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昭一の章 2



「まてぃ下郎! その首置いてけやオラー!!」

 階段の遥か下から萩本の物騒(ぶっそう)台詞(せりふ)が響く。洒落になってない状況の様だ!

 夜中の十一時、俺は必死で階段を駆け上がる。

 ただでさえ関節技で腕が痛いというのに、これ以上ダメージを増やされてたまるか!

 駆け上がる最中、壁に描かれた「4」の表示を確認。ビルの最上階まで来てしまったか。

 俺は肩で息をしながら逃げ道を模索する……。

 この上は屋上。逃げ道は無い。ならば!

 俺はドアノブに手をかけ、力を込める。鉄製の防火扉はやや面倒臭そうにその身を稼動させた。

 四階の客間は今日は使ってない筈! 案の定、電気の付いてない暗い廊下が眼前に現れた。さて、どこに逃げ込んだものか。


 数秒遅れて防火扉が開く音が聞こえる。萩本が四階まで来たか。

 俺はと言うと、息を殺して階段ドア横の【ボイラー室】にその身を潜めている。

 ソープランドというのは、正式には『特殊浴場』といい、厳密には『やたら料金の高い銭湯』だ。接客する嬢とセックスをするのは、


『客と嬢が勝手にやってる事であり、店は一切関与してません』


 というのが法律上の建前であり、売春が禁止されている日本国でも存在を維持できている理由となっている。

 そんな『お風呂ビル』の全室の風呂を(まかな)っているボイラーだけに、ビル内でのボイラー室の存在感は大きい。轟音をあげて湯を()かすボイラーは、近くに居るだけで今が冬だという事を忘れさせてくれる。と、いうか、暑い……。

 全力で階段を上ってきたのも手伝って、額にやたら汗が噴出(ふきだ)してきやがる。ここではなく【リネン室】に逃げ込むべきだったか!? あそこならタオルが沢山あるしな……

 ドアの向こうで気配がする。萩本が俺を探し回っているようだ。

 俺は肩で息をしつつ、ハンカチで汗を(ぬぐ)う。大工なら作業服の袖で拭く所だが、流石にサービスマンである今、背広の袖で汗を拭いたら鬼軍曹(中居)にぶっとばされるだろう。

 と、その時、不意に横からタオルが差し出さる。店で使っているピンク色のタオルだ。

「ありがとうございます!

 あ、私、新入りの乙原と申します。」



 風俗店における店員の心得其の二


     店の女の子は大切な商品。最大限の礼儀を以って

                       接するべし!



 タオルを受け取り、体を差し出された方に向け頭を垂れる。

 ……しかし、なんでボイラー室(こんな所)に店の嬢がいるんだ?

 不思議に思い頭を上げると、店の制服とは別の白いキャミソール姿の女性がそこに(たたず)んでいる。女性は俺がタオルを受け取ると、ゆるやかな微笑みを浮かべ、一拍間をおいてその姿を透明にしてゆく。透明にしてゆくというか、消えた!?

「そこにいたか昭の字……」

 振り返ると、そこには当店のナンバーワン嬢が静かに佇んでいた。

 再び汗が噴出したが、理由はボイラーの発熱だけではあるまい。



       ● ● ●



「……乙原よ、大丈夫か?」

「……奴は涙橋(なみだばし)を逆に渡れる逸材ですよ……」

 左の頬を押さえる俺に少々心配そうに中居が声をかけてきた。

 鬼軍曹も引く程に萩本の右ストレートは光るものがありやがるぞ畜生……。

「それじゃ乙原君、女の子がみんな帰ったから閉店作業のやり方を教えるよ。付いて来て!」

 山木が立ち上がりそう言い放った。おい、少し休憩させてくれよ。

「涙橋って……元ネタは『ジョー』か?」

 中居がタバコに火を点け、ソファーに腰掛けたまま顔をこちらに向ける。ああそうですよ!

「まず、接客で使ったタオルを補充するから」

 そう言い、スタスタと歩いていく山木。ちなみに中居と山木の二人は一階駐車場で客の対応をしているが、客の受付も終了するこの時間帯は二階の(客用)待合室でくつろぐ事が出来る。

「まず真琴さんの部屋からね、タオルの数をチェックして減った分をリネン室から補充するから」

「ウス。これもボーイの仕事ですか。えーと……さすが萩本は客が入ってるだけに減りが多いな」

「おい」

「はい?」

「乙原君って、真琴さんの同級生なんだってな?」

「店長から聞きましたか。そうですよ」

「同級生だからって、店の女の子を本名で呼ぶ奴があるかよ!」

「あ、うっかりしてました。以後気を付けます」

 チッと舌を鳴らし、次の部屋をチェックしに行く山木。そんなに不機嫌になる事か?


「で、このリネン室にタオルや備品とかをストックしてあるから。後、休憩中はこのソファーで寝てていいよ」

 俺と山木は各部屋をチェックした後、四階のリネン室を訪れる。壁の向こうからボイラーが唸る(うなる)音が聞こえてくる。

「はい。確かにソファーと備品もありますね。ん?」

「山木さん、この盛り塩は一体……?」

「さあ? 僕がこの店に来た時からあったよ。それ」

 ……ボイラー室の女性の事は黙っておくか。

 その後、ボイラーの消火、備品やドリンクの補充。給湯室の片付けを終わらせ、最後に二階フロアを消灯し、一階を施錠。これにてボーイの一日の業務が終了する。店の外に出る頃には街のネオンも既に消え果て、既に日付が変わっている事を思い知らされる。

 駐車場に戻り愛車のシートに体をうずめ、本日の業務を振り返る。これが毎日続くのかと思うと、疲れが倍になった気がした。

 気を取り直し、ネクタイを緩めつつ煙草に火を点け、エンジンを回す。窓を開け煙を吐き出すと、自らの頬が少し痙攣している事に気付く。



「乙原君、君は今日からサービスマンなんだから、少し笑顔の練習をした方がいいね」



 風俗店における店員の心得其の三


     ボーイは常に笑顔を心がけるべし!



 今朝小林に告げられた命令だ。


「笑顔? 

 ……練習?」

「そ。そんな仏頂面じゃ、お客さんに失礼でしょ?

 ちょっと笑顔作ってご覧。

 ほら、スマイル0円ってね」

 職人だからか別の理由か、元々愛想の無い方だとは自分でも思っていたが、改めて仏頂面とか言われると少々傷つくな……。


「こ、こうですかね……?」


「……うん、気長に頑張ろうか……」


 ド畜生。


 そんなやり取りを思い出し、煙草を灰皿に押し付け、アクセルを踏み込む。

 しかし、一日口唇(こうしん)を持ち上げただけで筋肉痛とは、日頃どれだけサボってやがったんだよ俺の表情筋はよ……。

 訳の解らん関節技よりも、理不尽な右ストレートよりも、この表情筋の筋肉痛が何よりも痛むのは何故だ!?



       ● ● ●



「あ、兄貴お帰り。あ! きゃあああああ!! 撃たれた! スナイパー!? くそう、どこに隠れとったんすかぁー!?」

 帰宅し居間に入ると、オンラインでFPS(戦争ゲーム)をプレイ中の妹がそこに居た。こんな時間に騒々しい奴だな……取り合えず俺は風呂に入ることにしよう。


「親父は? もう寝たのか?」

 風呂から上がってビールを開ける。

「父ちゃん? もう寝ちゃったよ」

 そうか、と答え、俺は缶を傾ける。

「で、金津園の一日目はどうだったん?」

 綾女はゲームをログオフし、プレステの電源を落とつつ、まぁ当然と言える疑問を聞いてきた。

「プッハァー……旨ぇ!

 色んな意味で疲れた……あ、そうだ。店の女の子に『萩本』がいたぜ」

「マジで!?

 萩本って、郁恵(いくえ)先輩!?」

「ああ。俺も驚いた」

 『真琴』こと萩本は、下の名前を郁恵という。

 元々、俺と萩本は高校の部活。『演劇部』での友人だったのだが、俺達が三年だった時に新入生として入部してきたのが綾女だ。その年の夏の芝居は出来が良く、県大会に進出が決まった時は綾女と萩本は抱き合いながら泣いて喜んでいたものだが、それはまた別の話だ。

「そうかー、郁恵先輩は声優の道を諦めたんか……」

「流石にオタ要素は抜けきってないみたいだがな」

「そりゃそうやろ。懐かしいな~。先輩の携帯の番号知っとる?」

「知る訳無ぇだろ! そんなもん聞いた日にゃ、今度こそ腕をベシ折られるわ!」

「……? 良く解んないけど、先輩も変わったって事かね? じゃあさ兄貴……」

 そう言うと綾女は適当なチラシを一枚取って自分の携帯の番号とアドレスを書き出した。それはいいが、チラシの裏かよ。普通、年頃の女ってのは可愛いメモ帳とかに書くもんじゃねえのか? ほら、なんか流行ってんだろ? 『ツチノコ二等兵』とかいう変なキャラクターとか……?

「よし。じゃ兄貴、これ明日さ、先輩に渡しといてくれる? あたしはもう寝るわ」

「ん、わかった。所で何かツマミが欲しいんだが、あるか?」

「冷蔵庫にチクワがあるよ。おやすみ」

 またチクワかよ!



       ● ● ●



 翌朝、やかましい目覚ましに叩き起こされ重い(まぶた)を開く。

 あと十分程、暖かい布団に包まっていたい所だが、意を決して布団を跳ね除けた。

 綾女も親父も出かけてしまった家の中。俺は一人、温水器のスイッッチを入れ歯を磨く。

 歯を磨き、顔を洗い、髪も整えたら自室にてハンガーにぶら下げておいたスーツに着替える。

 昨日、鬼軍曹に怒鳴られた事もあり、今日はネクタイをしっかり確認せねばな……。

 ……問題なし。さて、職場に向かうか。


「お早うございます!」

 ネクタイを完璧に調え、二等兵たる俺は一番に店に赴き、一階の客用駐車場を掃除しつつ、店の同僚たちに挨拶を交わす。

 ついでに店の前を通る他店のボーイにも挨拶を送るが、彼等は皆、気だるそうな顔でおはようさんと挨拶を返すのみであった。

 前夜に洗濯しておいたおしぼりを乾燥機にぶち込み、店の前にキャスター式の看板をガラガラと外にひっぱり出す。

 看板のコードをコンセントに挿し、盛り塩を入り口付近の所定の場所に配置して、ようやく一階店先の準備は完了する。

 続いて本日の出勤嬢と使用する客室の確認。

 客室の振り分けは店長の小林の仕事だ。

 カウンター裏のホワイトボードに書かれた名前で、使用する客室の状況を把握する。内容は



  201 真琴

  202

  301 美樹

  302 翔子

  303 恵那

  304

  305

  401

  402



 といった具合だ。使わない客室は空白で記されている。

 本日は全九部屋のうち四部屋使用か。

 確認の後、最初に四階に上り、ボイラー室にてボイラーを点火、二基ある内の一つを作動させる。

 ボイラーが二つある理由は、仮に片方が故障した時、もう片方で給湯を賄う為だ。まあ、風呂屋でお湯が出なけりゃ、そりゃ何屋だよって話になるからな……点火を確認後に同じく四階事務室にて、神棚の水とお供えの米を取替え。きちんと産土(うぶすな)の神を敬ってるのが心憎いな。

 その後で上階から各フロアの廊下の照明の点灯、エアコンの起動。各階のトイレのトイレットペーパーを三角折りにし、ペーパータオルの補充。

 その後に鏡を磨きながら、ついでに笑顔の練習を試みる。



「…………」

 まあ、気長に行こう……



 ぼやいている場合ではない。肝心なのは客室の準備だ。

 各客室の鏡と酒瓶(ブランデー、焼酎)は毎日磨き、本日使用しない部屋は冷蔵庫のスイッチが『切』になっているのを確認。

 使用する部屋は冷蔵庫のスイッチを『切』から『8』に設定し、夜中のうちに冷凍室に溜まっていた水を廃棄。

 部屋のエアコンは室温『28℃』風量『強』に設定。

 室内の電灯は全て点灯し、切れた電球が無いか確認。

 風呂場にてバスタブの空気枕とエアーマットを手で押して空気圧をチェックし、パンクの有無を確認。パンクが見つかったらリネン室にある予備のマットと交換しておく。

 各部屋の準備を整えたら、次は二階フロアの準備がある。

 フロントのカウンターを拭き、給湯室にておしぼりをウォーマーに入れ、お茶葉を茶漉()しに入れておく。来客の【待合室】、及びプレイ後の【()がり部屋】のテーブルを吹きつつ、各卓に飾ってある花瓶の花をチェック。(しお)れた葉や花が無いか確認。本日の新聞(スポーツ紙、経済紙)をホチキスで止め、雑誌を整頓しつつ並べる。

 続いて談話室に行きエアコンの起動。ここでも室温『28℃』風量『強』。

 ……正直言って暑いのだが、常に薄着で待機する嬢の為の配慮である。全く、地球に優しくない産業もあったものだ。

 コタツの上にある読み散らかした雑誌を整えコタツのスイッチを入れる。あ、そうだ、これ壊れてるんだったな……。

 以上が『フロア係』の開店作業となる。一階の『配車係』は店の送迎車で出勤嬢を迎えに行っている。これは山木と中居の仕事だ。と、ここで鬼軍曹の中居がいない事に気付く。

「店長、そういえば中居さんがまだ来てないですよね?」

「んぁ? 中居さんのシフトは木曜休みだからね、今日は来ないよ」

 朝食としてコンビニで買ったのであろうサンドイッチを(かじ)りつつ、朝刊を読みながら小林は答えた。

 ……その朝刊、客に読ませる為の物では?

「ちなみに山木君は月曜休みで乙原君は火曜休みね。

 もひとつ言うと、僕は水曜休みなんだけど、オーナーに出す書類とか、用事が色々あったからさ、昨日は泣く泣くサービス出勤だよ。やんなっちゃうよねー……」

 お疲れ様です。

「あ、そういえば中居さんが休みで山木さんが送迎に出てるなら、今、一階は誰も居ないんじゃないですか?」

「お! 良い所に気付いたねー。けど、まだ十時だしね、お客さんは来ないから大丈夫だよー」

 そう言うと、サンドイッチを食べ終えた小林はバサリと音を立てて新聞のページをめくる。

「所で乙原君ー、なんか値が上がりそうな株の情報とか知らない?」

 今読んでるのは株式相場のページか……廃業したての()宮大工にそんな事を聞かれても困る。

「……とりあえず、建築業界は不況ですね」

 だよねー、といいつつ、小林は新聞を閉じながら、側に置いてあったアリナミンの瓶を開けた。

 ……そのアリナミン、来店時の客に出す為の物では?

「真琴さんが来たね」

 小林はドリンクを一気に飲み干し、カウンター内のモニターを見て呟く。

 フロントは二階にあるが、一階には様子が解るように、監視カメラが設置されている。映像は白黒だが、見覚えのある店の送迎車が映るという事は、本日の出勤嬢の到着を意味していた。

 俺は小林の言葉を受け、ナンバーワン嬢をフロントにエスコートすべく、通用口のドアの横に移動する。


「♪おれ~の名前はまこっちゃん~

    股間をあやつる最強の職人~♪



   今だ、目を狙え!!



 ♪そんな感じの~ハァ、じ~ん~せ~い~さ~♪」


 萩本の声だなこれ……

「店長、なんか萩も……真琴さんの声が聞こえて来ますが……?」

「真琴さん自作のテーマソングらしいよ。今日は機嫌が良いみたいだね」

 理解し(がた)いセンスのテーマソングと共に、階段を上る足音が聞こえてくる。俺は奴が二階に到着し、靴を店内用の上履き(スリッパ)に履き替えたのを確認し、ドアを開けた。


「おはようござ……」

「オッス! オラ悟空!」


「「お疲れ様でした」」

 小林と声をハモらせつつ、俺は厳かに扉を閉める。

「んなー! 来て早々、まさかの帰れコールかよ!!

 いやいやいや、まこっちゃん帰りませんよ!?

 今日もがっつり稼ぎますよ!?」

 ナンバーワン嬢は閉まりかかったドアに上半身を無理矢理挟ませて叫んだ。朝っぱらからテンションの高い奴だ……

 ひどい目にあったわい、と肩の埃を払いながら萩本はカウンターに近寄る。

「さて、あたしの予約状況は如何(いか)に?」

「改めましておはようございます。

 本日は今の所、朝一のみ御予約を頂いております」

 あいよー、と返事をし、萩本は二階の廊下に姿を消し……たと思ったら、首だけ扉の向こうから出し

「コバっちー、そういやコタツが壊れてるよ! いかん、そんな事じゃいかんよ!」

 労働環境の改善を求めてきやがる。コタツくらい我慢して欲しい所だ……。

「あぁ、そういえば調子悪いんだったっけ?」

 コバっちと呼ばれた店長の小林は俺に意見を求めてくる。

「家からテスターを持ってきましたんで、手が空いた時に調べてみます。恐らくコードの接触不良じゃないですかね?」

「良くわかんねーけど、とにかく任せた!」

 そう言い残し、生首は廊下の向こうに消えた。謎のテーマソングと共に……。


「♪そんな感じで~まこっちゃん~

   コタツを鑑定させたら~右に出るもの無し~



    トムヤム君て誰? インド人?



♪今日も炸裂~ヨォ、必殺~マット~()~ら~い~♪」



        ……必殺って、『必ず殺す』と書くんだぞ……?



       ● ● ●



「さて乙原君、まずはアイスペールを四つ用意しといてくれる?」

「四つですか? 了解」

 俺は給湯室に入り、製氷機の蓋を開ける。丁度新しい氷が出来た所のようだが、その作動音の余韻は氷を(すく)うスコップの音にかき消される。

「言われた通り、氷バケツ(アイスペール)を四つ、通用口のドアの横、下足箱の上に用意しときました」

「うん。ありがと。

 所でさ、何で僕が四つって言ったか解る?」

「朝の予約は三名ですよね? もう一人予約が増えたとか?」

「はずれ。三つ用意するのは正解。だけど予約外のお客さんが来るかもしれないでしょ?

 だから+(プラス)1して四つ。」

 なるほどね、俺が感心していると、小林は電話を取り、メモを読み出した。

「あ、おはようさん。シェリー・キャッスルだけど、キャスターマイルドのソフトを二つと、マルボロメンソールを三つ、後はショートホープが二つと、それから……」

 メモは補充する客間のタバコを拾い出した物だ。こうして金津園構内(こうない)にあるタバコ屋から不足分のタバコが配達されてくる。

 タバコに限らず、食事はもちろんのこと、薬(風邪薬や避妊具等)や電球。他には石油(ボイラー用の重油や暖房用の灯油)なども配達で(まかな)う。金津園にも協業組合という奴があり、街の中だけで電話一本で配達する経済システムが成り立っている。

 当然ながら役人の※都市計画で創られた物ではなく、金の流れに沿って自然に出来上がったシステムだ。人の営みの力強さを感じる。

 タバコの発注が終わり、電話を置くと、(はか)ったかのようなタイミングで電話が鳴り出した。


 「お電話ありがとうございます、シェリー・キャッスルでございます

 あ、高宮様、おはようございます。今、駅にお着きですね?

 それでは当店の送迎車、黒でナンバーが××××のセルシオが迎えに参りますので、本日の服の色などは……

 はい、では南口のバス停付近でお待ちいただけますか? はい、失礼致します」

         ※金津園自体は、昭和二十五年に

       国の命令で現在の場所に一斉移転させられている。

 客だ。

 普段通りの営業スマイルの小林だが、目がやや鋭くなっている。小林は電話を切るや否や、内線で一階をコールする。

「お(むか)え、タカミヤ様。茶色のコートを着て、南口」

 小林は必要な用件だけ()げる。一階で待機中の山木も心得たもので、モニターには早速(さっそく)店を出る送迎車の姿が映った。

「じゃ、乙原君、一階は今、無人だから、その上履き(サンダル)のままでいいから一階に降りといてくれる?」

 小林の言葉を受け、俺は一階に駆け下りる。

 所で、先程小林は『南口』とだけ告げたが、通常、金津園で南口と言えば、JR東海道線の岐阜駅『加納口(かのうぐち)』を指す。嬢も利用する、金津園に一番近い出迎えスポットだ。少し離れた所に名古屋鉄道(通称『名鉄(めいてつ)』)の「新岐阜駅」があるが、そこから来る客は少数だ。

 思った通り、さほど時間もかからず送迎車が帰って来る。

「いらっしゃいま……」

 俺は車の後部ドアを開け、昨日散々練習した、散々練習した笑顔で高宮を出迎える。

「おーっす! ははは! 待った?」

 何か、やたらテンションの高いオッサンが車から出て来た……

「こちらの入り口からお入りください」

 いいえ全く。と笑顔で返し、客を店に案内する。……『お待ちしておりました』と返すのが正解だろうか?

「恐れ入ります高宮様、こちらでスリッパにお履き替えになって、エレベーターの前でお待ちいただけますか?」

「おう! そういや、この店は土足禁止だっけか?

 いやー、せっかく今日の為に高い靴履いてきたんやけどなー。がはははははは!」

 高宮の言う通り、うちの店は土足厳禁だ。嬢を含め、従業員は店内用の上履きを持っている。余談だが、二階通用口のドアの横には下足箱が設置されている。男は革靴なので問題は無いが、女はブーツを履いてくる奴がやたらと多く、階段の二階踊り場は下足箱に納まらない靴で(あふ)れ、やたら邪魔くさい。

御来店(ごらいてん)、タカミヤ様です」

 高宮には愛笑いで答え、俺はフロントに一報を入れる。

「こちらへどうぞ」

 その間に送迎車を店の中に入れ終わった山木がエレベーターの前に移動し、エレベーターのボタンを押す。

「それではごゆっくり行ってらっしゃいませ」

             「行ってらっしゃいませ」

 エレベータの前で深々と頭を下げる山木の横で俺も頭を下げ、台詞を被せた。

「おう! イ(・)ってくるぜ!」

 うざったいまでに、やたらみなぎっているオッサンを乗せてエレベーターは二階に上がった。この街はテンションの高い奴が多いのか……?

 エレベーターの扉が閉まるや否や、俺はダッシュで二階に移動し、本来のフロア係の仕事に戻る。

 一部にガラスが()め込まれている通用口ドアからフロントを伺うと、ちょうど小林が待合室に案内をしている最中であった。

「(……3、2)」

 ガラス越しに目が合った小林は指で『3』『2』と伝える。

 俺はコクコクとうなずき、下足箱の上に用意しておいたアイスを手に取り、三階に走った。

 高宮は翔子(しょうこ)女史を予約していた筈。翔子の部屋といえば三階の302号室だ。

 302号室の前で俺は息を整え、扉をノックする。

「翔子さん、スタンバイ願います」

 ……十秒の後、ゆっくりと扉が開いた。

「……誰?」

 そう言うと、翔子は不機嫌そうにアイスペールを受け取る。

「御来店、高宮様です」

 ……高宮の名を聞くと、不機嫌そうな顔の眉間はより一層深い皺を刻んだ。

 アイスペールを手に、無言で扉を閉める翔子。萩本とは対照的な奴だな……

 再びフロントに戻り、俺はエレベーター横に待機する。待合室に客が入っている時の基本的な立ち位置は、

 店長である小林がカウンターの中に陣取りモニターを注視しつつ電話応対。

 俺はエレベーター横で直立不動となる。

 何故この位置かというと、



  スタッフが移動する【通用口】

  客を案内する【エレベーター】

  二階客室につながる【廊下】

  嬢達の待機場所でもある【談話室】

  来店時の【待合室】

  プレイ後の客が入る退店時の待合室、通称【()がり部屋】

  客も利用する【トイレ】



 合計七つの部屋からの動線が重なるのがこのエレベーター横なのである。

「おーい、兄ちゃん! ちょっと小便したいんやけどな!」

 立ち位置に付いた途端、早速トイレかよ!

 高宮のオッサンは待合室から顔を出して大声でカウンター内の小林に声をかけた。

「あ、お客様、こちらへどうぞ」

 俺はトイレのドアを開け、高宮を誘導する。ここでうっかり準備を整えた翔子と鉢合わせしないよう、通用口にも目を向ける。

「こちら、段差に気を付けてお入りください」

「おう! サンキュー!」

 トイレのドアが閉まると、給湯室に行き、おしぼりを持って今度はトイレのドアの前に待機する。

 と突如鳴り響く電子音!

 左胸をドキリとさせ振り替えると、

「はい? ……はい。

 御来店、西中様ね」

 音の出所は内線電話であった。

 クソ! こんな時に来店か!?

 風俗業と他のサービス業の大きな違いは、『風俗に来る客は皆、お(しの)びで来ている』という点にある。

 お忍び、つまり、店に来た事を他人に悟られたくないのだ。店の構造上、来店時に入る【待合室】とプレイ後に入る【上がり部屋】で同室するのは仕方が無い事だが、それ以外、具体的に言えばトイレから出たら知人とバッタリ! などという局面は誰しも避けたい所であろう。

 おしぼりを持つ手に緊張が走る。

「エレベーターからお客さんが来るから、トイレから出ようとしたら止めといてね」

 受話器を置いた小林はそう言うものの、止めろって、あんた……。


 小林が言い終わるのを待たず、ドアの向こうから、けたたましい排水音が響く。

 高宮は用を足し終えたようだ。


 排水音の余韻は、静かな水音と紙が擦れる音に掻き消される。

 洗面台で水を流す音と手を拭く音だろう。間もなくこのドアは開くな……。


 二つの音が止まった時、エレベーターの表示が『2』を示す。二階に到着したか。

「いらっしゃいませ、こちらにどうぞ」

 小林が言い終わるのと、と同時にトイレのドアが開く。

「あ、ごめんなさいお客様、フロントが込み合ってますので、しばらくお待ちいただけますか?」

 俺は少し開いたドアに体を向け、片手でドアを押さえつつ、もう片方の手のひらを高宮に向け、申し訳無さそうに高宮を止めた。

「ん? あぁ……」

 怪訝そうな顔でその場に立ち止まる高宮の向こうで、もう一人の客、西中は小林の誘導で待合室に入室して行く。

「お待たせしました。こちらのおしぼりをお使いください」

 ノックをした後、トイレのドアを開け、手に持っていたおしぼりを手渡す。少し汗が染みたかもしれない。

「こちらへどうぞ」

 俺の誘導の元、高宮は顔を拭き終わったおしぼりを俺に返し、待合室に帰って行った。ふと横を見ると、通用口のガラス戸の向こうで翔子がこちらを伺っているのが見える。

「お待たせしました。談話室でお待ち下さい」

「寒いんだけど!?」

 通用口のドアを開けた俺に対し、腕をさすりながらキレ気味に翔子は言い放つ。

 俺のせいかよ!?

「……今、来店してきた人、誰?」

「さ、さぁ~? 私も今フロントに戻ったばかりですので」

「……誰指名するの?」

「う~ん……私には解りかねます……」



 風俗店における店員の心得其の四


         沈黙は金! 余計な事は喋るな!



 プライバシーの秘匿性が重視される業界なだけに、ボーイには口の堅さが求められる。特に、客の指名状況などを嬢が知るとトラブルの元になるので、ボーイは知らぬ存ぜぬが基本となるのである。 翔子が舌打ちして談話室に入ったのを見届けた後、俺は給湯室に行き、ステンレス製のお盆にお茶とおしぼり、茶菓子とアリナミンを乗せて、来客に出しに行く。

 小林は西中と談笑中であった。常連客のようだ。

「(翔子さん、準備が整いました)」

 小林の背後で小声で伝える。

「えぇ~本当ですか~?

 ははは。では僕はちょっと失礼します。

 もうじき女の子の支度ができますので、しばらくお待ち下さいね」

 会話を切り上げて小林が待合室から出てきた。

「翔子さんを呼んで」

 客札に情報を記入しながら小林は指示を出す。

「翔子さん、お願いします」

 ノックをして談話室の扉を開けた俺に対し、返事もせずに客札を取りにいく翔子。なんだか機嫌悪いなこいつ。生理? ……な訳は無いか。


「御指名ありがとうございます、

    お時間までごゆっくり行ってらっしゃいませ~」

                 「行ってらっしゃいませ~」


 頭を下げ、エレベーターのドアが閉まるまでの間、翔子の声が耳に届く。

「きゃー! おはよう~また来てくれたんだー、うれしー!!」

 はしゃいだ声。

 誰の声だ? 翔子か? 本当に翔子か!?

 俺が頭を上げると、既にドアは閉じられており、エレベーターの階数表示は3を示していた。




         ……職人芸だな……
















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