第十二章「解呪」
アグリア宮殿内は、突如混乱と喧騒に包まれた。
悲鳴を上げながら逃げ回る女官や召使い、剣や槍を構える警備兵や騎士たち。
その原因は、突然大広間に現れたシグルドたち、厳密に言えばソラスの姿だった。
「王宮に化け物が現れるなんて!」
「助けてくれ、殺される!」
「化け物め、何処から宮殿に入った!」
「我らアグリア七騎士団が成敗してくれる!」
突然の騒動にラケシスは驚いてシグルドの背中に隠れ、ドルチェは鼻を鳴らし、ソラスは「まあ予想の範囲内ではあったが」と呟いて視線を落とした。
最も驚いていたのは、シグルドだった。「行こう」とソラスに言われ、手を掴まれた瞬間、結界に入った時と同じく視界が霞み、気付いた時には王宮の中に居たのだから。一度結界内部に入った時に経験しているが、一瞬のうちに王宮に戻れた事に再び目を剥いたのだ。
しかしすぐに冷静さを取り戻し、大きく息を吸い込んで、
「静まれ! 静まれ! アグリア王国第二王子、シグルドは、今この時帰還した!」
シグルドの怒声に、大騒ぎだった広間はしんと静まり返った。混乱してソラスやシグルドに武器を向けていた兵士たちも、慌てて武器を引っ込めた。騎士も逃げ出すほどのシグルドの怒声は、騒動を納めるには効果覿面だった。
その様子を見ていたラケシスは驚いて目をぱちくりさせ、ドルチェは迷惑そうに耳を塞ぎ、ソラスは感心したように静かに笑っていた。
「お帰りなさいませ、お兄様」
ふと背後から声をかけられ、シグルドは振り向いた。ファーニャの顔を見るのが、随分と久しぶりな事の様に思える。
「今帰った」
妹の顔を見れた嬉しさに、顔の筋肉が緩みそうになる。
「そろそろご帰還される頃だと、占いに出ておりました。兄上なら、きっとミレーネ様の呪いを解く方法を探し当て、無事に帰ってくると思っておりましたわ」
ファーニャがそう言って、にこりと優雅に笑ってみせた。しかしその表情は、少しやつれている様に見える。恐らくはミレーネの看護と、呪いを抑えるための魔術の酷使で、疲れが出ているのだろう。
「所で、そちらの方は?」
ソラスの狼面を見ても動じず、ファーニャが訊いてきた。ソラスの魔力を感じ取り、その力の強さを感じ取ったのだろう。
「お初にお目にかかります、姫君。私はソラス・ナクルと申す魔術師。こちらの二人は私の娘、ドルチェとラケシスと申します」
シグルドが答えるより早く、ソラスが深々と頭を下げながら言った。ソラス・ナクルの名に少しファーニャの瞳が驚きを示したが、それはすぐに消えた。魔術が使える者同士だと、色々と詮索しなくても分かるものなのだろうか。
「ご丁寧に、有難うございます。私はファーニャ・フォイム・アグリア。ミレーネ様の事、よろしくお願い致します」
ファーニャもソラスに深々と礼をした。
「所で、父上と兄上は?」
挨拶が済んだところで、シグルドはファーニャに訊いた。父と兄にもシグルドの帰還を伝えたファーニャだったが、まさか大広間に現れるとは予想していなかったのだろう。門の前でシグルドの帰還を心待ちにしている所だと、妹はフフッと笑いながら答えた。
「父上と兄上には、ミレーネ殿の呪いを解いた後、詳しく説明すると伝えておいてくれ。本来なら俺が向かわねばならん所だが、一刻も早くミレーネ殿を助けたいのでな」
言われてファーニャは小さく頷き、正門へと向かって歩いていった。シグルドたちも、ミレーネの部屋に向かって歩き出す。
今だに動けずに固まっている配下の者たちに「いつまで固まっているつもりだ! 早く持ち場に戻れ!」と一喝すると、大広間で硬直していた者たちは一斉に動き出し、慌しく持ち場へ戻っていった。
ミレーネの部屋に案内され、中に入った瞬間、ソラスが「ふむ」と小さく唸った。
その呪いの力を感じてか、ラケシスは不安そうに眉根を寄せて震え、ドルチェも心なしか青ざめている様に見えた。
相変わらず殺風景な部屋に、異様な空気が充満していた。重い。呪いの力が増幅したのか、それともシグルドが胸に潜める一抹の不安のせいか、どちらかなのかは分からない。
「どうでしょうか、ソラス殿」
「呪いを引き剥がすのは造作もない。が、この娘の親か、相当悪どい真似をしてきた様だな」
流石の大魔術師も思わず渋面になるほど、この呪いは厄介な代物らしい。しかしファーニャでも治すに至らない程の呪いを引き剥がす事が「造作もない」とは、やはり大魔術師の名は伊達ではない。
「どうするのです?」
シグルドが、ミレーネの顔を覗きこみながら訊いた。その顔は以前見た時よりも弱々しくなっている様に感じた。呪いに心身を食い破られる憐れな少女を、一刻も早く救い出したかった。
「私が、その娘に憑いている呪いを引き剥がし、具現化する」
言うが早いか、ソラスは杖を高く掲げ、精神を集中させた。見開かれた銀の瞳が、ぎらぎらと輝いた。地鳴りの様な音が部屋に響き渡り、ソラスの持つ杖の先端に付けられた水晶が透明な水色の輝きを放つ。
シグルドがミレーネの隣から立ち退いた瞬間、水晶の光は大きさを増し、ミレーネに向かって伸びた。光はあっという間にミレーネの体を包みこみ、ほっそりと弱った少女の体を宙に持ち上げた。
「ウウウ……」
人間のものとは違う、まるで野獣の様な声が、ミレーネの口から漏れた。途端にその体全体から黒いもやの様なものが現れ、少女の上で大きな球体となって固まった。
「これが呪いの本体か!」
シグルドが腰の剣を抜き、低く構えた。黒い球体を鋭く睨みつける。あれが、まだ一八歳の少女を苦しめている呪いの姿か。
「シグルド殿、その剣で呪いを断ち切るのです!」
ソラスに言われるよりも早く、シグルドは深く身を沈め、大きく跳躍していた。
ミレーネの体から吐き出された黒い球体を、「はっ!」という気合の声と共に、シグルドは一閃の元に斬り裂いた。手ごたえはまるで無かったが、横に真っ二つに切断されたそれは、地響きの様な怨念の声を上げながら、霧散して消え失せた。
途端に体を包んでいた光が消えたミレーネは、ゆっくりと寝台へと降りてきた。その寝顔は血の色を取り戻し、少し安らいでいる様に見えた。