表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

泣きたくなる十二ヶ月 第二章 〈青い月〉

作者: 二月

初投稿です。厳しいご意見歓迎致します。


ちなみに主人公の名前は広海ヒロミです。

読みにくいという意見があったので記しておきます。

 約束の時間から五分が過ぎた。

 広海は独り、汗をぬぐいながら某駅の構内に佇んでいた。身体にまとわりついてくる温度は、晩夏の夕刻とは思えないほど暑く喉を詰まらせる。狭い駅の中で灰色に蠢く人の塊が、不愉快に湿った熱を生み出し続けていた。最近になって近くに建設された新興住宅地のおかげで、急激に利用者が増えたのは良かったが、駅の敷地と設備の拡充がそれに追いついていないのだ。

 彼が姿を現すまでにはもう少し時間がかかることを広海は知っている。

 彼は必ず十分の遅刻と共にやってくる。しかも、時報が集合時間の十分後を告げた瞬間に、さも始めからその場所に居たかのごとく突然現れるのだ。それはあまりに緻密な遅刻癖だった。かつての恋人との待ち合わせにすら、この遅刻を欠かすことはなかったというから、ある意味では几帳面だとも言えるのかもしれない。

 背中を預けている柱が体温でじんわりと暖まっている。広海は誰もいない隣にそっと目を向け、まるでそこに誰かが立っているのを確認するかのように視線を動かした。

 彼の恋人がその遅刻をどのように思っていたかは知る由もないことだが、広海はこの十分の待ち時間に、いつも彼の存在を強く感じるのだった。まるで、彼が時間通りに現れて、その短い時を広海と共に過ごしているかのように。広海はこの奇妙な感覚を「十分間の彼」と名付け、呼んでいた。

 改札に背を向け、向かって左手にあるホームへの階段を見ると、帰宅を急ぐサラリーマンの一団が一様に無表情で上がってくるところだった。広海は改札を出ない構内にいるのだ。改札をくぐれば、駅前には待ち合わせに便利なモニュメントもいくつかあるはずだったが、待ち合わせ慣れしていないのが半分に、今日こそ彼の現れる瞬間を目撃してやろうという意気込みが半分だった。

 この駅には準特急車両までが停車するため、上りと下りのホームはそれぞれ別個に設けられている。ただし、敷地が狭いために、ホームと改札を連絡する階段は上下線ともに一つずつしか存在しない。

 広海が降りたホームは、下り列車専用で向かって右手。駅を挟んで広海とは反対方面に暮らしている彼は、上り列車でやってくるから、左手の階段から姿を現すはずだ。たぶん、ちょうど五分後に。

 熱を帯びた空気に、みっしりと人の気配が満ちている。それは、一人ひとりの人間の形を崩し、どろどろに溶かしてしまう。輪郭を失った人々は互いに混ざり合い、粘性の高い液体となって構内を流れていた。しかし、広海の立つ場所の周りだけが、どういう訳か僅かにぽっかりと空虚なのだった。ざわめく人混みのホームに、広海だけが独りだった。

 離れ小島に取り残されているようだと広海は思った。

 全てを飲み込んで押し流そうとする濁流の中、広海は小さな中州に怯えながら佇んでいる。徐々に削り取られていく小さな砂地の輪郭。油断すればすぐに流れにさらわれ、どこか遠いところに連れ去られてしまう。

「それでも……」再び誰もいない隣を見て、広海はそっと呟いた。「隣にあなたがいるから、大丈夫なんだよ」

 少なくとも、この十分の間だけは。



 きっかけは、一通のメールだった。

 退屈な午後の授業が終わり、それほど親しくない同級生と二言三言の短い会話を交わすと、広海はそのまま素直に帰路に就いた。学校が終わった後に一緒に遊びまわるような仲の良い友達もなければ、愛を語り合う恋人もない。ほとんど誰とも会話を交わすことなく終わる一日も決して珍しくはない。都内の大学に所属しているからと言って、誰もが華やかなキャンパスライフを謳歌しているわけではないのだ。

 広海にとっては、いつの間にかそんな生活が当たり前になっていた。以前はもう少し寂しさを感じていたような気もするが、そういう感情も人混みに揉まれ、どこかに流れていってしまったのかもしれない。

 ほとんど無意識のうちにいつもの通学路を辿り、気が付くとアパートの前に着いていた。

仕方がないので部屋に続く薄いドアをくぐり、適当にカバンを放り出してからベッドに倒れ込む。ベッドがギシギシと軋む音を聞きながら、次の行動をあれこれと思案しているうちに、ベッド脇の小卓に置かれた木製の写真立てに目がいった。

 安っぽい木製のフレームに収まっている写真は、枠のサイズに合わせるために、右端が五センチほど裏側に折り曲げられている。そこには三人の男女が写っている。中央に立っている背の高い痩せた一人が男で、左右の二人が女。そのうち右側に立っているのが広海だった。

 天気の良い休日の夕焼けが、少しだけ色あせていた。背後の河をきらきらと照らす斜陽に包まれて、幸福を感じる権利が自分たちのものであることを疑わない子供たち。平面の中の三人は皆楽しそうに笑っていた。もちろん広海も。

 高校時代に親友たちと撮った写真だった。それを見て、今日初めての笑顔だった。未だに思い出を頼りに生きているのだ。

 このまま過去の深淵に沈んでしまえればどんなに楽だろうか――広海はそんなことをよく考える。こうして日々を重ねている限り、写真の中に閉じこめられた輝かしい時間に触れることは決してできないのだ。

 風のない湖畔のような、鏡のように磨き上げられた静寂が、まるで誘うように広海の眼前にぴたりと広がっていた。そこに両足を浸けたまま、前に進むことも背を向けて去ることもできないでいる。

 その時、不意に静止していた水面に一石が投じられた。広海が我に返るよりも早く、それはたちまち幾重もの波紋を作り出し、やがて携帯電話のけたたましい着信音となって広海の耳に届いた。

 写真に心を奪われていた広海は虚をつかれてギクリとなり、のろのろと起きあがってカバンから携帯を取り出す。マナーモードになっていなかったのか、とまず思った。

 掌の中でじりじりと光を放つ液晶画面を確認すると、メールが一通届いていた。送信元は携帯に登録されていないアドレス。スパムかと思いつつメールを開いた広海だったが、次の瞬間には、驚きのあまりその文面を三回も読み直すことになった。

【今日会えないか? 十八時三十分 A駅改札で。ユウヤ】

 ユウヤ。それは、一年近く音沙汰の無かった友人の名だった。

 再下段までスクロールしてみるが、広告の類はどこにも表示されていない。そのメールがどうやら本物らしいことが分かると、懐かしさすら感じる寂しさが、無防備になっていた身体を強烈に襲うのを広海は感じた。

 思わず写真立てに目を戻す。真ん中に写っている細身で背の高い男。夕日を浴びて濃い陰影を落としたその笑顔は、楽しそうにも見えたし、今は少し寂しそうにも見えた。メールの送り主は彼だった。

 竹田幸哉。広海の幼馴染みで、幼稚園から高校卒業まで実に十五年もの時を共に過ごした親友だ。

 どうして――広海は咄嗟に思った。ユウヤ。同じ都内だけど、別々の大学に進学して、この一年間メールのひとつもよこさなかった。どうして今頃になって、突然会いたいなんて言ってきたんだろう。

 しかし、そんなささやかな疑問に広海が躊躇したのは一瞬だけだった。

 壁の時計を見ると、ちょうど指定された時刻の一時間前に長針が重なっている。駅までの時間的距離を考えると、すぐに出発して良い時間だった。もたもたしていると遅刻してしまう。 急いで身支度をすると、広海はただちに部屋を後にしたのだった。



 宙を睨んで動かない広海を怪訝そうな顔で一瞥しつつ、スーツ姿の男性がそそくさと改札を出ていった。幸哉の姿はまだない。予定とは違うが、予想通り。

 それにしても、一年という時間は果たしてどれほど人の姿を変えてしまうものだろうか。昔とあまり変わっていない自分の地味な服装を思って、広海はぼんやりとそんなことを考えた。 地味なTシャツにデニムのパンツ。これから近所のコンビニに行くところだと言っても、きっと誰も疑わない。しっかりと気を遣えばそれなりに魅力を発揮しそうな広海の顔は、すっかり野暮ったさに埋もれてしまっていた。

 左右の階段の真ん中辺りにぶら下がっている時計に目をやると、もう十八時四十分になろうとしていた。奇しくも上下の各駅停車がほぼ同時にホームに入って来たようだ。それほど大きくない人の塊が、左右の階段を遡って改札に流れてきた。

 左手から向かってくる人数はせいぜい二十人程度。恐らくこの流れの中に幸哉もいるに違いない。その出現の瞬間を見逃すまいと、広海は左側階段に身体を向け、上ってくる人々に注目した。

 ところが次の瞬間、後ろから肩を叩かれた。

「よお、ヒロミ」

 聞き覚えのある声にぎくりとして振り向くと、ひょろりと背の高い男が、広海が身を預けていた柱の影から顔を覗かせていた。にやにやと笑いながら、彼はさらに言葉を重ねた。

「久しぶり。元気だった?」

 目を疑ったが、それは確かに幸哉だった。細長い体躯に、控えめな音量の声、それに何より、笑うと糸のように細くなる目。間違うはずがない。その少し大人っぽい服装と、明るい茶色に染まった髪に、広海は何故か突き放されたような空寒さを覚えた。

「連絡もよこさないで、今まで何やってたの」

 一寸の悔しさから、広海の言葉に少々の棘が添えられる。注意して見ていたはずだったのに、さも「始めからここにいましたよ」と言わんばかり出現である。幸哉にまんまと出し抜かれた気分だった。

「さあ、自分でもよくわかんないな」

 広海の言葉を意にも介さずに笑っている幸哉の表情は、あの写真とはどこか違っているような気がした。ついでに、文句を言っているはずなのに自然と頬の筋肉が緩んでいる自分にも気付いていた。やはり再会は嬉しかった。

 それにしても不思議だと広海は思った。

 この狭い駅には、ホームと改札を繋ぐ階段は上りと下りにそれぞれ一カ所ずつしか存在しないし、改札も一カ所だけなのだ。そんなに人は多くなかったし、左側の階段からも目を離していなかったから、広海が彼の姿を見落としている可能性は極めて低い。つまり、幸哉は下り電車に乗ってここまでやって来たということになるのだ。大学も住居も下り方面にあるはずの幸哉が、なぜ同じ下り方面に向かう電車のホームから現れたのだろうか。

「積もる話は後でな」広海がそんなことを考えているうちに、痺れを切らしたのか幸哉が口を開いた。「良い店があるから、ついてこいよ」

 幸哉の言葉に従って構外に出てみると、そこは貧相な駅に似合わない繁華街だった。若者が遊び始める時間と、大人が帰宅する時間が重なる頃。街がただならぬ生気を帯び始めている。それは、吸い込んだ者の気分を異常に高揚させる気配だった。

 初めて降りる駅だったので、広海は幸哉とはぐれないように後ろをついていく。久しぶりに見るその背中は、前に会ったときよりも随分大人びて見えた。

 やっぱり私は寂しいんだ――広海はそう思った。

 懐かしいだとか、嬉しいだとか、そういう感情に埋もれて、何かがちくちくと胸を刺していることに広海は気付いていた。さっき幸哉の顔を見た途端に、隣から十分間の彼がいなくなってしまったのが分かったのだ。あくまで予想していたことだったが、それでも寂しさは容赦ない。

 十分間の彼は、いつも昔のままの姿で笑いかけてくれる。それは、広海のことを全て受け入れ、あらゆる罪を許してくれる救いの笑顔。しかし、幸哉に待たされている十分の間しか、彼は隣にいてくれないのだ。彼が消えてしまったら、広海は一人で中州に立たなければならないのに。それがどれほど辛く痛々しい闘いであるか、広海はこの一年に学んだ。

 背中の向こうには、見慣れない街の姿が無防備に、しかし誘うように広がっている。広美はなんとなく歩調を早め、先を行く幸哉に少しだけ接近してみた。前を行く背中がわずかに大きくなり、風景は小さくなった。

 カラオケや飲み屋のネオン看板。その前に群れている若者たちの喧騒。通りを行くサラリーマンの堅い靴音。それらを照らし出す街灯の明かり。そして、全てを包み込む電車の震動。あらゆる光と音とが一つに混ざり合って、得体の知れない巨大なうねりに変容しているようだった。それを聞いている広海は怯えながら佇んでいるしかなかった。

「さっきね」広海は焦って口を開いたが、変に明るい声になってしまった。「あんた、下りのホームから出てきたでしょう」

「……そうだよ」

 少し考え込むような間をおいた後で、背中から素っ気ない答えが返ってきた。それきり幸哉が何も言わないので、広海はさらに言葉を続けた。

「大学もアパートも下り方面だよね。なんで逆方向から乗ってきたの?」

「ああ、そうか」僅かに言葉を切って、幸哉は続けた。「さて、どうしてでしょう?」

 すぐに答えを言わない幸哉に少しだけムッとしたが、広海は少し考えてから言った。

「上り方面で何か用事があったんじゃないかな。しかも、今あんたはほとんど手ぶらだから、買い物じゃない。たぶん誰かに会ってたんだ。違う?」

「なかなか良い推理だけど、残念ながら違う」幸哉は歩きながら応えた。「それじゃ、ヒント。今回ばかりは遅刻するかもしれないと思って少しだけ焦った」

 反対側のホームから現れた幸哉。遅刻の可能性。広海は一瞬だけ思考の海に沈み、すぐにまた顔を上げた。

「なるほど……、そういうことか。ちょっとしたミステリーだったな」

 いつも遅刻してるでしょうが――その言葉を何とか飲み込んだ。十分間の思い出に浸るために遅刻を注意しない広海も、悪いと言われればそうなのかもしれない。

 タネが明かされれば簡単なことだった。恐らく、幸哉は寝ていたか何かでA駅を通過してしまい、折り返しの下り電車を使って慌てて戻ってきたのだ。きっかり十分の遅刻を遵守するべく焦っている幸哉を思い浮かべてしまい、吹き出しそうになるのを広海はどうにか堪えた。自分が密かに安堵の溜息を漏らしているのが分かって、少しだけ憂鬱になった。

 幸哉は一寸だけ肩をすくめて肯定の意を示すと、再び黙り込んで歩調を早めた。広海も仕方なく歩幅を広め、幸哉との距離が開かないように慎重に後を付いていく。

 ぴったりと縦列に歩く二人は、周囲にはどのように映っているのだろうかと広海は思った。仲の良い友達か、それとも兄妹か、もしかしたら恋人か。或いは、潮流は押し流そうとする対象など目に入っていないのかもしれない。

 ふと空を見ると、何かを名残惜しむような色の満月が冷たく浮かんでいた。

「この辺、よく来るの?」

 広海は歩きながら、目の前の背中にそう尋ねる。

「ううん、そんなに」幸哉も歩調を変えずに答えた。「サークル仲間と何回か来たぐらいだな」

 そう言う割には、その足取りがやけにスムーズなように思えた。確固たる目的地に向かって、迷いなく歩いていく幸哉。

 私にはできなかったことだ――広海は確認するように心の中で呟いた。もしあの時、私もこんな風に淀みなく前に進むことが出来たのなら、あんなことは起こらなかったのかもしれない。

 幸哉が急に連絡をよこした理由は、広海には大体見当が付いていた。



 榎本軌月。あの写真には、幸哉を挟んで広海と反対側に写っている。軌月は高校時代の広海の親友であり、そして幸哉のかつての恋人でもあった。

 広海と軌月は、高一のときに同じクラスになったのがきっかけで知り合った。広海の名字が『植田』で、軌月が『榎本』。学期の初めに出席番号順に指定された席順で、二人は教室の最前部に前後に並んで座ることになった。

 自己紹介がようやく済んだばかりで、見知らぬ顔だらけのクラスに緊張していた広海に、いきなり後ろを振り向いて話しかけてきたのが軌月だった。

「ええと、植田さんだっけ。よろしくね」

 綺麗な顔の子だな、というのが広海の軌月に対する第一印象になった。造りの良い人形のように整った顔に、やや茶色がかった髪が少しだけかかっていた。

「榎本さん、だよね。よろしく」

 人見知りの激しい広海には、どうにかそれだけ応えるのが精一杯だった。突然のことに愛想笑いを作ろうと悪戦苦闘している広海に、含みのある笑みを浮かべた軌月はさらに言葉を続けた。

「さて、どうして『榎本』の私が『植田』のあなたの前に座っているのでしょう?」

 恐れを知らないかのような軌月の無邪気な慣れ慣れしさに閉口しつつも、確かに奇妙なその事実に広海は首を傾げた。姓名の五十音順で順番が決まるクラスの席割りのはずだったのだが、何故か『えのもと』の軌月が最前列に、『うえだ』の広海がその後ろに座っているのだ。

「確かにおかしいね。先生が間違えたのかな?」

「そうかもしれない。でも、私たちの担任ってベテランの先生らしいわよ。いくら何でも生徒の名前で『う』と『え』の順番間違えるかしら。それに、あなたの後ろに座ってる人の名字、たしか『江畑』って言ってたわ。私の順番だけを間違えるなんて、ちょっとおかしいと思わない?」

 軌月の端正な顔から淀みなく紡ぎ出される言葉に、広海は半ば聞き入ってしまっていた。もやもやとした不安の中で突然出会ったこの美しい少女が、広海には黒雲の間に差した一筋の光のように奇跡的に思われた。

「そうか、わかった」軌月との会話をこのまま続けたい一心で、広海の舌は自然に動いていた。「あなたの家は、その……、母子家庭だったんじゃない?」

「えっ?」

 広海の突拍子もない発言に、軌月は言葉を詰まらせた。

「あなたの母親が、ごく最近……、そう、たぶん出席名簿が出来上がったあとに再婚したんだ。それで、あなたは本当は私の前の席に来るはずの名字だったんだけど、急に『榎本』に変わっちゃった。つまり、変わったのは席順じゃなくて、あなたの名字の方だったんじゃない?」

 奇想天外な推理に妙な確信を持って一気に話し終えた広海は、そこでようやく言葉を切った。突然の広海の饒舌ぶりに軌月は少し驚いた様子で目を丸くしていたが、やがて堪えきれないと言った風に声を上げて笑い出した。

「やっぱり違ってた……?」

 おそるおそる尋ねた広海に、軌月は笑うばかりで何も応えようとしない。どうやら自分の確信が間違いだったらしいことを知った広海は、拍子抜けして何も言うことができなくなってしまったので、愉しそうに笑う軌月が再び口を開くのを大人しく待つことにした。

「素敵な推理ね。でも、ハズレ」笑いがおさまると、軌月は一息ついてから徐に話し出した。「タネ明かしすると、私、かなり目が悪いのね」

 ぽかんとした顔をしている広海を後目に、軌月は自分のバッグをごそごそとかき回して、小さな黒いケースを取り出した。それを開くと、分厚いレンズのはまった眼鏡が中に入っていた。

「あんまり好きじゃないんだけど、これが無いとほとんど見えないの。コンタクトは体に合わないから使えないし。それで、『なるべく最前列の席が良い』って先生に予め頼んでおいたのよ。つまらない正解よね」

 軌月はそう言うと、嫌いな眼鏡をかけて見せた。新たに知的な雰囲気の加わった軌月は、さっきとはまた別の美しさを発揮していた。

 広海は暫くそれに見とれていたが、不意に先ほどの自分の発言がひどく無神経なものだったことを思い出し、慌てて軌月に向かって手を合わせた。

「なんか……、失礼な推理しちゃってごめんね」

「そんなこと気にしないでよ」軌月は笑って応えた。「それに、名字が変わった原因が離婚じゃなくて再婚だって考えたところに、ちょっと優しさを感じたわ」

「そう言ってくれると助かるよ……」ホッとした広海は、思い出したように頬をふくらませた。「それにしても、初めから答えを知ってたわけね」

「ごめんね。お話のキッカケになるかなって思ったのよ」

 そう言って悪戯っぽく舌を出した軌月は、やはり綺麗だった。人見知りをする自分がごく自然に会話を続けていることに、広海は驚きと戸惑いを感じていた。

 始まりはそんな単純なことだったのに、広海と軌月はまるで姉妹のように仲良くなった。いま思えば、きっかけなどいかに些細なことでもよかったのだろう。どんなに単純な出来事をも神々しい偶然に磨き上げ、世にまたとない奇跡として盲信してしまえる無邪気さが、あの時の二人にはまだあったのだ。

 広海は学校にいる時間の大半を軌月と共に過ごすようになった。美しい軌月と一緒にいると、まるでその場所だけが他から浮いて輝いているように思われた。高校生の特権でもある儚く蒙昧な共感を頼りに、広海と軌月は毎日のように互いの好ましい場所を探し出し、それを指摘しては満ち足りた幸福感に満たされていた。その場所こそが自分と相手の似ている部分なのだと考えるのも忘れなかった。

 広海にとって軌月は鏡のような存在だった。心地よい像しか映さない、世界に一つだけの魔法の鏡。その鏡に映った広海の世界は完璧だった。美しい半分だけが対称に映しだされて全体を形作り、まるで汚い部分がこの世界から消えてしまったような気がした。幸せな日々だった。

 その軌月は、今から一年ほど前に亡くなった。自殺だった。



 ある雑居ビルの前で、幸哉は初めて立ち止まった。どうやら到着したらしい。五階建ての古ぼけたビルを見上げ、目的の店は何階かなと考えていると、幸哉は階段を地下に降りていってしまった。

 あわてて後を追うと、階段の先には一軒の地味なバーがあった。くすんだ彫金で『REMINISCENCE』と刻まれた金属のプレートが、その名に相応しい年季の入ったドアの上に取り付けられていた。『思い出』。思わず幸哉を見るが、やはりそこに十分間の面影はなかった。

 幸哉に促され重そうなドアに手を掛けると、それは意外なほどやわらかく開いた。甲高いベルが響き、心地よい温度の空気が頬に触れる。店内は薄暗く、置かれている椅子や机の輪郭はぼんやりと闇に溶け出している。

 幸哉が中に入ったことを確認してドアを閉めると、ベルの音に気付いて一瞬だけこちらを見る無愛想なバーテンダーが一人だけ。若くもないが、年寄りでもない、三十路ぐらいだろうか。必要以上に愛想を押し売りしてくる居酒屋チェーンよりもよほど気が楽だと広美は思った。他に店員がいないところを見ると、もしかしたら彼がマスターなのかもしれない。

 幸哉について、カウンターから離れたテーブルに向かい合って腰掛けた。二人の他に客は見あたらない。あまり繁盛していないようだ。聞いたことのないクラシック・ロックが耳につくほど店内に響いていた。

「とりあえず、何にする?」意味が分からずきょとんとしている広海に、幸哉がさらに言葉を加えた。「飲み物だよ。注文しないと」

「ああ、そっか。そういうの、私よくわかんないな」

 何しろ広海は普段から人付き合いが少ない上に、こういう上品な店に来たのは初めてなのだ。それに、勝手が分からないのはもとより、適当な服装でのこのこ出てきてしまった自分を呪っていた。幸哉は程良く着崩したカジュアル・スーツ。広海はTシャツにデニム。この場所から浮いているのは明らかに後者だ。景気のいい店じゃなくて良かったと広海はしみじみ思った。

「幸哉、選んでよ」

 恥ずかしさを誤魔化すように、ぶっきらぼうな口調。

「いきなりかよ」幸哉は少々呆れ顔だったが、それでも即座にバーテンダーに向けて注文した。「それじゃ、軽めの赤ふたつで」

 赤という言葉から広海が想像したとおり、ワイングラスに注がれた赤ワインが二つ、すぐにカウンターから運ばれてきた。しかし、何が『軽い』のかまではさっぱり分からなかった。幸哉がグラスを取ったのに倣い、同じようにグラスの軸の部分をつまんで持ち上げる。

「それでは、再会に乾杯ってことで」

 幸哉が少しおどけた調子で、広海に向かってグラスを掲げた。それに合わせて広海もグラスを前に出す。チン、というガラス同士のぶつかり合う澄んだ音が響いた。橙色の間接照明を受けて、グラスの中の液体はワインレッドよりもさらに濃く重い色を湛えている。

 血みたいだ――一瞬そう思って、すぐにそんなことを考えた自分を責める。しかし、既に手遅れだった。苦い感情が広海の心をずきずきと痛めつけ始めた。

 ぎくしゃくとグラスを口に運んだが、味はよく分からなかった。鉄の風味が口に広がっているような気がしてならなかった。

 先に口を開いたのは幸哉の方だった。

「最近、どうしてた?」

「別に、普通だよ。ごく平凡な女子大生やってる」まるで嘘をついているような後ろめたさを感じながら、広海はぼそぼそと答える。「そういうあんたは?」

「俺も普通の男子大生やってるよ」

 そう言って幸哉はワインを煽った。そのまましばらく沈黙。

 久しぶりに会ったというのに、何を話題にして良いのか広海はさっぱりわからなかった。黙っていると、口の中に残るワインの風味が鉄の味に変わってくるようで嫌な気分だった。

「こういうときって、何を話せばいいのか分かんないね」

 広海が素直にそう言うと、幸哉もそうだなと頷いた。

「大学の友達とは、会えば何かしら話題があるんだけどな。面白くなくても、話すことはある。たまにうんざりするけど」

 それは良くも悪くも、幸哉がその友人たちと現在を共有しているからだと広海は思った。

 生きている時間は常に流動しているから、好き勝手な解釈を与えても致命的な誤りは生まれない。話題に取り上げるリスクが少ないのだ。だから、現在に関する話は尽きることを知らない。しかし、過去は違う。

 過去は長い時間をかけ、独自の定義を与えられてそれぞれの胸の奥に大事にしまい込まれている。そこに安易な解釈を持ちかけることは、相手との致命的な対立を知ってしまう可能性のある危険な賭けなのだ。

 現在を共有していない二人が語り合うためには、どうしても敏感な過去の影に手を触れる必要がある。それは、少なくとも今の広海にとっては容易なことではなかった。

 キヅキがいる――広海は改めてそう感じた。私たちが何も話せないのは、キヅキの話題を避けているからだ。私と幸哉は、あの時からキヅキに縛られ続けている。キヅキは今も私たちのすぐ側にいて、暗い影からこっちを見ている。そのことから目を背けている限り、私たちは何も語れないんだ……。

 しかし、それでも向き合わなければならないことも広海には分かっていた。

「キヅキのこと……」

 ついに広海がその名前を口にすると、幸哉がぎくりとした顔で広海を見た。

「キヅキのことを話すために呼んだんだよね」

 幸哉はしばらくグラスを見つめていたが、やがて観念したように息を吐き出した。

「もう一年経つんだ……。たまには思い出してやらなきゃ、って思ってさ」

 それほど暗い声ではなかった。一年という時間は、多少なりとも二人の喪失感を希釈してくれたらしい。事実、以前のような叫び出したいほどの痛みは、広海も感じてはいないのだった。

 もう鮮明には思い出せないあのとき。夜の河原で、ガラスの破片で手首を深々と切り裂き、血の海に沈んでいる軌月の姿。広海が側に駆け寄ったときには、既に手遅れだった。たった一人で彼女の最後を看取った。しかし、赤黒い血にまみれた軌月の最後の表情すらも、時間の中に拡散して曖昧なものになりかけていた。

 どうしてキヅキは、あんなに物寂しい河原で死ななければならなかったんだろう。幾度と無く繰り返してきた自問が、広海の意識に再び浮かび上がった。

 軌月を自殺に駆り立てた原因については、あまりに様々なことが思い当たりすぎて、どれが本当なのか分からなかった。どれも本当なのかもしれなかった。

 高一の冬から交際していた幸哉との関係が終わりかけていたこと。仲のよかった三人組の中で、一人だけ受験に失敗してしまったこと。幸哉の気持ちが自分ではなく広海に傾いていたこと。

 ――幸哉じゃなかったの。

 不意に軌月の声が聞こえたような気がして、広海はぎくりとなった。それは軌月の最後の言葉だった。命が燃え尽きようとするその間際に、軌月は寂しそうな声で広海にそう告げたのだ。あれは一体どういう意味だったのだろう。

 いや、本当は分かっていた。

 軌月を死に追いやったのは、幸哉じゃなかった。軌月を自殺まで思い詰めさせてしまったのは、彼女の心の繊細さを無視して裏切りに走った、広海だったのだ。

「あのこと考えてるのか」ぼんやりとワイングラスを明かりに透かしている広海に、幸哉が諫めるように言った。「キヅキが死んだのはお前のせいじゃない」

「でも、キヅキが傷ついてるのを知らないフリしてた」そう言って、血の味のするワインに口を付けた。「それに、ナオヤにだって、嘘をつきっぱなしなんだよ」

 ナオヤ。その名前に応えて、時間の中に埋もれていた感情がざわざわと這い出してくるようだった。

 広海は幸哉の顔を見た。幸哉はほとんど無表情だった。ワインを飲むでもなく、グラスを中途半端な位置に持ち上げたまま、何と発言すべきか考え込んでいるようだった。それは、広海にとって肯定と同じだった。



 あの写真を取りだして右端の折り畳まれた部分を広げると、そこにはもう一人の少年が微笑みながら広海の隣に佇んでいる。

 竹田直哉。広海のもう一人の幼馴染みで、二人は中学生のときから付き合っていた恋人同士だった。直哉の顔は、幸哉の顔とそっくりだ。顔だけではなく声も身体も。それは、そっくりというより同じものだった。二人は一卵性の双生児だったのだ。

 幸哉と直哉はとても仲の良い兄弟で一緒にいることが多かったが、二人が並んで立っていると、まるで間に鏡が置かれているようだった。顔や体つきだけでなく、心まで同じなのではないかと思うくらいだった。それほど似通っていた兄弟のうち、どうして直哉の方と付き合うようになったのかは、今となっては広海には思い出せないし、確かめる機会も永遠に失われてしまった。

 幼馴染みのよしみで広海と幸哉と直哉とは一緒にいることが多かったから、軌月を含めた四人は自然と頻繁に行動を共にするようになった。選択授業もクラブ活動も、休み時間も登下校も、学校にいる間はいつでも四人は一緒だった。

 軌月が幸哉と付き合い始めたときも、広海はそのことをほとんど気にしなかった。四人の円満な関係が、そんなことでどうにかなってしまうとは思えなかったのだ。そんな幸せだった日々を、あの写真に閉じこめた。

 しかし、終わりの予感は息をひそめて四人の傍らに近づきつつあった。手を繋ぎ合う幸哉と軌月に、そして自分と直哉の繋ぎ合う手に、いつしか広海は疑問を覚えるようになっていたのだ。

 広海と軌月は同じクラスだったため、昼食は二人だけでとることが多かった。二人きりの昼休みに、軌月はよく幸哉との将来を嬉しそうに広海に語って聞かせた。

「わたし、大学は幸哉と同じところ狙おうと思ってるの」

 弾むような軌月の声に、広海は思わず弁当を食べる手を止めた。

「へえ、そうなんだ」

 苦労して生返事を返した。

 ざわざわとした不快感が胸に溢れてくることに、広海は戸惑いを覚えなかった。そのことが不安だった。自分の拍動が耳に届くようだった。

「それで、大学に入ったらね」軌月は、そんな広海には全く気付かない様子で、得意そうに先を続ける。「二人で耳にピアス空けて、お揃いのヤツを付けるのよ」

 喉の奥から沸き上がってくる嘔吐感にも似た何かを必死で堪えると、溜息のような声が広海の口から漏れた。

「ふうん……」

 幸哉のことを嬉しそうに話す軌月はいつにも増して綺麗だった。その美しさに苛立ちを感じていることが分かり、広海は息を飲んだ。箸を握る手に力が入るのを自覚した。

「広海は、直哉君と同じ大学狙ったらいいんじゃないかしら。ねえ、ちょっと広海、聞いてるの?」

 嬉々として言葉を吐き出し続ける軌月のよそに、広海は上の空だった。

 どうして軌月がそんなに嬉しそうなのか理解できなかった。どうして自分がここに座っているのか理解できなかった。叫び出しそうになるのを、弁当に箸を突き立てることで何とか堪えた。

「まあ、考えとくわ」努めて冷静にそう言った。一刻も早く軌月との会話を打ち切りたい一心で、広海は席を立った。「ごめん、トイレ行ってくる」

 言い終わるか終わらないかの間に、もう教室を飛び出していた。教室の扉に左足を思い切りぶつけて派手な音を立ててしまい、近くの机にたむろしていたクラスメートたちが驚いた顔で広海に視線を注いだ。

 行きたくもないトイレに向かう途中で、偶然にも幸哉とすれ違った。言葉を交わす気にはなれなかったが、目を合わせないことなど不可能だった。視線が交わされるとすぐに、向こうから声をかけてきた。

「よお、広海」

「幸哉……、今からどこ行くの?」

 その答えは分かっているはずだったし、聞きたくもなかった。しかし、毎日のように交わしている会話は半ばルーチン化されており、否応なしに広海の口から飛び出してしまったのだ。扉にぶつけた左足がじんじんと痛んだ。

「軌月のところだよ。あいつ、教室にいるよな」小さく頷く広海を見て、幸哉は満足そうに言葉を続けた。「ああ、そうそう。直哉も教室にいたよ」

 ギブアンドテイク。互いにとって有益な情報交換。この取引でみんなが幸せになれる。そんなことを本気で信じている幸哉の満面の笑み、吐き気を催す独善――少なくとも広海はそう思った。そう思ったあとで激しい自己嫌悪を感じた。幸哉のことは、どうしても嫌いになれそうになかった。

 元々トイレに行くつもりなどなかったので、広海は仕方なく直哉の元に向かうことにした。幸哉を適当な造り笑顔で見送って、直哉の教室に向かった。扉をくぐるとすぐに、人の良さそうな笑顔が広海を迎えた。

「なんだか青い顔してるけど、大丈夫か?」

 広海の微妙な顔色を見て取ると、直哉は心から心配そうな顔をした。好いている者に対しては良く気の付く男だった。逆に、それほど気にとめていない者に対しては鈍感ですらあった。それは幸哉も同じだった。

「ううん……、なんでもない」

 広海は直哉の言葉に、何故かギクリとしながらそう答えた。直哉を真っ直ぐ観ることができなくなって、広海の視線は教室中をさまよい、やがて窓の外に落ち着いた。不安そうな雲が広がっている昼下がりだった。

「体調が悪いんだったら、無理するなよ」

「うん、ありがと」

 こうやって広海に優しい声をかけてくれる直哉は、さっき廊下で会った幸哉と全く同じ顔をしている。容貌も身長も体格も声も、全て写したようにそっくりだ。

 それなのに、なぜ、と広海は思った。そのあとに続く言葉は見つからなかった。

「ヒロミ、今度の日曜日、どっか遊びに行かないか?」

 直哉が気を取り直したような笑顔でのんびりと言った。顔色の悪い広海を元気づけようとしたのだろうが、漠然とした煮え切らない思いを抱いていた広海は、能天気な直哉の態度に苛立ちを感じた。

「遅刻しないなら考えてもいいよ」

 冷たい響きを孕んだ広海の声に、直哉は傷ついた顔で寂しそうに笑った。

「ごめん……、気を付けるよ」

 直哉も幸哉と同じように、待ち合わせ時間のきっかり十分後に現れる男だった。それは二人と別々に付き合うようになって初めて分かったことだったが、そんなところまで二人は似通っているのだった。その頃から広海の隣には「十分間の彼」は存在したが、それがどうやら直哉の姿でないらしいことが広海には分かっていた。

 自覚し始めていた。自分が本当に好きなのは、直哉ではないのだということを。

 そんな矢先の高二の秋、直哉は事故で死んだ。買い物に出た先で、家族の乗っていた車が、信号無視の車両に激突されたのだ。後部座席に並んで座っていた兄弟のうち、直哉だけが命を落とした。残りの家族は無事だった。

 四人揃っていたからぎりぎり保っていられた何かが、直哉の死によって決壊してしまったのが広海には分かった。

 軌月と二人で出席した葬式で、軌月が幸哉に狂気すら感じる執着の目を向けていることに、そしてこちらを暗い疑惑の目で盗み見ていることに、広海ははっきりと気付いていた。式の間中、二人の間に会話はなかった。ただ気まずくて重い沈黙のみがあらゆる隙間から意識を浸食し、広海と軌月を深い疑心暗鬼の中に閉じこめていた。それ以来、二人の関係はどこかぎくしゃくしたものとなってしまった。

 軌月はまるで広海に見せつけるように幸哉と片時も離れなくなり、広海は突然の喪失感と激しい嫉妬の中に放り込まれ、どうしていいか分からなくなっていた。目前に控えていた受験というとりあえずの目標にしがみついて、少しでも二人のことを思考の外に追いやるのが精一杯だった。軌月はそんな広海を尻目に見て、さらに深く暗い場所で幸哉を愛することに夢中だった。

 たしかにそれは、まだ大人になれない少女の見た幸せな夢に過ぎなかったのかもしれない。しかし、自分の世界しか知らない子供たちは、他人の世界のことなど見えはしないし、見ようともしない。盲目的に幸哉だけを映す軌月の瞳に、もはや広海は片腕さえも入っていなかった。そして、それは広海も同じだった。

 僅かな隙間は到底越えられぬ深淵となり、すぐ晴れるはずの朝靄は厚く横たわる濃霧となった。二人は高校生だったのだ。

 予感されていた終わりの始まりは、仕組まれていた罠のように突然に、しかしあまりに自然に訪れた。自らの打ち立てた妄想に追われるままに受験が終わり、それぞれの進路が決定した頃、広海は幸哉から告白された。幸哉は、ずっと昔から広海のことが好きだったのだと言った。

 その当時、広海は深い喪失感の中にいた。ひたすら受験勉強に打ち込むことで紛らわせていた悲しみと寂しさは、あたかも入試が終わるのを待ち構えていたかのように襲いかかってきた。大学合格の通知も無感動に聞き流した、そんな矢先の告白だった。

 すがるような思いで、広海は何度も幸哉と会った。軌月がそれに気付いているのも何となく分かっていたが、止められなかった。広海が幸哉と一緒にいるということは、つまり軌月と幸哉は一緒にいないということだった。その事実は信じられないほどの安堵感を広海に与えた。恍惚を伴う麻薬のような安堵だった。

 そして、崩壊の恐怖から目を背けられるほど、三人は器用ではなかったのだ。やがて、広海と軌月の間に交わされる言葉は消え去り、軌月と幸哉の関係もまた白々しいものとなっていった。受験に失敗し浪人することになった軌月には、もはや支えと呼べるものは何もなかった。

 やがて幸哉との決別が決定的になった夏、軌月はこの世を去った。

 まだ蒸し暑い晩夏の夜の葬式は、恐ろしく苦い鉛色の記憶として広海の中に深く染み込んだ。軌月の棺を見送りながら鈍色の視線を交わした広海と幸哉は、それ以来会うことはなかった。それからもう一年が経った。



 壁際に等間隔に置かれたランプシェイドの淡い灯りが、遠くで燃える炎のように音もなく揺らめいていた。いつか見た光景だと広海は思った。ランプだけではなく、古ぼけたテーブルも、タバコのヤニで黄ばんだ壁紙も、くすんだ透明感のワイングラスも、この店の全てが既視感と切なさを帯びていた。

 誰も見たことがないのに、誰にも対しても郷愁を覚えさせる風景がある。この店にはそれが溢れかえっている。幸哉はそのことに気付いているのだろうか。

 幸哉がグラスを置いた音で広海は我に返った。結局適当な文句が見つからなかったらしく、幸哉は諦念を秘めた言葉を溜息と共に吐き出した。

「お前はナオヤを騙してたわけじゃないし、キヅキが死んだのだって……」

「あんたの方が私を誘ったから?」広海は眉間に皺を寄せて、息苦しさに呻くように言った。「そうじゃないんだよ」

「……じゃあ何なんだよ」

 幸哉がぶっきらぼうに言う。広海はほとんど反射的にそれに答えていた。

「私ね……、ほんとはナオヤじゃなくて、あんたが好きだった」

 不意打ちのような告白に、幸哉が息を呑むのが分かった。

 今なら言ってしまっても大丈夫だろうと、広海は言った後で思った。この言葉で幸哉との寄りを戻そうなどと考えているのでは決してなかった。もうあの頃には戻れないのだという、諦めに近い気持ちが広海の口を動かしているのだった。

 幸哉はグラスに目を落としたまま押し黙った。

「私は、ナオヤにユウヤを重ねていたのかも」無言のままの幸哉を見ながら言う。「そりゃ、告白されたらひとたまりもないよ」

 目を落として広海の言葉に耳を傾ける幸哉のその姿は、やはり十分間の彼とは重ならない。似ているところを必死で探そうとするほどに、二つの像が互いにかけ離れていくような気がした。

 広海が好きだった幸哉はもう現実には存在しないのだ。その事実を改めて突きつけられたようで、胸が苦しくなった。しかし、それを消してしまったのは、恐らく他でもない広海自身なのだ。変わってしまったのは現実を生きる幸哉ではなく、広海の中にいる十分間の彼の方なのだろう。思い出は恣意に歪む。

「グラス」

 幸哉がぽつりとそう言った。

「えっ……?」

 それまで全く頭に無かった単語の意味が咄嗟に把握できずに、広海の思考は一瞬だけ停止した。

「グラス、空だよ」

 幸哉が指さす先を見ると、いつのまにか手元のワイングラスに満たされていた赤い液体がなくなっていた。幸哉のグラスも空になっている。

「今度は自分で頼んでみろよ」幸哉は少しだけ明るい声でそう言うと、自分はさっさと注文を決めてしまった。「俺は、もう一杯さっきと同じので」

 すぐに出てくる幸哉のワインを恨みながら、広海は途方にくれて膨大なメニューを眺める。それは、名前を読んだだけでは内容がさっぱり分からない、カタカナ語の羅列ばかりで構成されているリストだった。

 文字はその意味を知らない者にとっては単なる模様に過ぎない。広海の前のメニューに刻まれたそれらは、お世辞にも目に心地よい模様とは言い難かった。しばらく苦しみ悩んでいた広海だったが、メニューの中にたったひとつだけ目を引く文字列を見つけて、少しだけほっとした。

「この……、ブルームーン、ていうのをお願いします」

 テーブルとカウンターはかなり離れているため、少し声を張り上げなければならなかった。

 カウンターの向こうでバーテンダーが軽く頷いて、てきぱきと材料の酒を並べた。それらをテーブルまで運び、液体と氷を鈍く輝くシェイカーの中に注ぎ込むと、両手でしっかりと包み込んで柔らかく振り始める。中味の混ざり合う音が、心地よく耳に届いてきた。

 いつの間にか店内に流れる音楽が変わっていた。やはり広海の知らないそのバイオリン曲は、別の世界の出来事のようにどこか遠くから聞こえた。カクテルの撹拌される音だけが耳に冷たくリアルだった。

 何も考えずどろどろに溶けて濁流に飲まれてしまえば、私も楽になれるのかもしれない――広海はふとそんなことを考えた。ランプシェイドの橙色の灯りが、まるでざわめくように明滅した。

 できあがってグラスに注がれたカクテルは、目が醒めるような美しいスミレ色だった。バーテンダーがカウンターに帰るまで、少しのあいだそれに見とれてから、徐に口に運んでみる。ブルームーンは思ったよりも甘くなくて、酒に慣れていない広海の舌がぴりぴりと痺れた。色も味も思っていたものと大分違っていた。

「できない相談」

 幸哉が突然、ぼそりと妙なことを言った。

「なにそれ?」

 広海が気のない返事をすると、幸哉が神妙な顔で解説を加える。

「花言葉みたいなのがカクテルにもあってさ、ブルームーンのカクテル言葉は『できない相談』っていうんだ」

「なるほど。相手を振るときに頼むお酒ね」

「そういうこと」半ば跳躍的な広海の解釈に、幸哉が情けない声を出す。「やっぱもう俺じゃだめだってことか……」

「むしろ私は、そのまんまの意味でとったね」広海はにやりとしながら言った。「あんたに会うなんて『めったにないこと』だから」

 『ブルームーン』は、同じ月に訪れる二度目の満月を指す呼称で、同時に『めったにないこと』という意味も持つ。どちらの意味が先んじて与えられたかは忘れてしまったが、広海はそのことにはあまり興味がなかった。

「結局似たようなもんじゃないか」

 そう言って苦笑いする幸哉。

 幸哉に応えて広海も笑ってみたが、なんだかぎこちなくなってしまった。『ブルームーン』から広海が連想したのは、本当はもちろん軌月の名前だった。

 思い出のように美しいカクテルに、ちっとも酔いは回ってこない。スミレ色の月の表面に軌月の顔が映っている気がして、広海は何となくグラスから目を逸らした。何かを思い出させるような不安な色。風化していた感情が次々に鮮明に蘇り、口の中に苦い味が広がっているようだった。この店には古い時間が淀んでいるのだ。

 幸哉は早くもワインを飲み干し、ブランデーを頼んでいる。やけにペースが早いのが気になった。

「なあ……、あの頃は楽しかったよな」

 かなり酔いが回ってきた様子の幸哉が、顔を赤くしながら言った。それでも意識ははっきりしているらしく、表情はいつもの幸哉だった。

「うん」私は短く同意してから、少し考えて付け加えた。「私はまだあの時から動けないでいる」

 未だに過去に縛られて生きているのだ。

 幸せだった四人の関係が破綻し崩壊していく、あの悪夢のような過程を、広海は記憶の底で延々と反芻している。どこかで綻びを繕えなかったのかと、そればかり考えては後悔している。

「それは、キヅキとナオヤのせいか?」

「ううん。たぶん私の責任だよ」

「……そうか」

 それきり、二人とも何となく無言になった。

 広海はぴりぴりする舌をなだめながらブルームーンを少しだけ飲んでみたが、すぐにやめてしまった。その間に、幸哉はまたいくつかグラスを空けた。時計の針がひどくゆっくり進んでいた。古ぼけた時間の中に音もなくゆっくりと沈んでいくのは、心地よくもあり、また苦しくもあった。

 淡い色の時間の底で、広海は軌月を見た。そこには直哉もいた。二人は嬉しそうに広海に笑いかけた。言葉を発する者は誰もいなかった。二人の側に駆け寄ろうとして、はっきりとした視線を感じ、広海はふと上を見る。水面を隔てて幸哉がいた。広海の知らない目で広海を見ていた。そのことが分かった途端に、広海の身体は時間の中で急速に浮上を始めた。

 ――いやだ。まだこの場所にいたい。

 軌月と直哉の姿が、視界の中でどんどん小さく曖昧なものになっていく。広海は空に背を向けて必死に抵抗する。だが、そんな広海を嘲笑うかのように、広海の身体は少しずつ水面に近づいていった。これ以上浮かんでしまったら、軌月と直哉が見えなくなってしまう。

 恐怖に近い感情を覚えながら振り返ると、真剣な眼差しの幸哉が広海をじっと見つめていた。その口がぱくぱくと微かに動く。音は水に拡散して広海の元には届かないが、幸哉は確かにこう言っていた。

「もう戻れないんだ」

 焦りを重ねる広海に向けられた幸哉の顔は、ほんのりと赤くなってはいたが、その表情と口調は少しも変わっていなかった。

「お前に話しておきたいことがある」やけに低く、落ち着いた声で幸哉は喋った。「どうせもう元に戻れないなら、ヒロミには本当のことを知っておいて欲しい」

 いつの間にか、広海は元のテーブルに腰掛けていた。仄暗い間接照明の灯りの中に、幸哉の少し赤みを帯びた顔が浮かんでいる。空想と現実の境目が咄嗟に分からず、広海は苦労しながら口を動かした。

「本当のことって……?」

「キヅキが死んだのは、お前のせいじゃない」

 ようやく妄想から脱した広海に向かって、幸哉は重々しい口調でそう言った。

「またその話……」

 そう応えようとする広海を遮って、幸哉は言葉を繋ぐ。

「ぜんぶ俺が悪かったんだ。今日はそのことを話すために呼んだんだ」

 不気味なぐらい淡々と言葉を発する幸哉に驚いて、広海は幸哉の顔をじっと覗き込んだ。目の焦点はあっている。言葉もしっかりしている。酔いから来る妄言ではなさそうだった。

「それ、どういう意味……」広海の胸が得体の知れない不吉な予感にざわめいていた。「私に何か隠してることでもあるの?」

 幸哉は広海から目を逸らして口をつぐんだ。空のグラスに視線を移し、どこか気まずそうな無言。広海は知っている。それは肯定だ。

 グラスに目を留めたまま、幸哉は再びぼそぼそと喋り出した。

「俺はずっと昔から、ヒロミが幸哉に惚れてるのを知ってた。でも、俺はヒロミのことが好きだった。だから、ヒロミが幸哉とどうにかなる前に、俺が告白したんだ」

 何の話なのかよく分からずに戸惑う広海は、沈黙で先を促した。

「俺は、ヒロミにも俺のことを好きになって貰いたかった。でも、ヒロミは俺のことを心から愛してはくれなかった」

「一体、何の話を……」

 そう言い淀んだ広海を真っ直ぐに見据えると、幸哉は深く息を吸い込んでから、まるで宣言するようにはっきりとした声で言った。

「ずっと見てたんだ。待ち合わせの時間から十分間、お前のことを」

「えっ……?」

 胸のざわめきが大きくなる気配。

「長い付き合いだから表情でわかった。あれは、じきに現れる俺を待つ顔じゃなかった。ヒロミの隣に立っていたのは、俺じゃない他の誰かだった」

 広海は慎重に記憶を手繰った。そう言えば、かつて四人で集まるときに、遅刻する者は誰もいなかった。幸哉と直哉は特に几帳面で、待ち合わせ時間よりもだいぶ早く現れては、二人揃って広海と軌月を待っていたものだった。

 そして広海は理解した。幸哉は一度たりとも遅刻などしたことはなかったのだ。

 幸哉は待ち合わせの時間よりも前に現れて、隠れた場所からずっと広海のことを見つめていたのだ。それならば、駅の左手階段を上がってくる幸哉を見つけられなかったことも説明がつく。幸哉は逆方向の電車を使ったのではない。始めから広海のすぐ側にいたのだ。

 背中を嫌な汗が伝った。広海は顔を強ばらせて再び幸哉を見た。幸哉の周囲だけ急に照明が消えてしまったように、その表情は闇に紛れて輪郭を崩していた。暗がりの中で幸哉の言葉が続く。

「あるとき、俺はふと思いついたんだ。お前がすぐ隣に見ているのは、俺じゃなくて幸哉の姿なんじゃないかって」

「ちょっと、ユウヤ……?」

 違和感がしだいに矛盾となって広海に認識されていった。広海の方を見てはいるが、まるで空気に向かって話しているかのように、幸哉はぼそぼそと喋っている。

「俺は本当に、心の底からヒロミのことが好きだった。ヒロミに振り向いて欲しかった。顔も声も身体も写したように同じものなのに、どうして幸哉は愛され、俺は愛されないのか……随分悩んだよ」

「ねえユウヤ……、あんた何言ってるの?」

 広海が怪訝な声を出すのを無視して、幸哉は独白を続けた。途中で中断してしまったらもう二度と話せなくなるんだ、とでも言いたそうだった。

「だが、それでも構わないとも思っていた。そんなことよりも、俺にとっては四人の関係の方が大切だったから」

 幸哉は少しだけ躊躇ってから、次の言葉を苦しそうに絞り出した。

「でも、あの事故から全てが変わった」

「ナオヤが死んだ、あの事故のこと……?」

 不吉な予感に声をひそめる広海に、幸哉は曖昧な表情を見せて、目を伏せただけだった。そして、意を決したように再び口を開いた。

「事故直後の車の中はとても静かだった。両親は気絶していて、幸哉は即死だった。俺だけが妙に冷静に覚醒していた。車のドアは完全に潰れて外に出ることはできず、救急隊に助けられるまでの数十分の間、俺は幸哉の死体の隣で呆然としていた。その時、恐ろしい考えが俺に浮かんだんだ。『もし俺が幸哉になれば、広海から愛して貰えるかもしれない』」

「そんな……」

 想像だにしなかった告白に動転した広海は、それ以上何も言うことが出来ない。薄暗かった店内が、さらに闇を増したような気がした。

「救急隊に助け出された両親に、俺はこう言った」それは、諦めを決めた者の潔さすら感じる声だった。「『直哉が死んだ』」

 幸哉は――いや、直哉は、逸らしていた視線を、言葉を失っている広海に戻した。

 そして、静かに宣言した。

「俺は直哉なんだよ」

 そこまで一気に話し終えると、直哉はホッとしたように一旦言葉を切った。

直哉はグラスを口に運び、既にそれが空になっていることに気付くと、肩をすくめて再びテーブルにグラスを戻した。

「思った以上に誰も疑わなかった。両親も軌月も気付かなかったし、ヒロミ、お前も気付いてくれなかった」

 そこで少しだけ言葉を切ると、幸哉は寂しそうに広海を見た。

「俺は……、お前にだけは気付いて欲しかったのかも知れない」

 疑っていなかったわけじゃない――広海は思った。たぶん、私は何となく分かっていたんだろう。二人が入れ替わっていたことを確信していたわけじゃないけれど、幸哉がどこか変わってしまったのは感じていた。本当の幸哉は、やっぱり私の十分間の中にいたんだ。

 ――幸哉じゃなかったの。

 軌月の声が再び蘇る。

 記憶が目まぐるしく回転し、あの時の光景が再構築される。血の中に倒れて虚ろな目をしていた、かわいそうな軌月。あれは、幸哉と軌月がよくデートしていた河原だった。人のほとんど通らない夜遅くのこと。軌月は近くに落ちていたガラス片で自殺を図ったのだ。

「キヅキが自殺する直前、あんたとキヅキは一緒にいた……。あんたはキヅキに本当のことを打ち明け、すぐにあの場所を立ち去ったんだね。キヅキはショックのあまり、近くに落ちていたガラスで衝動的に自殺を図った……」

「そうだ……」直哉は苦しそうに言った。「まさか、あんなことになるなんて」

 軌月の苦悩が、広海には何となく分かった。愛していた男がいつのまにか別人と入れ替わっていて、しかもそれに気付けなかった軌月。彼女どれほど絶望したことだろう。軌月の世界はそこで終わってしまったのだ。

「だから……、軌月を殺したのは、俺なんだよ」

 そう言って、ついに直哉はがっくりと項垂れた。肩を落としたその姿は、ひどく疲れているように見えた。

「どうして、今になって本当のことを言おうと思ったの?」

 広海は努めて冷静に喋ったつもりだったが、言葉の最後はひどく震えながら灰色の空気の中に消えていった。今すぐにでも泣き出したい気分だった。これでは救いがないじゃないか、と叫びたかった。

「久しぶりに会ってみて、お前がまだ思い出から抜け出せないでいるのが分かったから」直哉は下を向いたまま呟くように言う。「悪者は俺一人で十分だ」

 古い時間の中から掘り返された苦い感情が、広海と直哉を取り巻いていた。

 何と言って良いか分からずにカクテルに目を遣ると、不安なスミレ色が不吉な予感を孕んで波打っていた。広海は、再び軌月の最後の顔を思い出そうとして、そして妙な違和感を覚えた。あまりの違和感に、直哉の告白の驚きすらも忘れて、広海はその正体を探るのに必死になっていた。

 ――幸哉じゃなかったの。

 広海にそう告げた軌月の最後の顔。そこに浮かんでいたのは、悲しみの類の表情だけではなかったように広海には思えた。

 そう、あの時の軌月は驚いていた――広海は確信した。

では、一体何に?

 刹那、時間のもやが一瞬のうちに綺麗に取り払われた。遠く曖昧になっていた記憶が――いや、恐らくは無意識のうちに忘却しようとしていた事実が、いま強烈に広海の前に蘇ったのだった。

「ああ、なんてことなの……」広海の口から意図せず驚愕の声が漏れた。「私は、なんてことを……」

 広海は見ていたのだ。河原を一望する土手の草影から、軌月が手首を切るところを。軌月が幸哉に何を告げられたのかまでは分からなかったが、二人きりで行動する幸哉と軌月に嫉妬して、密かに二人を付け回していた広海にとっては、その目撃は自然ななりゆきだった。

 月だけが照らし出す薄暗い夜の河原を、二人で歩いていた軌月と幸哉。幸哉は急に軌月に向かって何かを話しかけ、呆然と立ちつくす軌月をその場に残して闇の中へと去っていった。しばらく微動だにしなかった軌月は、やがて地面に落ちていたガラス片を拾い上げ、何の躊躇いもなく自らの手首を切り裂いた。月明かりに描き出された血しぶきの軌跡は、妖艶に美しいスミレ色に見えた。それは不安な色彩だった。

 しかし、広海は夥しい血を流す軌月を助けに行こうとはしなかった。その怪我が致命傷になるまで、草むらからその様子をじっと観察していたのだ。

 やがて突然現れて自分の身体を抱き起こした広海に、軌月は驚きを隠さなかった。その時は眼鏡をかけていなかった軌月だったが、自分をかき抱いているのが幸哉でないことは分かったらしかった。

『あなた、だれ?』ほとんど消え入りそうな声が、広海の耳に辛うじて届いていた。『なあんだ……、幸哉じゃなかったの』

 広海の腕の中でそう言い残すと軌月は死んだ。頬を伝った涙がひとすじ、静かに月光を反射していた。軌月は最後まで幸哉のことを愛していたのだ。

 そして、広海はようやく気付いたのだった。広海が愛していたのは、幸哉でも直哉でもなく、軌月だったということに。

 ああ、そうか――広海は心中で呟く。私は、キヅキが離れていくのが許せなかったのか。私の元から去ってしまうぐらいなら、いっそ死んでしまえばいいと思っていたのか。キヅキを殺したのは、やっぱり私だったんだ。キヅキ……、ごめんね。 

 隣にそっと目をやると、テーブルの傍らに軌月が佇んでいた。許されないことをしたはずの 広海に向かって、軌月は穏やかな微笑みを向けていた。妄想でしかありえないと思いながらも、やはり声をかけずにはいられなかった。

 やっぱりキヅキだったんだね。ずっとそこにいたのか。

 ヒロミったら、なかなか気付いてくれないんだもの。

 ごめんね、キヅキ。私……、本当にあなたが好きだったのに。

 もういいのよ。私こそごめんなさい、こんなに苦しませてしまって。

 ねえ、キヅキ。私はこのまま先に進んでしまっていいの?

 しかし、その問いに軌月が答えることはなかった。軌月はただ、もう取り戻せない美しい微笑を広海に投げかけているだけなのだった。

 これは都合の良い妄想だな――広海は自嘲を込めて思った。私はあんなに好きだったキヅキから、こんなにも簡単に逃れてしまおうとしているのか。ああ……、こんな私が、これからも生きていかなければならないなんて。キヅキ、ごめんね。

 どうしようもなく情けなかったが、弱い広海にはどうしようもなかった。後ろめたさを罪だとか罰だとか都合良く解釈しながら、このまま生きていることしか広海にはできそうになかった。

「ヒロミ、どうした?」

 彼が顔を上げ、黙っている広海に訝しげな表情を向けていた。好意を持っている相手のことには敏感な男だった。

「私……、今になってやっとわかったよ」広海は意を決して言った。「私が愛していたのは、キヅキだったんだ」

 彼の両目が驚きと共に見開かれる。一度口に出すと、もう止めることはできなかった。広海は堰を切ったように喋り出した。

「きっと私は、キヅキを独占したかったんだと思う。私にとって、キヅキの存在は鏡だった。綺麗なところしか映さない、私だけの便利な魔法の鏡。だから、幸哉のせいでキヅキが私から離れていくのが、私は許せなかった。直哉のせいで私がキヅキから離れていくのが、私は許せなかったんだ」

 言いながら、広海は自らの言葉に納得していた。幸哉も直哉も、広海の鏡にはなり得なかった。なぜなら彼らは、広海とは明白に違う生物なのだから。

「私の世界を写し続けるために、あの綺麗な鏡を失うわけにはいかなかった。私にはキヅキが絶対に必要だった。他人の手に渡るぐらいなら壊れてしまえばいいとさえ、心の底では思っていたかもしれない」

 言葉に出すと、確信は広海の中で一層強まった。広海の隣にいた十分間の存在は、幸哉でも直哉でもなく、軌月だったのだ。幸哉と直哉を待ちながら、広海はいつも軌月の姿を想っていたのだ。

「キヅキは死んで、思い出の中のキヅキは私だけのものになった。だから私は、あの頃の時間から抜け出せないでいたんだね」

 長いあいだ鍵の見つからなかった錠が、急に外れたような思いだった。広海はグラスに残っていた僅かな液体に目を落としたが、そこにはもう軌月の姿は無かった。思い切って一気に煽ると、喉を通り抜けていくブルームーンの爽やかな風味がやけに心地よかった。涙が出そうになるのを必死で堪えた。

「そうか……」彼はそんな広海を見て、心底残念そうに溜息をついた。「俺たちじゃ、ヒロミの鏡になれなかったんだな」

「あんたたち二人は、お互いが鏡だったから」空になったグラスをテーブルに置いて、広海は応えた。「私が入る隙もなく、ユウヤとナオヤの世界は完結していたんだよ」

 二人と自分が違う生物だと気付いたのは、一体いつだっただろうかと広海は考えた。何の疑問も持たずに三人でじゃれあって過ごした日々は、もはや霞んで見えなくなっていた。二人と自分との間に存在する、生物学的な、そして致命的な軋轢を、広海はいつの間にか感じるようになっていたのだ。

 幸哉と直哉は全く同じ顔をしていた。容貌も身長も体格も声も、全て写したようにそっくりだった。

 ――それなのに、なぜ、私の姿だけが違うんだろう。

 幾度と無く繰り返していたはずの問いが、ようやく広海の中で輪郭を露わにしたのだった。

 過不足のない関係にあるユウヤとナオヤが羨ましかったのだろうか。そのために、私はキヅキを求めたのだろうか――そう考えた刹那、広海は全てが過去の出来事なのだと知った。そんな当たり前のことに、ようやく気付いたのだった。

 彼は寂しそうな表情をその顔に浮かべて、ただ何も言わず広海をじっと見つめていた。そして、無言のままに徐に席を立った。

「そろそろ出ようか。会計やっとくから、先に上がってて」

 有無を言わせぬ彼の静かな言葉に頷き、広海もそっとテーブルを離れた。

 もたれかかるようにしてドアに手を預けると、別れを惜しむようにベルが高く響く。何の言葉も掛けてこない無愛想なマスターを背に、広海は扉をそっと閉めた。『REMINISCENCE』のプレートに背を向けて階段に足をかけると、少しだけ火照った肌に、湿っぽくて不快な空気がまとわりついてきた。

 一段ずつ身体を持ち上げるにつれ、次第に店の静寂が薄れ、街の音が増してゆく。古い時間は消え去り、広海のいるべき時間が戻ってくる。あと数段も階段を上ってしまえば、もうそこは軌月のいない世界なのだろう。

 そして、その世界はあっけなく訪れた。初めて切なさを知った。

「ねえナオヤ……」広海は、まだ地下にいるはずの彼にそっと語りかける。「本当にあなたはナオヤなの?」

 軌月はあのとき、自分を抱き起こした広海を、まず幸哉だと思ったようだった。軌月は、幸哉と直哉が入れ替わっていた話など聞かされていなかったのだ。つまり、さっきまでの彼の告白は、広海の自責を少しでも和らげるための嘘だったという可能性もあるのだ。

 広海は先刻まで一緒にいた男の姿を思い浮かべた。それは幸哉でもあり、同時に直哉でもあるように思えた。二人の姿はまるで写したようにそっくりで、広海には彼らを見分けることが出来なかった。

「私ね、思うんだ」

 広海は虚空に向かってさらに呟く。

「鏡に映った世界って、やっぱり本当じゃない。醜いところがあったとしても、それが分かってしまったとしても、無理にでもバランスを取りながら生きていかなきゃならないんだよね。だから……」

 彼は一向に地上に出てこなかった。まるで中には誰もいないとでも言うかのように、地下への階段は暗く静かだった。

「……お互いに鏡になれなかった私とあんたは、またどこかで会うのかも知れない」

 一陣の風が、通り抜けざまに広海の髪を撫でていった。不意に秋を感じさせる涼しさに広海は身震いした。ふと空を見上げると、黒い空を灰色の雲が一面に覆っている。時を待たずに今年の夏も終わるのだ。

 ビルを出た通りに、大学生風の男達が数人たむろしているのが見えた。いかにも楽しそうに会話を飛ばし合っているそのグループに何故か目が釘付けになった。この視線はきっと、遠からず広海を激流の直中へ誘うのだろう。そんなとき広海は、この店に入る前の自分を懐かしく思い出すのだろう。

「みんな、さよなら」

 じきに地上へと昇ってくるはずの彼を待たずに、青い月の消えた空に滲む喧騒の中、広海は独り歩き出した。

 そんな、泣きたくなる夏だった。

初めて書き上げた作品です。

未熟で稚拙なのは自覚しています。

今後のためにも建設的な批判をしていただけたらと思います。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 素敵な作品だと思います。広海の心情が読みとりやすく、ストーリーの中に引き込まれていくように感じました。 ただ、最後に『あなたはナオヤなの?』とありましたが、やはり最後の部分なので、どちらかは…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ