(14)命の誕生と奇跡
山名のおばあさんの病室を後にして、ワタシたちは歩き出した。
ハジメ君が次にどこへ向かっているのかはまだ分からないけれど、
ワタシに不安はない。
しばらく歩いて、見覚えのあるところに出た。ワタシが車椅子の
小さな男の子と挨拶を交わしたあの場所だ。あの子は確か、そう、
みっちゃんっていったっけ。
「ここって、小児病棟よね。目的地はここなの?」
「ううん。今回はこの先に行くんだ」
ハジメ君はもう少し進んでから立ち止まった。
「産婦人科?」
そこのプレートにはそう文字が記されていたんだ。
「この時代じゃ、人は病院で死ぬ。コレは分かったよね。でも生ま
れるのもそう。ほとんどの子供が病院で生まれるんだ」
「うん。知ってる。ワタシもここで生まれたもの」
「ああ、そうか。じゃ、よーく知ってるって訳だ」
ハジメ君はそうは言うけど、自分が生まれた時のコトなんて分か
らない。だって、その時はまだ赤ちゃんなんだからさ。後からお母
さんの話として聞いてるコトくらいしか知らないよ。
ワタシがここに来た記憶があるのは、親戚のお姉さんが赤ちゃん
を産んだ時。お見舞いを兼ねて、赤ちゃんを見に来たんだ。確か、
小学校に上がった年だったっけ。
「ねえ、知ってる? 生まれたばかりの赤ちゃんって可愛くないん
だよ。まるで裸のサルみたいでね」
いきなりワタシがこう言いだしたんで、ハジメ君はクククッと笑
い出した。
「え? だってキミだってそうだったんだろう? 赤ちゃんはみん
なそうだと思うよ」
言われてみれば、まあ、そうだ。自分があんなだったと思うと、
ちょっぴり気恥ずかしい。ワタシは自分の想像を振り払うように、
ぶるぶるっと頭も振りながら
「多分ね。でもね、親戚のお姉さんはカワイイカワイイって言っ
てたな。ワタシはそう思わなかったんで、アレが親バカなんだなっ
て思ったっけ」
「ふうん。でもね、お母さんにとってみたらどんな子でも可愛いん
だよ」
「うん」
ハジメ君の言葉で、集中治療室でのお母さんを思いだした。お母
さんは今もワタシのコトを心配して泣いているに違いない。胸が痛
くなった。でも、今のワタシには何も出来ない。
「あ、はるかくん。この病室をのぞいてみようか。ココにもうすぐ
赤ちゃんが産まれる人が居るから」
ハジメ君は手帳をめくりながらそう言うと、ひとつの病室に入っ
ていった。
「うん!」
ワタシは気持ちを切り替えるコトにした。いくら悲しんでも、い
くら悩んでもダメなコトはダメなんだから、気持ちは前向き! 幻
覚の世界では割り切らなきゃね。考えれば、ワタシも随分変わった
よ。ま、幻覚の世界ならではって気もするんだけど。
その病室はコレまでの病室とは違って華やかに見えた。壁の色や
カーテンも明るいパステル調だし、なにより雰囲気が違う。壁に貼
ってあるイラストも、とってもキュートな赤ちゃんだ。
「やっぱり『死』よりも『生』の方が力強い気がするわ。ココの部
屋は気持ちがいいもの」
「そうだね。これまではちょっと暗かったもんね」
顔を見つめ合って、ちょっと笑った。確かにそうだった。
「ほら、この人だよ。もうすぐお母さんになるんだ」
部屋のベッドに、大きなお腹をした女の人が寝ていた。臨月という
のだろうか、そのお腹は今にもはち切れそうだ。
「この人はね、赤ちゃんが欲しくて欲しくてたまらなかったんだ。
だけどなかなか出来なくてね」
「うん」
「病院の先生に何度も相談をして、つらい治療も受けて、やっと授
かった命なんだ」
聞いたコトがあった。子供が欲しい人に子供が出来ないコトもあ
るって。そんなのはつらいだろうなってワタシも思う。でも、この
人は望みが叶ったんだ。何だかワタシまで嬉しくなった。
「いいかい?これからこの人は命懸けで子供を産むんだ。その様を
しっかりと見ておくんだね」
「え?」
その言葉と同時に、女の人がうめき声を上げ始めた。シーツをつ
かんだ、その表情は険しい。
「ねえ、大丈夫なの? 随分苦しそうよ」
「ああ。でも大丈夫。お母さんになる為の試練だからね」
女の人は苦しみに耐えて、どうにか自分で時計を見てから、
「ああ、間隔が十分おきになった。もうすぐなんだよ、ひかりちゃ
ん」
お腹をさすりながらそうつぶやいている。
「ほら、このひかりちゃんってのはね、これから生まれてくるお腹
の子供の名前なんだ。彼女にとっては光そのもの、希望の光なんだ
から」
彼女が自分でナースコールをしてからが大変だった。
看護師さんが来て、女の人を別の部屋に連れて行った。そう、分
娩室だ。
旦那さんらしき人や両親、みんなが心配顔で部屋の前に佇んでい
る。座って待ってればいいのに、それどころじゃないってカンジだ。
彼らは病院から連絡を受けて、直ぐに駆けつけてやって来たんだ。
この旦那さんは立ち会うつもりだったのに、途中で気分が悪くなっ
て、部屋の外に連れ出された。
「やっぱり男の人はダメね。いざとなると腰が引けちゃうんだから」
「そうだね。女の人が気丈に、『外で待ってて』って言った時の旦
那の顔、ちょっと複雑だったもんね」
その時の顔は、残念そうな、そのくせホッとしたような、悲しい
ような嬉しいような色んな気持ちがごちゃ混ぜになった顔だった。
ワタシは人の表情ってモノに、初めて感心した。人は感情が顔に出
る。コレって何だか素敵なコトだ。ワタシのお父さんも、実は途中
で立ち会いを中断した口らしい。多分その時の表情もこんなだった
だろうな、そう思うと笑いが込み上げてくる。ゴメンね、お父さん。
「しかし、時間がかかるね。直ぐにでも生まれると思ったのに」
ハジメ君が心配そうに言った。分娩室に入ってからもう何時間た
っただろう。その間中、女の人はうめき声を上げ続けた。時には絶
叫に近い声もだ。
「赤ちゃんを産む時は相当痛みがあるって聞いてたけど、ホントだ
ね。しかもそれが一瞬じゃなくってこんなにも長い間続くなんて。
ワタシ、何だか怖い」
「でも見なよ。彼女の表情を。痛みにただ耐えてるだけじゃない」
ホントにそうだった。苦しそうだけど、何だか満足してるように
も見える。そう、痛みと正々堂々戦ってるっていう自信と、必ず乗
り越えるっていう意志が感じられるんだ。痛みへの絶望じゃなくて、
希望が見える。お母さんになる為の試練、ハジメ君の言った言葉が
ピタッと来る。彼女の髪は乱れて汗は噴き出る。でも、ワタシはそ
の表情がキレイだと思った。
「あ、生まれそうだ」
「頭が出た!」
ガンバってください! もうすぐですよ! の声に押されて、女
の人が力んだ。にゅるっと肉のかたまりが、すべり出た。その肉の
かたまりは、泣き声を上げた。それが赤ちゃんだった。
「ああ、生まれた。やっぱり裸のサルだ。でも…」
「うん。カワイイね。あの手をごらんよ。まるで紅葉の葉っぱだ」
赤ちゃんは、看護師さんたちにキレイにされてから、お母さんに
なった女の人に渡された。
「ほら、丈夫な女の子ですよ。おめでとう」
「ひかりちゃん、はじめまして。わたしがお母さんですよ」
そのまなざしは、まさにお母さんのモノだ。優しく、すべてを許
してくれそうな慈愛に満ちている。
「ワタシ、初めて見たけど、命が生まれる瞬間って、決してキレイ
じゃない。血まみれだし、グロテスクって思う。でもイヤじゃない。
それどころか嬉しい。お母さんはこんな大変な思いをして子供を産
んでくれるんだ。ありがとうって心から思うよ」
涙がまたこぼれた。ワタシはハジメ君と色んな経験をしてきたけ
ど、泣いてばかりいる。
「うん。世の中のすべてのお母さんが、痛みを伴って、子供を産む
んだ。産んだ子供はカワイイに決まってる。ね?」
部屋の外ではおめでとうの声が響いている。みんながそれぞれの
思いを抱いて喜んでいる。
「ああ、旦那さんも泣いてるよ。肩を叩かれて、あ〜あ、号泣だね」
大人の男の人があんなにも泣いている。しかも喜びのあまり。ひ
かりちゃんは幸せ者だ。
「風野はるかくん、キミだってみんなに祝福されて、ああやって生
まれて来たんだ。でもキミという人間が生まれたのだって、確率か
ら言えば奇跡に近いんだよ」
「え? それってどういう意味?」
ワタシが生まれたのが奇跡だなんて、そんな風に思ったコトはな
かった。
「いいかい? キミはお母さんとお父さんの子だ。でもキミという
人間になる為には色んなハードルをクリアしてきたんだよ。例えば、
キミ以外の人間の素を、キミは押しのけてる。一歩違えば、キミは
他の人間になってたんだ。それこそキミはいなくて、キミの姉弟が
キミになってる。この意味が分かるかな?」
受精卵は、通常卵子一個と精子一個で成り立つ。理科の教科書を
思い出した。そう言うコトになれば、生物学上、ワタシになる確率
は何億分の一ってコトだ。
「うん…」
「それだけじゃないよ。そうやってキミの素が出来ても、それが順
調に大きくなるとは限らない。途中でダメになることだって珍しく
はないんだ」
子供が出来にくい人もいる。そう言うコトだ。
「十ヶ月、お母さんが大切に守ってくれて、それでやっと生まれる
んだ。コレが奇跡でなくて何なんだい?」
何億分の一×更にの奇跡。宝くじで一等が当たるよりもはるかに
難しい確率。
言われてみればそうかも知れない。でもワタシは幸せ者なんだろ
うか。それには素直に答えるコトが出来なかった。
「お母さんやお父さんはね、子供に対して『ただ元気で生まれてく
れればいい』って思うモノなんだ。コレはその時の正直な気持ちな
んだよ。ほら、あのサルみたいな赤ちゃんの存在だけで、大の大人
があんなにも喜んでるみたいにね」
外の旦那さんたちは看護師さんから静かにしてくださいとの注意
を受けて、やっとおとなしくなった。
「赤ちゃんが産まれた時、心からそうは思っても、人間はわがまま
で欲張りだから、いつの間にかその気持ちを忘れてしまうんだ。這
えば立て、立てば歩めの親心って言うけれど、親は、同じ年頃の子
供がいれば比べ、優劣で見るようになる。後はコレの繰り返し。幼
稚園、小学校、中学、もうきりがないよ。当然子供たちも同じ様に
考える。ほら、成績、成績ってこだわってたあのお迎え役、おなだ
め役のようにね」
「うん」
確かにそうだ。ワタシたちはいつも比べられ、ひとつずつ可能性
を消してゆくんだ。
ワタシは今、分娩室から出て一人で元の病室に戻ったお母さんの
顔を見ている。
赤ちゃんは新生児室というところに運ばれた。ここには同じ様な
赤ちゃんが何人かいる。今でもガラス越しにお父さんたちが、飽き
もせずに赤ちゃんを見つめているんだろう。
新米のお母さんは、疲れて眠っている。でもその顔には、大仕事
を無事終えた充実感が溢れている。
このお母さんも、それから今ガラス越しにひかりちゃんを見つめ
てるお父さんも、いつかはひかりちゃんを他の子供と比べて、叱っ
たり誉めたりするんだろうか。今は元気で生まれて来てくれただけ
で満足なのに。
「人間はね、競い合って向上するコトが正しいと思い込んでる。確
かにそうかも知れないけれど、目的と手段を間違えてはいけないよ」
ハジメ君がつぶやくように言った。
「え? 目的と手段? どういう意味なの?」
「うん。つまりね、目的は生きるコト。手段はその為に何をどうす
るかってコトなんだ」
ハジメ君はワタシのおでこに手を当てると
「さあ、もう行こうか。お母さんがもっとゆっくり休めるようにね」
返事のかわりに目を閉じた。
新米のお母さん、ひかりちゃん、誕生に立ち会えて、ワタシ嬉し
かった。ありがとう。それからお元気で。おかげさまでまたひとつ、
心が利口になったよ。
そんなコトを思っていると、何度目かの浮遊感がワタシを包み込
んだ。




