第一話 絶望の闇・A
――二十世紀末、破滅の扉、開門。
かつて大預言者によって警告された終焉は、何の前触れもなく人類史へと降り立った。
世界の構造すら、平行世界の存在すら架空のものとして認識し得なかった幼い文明は、上位種たる魔族の前では完全に無力であった。焼尽の炎を平然と吸い込み、銃弾を叩き落とし、ミサイルをも投げ返してくる化け物を相手に、窮地に立たされた軍事力は遂に最後の決断を下す。
しかし眩い閃光と轟音に身を砕かれながらも、獣じみた牙を生やしたその口元は、穏やかに笑みを浮かべていたという。
「おかげで綺麗になったな。礼を言うよ、人類諸君」
多くの同胞が塵となって吹きすさぶその焦土に、魔族の王は遅れて足を踏み入れた。現代兵器を玩具たらしめた魔界の先行部隊は、末端の雑兵に過ぎなかったのである。
結果的に、核の炎は文明の造物と、僅かな生存者を焼き払うのみに終わった。
有毒の大気をものともせず、魔族の本隊は淡々と荒野を制圧し、根城を築いていった。瞬く間に地上の生態系は大きくその姿を変え、やがて人類史そのものが破綻した。
その間、僅か一年足らずのことであった。
それから十年余りの月日が経った。
皮肉なことに、人類はその無力さ故に殲滅を免れていた。生命力も、繁殖力も衰えきった劣等種を駆逐するための労力は無意味とみなされたのである。彼らは地上の片隅でひっそりと生きながらえ、時折食料として収穫されたり、反乱じみたことをしては駆除された。頭部の角に、鋭利な牙。それらを除けば、人類と魔人は不思議と酷似した姿をしており、そのせいか、しばしば衝動的に犯される者もいた。大概は破壊的嗜好の犠牲となり、無残な姿で土に還っていった。
「あんたももう年頃だ。奴らに出会っちまえば、貞操がどうのって問題じゃ済まないよ。不用意に村の外へは行かないこった。……ほれ、今日の分」
「……………」
干し肉と野菜を受け取り、その銀髪の少女はこくりと頷いた。頷きながら、テイソウってなんだろうかと考えた。
配給所を出ると、少女は干し肉をかじりながら学校へと向かう。今日は配給された野菜を使って、調理実習が行われる予定だった。新たな知識を得られることに、少女は胸を躍らせる。好奇心の旺盛な性格だった。
「へっ、いただきっ!」
「……っ」
後方から駆けてきた少年が、少女の不意をついて、食べかけの干し肉を奪っていった。少女の級友である少年は、思春期の衝動に翻弄されるままに、ことあるごとに少女に対して悪戯を働いていた。
「トロトロすんなよ。遅刻すんぞ、ノゾミ!」
少女の歯形を口にくわえ、少年は意地悪く言い残して走り去っていった。
「あーあ、可哀想に。あいつ、あんたのこと好きなのよ、絶対! 好きなのに意地悪するなんて、男ってわけ分かんないよねぇ」
「……………」
通りがかった友人の同情に答えることもなく、少女は無言で頬を膨らませていた。
ノゾミと呼ばれたその少女は、幼い頃から声を出すことができなかった。先天的な声帯障害なのか、後天的に声を捨てざるを得なかったのかは、本人にも分からない。そもそも、ノゾミは自分の両親の顔すらも知らなかった。
世紀末に起こった魔族の侵攻。人間界と魔界を繋ぐ次元の扉が開かれたことにより、地上の人口は瞬く間に減少した。ノゾミは、いわゆるその『開門』前の世界を知らない、最初の世代だった。
黒髪の人間ばかりが暮らすこの村で、ノゾミの流れるような銀色の長髪は目立った存在だった。そんな異色の存在であろうと、村の大人たちは何を差別することなく、ノゾミを受け入れ、育んでくれた。どの道、村に残された子供のほとんどは孤児であり、差別する理由もなかったのだ。ただ、言葉を話せないというペナルティは、友人関係を築く上では大きな障害であった。
「はい、わたしの半分あげる」
そんなノゾミの数少ない友人の一人が、ユキであった。
「……………」
「はいはい、どういたしまして」
ユキは慣れた様子で、こくりと頷いたノゾミの、感謝の意を汲み取った。三つ編みにした髪を二房、両肩から垂らした落ち着いた雰囲気のその少女は、聡明で、空気を読むことに長けていた。
「……………」
「え? 平手打ち? へぇ、あんたもやるじゃん」
「……………!」
「そうだねぇ、次やったら、乙女の鉄拳もやむを得ないよねぇ」
右手を開いたり閉じたりするだけで、ノゾミの意思は面白いようにユキへと伝わった。対話が成立する、その事実だけで、ノゾミは心地が良く、ユキが側に居てくれるととても安心できた。
世界の構造は混沌を極め、人類はその歴史上、恐らくは初めて天敵という存在に脅かされていた。そんな情勢の中でも、各地にはまだほんの一握り、平穏と幸福が残っていたのだった。年端もいかない二人の少女が、取り留めのない会話を交わしながら学校へ通う。もはやありふれた日常というわけではなかったが、それでも確かに、そんな光景はまだ存在していたのである。
――そう、今日この日までは、まだ。
運命とは往々にして、唐突に姿を現すものである。絶望も、また然り。
炎に包まれた瓦礫の中を、ノゾミとクラスメイトたちは黒煙を避けるように逃げ惑っていた。彼女らの学び舎は、正午頃、突然現れた魔人の襲撃を受け、瞬く間に崩壊していた。
「……っ、……っ!」
ノゾミは身をかがめ、必死に酸素を求めていた。疲労よりも極度の緊張が色濃く、子供たちは皆、呼吸も覚束ない様子であった。
「なんでっ……大人しくしてれば……あいつらは襲ってこないはずじゃ……!」
「……………」
ユキの疑問に、応えてくれる大人は何処にも見当たらなかった。クラスメイトも、今ノゾミに確認できるのはほんの数名のみであり、残りの人間がどうなったのか、知る術はなかった。
「ノゾミ……ノゾミっ! いる?」
「……………っ!」
立ち上る噴煙と灼熱に目を炙られ、視界の定まらないユキは必死で親友の名前を叫んだ。声を出せないノゾミは、彼女の手をしっかりと捕まえ、互いの無事を確認した。
「こんなところで……死んじゃ駄目だからね! わたしたち、まだ若いんだから、これからなんだから! まだまだやりたいこと、いっぱいある! あんたもそうでしょ?」
「……………」
「じゃあ、行こう!」
震える膝を意地で動かして、少女たちは走った。遠くから聞こえる悲鳴に、奇声に、殺戮の轟音に耳を塞いで、微かな希望の光を探して、逃げ続けた。
無論、それは彼女たちのみに限らない。
「ノ、ノゾミっ!」
「……!」
逃げ惑う人ごみの中、足をもつれさせたユキの手が、ノゾミから離れた。
身体を動かすのが得意だったノゾミと、知的労働に秀でたユキとでは、体力に差がありすぎた。歪のできた二人の足取りに、生存本能を剥き出しにした人々の挙動が容赦なく割り込む。幼い少女のか細い身体は瞬く間に押し流され、噴煙の向こう側に、ノゾミは倒れた親友の姿を見失った。
「……っ、……っ!」
声にならない叫びが、彼女の名前を叫ぶ。意思の流れに逆らいながらノゾミは来た道を駆け戻るが、もはやユキと別れた場所がどこなのかも分からない。
途方に暮れて立ち尽くすその腕を、不意に引っ張る力があった。
「何やってんだ! こっち来い!」
今朝方、ノゾミの手から干し肉を奪っていった少年だった。
「お、俺、安全な場所知ってるから! 来いよ!」
「……………」
また何処かで、爆発のような音が響いた。
きっとユキも、一人で避難しているに違いない。聡明な彼女ならば、闇雲にノゾミを探し回ったりもしないだろう。ノゾミはそう自分に言い聞かせ、少年に手を引かれるまま、後ろ髪を引かれる思いでその場を去った。
少年の名はタツヤといった。人気のない場所に来た途端、照れたようにノゾミの手を離し、そっぽを向いて歩き出した。ノゾミは彼の様子に疑問を抱いたものの、今更引き返すわけにもいかず、後をついていった。
「ここ、昔の地下鉄跡なんだってよ。地下鉄、って知ってるか? 地面の中を電車が走ってたんだと。嘘みてぇだよな」
ノゾミはその話に驚いたものの、僅かに息を吸っただけのリアクションに留まり、タツヤは彼女の心境にも気づかず、舌打ちをしていた。気持ちのすれ違い。ユキがいかにノゾミの仕草に意識を払ってくれていたのか、ノゾミは改めて思い知った。
地下へ降りる階段の入り口は瓦礫で隠れ、そこに道があると知らない者ではまず発見できない場所にあった。
「……っと、ここにランタンが隠してあってな。これがないと、この下は真っ暗で何も見えないんだ」
灯りを手に、二人は更に地下へと降りていく。視界の狭さに、身体の距離が自然と縮まっていた。
「この辺で、しばらく身を隠そう。食い物も、ちょっとだけ隠してる。いいだろ? 俺の秘密基地なんだ。……お前以外には、話したことない」
「……………」
タツヤの口調に、少し緊張が見られた。いつものふざけた彼とは、若干様子が異なっていた。
「俺が、守ってやるから。お前のこと……絶対」
「……………!」
ノゾミの両肩が、掴まれる。ランタンの仄かな灯りに照らされた彼の表情は、笑っているような、怒っているような、頬がひくひくと震え、感情を読み取るのが困難な形状になっていた。
「す、好きだったんだ、俺。ノゾミのこと……。いっつも意地悪ばっかしちゃってたけど、でも、絶対、守るから……な?」
「……………」
ノゾミは、頷いた。
頷くしか、なかった。彼の必死の告白は、鬼気迫るものがあったからだ。ノゾミは知らず知らず、足が震えていた。手に汗を握り、口の中が乾く。
それは、紛れもなく恐怖だった。
剥き出しにされた人間の感情。欲望。普段は理性の内側にあるそれが、極限の状況下に置いて、人の皮の下から染み出す。ノゾミには、タツヤの意思が純粋な好意ではないように思えたのだった。
「そ、そっか。は、ははっ」
「……………」
「じゃ、じゃあ……いいよな?」
かくして、ノゾミの洞察は正しかった。
ノゾミの唇が、強引に奪われる。タツヤは勢いでノゾミの細い肩を抱き、そのまま壁に押し付けた。
「……っ!」
気色の悪い感触に、ノゾミは咄嗟に拒否反応を見せた。タツヤの身体を突き飛ばし、袖口で唇を拭う。タツヤは後ずさりながらも、再びノゾミとの距離を詰める。
「な、なんだよ! 守ってやるって言ってんだろ!」
「……………」
「し、死ぬかもしれないんだぞ! 最後に、思い出くらい欲しいだろ? なあ、俺、童貞のまま死ぬなんて嫌なんだよ!」
「……っ」
耐え切れず、ノゾミは逃げ出した。守ってやるなどと言いながら、死ぬかもしれないからと行為を迫る。男女の関係に疎いノゾミですらも、口八丁であると瞬時に理解できる浅はかさだった。
「待てよぉ! ノゾミぃ!」
タツヤの怒鳴るような声が、暗い地下通路に木霊する。手探りで壁伝いに進みながら、ノゾミはランタンを奪ってくるべきだったと後悔した。男子顔負けの俊足を誇るノゾミであったが、こう視界が悪くては思うように走れない。何かに躓いて膝を擦りむきながら、ノゾミは後方より迫るランタンの灯りに怯えた。
「……………!」
不意に、ノゾミは進行方向に仄かな灯りを見つけた。
壁が途切れ、どうやら広間のような場所に出たらしい。ランタンや懐中電灯がいくつか床に転がっており、人の気配がした。見知らぬ機械が一列に並んでいるのが見える。自動改札機という名前を、鉄道の実物すら見たことのないノゾミが知る由もなかった。
「……あっ……め、て」
「次……もやら……」
「……かなか、具合……」
「……やく……われ」
部屋の隅から、話し声が聞こえる。
男女の荒々しい語気が、ノゾミが歩みを進めるたびに大きくなる。女の声は一つだけで、ほとんど言葉になっていない。男は二、三人ほど、上気した様子で、何かを言い合っている。
やがて、彼らの姿がノゾミの視界に入る。
「……………」
三人の男が一人の女を組み伏せていた。四人とも歳は若そうで、恐らく十代から二十代。女は衣服を破かれ、胸部と恥部を晒し、その股の間に、下半身裸の男がしゃがみ込んでいた。
子供を作る方法もつい先日知ったばかりのノゾミには、しばらく彼らが何をしているのか分からなかった。
「……んだこのガキは」
尻を出した男が振り向き、ノゾミを見上げた。彼が体勢を変えたことにより、接合部がノゾミの目に入る。理解した時には、女の手足を押さえていた男の一人に掴みかかられていた。
遅れて追いついたタツヤは、ノゾミが乱暴されるのを目の当たりにして、すぐに逃げ出した。期待してもいなかったノゾミは、なんとか逃れようと男たちの顔を引っかき、腕に噛み付き、股間を蹴り上げたが、必死になったところで三人の大人に敵うはずもなく、いたずらに怒りをかっただけだった。
「いいねぇ、この銀髪ちゃん。村ん中だと目立つからさあ、前から目ぇ付けてたんだよね」
「出たよロリコン。確かに将来は楽しみだけどよ、俺はこっちにしとくよ」
「こいつ、俺のタマ蹴りやがって……礼はたっぷりさせてもらうぜ」
女を犯していた男はそのままに、残り二人はそれぞれの理由でノゾミの身体を組み伏せた。簡単に突き飛ばせたタツヤとは、力も体格も違う。自分の無力さがもどかしく、ノゾミは声にならない悲鳴を上げながら、おぞましい仕打ちに耐える他なかった。
羞恥、不快感、生臭さ、激痛、鮮血。幼い肢体を地下の冷たい空気に晒した少女を、理不尽な暴力が蹂躙していく。本来愛を育むべきその行為には、慈悲の欠片もなく、ノゾミは身体よりも先に、心を壊された。隣で犯されている女性と同じように、濁った瞳で虚空を見つめる。
「……………」
その視線の先に、ノゾミは妙な輪郭の動物を見ていた。
『無力であることがもどかしいか。力を欲しているようだな』
「……………」
長毛の猫のような体格。前足の付け根の辺りからは毛が不自然に盛り上がり、まるで翼のような形状を造っている。右半身は黒毛、左半身は白毛と、頭から尻尾の先まで、身体の真ん中で綺麗に分かれていた。
『お前の本質を見せてみろ。条件が合えば、力を貸してやらんこともない。オレも今ちょうど、託すべき人間を探している最中でな』
「……………」
『深く考える必要はない。要するに、願い事だ。力を持って、何をするか。何のための力なのか。漠然としていてもいい。オレが言葉にしてやろう』
人語を操る、不思議な獣。否、それは声ではなく思念のようなもので、ノゾミは頭の中で直接音を聞くという、初めての感覚に違和感を覚えていた。それ故に、ノゾミの身体を貪っている男たちは、その獣の存在に全く気が付いていないようだった。
『答えは出たか、資格者よ』
「……………」
心の中で、ノゾミは自分の名前を反芻していた。
ノゾミ。望み。希望。
この無残な時代に、せめてもの希望を。そんな理由で名付けられたのだと、誰かに聞いた覚えがあった。そんなふうに自分が誰かの希望になれるのなら、なんとなく素敵だなぁと、漠然と思った。
『希望……希望の光、か。なるほど。だがそれは、果たして本当にお前の本質か?』
「……………」
『希望とはなんだ? お前は、その言葉の示すものを知っているのか? 何よりお前自身、この無残な現状において、今尚、希望と呼べるものをその胸に宿しているか?』
瞬間、刹那の間において、壊れていたノゾミの心が息を吹き返した。同時に込み上げる、痛覚。屈辱。吐き気を催すほどの欲望の奔流が、ノゾミの体内へとなだれ込む。
「……っ、かはっ」
咳きこんで、ノゾミは再び心を閉ざした。
誰かの希望に。誰かの光に。壊れなければ耐えられぬほどの苦痛の中で、そんな思いは微塵も湧いてこなかった。
『理解したか。まあ、無理もない。己の本質を見極めるなど、大の大人でも難しい話だ。……悪いな。お前の境遇には同情を禁じ得ないが、オレはこの世界に直接干渉する術を持たな……おや』
青く透き通った瞳でノゾミを見つめていた獣が、不意に視線を逸らした。地下通路の奥、深い闇の向こうに、何者かの気配を感じたかのように、白黒、両方の耳をぴくりと動かす。
『……お出ましか。地下鉄の入り口はいくつもある。この下賎な野郎どもに見つけられたのなら、奴らが見つけても何ら不思議はない。終わりだな』
「お、おい……!」
隣で事を済ませたらしい男が、下着を穿きながら声を上げた。
「誰か……いや、なんか来る! 畜生! 見つかった!」
「マジかよっ、くそぉ!」
慌てふためき、身なりを整え逃げ去ろうとする男たちを目掛けて、旋風が吹いた。
空間に、赤い花が咲く。突如中断された行為と、顔にかかった生温かいものに意識を呼び戻されたノゾミは、霞んだ視界の中に、それの姿を見た。
「……、……っ!」
呼吸が止まる。身の毛がよだつ。足が竦む。
ひたひたと、嵐の前の静けさを体現したような大人しい足取りで、人の形をした悪魔は、人ならざる空気を背負った現れた。
細くしなやかな四肢、背中から生える身の丈ほどの大きな羽は蝙蝠を思わせる形状。頭部から生える二本の角はまさに悪鬼のそれであり、肉食であることを証明する長い牙を剥き出しにして、その魔人は微かに笑っていた。
体格こそ成人男性と大差ないものの、無論、身体能力は桁外れ。弾丸さえも跳ね返す鋼鉄の皮膚は、甲殻を思わせる鎧となって、しなやかで強靭な筋肉を覆っている。人型でありながら、人とは一線を画す風貌。まさしく、魔の人であった。
「小汚い……人間の雄などに我が腕を振るうとは」
「……………」
這いつくばったまま後ずさったノゾミの掌に、軟らかいものが触れた。それがつい今しがたまで自分を犯していた男の脳漿であると気付くのには、数秒を要した。
「……っ、ぉえっ」
すぐに目を逸らしたものの、鮮烈な印象はノゾミの胃をひっくり返し、隠すものを失った慎ましい胸を吐瀉物で汚した。意識を建て直し、その場を離れようと試みるも、今度は下半身が震えて動かない。焦り、手で腿を無理やりにでも動かそうと触れたところに、温かい液体が流れていた。自分でも気付かぬうちに、ノゾミは失禁していた。
「案ずるな、娘よ。そこの下種どもとは違い、そなたはなかなかに美しい。我々は美しいものを愛でる。その点においては、劣等種たる人間とも変わりはない。ほんの数刻の延命と、我の寵愛を保障してやろう」
「……っ!」
それが温情ではないことは、明白だった。
ノゾミは絶望する。あわよく逃亡できたところで、遠距離から頭部を吹き飛ばされた男たちと同じ運命を辿ることになるだろう。大人しく身を任せたところで――ノゾミは今尚、下腹部に渦巻く激痛を思い出す。果たして、これ以上の仕打ちが行われるのは想像に容易い。
選択の意味はない。生存の道はない。望みは――完全に絶たれた。
『やはり、希望はないな。お前のその願いは、叶えようもない。だが……』
頭に響く声に、ノゾミは意識を傾ける。なんでもいい、藁にでもすがりたい気持ちだった。
『真の本質とは、極限の状態において発露し易いものだ。果たして、お前はどうなのかな?』
「おい」
不意に、地下通路の奥から、更なる気配が出現した。
最初に現れた魔人と、同じような容姿をしている。腕に何かをぶら下げたまま、ひたひたと静かに、足早にノゾミの前までやって来る。
「新しい玩具か。なるほど、いいものを見繕ったな」
「ああ……貴様のはどうした? 随分と楽しんでいたではないか」
「壊れたさ。虚しいものだ。美しきものほど、儚く脆い。」
後から来た魔人は、無造作に、ぶら下げていたものを床へ投げ捨てた。
重い音を立てて、それは――それは、頭から落ちた。
「……………っ!」
落下の衝撃で首の骨が折れたのか、もとから折れていたのかは定かではない。ただそれは、確かに、生きたままでは不可能な角度で頭を傾げ、既に光を失くした瞳で、ノゾミを見上げていた。
衣類は一切れも残っておらず、太腿から爪先までが先決に染まり、チャームポイントの三つ編みが、解れていた。
「……ぁ」
見紛うはずもない。何度か一緒に風呂にも入った、その身体を。ノゾミが結んでやったこともある、その髪を。いつも穏やかに、優しく笑っていた、その顔を。
あの時離してしまった細い指先が、親友の温もりを求めてそっと伸ばされたように、ノゾミには見えた。
「……ぁぁぁぁあああああっ!」
後悔と自責の念。慟哭。切り裂かれるような喉の痛みを感じて初めて、ノゾミは自分が叫んでいることに気が付いた。
何かが千切れるような、こじ開けられるような、不思議な音を、ノゾミは聞いた。巨大で醜い何かが自分の中から這い出てくる感覚に襲われ、ノゾミは胸を押さえた。
『今更、押し殺すことはない。それがお前の本質。醜くて当然。真に美しい生物など、どの次元を探してもいやしない。力とは、そういうものだ』
時間が停止したような錯覚。気付けばノゾミの目の前に、白黒の獣が鎮座していた。
『条件は揃った。ようやく見つけた、オレに見合う資格者だ。お前の本質は、実に潔い。喜べ、お前は力を手にするのだ』
「……うれしくは、ない……」
『そうか』
親友の無残な最期を目の当たりにしながら、ノゾミは実に自然と、言葉を話していた。誕生以来、初めて口にした言葉だった。
『皮肉なことだ。彼女が無事であれば、お前が本質に目覚めることはなかっただろう。せめて彼女の無念を晴らす気があるのならば……オレを手に取るがいい』
獣の毛が逆立ち、形状が変化して、一振りの杖のようなものがノゾミの前に現れた。
漆黒の柄の先に、青く透き通った宝玉がはめ込まれている。表面は金属質でありながら、直線的ではなく、不規則な螺旋を描いた輪郭。禍々しくも神々しい、双極の印象を見るものに与える杖だった。
『さあ、選ぶがいい。力を得るか、ここで果てるか』
「……わかってるくせに……」
小さく呟いたノゾミは、不思議と冷静さを取り戻していた。
思考がクリアになり、身を縛っていた恐怖が影もなく消え去っていた。湧き上がる衝動に身を任せ、溢れ出る感情に心を任せば、ノゾミは自然と、獣が変形した杖へと手を伸ばしていた。
視界が、滲んでいた。
『では今一度、問おう。資格者ノゾミ、お前の本質は何だ? この力をもってして、何を願う?』
それを掴んだ手から、膨大な力が流れ込むのを、ノゾミは感じた。
「……無力に嘆くのは、もうたくさん。魔族でも、人間でも、人から希望を奪う連中を、わたしは絶対に許さない。願わくば……奴らにも等しく、絶望を!」
ノゾミの目が、見開かれる。杖からは眩い光が溢れるが、それらはすぐに流転し、闇と化して再び杖の中へと吸い込まれる。同時に、絹のように美しいノゾミの銀髪が、毛先から順に黒く染め上げられていった。背からは白い翼が生えるが、これも同じく、すぐに黒へと染まる。黒耀の羽を折りたたみ、再び広げた時には、ノゾミの姿は大きく変化していた。
「何者だ……この娘!」
魔人たちは同様を隠せない。僅か刹那の間に、目の前の少女の手には見知らぬ武器が握られ、得体の知れない力の奔流を放ち始めたのだから。
漆黒の長髪は渦巻く大気になびき、目つきは鋭く、その表情は顔の下半分を覆うマフラーに隠れて伺えない。細く小さな体躯も、そのほとんどを黒いマントで隠し、四肢には手袋とグリーブをまとっていた。
頭から爪先まで、黒一色。ただ一つ、手に取った杖の先からは白い光が噴出し、少女の身の丈もありそうな巨大な刃の形を形成していた。刃は孤を描き、さながらそれは、鎌を模しているように見える。
『《デーモンベイン》、ドライブシフト。……死神の出で立ちをした《魔法少女》、か。なかなか趣がある』
少女が終えると、黒翼は弾けるように消滅し、周囲に黒羽根を舞い散らせた。そんな中、杖――否、鎌の先、青い宝玉の辺りから、獣の声が響く。
『敵は低級種族、《ガーゴイル》が二体だ。小手調べには丁度いいだろう』
「……ユキ」
ノゾミは俯き、かすれた声で、初めて親友の名を呼んだ。
「あなたたちに、絶望を……!」
《魔法少女》の足が、勇ましく地を蹴った。人類の、魔族への反攻が、今始まる。