第一話 絶望の闇・B
絶望という名のその希薄な存在感は、されど静かな足音で彼らに迫った。
虚をつく初動。果たしてそれが対応すべき脅威であるか否かも判断できぬうちに、魔人《ガーゴイル》の一人は、首を刈り取られていた。
「なん、だと……、貴様!」
頭部を失い崩れ落ちたのは、最初にノゾミに迫った方の魔人であった。永き命に終止符を打たれた身体は灰と化し、跡形もなく床に散乱した。
魔人の身体能力をもってして、対応できぬほどに速かったわけではない。ノゾミの流れるようなしなやかな動きと、鎌という風変わりな獲物の、曲線的な挙動に構え遅れたのである。刃の切っ先が斜め後方から自らの首筋を抉るまで、ノゾミの左手に頭皮を掴まれぶら下がる彼は、危機を察知できなかった。
「……魔人も、首を切られると死ぬんだ。良かった」
灰化し始めた生首を投げ捨て、ノゾミは改めて親友の仇と向かい合った。
「おのれ……何の奇術かは知らんが、その力、放っておけば脅威となろう!」
『奇術ではない。魔法だ。この世界の言葉では、それが最も近い表現だろう』
鎌の声が静かに否定するが、ノゾミにはどうでもいいことだった。
魔族相手に立ち回れる。もう無力に嘆く必要はない。絶望に、打ちひしがれることもない。それだけの力があるのだから、それで良かった。
――これで、仇が獲れる。
「人間風情が……身に余る力を……!」
『来るぞ、ノゾミ!』
魔人が間合いの外から仕掛ける。腕を一閃すれば、たちまち大気の刃がノゾミに襲い掛かる。単純な腕力ではない。現象を自在に発生させる力、魔族が人類を圧倒した要因の、ほんの一つだった。
ノゾミは鎌の刃を盾にし、身体を捻ってかまいたちから逃れるが、爪先とマントの端に衝撃を感じた。
『バリア損傷率は五パーセントだ。問題ないが、直撃すれば、倍のダメージは持っていかれる。油断するなよ』
「……バリア?」
『後で説明してやる』
すぐさま間合いを詰める魔人に、ノゾミは構える。相手の加速と残りの距離を瞬時に把握し、振り払えないと判断した鎌を身体の横へと外し、地を蹴った。
「がはっ!」
魔人の攻撃の瞬間に、ノゾミは回避行動を取らず、逆に懐へと飛び込んでいた。対格差を利用して、鳩尾に頭突きを叩き込み、怯んだところへ鎌の柄で一突き入れた。たまらずに魔人は後ずさり、再び距離を取る。
「ぐっ……なんだその武器は……」
銃弾も砲弾も通用しないはずの強靭な肉体は、非力なはずの少女の手によって、確実にダメージを受けていた。魔人は驚愕を隠せず、追撃に慎重になっていた。
『だから、魔法だと言っている。貴様らを駆逐するための装具、《デーモンベイン》とは、このオレのことだ』
「さっきから、なんなのだその声は!」
「……関係ない」
冷たい声色で、ノゾミは言い放つ。一歩一歩、ゆっくりと魔人に近寄りながら、鎌を振りかぶる。
「あなたはここで、絶えるの。あなたが殺した、あの子みたいに」
「認めん!」
追い詰められたように攻勢に転じた魔人の、鋭い爪が届く前に、ノゾミはその手首を切り落とした。身体を回転させながら巨大な鎌を操り、次の一回転で反対の手を吹き飛ばす。輪舞のように旋回しながら、慌て逃げようとする右足を腿から切断し、折角なので残った左足ももぎ取った。都合、四回転。たったそれだけの動作で、魔人は無力化し、四肢の付け根を灰化させながら床の上でのた打ち回った。
「馬鹿な……馬鹿なぁ!」
「……馬鹿はあなたでしょ」
『相手の力量も見定めようとせんとは、低級種族など、こんなものか』
ノゾミは哀れな姿となった魔人を見下ろし、鎌の切っ先をその喉元に突きつけた。
「どう、絶望した?」
「……くっ」
「絶望してくれないと、わざわざ首じゃなくて手足を狙った意味がないんだけど……まあいっか」
『おいノゾミ』
とどめを刺そうとしたその時、鎌が言った。
『通路の奥から、数対の魔人が来る。まだ仲間がいたようだな』
「そう」
『無理に相手をする必要もない。低級種族が取るに足らん連中だということは、身をもって分かっただろう。放っておいても問題は……っておい!』
さっさと床に転がる魔人の喉を切り裂き灰にした後、ノゾミは魔人たちの蠢く通路の奥へと足を進めた。不思議と暗闇の中でも視界ははっきりとし、ほどなくして標的を見据えた。
「放っておくと、他の集落がここみたいになる。違う?」
『それはそうだが……まあいいだろう。オレはお前の道具に過ぎんからな。ちょうどいい手慣らしだと思えばいいか……さっさと片付けるぞ』
対峙する、一人の小さな少女と、魔人の軍勢。群れの中から一人が歩み寄り、品定めするような視線で、ノゾミの容姿を観察した。
「同胞の気配が、今しがたこの辺りで消えた。娘よ、よもや貴様も仕業か?」
「……………」
「報告にあった《駆逐対象》と同類やもしれんな。一同、油断はするな」
狭い地下通路の壁の沿い、魔人の群れが展開する。どれも姿形は、ノゾミの始末した《ガーゴイル》と同じものであったが、その数は十二。あっという間に四方を囲まれ、闇に光る二十四の目が、獲物を捉える。
『長期戦になれば不利だ。さすがにこの物量差で、回避行動を取りながらの各個撃破は難しいからな。こういう状況の場合、短時間で離脱……はしないんだったな。だったら、手早く殲滅しちまえばいい』
「……どうやって?」
『《ファイナルシフト》、スタンバイ』
鎌の輝きが増し、ノゾミの背に再び黒翼が展開する。光のない場所で、闇に紛れず不思議な存在感を示すその翼に、周囲の魔人が戦慄する。
『予備の魔力を全て攻撃に回す形態だ。殲滅力は跳ね上がるが、魔力を使い切るためにリスクは高い。これで蹴りをつけられなければ、分かるな?』
「……うん」
足を開き、腰の位置を低くする。鎌を脇構えにし、ノゾミは下半身に力を込めた。
『臆するな、お前の資質なら十分に使いこなせる。リミットは五秒だ。行け、ノゾミ!』
「ファイナルシフト!」
右足が地を蹴る。床のコンクリートが剥がれ、宙を舞う。それが重力に引き寄せられる前に、ノゾミは正面の、一体目の魔人に斬りかかっていた。
黒翼を広げ、死神の出で立ちをした少女が駆ける。一体目の首を切り落とし、返す刃で二体目の胴体を斬り上げて真っ二つにする。回転の勢いを殺さずに、斜め前の三体目、四体目を一閃で仕留め、鎌を手放す。慣性のままに回転しながら飛んだ鎌は意思を持つかのような軌道で壁際の五体目の首を飛ばし、六体目の喉元に突き刺さる。その間に落下を始めた先程のコンクリート片をノゾミは蹴り飛ばし、後方の七体目の鼻先から頭部を粉砕し、六体目から鎌を引き抜き、もう一度投擲する。灰化した七体目を霧散させながら鎌は更に後方の八体目を切断し、その横の九体目を壁に串刺しにして止まり、駆け寄ってきた持ち主の手に戻る。この辺りで投擲は拾いに行くのが面倒だと気付いたノゾミは、今度は自分の手で近くの九体目を斬り捨て、翼を広げて十体目に跳びかかり、膝で顔面を潰す。着地してすぐさま隣の十一体目を袈裟掛けに斬り、十二体目を見つけて、一息吐く。
「一秒、余った」
折角なので時間を目一杯使いきってみると、十二体目の身体は灰化するまでに六つにスライスできた。
『シフト、ダウン』
鎌の声に、ノゾミの翼は消失し、灰と黒羽根が、地下通路一面に飛び散った。
『駆逐完了だ。良くやったな、ノゾミ。初めてとは思えん、見事な手際だった』
「……うれしくない」
『そうか』
鎌が光を失い、ノゾミの黒衣が解けるようにして消えていく。黒髪も銀色の光を取り戻し、残った杖は再び白黒の獣の姿へと戻る。圧倒的な力を見せ付けた黒衣の死神も、半裸のか弱き少女へと戻っていた。
「……………」
『疲れただろう。少し休め。……ああ、その格好では風邪を引く。何か衣類を探したほうが……』
「…………っ」
『お前、泣いているのか』
胸を押しつぶされそうな感情の爆発に、ノゾミは涙を堪え切れなかった。
『無理もない、か。《デーモンベイン》装着中は精神力も大幅に上がるが、今のお前には、この現実は確かに辛過ぎる。悪いな、オレは人の感情をある程度は理解できるが、慰められるほど情に厚くもない』
ノゾミは表情を歪め、涙をこぼしながら、覚束ない足取りで来た道を戻った。散乱した灰と、男たちの肉片。そして――。
「ユキ……ごめ、ごめん……っ」
見るに耐えない姿となった親友の側に膝を着き、ノゾミは意味のない懺悔を繰り返した。力と共に手に入れた声と言葉は、しかし一番聞かせたかった相手の耳には、どうしても届かない。それがもどかしくて、悔しくて、ノゾミは嘆き続けた。
「ごめんね……ごめん、ごめん……」
あの時手を離さなければ、もっとよくユキを探していれば、こんな事態は免れたかもしれない。どうしてもその可能性が、ノゾミの頭から離れなかった。
『……お前のせいではない。お前が彼女と一緒にいたところで、力を手にすることはなかっただろう。二人して奴らの餌食になっていただけだ。お前一人でも助かったことを、幸運と思うしかない』
「…………ごめん」
大粒の涙が止め処なく溢れ、獣の言葉も、ノゾミの耳には届かなかった。自分一人生き残ってしまったことが何故か申し訳なく、身勝手な謝罪に過ぎないことは分かっていたが、それでも、今のノゾミには、理性を働かせる余裕はなかった。
身も心もズタズタに引き裂かれ、絶望に塗れた少女、ノゾミ。
この日、過酷な運命に蹂躙されながらも、彼女は確かに、生き延びたのであった。
たっぷり一晩泣き叫んだ後、ノゾミは力尽きたように眠りに就いた。目を覚ますと再び《デーモンベイン》を装着して、地上に出る。魔人が待ち構えている可能性もあったが、何より、親友の身体を運ぶためには、少女の腕は細すぎた。
『装着中は、体力、気力の双方が飛躍的に強化される。加えて、因果補正によって運勢も上がる』
「……そう」
『《バリア》というのは、その因果補正を利用した防護障壁だ。周囲に擬似空間を形成し、装着者に降りかかるあらゆる事象の中から物理的負荷のみを選定して、そっちの空間へと移し変える。無論、ダメージが蓄積すれば擬似空間は破壊され、再構成まで《バリア》は消失する。その状態で魔人の攻撃を受ければ、所詮、人間の娘にしか過ぎないお前など、当然即死だ』
「……そう」
『興味なさそうだな。重要なマニュアルなのだが……』
土を盛っただけの友人の墓標に触れ、黒衣のノゾミはしばしうなだれていた。変身していなければ、昨晩のように泣き声を上げていただろう。
「聞いてる。戦うために必要なことなら、覚える」
『乗り気だな。助かるよ』
「もう、他になにもないから……」
生きる理由など、ノゾミは生来、一度たりとも考えたことはなかった。ただそれが当たり前だったから、今日まで生きてきた。けれど、その当たり前を奪われてしまった人々を目の当たりにして、思わずにはいられなかったのである。
魔族と、戦う。自分はただ、それだけのために生き残ったのだと。
死屍累々となった村を見渡す。埋めたのはユキだけだった。野生動物が死骸をつつきだしたので、ほとんどが目も向けられない状態と化していた。
『最近、各地で大規模な襲撃が行われているらしい。非力な人間を何故わざわざ駆逐しようとするのか、真意は定かではないが……可能性の一つとして、オレの存在が上げられる』
「……………」
『すまないな』
「別に……」
鎌が獣の姿に戻ると、ノゾミの黒衣も散るように消失した。手を合わせて手頃な死体から拝借した、大き目のTシャツと、ハーフパンツというのが現在のノゾミの服装だった。下着は誰のものも例外なく汚物で汚れていたために、僅かな風通しの良さには我慢しなければならなかった。
「うぇっ」
むせ返るほどの血と肉の匂い、グロテスクな瓦礫の山、未だ癒えぬ友人を失った悲しみ。変身を解いた途端に、少女の心身には重過ぎる衝撃が押し寄せ、ノゾミは堪らず蹲った。
『とにかく、ここを離れよう。歩けるか?』
「…………ん」
村中からかき集めた僅かな食料と、衣類。鞄に詰めたそれだけを手にして、ノゾミは生まれ、育った場所から歩き始めた。
「……さようなら」
もう、後ろは振り向かない。立ち止まって振り返れば、もう一歩歩き出す決意は萎んでしまうような気がしたからだった。
『自己紹介が遅れたな。オレの名はフェザー。《デーモンベイン》、天使の羽根に備わった支援人格だ』
「……まんま」
『ほっとけ』
フェザーと名乗った獣に先導されて、ノゾミは山道を歩いていた。隣の集落へ自ら足を運んだことはなかったが、山を一つ越えた先だと聞いたことはあった。実際に、ノゾミの村とも僅かながら交易があったらしい。
『《デーモンベイン》とは、魔法の力をもってして魔族を討つための装具だ。魔法、といっても、この世界の歴史にあるような、悪魔の力を借りた禍々しいものとは違う。確かに根本の原理は魔族の使う「現象を操る力」を応用したものだが、オレの作られた世界では、魔法というのは純粋な科学技術の一つだった』
「あなたの、作られた世界?」
『この世界から見て、魔界とは対面に位置する平行世界だ。便宜的に、天界とでも呼んでおこうか』
天使の羽根という名を冠する獣は、皮肉めいた言い回しをした。
『平行世界は多層構造をしており、魔界は最下層に、人間界は中ほどに、天界は最上層に存在していると、オレの世界では実証されている。世界は上層へ向かうほど秩序と文明が発展し、同時に下位世界の観測がし易い』
「……そう、なんだ」
『あまり実感が湧いていない様子だな。まあ、この辺はさして重要ではないから、聞き流してくれても構わないが』
学校でも、ノゾミは机に向かって勉強するよりも身体を動かす方が得意だった。ここはフェザーの助言に従うべきと、強く頷く。
『で、だ。本来ならば最低レベルの文明しか持たないはずの魔界、そこに住む魔族どもが、突如として世界侵略に乗り出した。文明がなくとも、奴らには特別な力――魔法と呼ぶべき力があったのだ。魔族は侵略を繰り返すうちに進化を遂げ、力を増しながら、遂にこの中間地点、人間界にまで辿り着いた。無論、奴らの最終目的地は、世界のてっぺんに違いない。天界も、さすがに干渉を余儀なくされたのだ』
「……………」
『奴らが次の世界を侵略する前に、ここで食い止める。そのために、オレたちはこの世界へと使わされた』
「……たち?」
立ち止まったノゾミの疑問に、フェザーは一つ頷き、ここからが本題だと言わんばかりに語気を強めた。
『デーモンベインは、オレ一つだけではない。この世界、それもこの近隣に、少なくともあと二つ存在している』
その時、山の向こうに現れた暗雲より、一筋の雷が走った。ノゾミが思わず目を向けるほどの、眩い瞬きと轟音。
『お前にはまず、他のデーモンベイン所持者――お前と同じ《魔法少女》たちと合流してもらう』
「……………」
長い銀髪を濡らし始めた雫は、ノゾミの行く先に霞をかけるかのように、だんだんと激しさを増していくのであった。
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「へえ、面白いね、その話」
青き霹靂を背に、灰燼を踏みしめながら、弓を携えた少女は呟いた。
「いいじゃん。あたしは好きだぜ、そーゆー無茶振り。……ただ、さ」
顔を濡らす雨粒を、手の甲で拭う。円らな瞳は勝気に輝き、凛とした表情は死闘を演じた後にも関わらず、不敵に唇を吊り上げていた。
「その、他の所持者って奴らは、信用できんのかな……だってそうだろ?」
少女は手にした弓に向かって、冷淡に言い放った。
「このご時世、人間だって魔族だって、敵には変わりないんだからさ」
日の光を失った天空に、また一つ、稲妻が走る。その日、午後より降り出した豪雨は、翌日未明まで止むことはなかった。