昭一の章 4
翌朝、床に散らばったBB弾を避けつつ、玄関を出て俺は店に向かう。昨日と違う事は、
一、鬼軍曹の中居がいる事
二、今日は週末、金曜日である事
これに尽きる。
もう一つ言える事は、朝の準備が変わってくるという点。
来客が見込める週末金曜日は、当然ながら出勤してくる嬢も増える。完全歩合制の彼女達にしてみれば当然の行動といえるが、結果として稼動する客間の数は増え、準備に少々時間を要するのだ。
「うーす」
「あ、中居さん、おはようございます。」
二階に戻ると、今出勤してきた中居にドスの利いた声で挨拶をされた。
「あ、中居さん。本日、ボイラーは一号機を点火しましたが、週末ですけど、片っぽだけで良かった……でしょうか?」
「ん? ボイラーか? 今日はまだ大丈夫じゃ。土日は二つとも点火けろよ」
全ての客間が一斉に風呂を使い出すと、ボイラー一基では許容量を超えて故障する可能性がある。そもそも『特殊浴場』という名目で営業許可を取っているだけに、店にとってボイラーは生命線であり、ボーイが最も気を使う所だ。
客間の準備を済ませてカウンターを拭いていると、階下からガヤガヤと声が聞こえてきた。嬢が四人ほど相乗りで出勤してきたようだ。
俺はすかさず通用口のドアの脇に立つ。
「「「「おはよーございまーす」」」」
華やかな声と共に嬢達がフロントに歩み寄る。男一色だった店内の空気が幾分か華やぐのを感じる。
そんな嬢達に中居は、
「あ、みんなおはよー!」
出勤してきた嬢たちに満面の恵比寿顔で挨拶を返す。
ちょっと待て! 今、あり得ない位に表情が変化したぞ!? これがさっきドスの利いた声で挨拶してた男と同一人物とはとても思えん!
この街はあれか? 顔面の表情筋が進化したニュータイプが集まる所か!?
「おはようございます。早苗さんは401号室、瞳さんは301号、恵那さんは…」
淡々と本日の客間の振り分けを伝える小林。中居の豹変振りに驚きもしない辺り、これが日常の風景らしい。
「ん? どうしたの乙原君?」
「……いや、ちょっと表情筋の柔軟体操をしておこうかと……」
急に顔をこねくりだす俺の様子は、彼にはさぞ滑稽に見える事だろう。
「……そう。が、がんばれ……」
もっと気の利いた声援をくれよ!
「おはよーぅい!!」
一通り自作の柔軟体操が済むと、今度は萩本が出勤してきた。今日はテーマソング付きでは無いようだ。
「美樹ちゃん来てるー?」
「おはよう真琴ちゃん。美樹ちゃんは今日はお休みだよ。
何か用事でもあったかな?」
「いやさ、岐阜の大仏についてググって調べてきたから、ちょいとレクチャーしてやろうかと思ってね!」
「……へぇ、そう……」
薄い胸を張りつつ得意げに語る情報でもないだろ!
ほらみろ。さすがの中居も恵比寿顔が凍ってやがる。
● ● ●
大仏はさておき、その後送迎車は数回出動し、本日の出勤嬢が揃った所で、俺は朝一の段取りを確認する。朝一の予約は四件、その後に三件か。
「岐阜の大仏ってのは、日本最大の乾漆仏なんよ。
あ、乾漆仏ってのは骨組みの上に紙を張ってその上に漆を……」
カウンターの脇では萩本が中居を捕まえて大仏についてのレクチャーに勤しんでいる。はっきり言って邪魔臭い。
アイスペールを4+1の五個用意して来客を待つ。こちらは準備万端だ。
「建立したのは江戸時代の天保三年でね、当時の住職、推中和尚は大仏を造るのに……」
まだやってんのかよ!
「そんなに肩肘張ってると疲れちゃうよー」
カウンター内のモニターを注視する俺に、小林は
『萩本と中居が隠れるように』
朝刊を広げ、お握りを頬張りつつ間の抜けた声をかける。そんなものだろうか?
「あ、御来店です!」
モニターに一台のRV車が映る。
「んも? このパジェロは坂先様だね。乙原君、お茶の用意お願い。お出ししたら301にアイス持って行って」
小林は新聞を畳むと、傍にあったお茶でお握りを流し込み、淡々と俺に指示を出す。
「え? 客!?」
萩本がレクチャーを中止し、こちらを向く。
そうだよ。敵襲だよ。戦闘開始だよ!
「いけね! じゃ、真琴ちゃん失礼!」
中居が焦った様子で一階に駆け下りる。
顔に『やっと開放された~』と書いてあるぞ?
自室に消えた萩本を他所に、俺が給湯室でお盆にお茶と茶菓子とアリナミンの三点セットを用意し、おしぼりウォーマーの蓋を開けた時、カウンターの内線電話が喧しい音を立てる。
「はい……了解」
電話は一階からだろう。坂先の来店を通知したものと思われる。
俺は舞台袖、給湯室の中でお盆を持ち、己の出番をじっと待つ。
「いらっしゃいませ~こちらへどうぞ~」
小林が客を案内する声。客が待合室に入ったのを確認し、俺は行動を開始する。
「ようこそいらっしゃいませ~」
お茶出し位なら既に楽勝な仕事だ。
「失礼いたします」
が、茶だけ出したらササッと下がる。
指名嬢の確認や料金の受け取りは新米には許されない行為だ。現生しか信用しないこの業界ならではの風習である。俺が下がるのと入れ違いに小林が客の元に跪いた。
「おはようございます坂先様。
本日は瞳さんを御指名という事でよろしかったですか?
毎度有難うございます。料金は……」
小林が接客をしている内に、俺はアイスペールを届けねばならない。
通用口を出て、アイスペールを一つ取り、ダッシュで三階を目指す。着いたら301の前でノックだ。
「瞳さん、スタンバイ願います」
「えー、もう来たのー? そこ置いといてー。」
中からはシャワーを流して何かを洗っている音が聞こえる。手が離せないという事か。
来店を知らせるという目的は達したので、客間ドア横の棚の上にアイスを置いて立ち去る。この小さな棚は【下げ台】と呼ばれ、嬢達は使用済みのグラスを等を置くのに利用している。
ついでに下げ台の上に置かれたゴミを回収し、フロントに戻る。
「いらしゃいませ~こちらへどうぞ~」
今度は来客二人組だ。
給湯室に素早く戻り、盆を二つ用意する。
「(今度は302と402ね)」
茶を出し終えた俺に小林が小声で指示する。302と402ときたか。了解だ。
今度はアイスを二つ持ち階段を駆け上がる。まずは三階。
「翔子さん、スタンバイ願います」
ドアを開け、無言でアイスを取る翔子。
次は四階だ。
「早苗さん、スタンバイ願います」
「……」
ドアを開け、無言でアイスを受け取る早苗。
……お前等なんか言えよ。
「お電話有難うございます。シェリー・キャッスルで……あ、田中様。おはようございます。今、駅にお着きですね?」
フロントでは小林が電話応対中だ。客がJRで来たらしい。本日四人目の客だ。
俺はカウンターに近づき、内線電話に手を掛ける。小林も目で『かけて良し』と言っている。
まずは客の電話を取る前に内線から慣れよ、というのが鬼軍曹中居からの命令だ。
「恐れ入りますが田中様、本日着てらっしゃる服の色などを……白いコートですか、はい……
それでは当店の送迎車……」
ここで俺は一階にコールをかける。
「はい」
受話器を取ったのは中居。声が少し震える。
「お、おむかえ、田中様、
白のコートを着て、
じぇ、じぇJR南口です……!」
「お前、はっきり喋れ! それとJRって言わずに『南口』だけで通じるわ。なめんな!」
そう怒鳴ると荒々しく受話器を置く中居。そんなに怒る事か!?
「お迎えの客はタイムラグがあるから、先に給湯室にお盆だけ用意しておいて。終わったら201にアイス持ってっといて」
言われた通りに盆を用意し、アイスペールを201に届ける。
「真琴さん、スタンバイ願います」
「お、客来たか! よっしゃ! 登別カルルスの出番だ!!」
……無言で受け取られるより全然マシだが……
別府と草津はどこに行った……?
二階、フロア係の仕事はアイス運びだけではない。
一階駐車場に陣取る中居、山木に対し、俺と小林は、カウンター内に小林で給湯室に俺。というポジションで仕事に臨むのだが、給湯室の勤務とは、具体的に
プルルルル
おっと、内線が鳴り出した。小林がすかさず受話器を取る。
「はい? ……はい、かしこまりました」
電話のランプが304号室を表示している。瞳からのようだ。
「304、ホットレモンティー二つね」
これだ。
客間には基本、コーラやウーロン茶といった缶のドリンクは常備してあるが、それ以外のメニュー。例えば熱いお茶やコーヒー。アイスクリーム等は給湯室のポットや冷蔵庫から賄う。これらを客間に配達するのが俺のメインの仕事となる。
二階の客間に届けるだけなら楽なものだが、このビルは四階まである。
風俗店における店員の心得其の七
エレベーターはお客様の為にあり!
ボーイが使うなど言語道断と知るべし!
エレベータは客の為だけに存在し、従業員は男女共に移動時はそれを使えない為に階段を根性で往復する事となる。ただし、閉店後のタオル補充に関しては例外的に使用が認められているが。
「乙原君、レモンティー届けた? 次は401にホットコーヒーを一つお願い」
階段を往復した先は次の用事が待っていた。
「おかえり。次は302にアイスクリーム二つね」
「……! 御来店だね」
「アイス、401の茜さんに持ってって」
「あ、ちょっと待った。ついでに402にホットレモンティー一つ」
四階に行って二階に戻り
三階に行って二階に戻り
四階に行って二階に戻り
何だか大工仕事より草臥れるのは気のせいか!?
その後も絶え間無く階段昇降運動は続く。飲み物を届けるついでに別の客間から飲み終わったカップが下げられているかも確認しなければならない。下げ台に使用済みグラスが置かれたままでは客も興ざめしてしまうからだ。
行きはコーヒーを乗せたお盆に、帰りは空のカップを乗せて降りてくる。
階段を何回昇り降りしたか数えるのも面倒臭くなってきた頃、三階にビールとツマミを届けた帰り、二階通用口のドアに人影を確認する。翔子だ。
来客を告げてから十分弱、支度を終えてフロントに降りて来たのだろう。彼女はドアのガラスから静かに店内を伺っている辺り、フロントに客の動きがあったに違いない。急な御来店でもあったのだろうか?
俺は銀色に光る盆を抱え、恵那嬢の背後で客がはけるのを待つ。飲み終わったカップを手に客の前に出る訳にも行くまい。
翔子はじっと扉の向こうを見つめる。待たされているせいか、多少不機嫌な様子だ。
彼女は店の制服である真紅のキャミソールを身に纏い、
その良く透ける生地からは、形の良い尻と、
申し訳程度に肌を隠す黒のTバックが伺える。
一般には羨ましがられそうな光景だが、
?
!
ぞ
ぇ
ね
は て
の コ し
俺 ン 起
チ 勃
ん
ぜ
ん ……いいから早くどいてくれよ……
ぜ
はっきり言って勃起してる余裕など微塵も無い。
俺には今、給湯室で溜まっている仕事の方が遥かに重要なのだ。
早い話、中居に怒られるのが怖いのだ。
やがて翔子嬢の案内も済み、待合室の客がはけると、フロントには束の間の平穏が訪れるように思えるが、突然ドリンクの注文が来るとも限らないので、内線に注意を向けつつ今度は溜まった食器の洗浄を開始する。
背広を脱ぎ、Yシャツの袖をまくって流し台と対峙し、溜まったカップや湯飲みを洗っていく。
時折鳴る内線には、光の速さで手を拭く事で対応し、また階段を駆ける。
俺が部屋にドリンクを届けると、まるで待っていたかのように別の部屋の前には飲み終えた空き缶や飲み終わったカップが置かれている。片付けようとすると、部屋の中から
「アッ……アッ……アッー!!」
といった声が聞こえてくる。真っ最中か……。
フゥ……と、鼻から溜息が一つこぼれた。
冷静に周りを見渡すと、そこら中の部屋から同様の声が聞こえてくる。当然か、ウチはそういう商売だもんな。
食器を下げ、洗い物を済ますと、今度こそ束の間の平穏が訪れる。この隙に煙草の一本でも吸わせてもらうか。
「ちょっとごめんよー」
間の悪い事に、こういう時に限って小林が顔を覗かせやがる!
「!! あ、店長! どうされました?」
慌ててタバコを消し、直立不動の姿勢を取る。
「あー、タバコくらいは吸ってていいよー。
それより、気付いてる? 真琴さんのお客さんはショートコースだよ。そろそろアップしてくるから気を付けてねー」
流し台で手を洗いつつ、小林はそう告げる。そうか、早めに上がる客もいるのか。冷蔵庫を開け、麦茶の残量を確認する。問題無し。
「おあがりなさいませ~こちらのお部屋にどうぞ~」
嬢の見送りを受けた客は、今度は『あがり部屋』へと案内される。さて、先程用意した麦茶を出さねば。
「おあがりなさいませ~」
そう言い、湯上りの客に麦茶とおしぼりを出す。しかし、実にマッタリとした顔をしてやがるな。熱いお絞りで顔を拭きながら、お客様は独り言のように語り出す。
「いやー、やっぱり有馬の湯だね~……」
……別府と草津と登別はどこに行った……?