第九章「大樹」
夜が明けて、シグルドは昨晩採った野草で空腹を満たし、ソラスの居る大樹の洞を目指した。
ラケシスの足取りは重いが、今までよりも断然早かった。すぐに休憩を取りたがる点を除いては、順調に目的地へと進んでいる。とは言え、馬の様に強靭な脚力を持つシグルドと比べれば、誰でも「すぐに休憩を取りたがる」事になるのだが。
「よほど早く、魔術の力を取り戻したいのだろうな」
シグルドはそう思った。よほど昨晩の事が怖かったのだろう。確かに魔術を持たないシグルドも、幽霊だの妖だのというものは遠慮したいし正直恐怖を感じはするが、子供の精神のまま育ってしまったようなラケシスには、かなりのショックだったに違いない。
「シグルド、ちょっと、待ってよう」
真昼時になって、後方から疲れた声が上がり、ずんずんと進むシグルドを呼びとめた。
「まだ休憩を取ってから、さほど歩いていないぞ」
振り返り、ラケシスを見やる。彼女は樹に背もたれて、そのままずるずると地面に座りこんでしまった。「人形でも疲れを感じるのか」と今更ながら思う。こういう所はやけに人間くさい辺り、ソラスとはよほどの凝り性なのだろうか。それとも、他に何か目的があってこの様に作っているのか。
「そんな事言われても、疲れたものは疲れたの! 大体シグルド、本当に人間なの? 一日中歩きっぱなしでもビクともしなさそうじゃない」
実際に一日中歩き通しでも大丈夫なのだが、それが当然と思っているシグルドにしてみれば、彼女の非難は首を傾げるものだった。流石にこれは、シグルドが常人と比べて多少――いや、かなりずれていると言わざるを得ない。彼の頑丈ぶりは折り紙付きだった。
「これしきで根を上げていては、騎士団長は勤まらないからな」
平然とそう返されて、ラケシスはうな垂れた。ラケシスは確かに人形ではあるが、体力的にはただの少女であると言うのに、騎士と比べられてはたまらない。
「私は騎士でも何でもないの! ただの女の子じゃない!」
「それだけ騒ぐ元気が有るならば大丈夫だ。さあ、早く立て」
ラケシスの言葉を聞いているのか、シグルドはしれっと切り返した。ラケシスの非難がましい翡翠の双眸が彼を睨んでいたが、無駄と諦めたのか、ふらふらと立ち上がった。
それからしばらくは大人しかったが、やはり数分も経たないうちに、ラケシスは再び地面に座りこんだ。シグルドは再び彼女を叱咤激励したが、猛抗議されて結局シグルドが折れる結果となった。
「魔術の力なんて無くても、充分化け物並みだわ」
ラケシスに睨まれながらそう言われ、シグルドは苦虫を噛み潰したような顔になった。
長めの休息の後、シグルドは再び歩き出した。一刻も早くアグリアに戻り、ミレーネを救わなければならない。その手掛かりが、もう目と鼻の先に有る事で、シグルドの足取りは早くなっていた。
「ねえシグルド」
シグルドに背負われたラケシスが、急に話しかけてきた。長めの休憩を取っても「もう足が痛くて動かない」と不平を言って駄々をこねた為、背負って移動する事にしたのだ。シグルドは視線を前方に向けたまま、聴覚だけ背中に向けた。
「もし私と離れ離れになっても、私がソラスの所に戻って、二度と外に出られなくなっても、私の事を覚えていてくれる?」
昨日と同じく、突拍子もない事を訊いてくる。出会った時は気丈にシグルドを罵り倒していたが、随分しおらしくなったものだと思いつつ、「ああ」と短く答えた。
「本当に?」
「ああ」
「絶対に?」
「ああ」
「本当に絶対に?」
「本当に絶対に、だ」
答え方に不満だったのか、ラケシスはしつこく訊いてきたが、シグルドは面倒とは感じなかった。普段のシグルドならば「しつこいぞ」とばっさり切り捨てる所だが、自分でも不思議だった。
「約束だからね」
「ああ、アグリア王国第二王子の名にかけて、約束しよう」
答えた瞬間、背中の気配が柔らかくなった。恐らく笑っているのだろうなと思った。彼女と出会って、まだ大して時間は経っていないのだが、随分と懐かれてしまったようだ。子供相手には憎まれ役になる事の方が多かったシグルドにとっては、珍しい出来事だった。
いつの間にか、背中から寝息が聞こえてきていた。まだ昼時だというのに、随分と早い眠りだ。よほど歩き疲れていたのだろう。
感情を持ち、体温も有って、眠りまでとる。疲れを知って、足の痛みまで訴えたこの少女は、どう見ても人間にしか見えなかった。ちらりと背中を見やると、彼女は安心しきった表情で、安らかに寝息を立てている。
そのあどけない寝顔に思わず破顔しつつ、シグルドは歩みを進めた。
それから三度の夜を明けた夕暮れ時、ようやくシグルドは目的の大樹まで辿り着いた。シグルド一人ならば一日で踏破できる距離だったが、やはりラケシスが途中で根を上げた為に、到着が遅れてしまったのである。
「見事なものだな」
その樹は、辺りの樹を押し退ける様に、雄々しく大地に根を伸ばしていた。幹にはびっしりと苔が生えており、かなりの年月を生きてきた事を物語っている。またその太さは圧倒的で、一周するにもかなりの時間を要するだろう。上を見上げても、どれほど高い場所までその身を伸ばしているのか分からない。まるで神話に登場する、世界樹そのものだ。
流石にこの辺りまで来た人間は、シグルドを除けば皆無だろう。そこは秘境と呼ぶに相応しく、視界に映る全てが緑で覆われていた。
シグルドはしばらくその光景に見とれていたが、ラケシスは目を伏せていた。家出した子供を親元に引き渡す時、決まってラケシスと同じ表情をしたものだが、今回ばかりは流石のシグルドも同情した。
「ようやく来たみたいだね」
頭上から声をかけられ、シグルドは声の主を見上げた。太い枝の上に、いかにも待ち侘びたといった表情のドルチェが立っており、こちらを見下ろしていた。
「入り口はこちらだ。登って来い」
相変わらずの冷たい声でそれだけ言うと、ドルチェはひょいと枝の向こう側に消えてしまった。流石に木登りを強要するわけにもいかず、シグルドは無言でラケシスを背負うと、苔のついた樹の幹を登り始めた。