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むし

作者: 八束水臣

友人からテーマとジャンルを頂き書いた作品

テーマは虫でジャンルはホラー

色々考えてみた結果ホラーにはなりきりませんでした


柔らかな陽光を顔に浴び彼は目を覚ます。

けたたましく鳴り響く目覚まし時計に叩き起こされた訳ではないごく自然な覚醒である。

着の身着のままで大欠伸をしながら居間に入ると。


「あら、お早うございます」


大した感情の起伏もなく長年連れ添った女房が挨拶して来た。

軽く首を折って返す彼に不満がないわけではない。しかしそんな態度であっても毎朝自分の席の前に朝刊が置かれていたので別段口には出さなかった。

勤続50年、真面目一徹仕事に打ち込み今年の春に定年退職した彼は立派に育て上げた一人娘の孫を抱くのが数少ない楽しみであった。

新聞を広げた彼の前に温め直した朝食を用意すると女房は無言で居間を出て行くがいつもの事なので彼は気にせずもそもそと箸を動かし始める。

話し声もなくテレビの音もない静かな空間にただ彼の奏でる食器の音のみが響いていた。


「じゃあ、行って来ますからね」


遅い朝食を漸く摂り終えた背後から小綺麗な外出着に身を包んだ女房がそれだけ告げると答えも聞かずに家を出て行く。

それもまたいつも通り、彼女は数年前から家事を疎かにしない事を条件に週3度社交ダンスの教室に通っていたからだ。彼女にしてみれば趣味が高じて始めたものの今では息の詰まる家から抜け出せる良い口実となっていた。

そんな心持ちなど終ぞ気にせず彼は食器を洗い、居間を抜けて縁側に腰を下ろす。木造の柱にもたれ胡座をかいて新聞を読む。仕事を生き甲斐としてきた彼は時間の使い方が分からず日長1日呆けて過ごす事も少なくなかった。そんな彼の日程に縁側で新聞を読む行為が組み込まれたのも当然の流れと言えよう。

程良い日差しに緩やかな風、土の臭いが微睡みを誘う。活字を追う事すら億劫になった彼は瞼を閉じそれに従った。



私は歩いている。

鋭く強靭な爪を大地に突き立て歩き続けている。一列に連なり先の者が残した匂いを追い、延々と。

端から見れば滑稽にも無様にも映るのであろう。

しかし私の刻むこの一歩ずつが若者の、大母の礎となり糧になると思えば他者の眼など全く気にならない。

そうだ、私如きくたびれた老骨が一族に貢献出来るのだ。

こんなに素晴らしい事はない。

故に私は胸を張って歩き続けている。



はっと目を覚ました彼は朧気な意識のまま辺りを見回す。いつもの景色、いつもの縁側、何ら変わる事のない状況に冷静さを取り戻し記憶の欠片を繋ぎ合わせていく。

像を結ばない曖昧な視覚、一歩毎に土を削るような音がした、そして大地が近く途方もなく高い空が広がる世界。

見る、聞く、触れる。

それら全てが初めての感覚であった筈がごく自然に受け入れていた自分。

高まる疑問に首を傾げた彼がついと目をやった先に中庭が映った。

蠢く黒い小さな筋。整然と列を成す動きは遠目からすると一塊の生き物に見える。

そう、蟻であった。

それも働き蟻だ。

合点が入り微笑して立ち上がる。

その時はまだ彼にとって不思議な夢程度でしかなかった。



運ぶ。

ひたすらに運び続けるだけの行為だ。

単純だが私は決して折れない。

何故なら、この重さが一族の明日を約束してくれているから。

大勢でそれを引きずりながら私達の帰還を心待ちにする大母を思い浮かべ家を目指す。



数日経ち安穏とした彼の日常に小さな歪みが生じていた。

あの日を皮切りに夢を見るようになっていたのだ。それも繰り返しではなく断続的に進行する物。見る時もあればそうでない時もあり眠れば昼夜問わず突然去来した。

普通の感覚であれば節足動物、しかも矮小で地を這う生物に変貌するなど許容出来る範疇の事柄ではない筈であろう。

しかし彼は違っていた。

同じ老いさらばえた存在であっても蟻はやりがいのある働きに誇りを持って従事している。

空虚にただ時間を持て余している彼とは真逆であると言えよう。

生物一つ一つに格などがあるわけではないが個としてのそれは蟻に劣っていると感じていた。

しかしそれと同時に蟻として高潔な精神を持てるその時を心待ちにしていた。

いつものように縁側で柱に身を預けているがその手に新聞はない。視線は中庭に集中している。

蠢く小さな粒の塊。

もはや仲間意識すら芽生えている彼は微笑ましい面持ちで観察している。

今までの経験からか彼は細やかな異変に気付いた。蟻達は緩慢に動き回るだけで一向に巣へ戻ろうとしないのだ。

合点が入った彼は立ち上がり台所からシュガーポットを持って来ると一匙ばら撒いた。

途端、素早く動き出した蟻達はそれを拾い或いは引きずり列を成し始める。親愛の情が籠もった目で彼はそれを見続けていた。



素晴らしい。

まさかあいつがこんな事をするとは。

私はあいつが戯れにばら撒いた食料を仲間達と我先に拾い集める。

本当に助かった、これで大母達も餓えずに済む。

驚喜する仲間とは別に首を持ち上げた。

薄ぼんやりと映る視界にはあいつがにやけているように見える。

不快感を覚え私は巨大なあいつを尻目に食料を引きずり家へと向かった。



彼は気でも狂ったのかと困惑していた。

断続的に進行する蟻としての生活。見上げた先には朧気ながら確かに自身が映っていたのだ。

蟻である自分と今こうして縁側に座る自分。互いの世界で交わった時、虚実の境目が崩れ始めた。

当然、片方が状況に合わせて捏造されただけに過ぎず、それは蟻である自分の筈だ。

しかし条件を同じくした今では確信を持って断言出来ず、蟻が人である自分の夢を見ているのでは、と想像して小さく身震いする。

夢と言うには生々しく、現実と言うには荒唐無稽。

一笑に付せばそれまで。

しかし今の自分が蟻より重みのある生を送っているとどうしても思えず簡単に切り捨てる事が出来なかった。むしろ誇りある生を享受する蟻が自身の本質であって欲しいとすら彼の攪拌された脳が主張する。

虚ろな穴が満たされた。


今まで以上に中庭を気に掛けるようになっていた。砂糖などを撒く行為は一度や二度に留まらず、雨が降れば巣穴に傘も差す。

訝りながらもそれらを受け入れた蟻に満悦な笑みを浮かべる。

彼は眠るのが愉しみになった。

女房の淡白な態度や言葉など一切気にならなくなっていた。中庭へ出る事を固く禁じた彼へ向けられた彼女の奇異な視線など汲み取れる筈もない。

そんなある日、娘が孫を抱き訪れた。


「あれ?母さんは?」


聞けば同窓会の為、子供を預かって欲しいとの事。しかし生憎と意中の相手は社交ダンス教室へ向かったので不在であった。


「父さん本当に大丈夫?」


家事、育児に免疫があると思えない父親に娘は不安気な顔をする。しかし人として唯一の楽しみである孫との触れ合いと言う餌に釣られて彼は大見得を切った。

娘が帰ると家は大騒ぎ。

孫は歩き始めた遊びたい盛りの1歳。少し目を離すと何でも口へ放り込もうとするので彼が慌てて制する。新聞やティッシュ、色々な物を散らかすので片付けているとその隙にまたいなくなる。その繰り返しであった。

癇癪を起こして泣き始めると対処の術も分からず途方に暮れる。

疲れて眠った孫の隣でぐったりと憔悴した彼は大きく息を吐いた。

ちらりと視線をやるとブランケットに包まれて寝息を立てる孫の姿がある。その可愛さたるや疲労が一気に吹き飛ぶ程。破顔した彼はふと蟻である自分を思い起こした。

確かに子孫を残し誇りある生を歩んでいる。しかし今のように無条件で子を、孫を愛し慈しむ感情があっただろうか。

ない。

あるのは種の永続を願う本能に近いそれだ。

人である事の充足を感じた彼は孫の寝顔に微笑み立ち上がると台所へ向かう。娘から渡された鞄をあさり、離乳食を取り出すと説明を凝視して覚束無い手つきで用意し始めた。


「あぁ、あぁー」


居間から声が届く。見ると涎を撒き玩具を振り回す孫の姿があった。

先程迄とは打って変わり穏やかな心で抱き上げ、雑巾で床を拭き孫をあやす。

落ち着いた所で胡座をかき足の間に座らせると離乳食をゆっくりと口へ運んでいく。上手く食べられず端から零しても彼は目くじら一つ立てず柔らかな笑みで見守った。

暫くして寝かし付けると彼は座り馴れた縁側で人心地付く。

ふと視線を落とすと彼の意識は真っ白に吹き飛んだ。

先には雑巾、涎に塗れた小さく黒い粒。

心臓が悲鳴を上げた。急速な脈動に伴い全身の穴という穴から発汗する。

いつになろうと人である時の出来事は蟻の時も体験した。

果たして死は如何様にして映り、降り掛かるのか。


彼は眠るのが怖くなった。


もやっとした感じが伝わったら幸いです

ジャンルは何でしょうね?

短編ミステリ?

トワイライト的な感じでしょうか

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