第十章「伝説」
「ここだ、入れ」
ドルチェにぶっきらぼうに言われ、シグルドは眉をひそめた。確かに彼女の指差す場所には大きな洞がぽっかりと口を開けていたが、深さはせいぜい大人一人が収まるかどうか、といった所である。
「こんな所に、本当にソラスは居るのか?」
「信用出来ないのも無理は無いかも知れないが、入ってみれば分かることさ」
言われて、シグルドは洞に飛び込んだ。
その瞬間、視界に霞がかかり、世界がぐにゃりと歪んだような気がした。夢に入る直前を体感している様な、妙な感覚に襲われる。
ぼやけた視界が元に戻った時、シグルドは思わず目を見開いた。今回の旅は、始まる前から驚きの連続だったが、これは特に群を抜いている。
シグルドの眼前には、美しい湖が広がっていたのである。水晶の様にきらきらと輝く湖面は、宝石を散りばめた様に美しかった。しかし天井を見上げてみると、赤、青、緑、黄色と様々な色が混ざり合った雲が広がっている。美しい湖と奇妙な曇天は決して混ざらず、例えて言うなら「全く別の世界が、無理矢理くっつけられた」様な感覚だった。
「ソラスが作り出した世界。ここはソラスの結界の中さ」
シグルドの心中を察した様に、ドルチェが言った。これだけの空間を作り出せるとは、ソラスとは本当に「伝説の魔術師ソラス・ナクル」なのではないかと、シグルドは思った。
「この世界の中でなら、ソラスは何でも出来る。言わば神と同じさ。せいぜい怒らせない様、気を付けるのだな」
ここまで言ってドルチェは言葉を切り、思い出したように「ところで」と切り出した。
「いつまでそいつにくっ付いてるつもりだい、ラケシス。子供じゃあるまいし」
ラケシスは、シグルドの背にくっついたままだった。「もう降りても大丈夫だぞ」とシグルドが言っても、嫌嫌と頭を振って降りようとしない。これからソラスに受ける仕打ちが怖いのか、それとも何か他にあるのか、シグルドには分からなかった。
「まあ良い、さっさと行くよ」
ドルチェが「ふん」と鼻を鳴らし、すたすたと歩き出した。ラケシスが降りてくれないので、仕方なく背負ったままでシグルドも歩き出した。今まで何も無かった湖のほとりに、いつのまにか一軒の家が現れていた。
扉の前まで来て、ドルチェは「連れ戻したよ」と一言言うと、そのまま屋内へと入っていった。そこから発する異様なまでの威圧感に気圧されそうになったが、シグルドもそれに続いて一歩踏み出す。
「失礼する」
やはり魔術師の家となると、魔術の本やら怪しい薬瓶が立ち並ぶ棚やら、魔法陣やらが有るのかと思っていたシグルドだったが、その殺風景さに、自分でもよく分からない表情になった。
有るのは、机と長椅子、そして一人の男が腰掛けている揺り椅子だけだった。思い描いていたものとは全く違う。ミレーネの眠っていた部屋の様な有様である。
「よくいらした」
抑揚の無い声と共に、ぎしぎしと揺り椅子が動いた。若い男の声だった。その声を聞いたラケシスが、びくっと肩を震わせて、シグルドの背から降りた。
ソラスはシグルドに背を向けたままだ。鍔広の帽子だけが椅子の背もたれから飛び出て見えているだけで、その容姿は全く分からない。
「アグリア王国第二王子シグルド殿、この度はラケシスを救い、届けてくれて感謝する」
「騎士として、王族としての義務を果たしたまでです」
シグルドは軽く一礼したが、ソラスはやはり不動のままだった。空気が重い。誰が喋る事も無く、静寂が辺りを包んだ。
このままではいかんと、シグルドが話を切り出そうと口を開いた時、ぎしりと再び揺り椅子が鳴った。
「貴殿の質問にお答えしようか、シグルド殿。ついでに、貴殿の頼みとやらについても」
まだ何も言っていないのに、ソラスは唐突にそう話しだした。しかし、ソラスに訊きたい事が有ったのは事実だし、ミレーネの事も相談してみるつもりだった。まるで今までの出来事を全て知っているかの様な口ぶりに、シグルドは驚きを隠せなかった。
「まず、私は紛れも無く、伝説の魔術師と呼ばれるソラス・ナクル本人だ」
そんな馬鹿な、と思ったが、心の何処かで納得している事に、シグルドは気が付いていただろうか。
伝説となっている大魔術師が、今自分の目の前に居て、自分と話をしている。本来ならば喜ぶ事かも知れないが、得体の知れない恐怖をシグルドは感じていた。
「しかし、ソラス・ナクルの伝説は、既に一千年も語り継がれているのですよ?」
「私はこの結界の中で、時を忘れて生きている。千年の時など、私にとっては関係の無い事だ」
シグルドが言いきるより早く、ソラスが答えた。伝説の大魔術師相手ともなれば、喋る事も不要になるのだろうか。ドルチェが先ほど「この結界の中なら、ソラスは神と同じ」と言っていたが、まさにその通りだなと思った。
「次に、彼女たちの事だが」
言いつつ、ソラスはゆっくりとこちらに向き直った。その姿を見たシグルドは、思わず一歩退いてしまった。自分の描いていた夢を壊された様な、そんな気がしたのだ。
「流石に驚いている様だな」
含むように笑うその顔は、人間のものとは全く違っていた。ソラスの顔は、狼そのものだったのである。よくよく見てみれば、更に三本の尻尾を優雅になびかせているではないか。妖、異形と呼ばれ、忌み嫌われる者たちと何ら変わりのない姿である。
「伝説の魔術師が異形の者と知り、驚いたかね。それとも、失望したかね。あるいはその両方かな?」
口をぱくぱくとさせているシグルドを見ながら、自嘲気味に訊いてくるソラスは、怪しい含み笑いを消さないままだった。青年の様な声が、その顔と不釣合いで奇妙に思えた。
しかし、彼女ら姉妹とソラスの姿に、一体何の関係が有るのだろうか。シグルドは面持ちを正すと、退いた一歩を元に戻し、ソラスの銀の瞳を真っ直ぐに見つめた。