極私的俳句論、その5、 俳句の鑑賞。
じつは
俳句ほど作句の難しいものはありませんね?
なぜならたった17文字です。
そこにいったい、いかな天才俳人と言えど
いったい何を盛れますか?
言葉の数は限られています。
無限に言葉があるわけでもありません。
単純な例で恐縮ですが
秋という季節を表す言葉は
秋しかないでしょ?
暑いという言葉だって
炎暑とか猛暑とか、酷暑とか
まあ似たり寄ったり?ですよね。
そうした限られた言葉を操って
しかもたった17文字ですから
結局は
出来た俳句は
似たようなもののオンパレードということになるしかないのです。
こういうのを類想句というのですが
俳句は実はこうした類想句の宝庫?なのです。
これは俳句の宿命というか
たった17文字で表せという制約の果ての
仕方のない事実ですね。
いわゆる名句というものは
そうした類想句を
どうにかして越えようとした悪戦苦闘の
成果でもあるわけです。
名句の特徴は
言外に物を言わせるという一事につきます。
だって17文字ですべてを言い表せるはずもありませんから
17文字ではある象徴的な言葉だけを言い連ねて置いて
そこから読者に想像をふくらまさせて
余情やら、余韻やらを創造してもらうしかないのです。
そういう意味では俳句とは
読み手によってどうにでもなりうる
ある種読者任せの文芸の最たるものですね。
長編小説となると
そこは言葉の大洪水で読者をいやおうも無く
作者の世界にひきづり回せも
しますが
俳句はたった17文字ですから
跡は読者の創造力?に任せるしかないのです。
そういう意味では
作句以上に、
俳句の鑑賞も難しいものです。
極端な事を言えば俳句には
名句も迷句?もありません。
すべてが名句でもあり
また迷句でもあるのが俳句の危険な一面なのです。
良い句とされているものにも
実は意味不明の
鑑賞者の思い込みの入れすぎの迷句が大量に存在するのです。
たとえばこんな句があります。
「草餅や子等目を出して障子穴」
この句を普通に読むと目を出すというのが障子穴からなのか、
障子あなへなのかがわかりませんね?
一般的に解読すれば
子供が障子穴から草餅を見ているとなります。
それでどうした?
という鑑賞が読者へのお任せになります。
お母さんが一生懸命草餅を作っている。
それを5~6歳の子供たちが待ちきれなくて
障子に穴をあけて覗いて待っている
という解釈になりましょうか?
でもこれはあくまで読者の想像であり
この俳句のどこにも
お母さんとも書いてはありませんね。
実際はお父さんかもしれませんね。
俳句の鑑賞は読者にすべておんぶにだっこの世界なのです。
だからこの句がはたして名句なのか、
迷句なのかは
誰にも断言できないということになります。
押し詰めれば読者の個人的な趣味とか好き嫌いで
良い悪いという判断しかできない世界でもあるのです。
客観性が無い世界です。
まあ。
そもそも芸術とか文学に
客観的な価値判断を求めること自体愚かといえばそうですが
芸術は科学ではありませんから
万人が認める客観的は正当性を求めることは不可能ですが
それにしても。
俳句はとりわけ
恣意性とか
寓意性とか
象徴性とか
言外の意味とかが
とりわけ強いですから
作句以上に
その鑑賞は至難のわざでもあるのです。
つまり良い俳句と下手な俳句との
境界線は限りなく近いということです。
紙一重といってもよいでしょう。
たった一文字、、、、
たとえばその俳句の『や』を
『も』と替えただけで
光り輝く名句に大変貌ということだっていくらでもあるのです。
そんな例は腐るほどあります。
この一文字だけで
大変貌というのは
長編作家などから見れば
ふざけるなということですよね。
汗水たらして1年もかかって
何万文字も書き綴って評価はどんだけという長編小説と
たった17文字、、、、、おそらく5秒で俳句などできますよ。
しかも一文字替えれば
俳句史上に残る
名句とは、、、
これでは俳句は第2芸術とか
余技、遊芸、手すさびと言われてもむべなるかなでしょうね。
俳句とは
(俳句が文学だと仮定したばあいですが、、、)
17文字しかない文学?であるから
おのずとあまりにも舌足らず?であり
言い足りないというか、、、
言うことも言えないこまった?文学?なのである。
とはいえ、
まあ俳句は文学ではないという有力な?説もある。
何しろたった、17文字で何かの世界観を表せとか
自然観を表せという要求そのものが無理な話なのであるから、
その無理を承知で座の余興?として楽しむ
それはいわばなぞなぞ遊びのようなものだというのである。
この説?はかなり的を得ていると言いうる。
そもそも俳句とは
俳諧連歌の発句としてが
その始まりである。
連歌とは
お互いに歌をつけあって遊ぶというお座敷芸?
のような物、
言葉遊びである。(と私は思う)
たとえばある人が
「雪ながら山もとかすむ夕べかな」(発句)
とうたう。
すると次の人が
『行く水遠く梅薫るさと」と
続ける。
さらに別の人が
『川風に一もと、柳春見えて』と
つづけます。
こういう優雅な言葉遊び?
が連歌なのですね。
こうしていくらでも続けます。
さてそれを松尾芭蕉が
俳諧の最初の句を
俳諧の発句として独立させて
それだけで意味ができるようにしました。
それが俳句の始まりだったのですね。
跡の附け句を省略したのです。
こうして世界最小の詩?が誕生したわけです。
それをさらに推し進め
完全に発句だけで独立させたのが子規です。
こうして歴史を見てくると
俳句は文学というよりも
座の遊芸的な要素が多いということができます。
純粋に人間追求とか
人生探究などという西洋的ないわゆる文学ではなかったのです。
そういう桎梏?を背負ったものが
子規によって近代化されて
まあ一応は文学の仲間入りしたわけですが
ですからそれは相撲とよく似たわけありの物だったわけですね。
相撲がいわゆる近代的なスポーツ概念とはかけ離れた神事であることは
周知の事実ですね。
相撲は純粋に強弱を競うスポーツなんかではありえません。
神にささげる神事であり。
奉納するべきものなのですから。
俳句も似たようなもので
いわゆる生死や人生、を追求する文学なのではなく
座興といっては失礼だが
遊芸?
なぞなぞ遊び?
みたいな余興のジャンルのほうがぴったりするのである。
あるいは
茶道
華道
日舞のような芸道のほうが相ふさわしい。
宗匠がいて
流派があり
門弟がいて
しきたりがあって五七五、季語、切れ字、など、
そんな文学がどこにありますか?
もうこれは文学などではありえませんよね。
ですから
俳句で
大成するっていうことは
師匠の言うとおりに
しきたりどおりに
流派に従って
芸道を極めるということでしかないでしょう?
これではお花の免状とかと
全く一緒ですね?
で、
こうした伝統俳句に反旗を翻す人も明治以降には
群れを成して輩出しましたが
それらのどれも竜頭蛇尾に
終わりましたね。
だってそうでしょ?
俳句の俳句なる所以は
宗匠であり流派であり
型の美(五七五.季語。切れ字など)
なのですから
これらを否定したら
俳句ではなくなってしまうからです。
さてでは結論を急ぎましょうか。
どうしたら名句が作れるでしょうか?
こんな伝統的な座の文芸、言わでも阿吽の呼吸で
言外の意味を領解せよ。
という馴れ合い?文芸では
結局、名句も
迷句も一見すれば紙一重です。
何せ一七文字しかないのですから
それだけで何が言いたいのかなんて表しきれるものではありません。
だから所詮俳句の鑑賞とは
鑑賞者の思い入れとか強請付会になるしかないのですよ。
つまり、
俳句の解釈なんて
どうにでもなるのです、
だから自分の俳句に自信を持つことです。
堂々として
詠いきることです。
弱気になってはいけません。
説明文的には決して歌ってはいけません。
おもねったり
こびたりしないことですね。
断言的に言い切るのです。
私はこれだと自信を持って
自分の言葉で言い切るのです。
つまり、
自らを恃むことです。
それ以外に名句?を
造る方法はありえませんね。




