ」
「人間にも?」
「そう。大袈裟に言えば、カゲロウがいるおかげで人間はちゃんと
暮らしていける、とも言えるんだ」
カゲロウがいるおかげで? ワタシは考えてみた。でも、イメー
ジがわいてこない。
「虫も、小動物も獣も、生きる目的は子孫を残す為さ。自分の意志
と言うより、そう出来ている。さっきも言った本能だね。そこに理
屈はない」
「理屈?」
「そう。やれ、生き甲斐だの、楽しみだの、まあ、そんなコトだね。
人間だけだよ、そんなコトを思うのは。まあ、それが人間の特権と
言えば特権なんだけど。動物は本能の赴くままに生きて、それでお
互いに影響しあってうまく回っているんだ。だけど人間はそうじゃ
ない。本能以外の理屈がいる」
「……」
そうかも知れない。人間は他の動物とは違う。
「でもね、人間だって動物だよ。他の動物と同じ様に、根底には子
孫を残す為に生きるって目的があるはずだ」
「ワタシ…」
「いいから聞いて! 根底は同じ。でも人間には理屈を生み出す心
がある。本能だけじゃない感情がね。だから、色々と考えるんだ。
生きる目的とか、何の為に生きるのかとかをね。でも、それは悪い
コトじゃない。ううん、素晴らしいコトだ。それが人間をより進化
させたんだから」
「うん」
「でも、時に、人間は考え過ぎる。だから自分が動物であるコトも
忘れてしまうんだ。人間には心があるから、子孫を残す為だけが目
的じゃなくなってる。それはそうだ。だけど、生きるコトが目的な
のは変わらないはずだ。勉強をしたり、仕事をしたり、生き甲斐を
求めたりするのは、生きるコトがより素晴らしくなるように、とい
う手段なんだ」
「あ、それが目的と手段を間違えてはいけないよって言ったコトな
の?」
「うん。人間はいつの間にか、手段である方にウエートを置くよう
になってしまった。勉強が出来なけりゃダメとか、いい仕事に就か
なけりゃダメとかね。でも勉強が出来るって何さ? 暗記力がいい?
計算力がある? いい仕事って? お医者さん? 弁護士さん?
社長さんかな? でもね、考えてみなよ。勉強が出来ても社長さん
になっても、幸せじゃない人は沢山いる。それは生きるコトが目的
じゃなくなってるからさ」
熊の親子が食事を終えて、ゆっくりと森の奥へ帰っていった。こ
れから巣に戻ってのんびり寝るのかな?
ワタシは熊がうらやましくなった。本能で生きてゆく動物たちが
さ。
「風野はるかくん、キミ、言ったよね? 先の見えてる人生でも価
値があるのかって?」
ワタシは黙ってうなずいた。
「生きてるだけで人間は価値があるんだ。先が見えてるって何さ?
手段と目的を間違えて、理屈をこねてるだけじゃないか」
「……」
「キミは人間に生まれて来ただけでも奇跡だ。その上キミには生き
ていける環境だって整ってる。先の見えてる人生ってコトは、それ
まで生き続けるコトが出来るって証だよ」




