第六章「人形」
シグルドの背で、小さな呻き声が上がった。
「目が覚めたか」
背負ったラケシスの声だった。既に夜は明けていて、森の中は微かに届く木漏れ日で明るくなっていた。馬を使っていないのは、あのラケシスの光に危険を感じたシグルドが、自ら帰したからだ。利口な馬だから、乗り手が居なくとも、アグリア王宮まで戻ってくれるだろう。
「お前は昨日、あの後気を失ったのだ。ドルチェの姿は無かった」
流石に彼女の力に危険を感じたのか、ドルチェはいつの間にか消えていた。
ラケシスが光を放った後、辺りは特に変わりなく、夜の暗闇と静けさを取り戻したのだ。しかし、あのまま暴走していたら惨事になっていた事だろう。妹のファーニャがまだ幼い頃、似たような事が有った為、シグルドはそれを容易に想像する事が出来た。
「あの時は大変だったな」
宮殿の一部が破壊され、修繕にどれほど長い時間と莫大な費用がかかったことか。巻き込まれた者は無かった為、建物が壊れただけで済んだが、もし自分が巻き込まれていたら、今ここに立ってはいないだろうと思う。思い出すだけで、今でも寒気が走る。
不意に、ぽかぽかと頭を叩かれた。
「降ろしてよ! 見っともないじゃない!」
耳下で大声を出されて耳が痛くなったが、シグルドは言われたとおりラケシスを地面に降ろした。「別に誰かに見られている訳でもないだろうに」とシグルドが頭を掻いていると、ラケシスからキッと睨まれた。
「シグルドの裏切り者!」
唐突に言われ、シグルドは唖然とした。昨夜もドルチェが現れた際にも言われたが、別にシグルドは彼女を裏切ったつもりはない。
「我侭を言ってはいけない。お前の姉は、わざわざ夜の森の中を、探しに来てくれていたのだぞ」
「だって、帰りたくないんだもの!」
シグルドの言う事を聞かないように、自分の主張を喚き散らすラケシス。全く、これでは小さな子供と何ら変わりはないではないか。
「一体、どういった理由があるのだ? そこまで頑なになるという事は、それなりの理由が有るのだろう」
シグルドが訊くと、ラケシスは口をつぐんだ。やはり簡単には訊き出せないのだろうかと思っていると、ラケシスはそのうちゆっくりと口を開いた。
「私と姉さんは、ソラス・ナクルっていう魔法使いの所に居たの」
「ソラス・ナクルだって!?」
ソラス・ナクルと言えば、伝説の大魔術師の名前である。枯れた大地を緑溢れる野原に変え、また一つの国を一昼夜で滅ぼし、更には邪悪な竜を倒したとまでされている。しかしそれらは「伝説」の範疇を出ない。
それに、ソラスの伝説と言えば、既に御伽噺として語り継がれるまでになっている。シグルドも幼い頃、ソラスの冒険譚を母から聞いていた。アグリア王家始まって一千年の間、ずっと語り継がれているこの話の主が実在するとは思えなかった。もしラケシスの言う事が本当だとしたら、ソラスは千年の時を生きている事になる。
しかし、かの大魔術師の生まれ変わりと称する魔術師は、確かに時折王宮にやってくる。当然、それらはただの誇大妄想持ちや、ファーニャにすら敵わない下級術師だった。ラケシスやドルチェの魔術の力を見る限りでは、確かに優れた使い手なのだろうが、ソラス・ナクルを名乗るとは、よほどの自信家なのだろうと思った。
シグルドの大声に驚いたのか、ラケシスはびくっと一歩下がった。「驚かせてすまない」と謝ると、ラケシスは更に続けた。
「でも昨日、私はそこを抜け出したの。ずっとずっとソラスの所に居て、外に出た事が無かったから……どうしても、外の世界を見たくって」
ラケシスにとって、外の世界は刺激に満ち溢れたものだった。初めて見る植物、動物、木々の隙間から見える星空、全てが彼女にとって、未知の物だった。
生まれてずっと外に出して貰った事がない、というのも不憫な話だな、とシグルドは思った。次期国王となる兄ドノヴァンは、シグルドと違って城の外にあまり出してもらえない。その兄の姿を幼い頃から見ているシグルドには、何となくラケシスの気持ちが分かるような気がした。
「でも、その後、あの変な連中に捕まって……」
「俺と出会った、という訳か」
なるほど、事の経緯はよく分かった。
「しかし、帰らないかどうかは、それとまた別の問題だ。姉が迎えに来たと言う事は、お前の親、ソラス殿も心配しておられると言うことだろう」
「違うわ!」
シグルドの言葉を遮るように、ラケシスは叫んだ。
「ソラスは、私や姉さんが外に出る事を嫌がってるだけなのよ! だって私たちは」
そこまで言って、急に言葉に詰まった。シグルドが厳しい顔になる。「私たちは、何なのだ?」、やはり妖の類なのか。
目を伏せ押し黙っていたラケシスだったが、緊迫した空気に耐えられなくなったのか、
「私たちは、ソラスに作られた人形だから」
そう喉の奥から搾り出した。シグルドは驚いた。
「人形だと?」
シグルドの問いに、ラケシスは静かに頷いた。見た目は人間そのもので、体温や表情、感情も有る様なのに、これが本当に人形なのか。背負った時の肌の感触も人間のそれと全く変わりは無かった。
「私たちが外に出て、人間に見つかれば、きっとその力を求めた人間が自分の所にやってくる。ソラスはそう言ってた。だから、私たちをずっと閉じ込めてたのよ」
ラケシスの翡翠色の瞳に、じんわりと光る雫が浮かんできた。人形なのに涙も流せるのか。
「だから、戻ったらもう二度と外に出られなくなっちゃう! だから帰りたくない、帰りたくないの!」
堰を切った様に、ラケシスは泣き出した。困ったシグルドはしばらくどうしたものかと悩んでいたが、とりあえず落ち着かせようとラケシスを抱きかかえ、背中を軽く叩いてやった。流石にシグルドも、これ以上彼女に「帰れ」などとは言えなかった。
しかし、人形を動かし、意思を持たせることが持たせる事が出来るほどの魔術師、ソラス・ナクルとは何者なのか。ひょっとすると、ソラスに訊けば、ミレーネの呪いを解く方法が何か分かるのではないか。
そう考えたシグルドだったが、ラケシスの泣きじゃくる姿を見ては、とても切り出せなかった。