昭一の章 6
「おい、起きろ。仕事行くぞ!」
朝の八時、俺はソファーで爆睡こいてやがるウチのナンバーワン嬢を叩き起こす。全く、無防備な格好で寝てんじゃねぇよ。
「……なあ昭一、今おっぱい揉んだら通報とかされると思う?」
「……知ってるか親父、綾女のAK(電動ガン)な、弾は600発入るんだぜ?」
そんなやり取りが居間であった事などまるで知らないお気楽娘は、ソファーの上で胡坐をかき、でかい欠伸をあげている。
「毛布はそのままにしといてくれ。飯はコンビニでいいか。歯磨きは店の使えばいいし、シャワーは部屋にあるから問題無いな」
「うー、ちょっと待っとれ……」
萩本は寝ぼけ眼のまま洗面所に向かう。顔を洗って、とりあえずの化粧をするのだろう。
「俺は車の暖気しとくからな。早く済ませろよー」
親父を追い出し、綾女も作業服で出勤した今、家に居るには俺と萩本だけだ。
「“まーーーーーーー !!」
朝の住宅街に突如響く絶叫! なんだ、どうした?
「てめぇ昭の字! これ、お湯が出えへんがな!?」
確認してから顔洗えや。
「ほれ。これでお湯が出るぞ。」
そう言うと、俺は台所で湯沸かし器のスイッチを入れる。恐らく几帳面な綾女が出勤の際に切って行ったのだろう。
「顔洗ったら湯沸かし器切っといてくれよ」
「おー、まかせんさい!」
切れよ本当に。点けっ放しで家を出たら綾女が煩いからな。
「あー、目が覚めたわ……」
冷水と温水のお陰で目を覚ました萩本が助手席に乗り込む。
俺はと言うと、萩本が玄関を出たのを確認し、家の施錠。その後は金津園まで運転役を勤めることになる。いつもより五分程遅れたな……少し飛ばすか。
「あ」
「どした昭の字?」
車を走らせる事、三分。あることに気付く。
「お前、湯沸かし器のスイッチ……切った?」
「……」
「答えろ!」
「……切ってないという説が有力ではあるな……」
「……戻るか」
往復六分のタイムロス。
「あたしの朝一の客は十一時からだから、問題無いよ?」
俺は九時から仕事なんだよ!
● ● ●
「……お前、何してんの?」
道中の半ば、コンビニの店内で萩本に軽く突っ込みを入れる。
タイムロスは、川沿いの堤防道でアクセルを踏みしめる事で何とか埋める事に成功した。少々心臓に悪いので、もう二度とやるまいと心に誓う。
「いやさ、ポットのお湯が90℃なもんでな、再沸騰して100℃になるまで待ってんだよ」
レジの横のポットをじっと睨んでる理由はそれか!?
「出勤途中に悠長にカップ麵食おうとすんな!!」
「なんだと、こん畜生!! お前が買ったのはサンドイッチかよ!
日本人なら米食え米!!」
「米じゃねーのはお互い様だろうが!。
運転しながらだとパンの方が食いやすいんだよ!」
「……言っとくけど、金津園の構内で『パン加えて曲がり角でソープ嬢とぶつかる』なんてイベントが起きると思ったら大間違いだぜ?」
「運転中に食うっつってんだろうが! それよりお湯はまだ沸かねぇのかよ!?」
「落ち着け……まだ99℃だ」
「1℃位なら一緒だろうが!」
「このスットコドッコイ!! カップメンといえば100℃の熱湯に決まってんだろうが!
全く物を知らない奴め。日清の人に謝れ!」
俺は再びアクセルを踏みしめる事となった。
● ● ●
「あれ? 真琴さん!? おはようございます」
何とか、いや、無理やり九時の出勤時間に間に合わせ、店の駐車場を箒で掃いていると、自転車に乗った小林がブレーキを鳴らしながら萩本に声をかける。
「おはよー。昨日、乙原の『妹』と飲んでてさー、昭の字に送ってもらったんだわ」
あえて『妹』という単語を台詞に挟む萩本。でないと、俺と二人で飲んだと思われて、『店の商品に手を付けた罪』として進退問題になってしまう。全体、人間関係の面倒臭い業界もあったものだ。
しかし、
「あれ? 店長、おはようございます。今日はお休みの筈では?」
箒を履く手を止め、小林に挨拶をする。シフトでは水曜日は小林は休みの筈だ。
「いやー、年末はやる事多くてさ、休みは返上だよ」
そうか、頑張ってるんだなこの人。
「あ、おはようございまーす。ま、真琴さん!?」
今度は山木が自転車に乗って登場する。下っ端仲間としては、少し遅い出勤の気もするが?
「はよーっす。あれ、真琴ちゃん!? 早いね、どうしたの?」
小林が店の鍵を開けてくれたお陰で俺達は店に入る事が出来た。
取り合えず俺はフロントのエアコンを点けていると、寝癖を付けた中居が出勤してくる。
「あ、中居さんおはようございます」
寒い寒いと萩本がごねやがるので、取り急ぎお茶を沸かし、そっと傍に置いておく。さて、俺は客室の準備に向かうか。
「そんじゃ、あれなんだけど、
中居さん、コバっち、ちょっと話があるんだ。いいかな?」
萩本の言葉を背で聞きつつ、俺は後ろ手に通用口のドアを閉めた。
● ● ●
「乙原君、その洗い物が済んだら休憩行っていいよ」
今日も恒例の休息時間がやってきた。俺は洗い物を済ますと小林に一言断りを入れ、通用口に出る。
さて、いつもならリネン室で昼寝をする所だが、今日は、そうだな、別の場所にするか
そう思って俺は四階踊り場に立ち、さらに上の屋上に向かう。通常、この手のビルは屋上には鍵をかけるものだが、
「あ、やっぱ鍵かかってないな」
そもそも消防法も軽視するような風俗ビルだ。わざわざ屋上の施錠をするような気の利いた事はする訳も無い。
「あれ? どうしたの君?」
びっくりした! まさか先客がいるとは。
「翔子さんでしたか。こんな所でどうしたんです?」
赤いサンタ姿に白いコートを羽織り、そこに立っていたのは店のナンバーツーであった。コートの白地に黒髪が良く映える。
「先に質問したのはあたしの方よ。
……ゼット君だっけ?」
「オトハラですよ。
私はちょっと休憩を頂きましてね。ここで一服でもしようかと。
所で、そのゼットってのは、」
「ふふふ。
美樹ちゃんが車の中ではしゃぎながら説明してくれたわよ。」
やはりな。
「どうせそんな所だろうと思ってましたよ。
しかし、28年の人生で、そんな合体ロボみたいな渾名を付けられたのは初めてです」
そう言いつつ、俺は懐から煙草を取り出す。が、西風のせいか、上手くライターは着火せず、
「ほら。
君も紳士ならジッポーくらい買いなさい?」
クスクスと笑いながら翔子は俺の傍に寄り、火を貸してくれる。
「あ、恐れ入ります!
しかし翔子さん、そんな格好でこんな所に居ては寒いでしょう?」
「……この仕事してるとね、」
翔子はポケットから自分の煙草を取り出し、手に持ったままのスリムジッポーで火を点ける。
「無性にお日様の光が恋しくなる時があるの。
ほら、あたし達って、一度出勤したら帰るまでカンヅメでしょう?」
そう言うと翔子はコートのポケットに手を突っ込み、
こっちにいらっしゃい。
と屋上の一画に俺を招く。そこは隣のビルに丁度西風が遮られながらも、南からは日差しが差し込み、まさに小春日和を堪能できる場所であった。
「……解りますよ。俺もこの前まで大工やってましたから。」
給湯室には一応窓はあるが、商業地域の敷地一杯(建ぺい率100%)に立てられたビルでは隣の壁が近すぎて日光が入る余地など微塵も無い。
客室に至っては、プライバシー保護の為か窓は全て内側に板張りの木窓が取り付けられている。
木窓を開ければその外にはアルミサッシがあるのだが、風呂場の湿気で歪んだそれを、わざわざ開閉するような暇な嬢などいない。
建築現場では、太陽が照った陰った、雨が振った止んだで一喜一憂したものだが、この職場ではそれすらままならない。
「あら、それは美樹ちゃんも知らない情報ね」
「教えなくていいですよ。また変な渾名を付けられちまう」
「そう? じゃあ内緒にしといてあげる」
そういって二人でケラケラと笑う。
浮世の吹き溜まりかと思えた金津園(この街)だが、なんの。こうして日当たりが良い所もあったのか。
「……聞いて良い?
君は何でこの街に来たの?」
ひとしきり笑った後、煙草を投げ捨て翔子は尋ねる。
「別に大した理由じゃないですよ。
不景気でリストラ食らった『流れ者』です」
「そう……あら?」
突如鳴る振動音。音の主は翔子の携帯のバイブであった。
「はい。
……わかりました。部屋に戻って支度するね」
小林君から、と言い、翔子は携帯を閉じる。
「お客さんが入ったみたい。お仕事に戻んなきゃ!」
お疲れ様です、と頭を下げる俺を苦笑いで見ながら翔子は階段に歩みを進める。
「ねえ、ゼット君!」
通用口の手前で翔子は振り返り、
「君はこの街に縛られないといいね!」
そう言い残し、翔子の姿はドアの向こうに消えた。
「オ、ト、ハ、ラ、だ……」
そう呟くと、俺は煙草を投げ捨て、二本目の煙草を取り出す。
風の吹かないこの場所でなら、100円ライターでもしっかりと火を点ける事が出来た。




