第七章「封印」
ラケシスが泣き止んでから、ようやくシグルドは重大な事に気が付いた。
馬を帰してしまった為、一度食料を調達しようと思い、眠っているラケシスを負ぶって森を抜けようと歩いていたはずが、どうやら足を踏み入れてはならない場所――「冥土の入り口」へと入ってしまっていた様なのだ。
磁石を頼りに歩いていたのだが、どういう訳か迷い込んでしまったらしい。手に持った磁石針は、今やどちらの方角を指し示す訳でもなく、ぐるぐると回っている。
「なあに、それ。ぐるぐる回ってて、面白いわ」
そんな事は知らずか、ラケシスは妙に元気だ。泣き止んで、気分も晴れたのだろうか。帰れと言えばまたむくれるのだろうが。
「これは磁石という道具だ。本来なら、この針が北を指し示してくれる」
ぐるぐる回って面白いという事は決して無いのだが、無知とは素晴らしいものだ。お陰で変に不安にさせずに済む。
方角も分からず、何処へ向かうべきかも分からずに、シグルドは歩き続けた。まさかここで野垂れ死にしてしまうのでは、と考えてしまい、気が滅入った。
ふとシグルドの後ろを歩いていたラケシスが、たたたっとシグルドの横に駆けて来て並んで話しかけてきた。
「シグルドは、何歳なの?」
「今年で二四になる」
「お嫁さんは居るの?」
唐突な事を訊くな、と苦笑するシグルド。
「まだ居ないが、王宮に戻り次第、結婚する事にはなっている」
戻るのはミレーネの呪いを解く方法が見付かってからの話にはなるが、ラケシスには伏せておいた。王家とレフィア家の間の問題でもあるし、ラケシスには関係の無い事だ。もっとも、今となっては王宮に無事に戻れるかどうかも分からないが。
「そうなんだ」
ふと声を落とすラケシス。
「しかし、政略結婚というものだな。正直な所、結婚は望んではいないのだが」
「よく分からないけど、それならその人と結婚しなきゃ良いのに」
そうしたいのは山々なのだが、今更後に引けないのだ、と言うと、ラケシスは更に不思議そうに首を傾げた。
それからまたしばらく歩いたところで、少し開けた場所に出た。円状の小さな庭の様なその場所には、太陽の光が差し込み、色とりどりの花が咲いていた。近くには小さな川も流れており、一休みするには丁度良い場所である。
「少し休むか」
言う前に、ラケシスは嬉々として走り出していた。地面に座りこんで、咲いている花を見つめている。
「綺麗!」
あまり花には詳しくないシグルドだったが、ラケシスの言うとおり、綺麗なものだと思った。花を摘んではしゃぐラケシスを見ながら、小川の水を腰に下げた皮袋に汲んだ。多少空腹感が有ったが、辺りを見回しても食べられる植物が見当たらなかった為、諦める事にした。
適当な樹の幹にもたれ掛かり、一つ溜息をつく。
やはりラケシスに、ソラスの元に案内して貰えるように頼んでみるか。しかし、頼んだところで聞いてくれるとは思えない。
どうしたものかと悩んでいると、花を摘んできたラケシスが、シグルドの隣に座った。
頭上に見える空は、突き抜ける様な青い空だった。しかし、シグルドの心中は曇っている。
「綺麗だわ」
隣のラケシスが言った。花をたいそう気に入ったのかと思って見てみると、彼女は空を見上げていた。シグルドも空に視線を戻す。
「昨日は暗くて星が輝いてたけど、今はこんなに青くて広くて、とっても綺麗」
ラケシスの瞳は、きらきらと輝いていた。彼女は今まで一体どういう場所に住んでいたのだろうか。外の世界を見ずに、どれだけの時を生きてきたのだろうか。当たり前の様に毎日空を見てきたシグルドは、青空を眺めて感動するなど、知らずのうちに忘れていた事だった。
「そうだな」
そう答えた瞬間、突然がさりと奥の茂みが揺れた。反射的に、シグルドは立ち上がって剣に手をやった。ラケシスも驚いて、シグルドの背中にさっと隠れる。
「そう警戒しなくても、こんな所に来る人間はお前くらいだ」
茂みの奥から現れたのは、ドルチェの姿だった。
「また私を連れ戻しに来たの!」
隠れながらラケシスが叫んだ。ドルチェは溜息をつきながら「当たり前じゃないか」とこぼした。
「あんたが逃げ出したお陰で、ソラス様はお怒りだ。早く戻ってこないと、そのうちソラス様が直々に、あんたの所にやってくるよ。ただの人形に戻されたって、知らないんだからね」
ドルチェの言葉に、ラケシスがびくっと震えた。ただの人形に戻される、と言うことは、彼女にとっては「死」そのものなのだろう。
「妹を脅すとは、感心しないな」
「私は本当の事を言ってるまでだ」
シグルドの言葉に、ドルチェはぴしゃりと鋭く切り返した。怯えたラケシスが、がたがたと震えている。
「まぁ、そうは言っても、頑固者なあんたの事だ。まだ意地を張って、帰りたくないとか言いだすんだろう」
ドルチェが右手を突き出した。また魔術を使う気か、とシグルドは彼女に向かって走ったが、見えない壁の様なものに弾かれた。魔術で作られた、見えない壁である。そんな魔術を使う素振りは見えなかったが、流石は「ソラス」と名乗る者の魔力を貰った人形であると言うことか。
軽く飛ばされ、地面に倒れたシグルドは、起き上がれずにもがいていた。体が痺れ、言う事を聞かないのである。
「束縛の魔術をかけた。これ以上邪魔するなら、容赦しないよ」
冷たい響きのドルチェの声に、シグルドは歯軋りした。魔術の力を持っていないシグルドには、これだけの力を前にしては太刀打ち出来そうにない。さしもの「迅雷」も、魔術の前では無力に等しかった。
「さて、ラケシス。まだ帰らないと言うつもり?」
しばらくラケシスは黙っていたが、ドルチェを睨み付けながら「嫌!」と吐き捨てた。ぴくりとドルチェの片眉が上がる。その様子を見たシグルドは「乱暴な真似はよせ!」と叫ぼうとしたが、喉の奥に何かが痞えた様に声が出ない。
「ならば、帰りたくなるようにしてやる!」
ドルチェの手の平から、白色の光が二、三飛び出した。それらは一気にラケシスを取り囲むと、彼女の周りとぐるぐると回った。一体どういった魔法かシグルドには分からなかったが、ラケシスの顔は恐怖に歪んでいた。
「嫌っ、シグルド、助けて!」
目に涙を浮かべながら、ラケシスが懇願する。だがシグルドは今だ片腕も動かせない。
その時、ラケシスを取り囲んでいた光が、突如回転を止めて、彼女に向かって飛んだ。小さな悲鳴が上がり、ラケシスの体が淡い光で包まれた。
「ラケシス……!」
力無い声を上げるシグルドの横に、ドルチェが歩み寄ってきた。
「これであの子も、帰ってこざるを得なくなるだろう。ソラスはここから西、私の向かう方にある、大木の洞に居る」
そう言って、ドルチェはラケシスの姿を一瞥する事も無く、森の奥へと消えていった。
ラケシスを包んでいた光が消えた頃、ようやくシグルドは体の自由を取り戻した。立ち上がり、急いでラケシスに駆け寄る。
「大丈夫か!」
ぐったりと倒れているラケシスを抱え上げ、訊いた。ひょっとすると、動かなくなってしまう魔法でもかけられたのかと思ったが、彼女はゆっくりと目を開いた。「良かった」と安堵した瞬間、突然がばっと抱きつかれ、シグルドは驚いて固まった。
「一体、どうしたのだ?」
泣き出すラケシス。ドルチェにかけられた魔法は、一体何だったのか。そこまで強力なものなのだろうか。
「私、私、魔術が使えなくなっちゃったよお!」
訊けば、先ほどドルチェがかけた魔術は、相手の魔術の力を封じてしまうものらしい。そんな事でと思ったが、ラケシスにとって魔術とは、自分の手足の様な物だったのだろう。魔術を持たないシグルドには分からないが、当たり前の様に使ってきたものが突然封じられる恐怖が、ラケシスには有ったのだろう。
シグルドは泣き付く少女の背中をさすりながら、傍らに落ちていた、彼女が摘んだ花束を見た。それは魔術の影響か、元気を無くして萎れ始めていた。