↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
79/81

第38話:夕暮れの作業場と、冷めないスープ


 大時計台の鐘楼から王都全体へ解き放たれた澄んだ鐘の音は、夕刻を迎える頃には、街の隅々にまで心地よい静寂と調和をもたらしていた。


 石畳を染める夕暮れの朱い光の中を歩き、アリアたちは聞き覚えのある細い路地裏へと帰ってきた。


 南の海の過酷な水中遺跡での死闘、そして今日の王都大時計台での宮廷魔法技師たちとの対峙。

世界を揺るがす壮大な「時間の歪み」を修正するという大仕事を果たしたはずの二人と一匹だったが、その足取りは驚くほど軽やかで、どこか誇らしげでもあった。


カチリ、ツチ……。


アリアが真鍮の鍵で工房の重いオーク材の扉を開けると、いつもの使い込まれた研磨油と乾いた古木の匂いが二人と一匹を優しく包み込んだ。


チク、タク、チク、タク、チク、タク……。


店内に並ぶ無数のアンティーク時計たちが、大時計台の共鳴を受けてか、まるで一丸となって喜びを歌い上げるように、寸分の狂いもない見事なテンポで時を刻んでいる。


「ふぅ……ッ! 無事に帰ってきたなー! やっぱり、この店に戻ってくると肩の力が抜けるよ」


ケリーは大きな工具鞄をカウンター脇の定位置へドスンと下ろすと、豪快に両腕を伸ばして背伸びをした。

シルクもまた、慣れた足つきで真っ直ぐカウンターへ飛び乗り、自分のお気に入りである丸いクッションの上で「ふにゃあ」と長々と体を伸ばしている。


「うむ……やっぱりこの店のクッションが一番じゃな。大時計台の石畳は硬くて冷たくて、老骨には堪えたわい」


「……当然だ。石造建築の床面は蓄熱性が低く、熱伝導率が高い。身体を冷やすのは自明の理だ」


アリアは旅用の帽子を脱いでハンガーへ掛け、慣れた手つきで作業着のエプロンを身につけた。


彼女は作業机の上に腰掛け、使い終えた精密工具を一本ずつオイルの染み込んだ布で丁寧に拭き上げ始めた。

ノギス、ピンセット、ドライバー、ヤスリ。

自らの手足となって世界の狂いを正した愛おしい道具たち。その一つひとつに付着した僅かな真鍮の粉塵や汗を、丹念に拭い去っていく。


引き出しを開けた時、ふと、奥に収められた真鍮の小さな小箱が目に入った。


南の海の港町でケリーが買ってきた、あの貝殻細工の髪飾り。

昨夜、宿場で自ら補強を施し、鏡の前でおずおずと髪に挿した時の記憶が蘇り、アリアの耳の先がポッと熱を帯びた。


(……世界の時間は、正しく動き始めた)


アリアは小箱の蓋をそっと指先で撫でた。


前世の記憶の中の自分は、薄暗い病室の白いベッドの上で、機械の作動音とステップ運針の時計の音を聞きながら、静かに命のゼンマイが途切れるのを待っていた。

孤独で、冷たく、ただ過ぎ去るだけの無機質な時間。


だが、今の彼女の周りには、確かな熱量を持った日常が存在している。


厨房の方からは、パチパチと薪がはぜる音と、鍋から沸き立つ水蒸気の音が聞こえ始めていた。

香ばしい出汁の匂いと、炒めた玉ねぎの甘い香り。


「アリアー! 夕飯ができたぞー! 作業の手を止めて、テーブルを空けてくれ!」


厨房のドアを腰で押し開け、大きなトレイを抱えたケリーが明るい声で戻ってきた。

トレイの上には、湯気をもうもうと立てる大鍋と、香ばしく焼き上げられた厚切りの丸パン、そして彩り豊かな温野菜の小鉢が載っている。


「ほれ、シルク! 今日はお前が大好きな白身魚のソテーと、出汁スープ煮込みだぞ!」


「おおッ! かたじけないのう、ケリー! お前は本当に気の利く良い助手じゃ!」


シルクがクッションから飛び降り、自分の皿の前でしっぽを機嫌よくゆらした。


ケリーは大鍋の蓋をパカッと開けた。

店内いっぱいに広がったのは、バルトロ船長から贈られた極上エビの乾物と、新鮮な野菜を煮込んだ特製の大鍋スープだった。鮮やかな黄金色のスープの中に、ほろほろに崩れた魚の身やゴロゴロとした根菜がたっぷり入っている。


「大時計台の仕事、本当にお疲れさん。アリア。お前が頑張ったおかげで、王都のみんなも救われたし、俺たちの時間も元通りだ。……さあ、熱いうちに食べてくれ!」


ケリーは温かいスープをたっぷりと注いだ深皿を、アリアの前へと差し出した。


アリアは手元の工具を置き、静かにテーブルの前の木製椅子へと腰掛けた。

手渡された匙(スプーン)を取り、赤黄金色のスープをすくい、口へと運ぶ。


「……ッ」


口いっぱいに広がる、濃厚で滋味あふれる味わい。

エビのエキスがしっかり溶け込んだ温かな液体が、長旅と緊張で疲弊していた全身の細胞へと、じわじわと染み渡っていく。


「……味付けの塩分濃度、素材の加熱時間、および乳化状態……すべてにおいて適正だ。……疲労回復のための栄養補給として、極めて高い効果を認めざるを得ない」


「へへっ、相変わらず言い方が堅いなあ。でも……『美味い』って思ってくれてるんだろ?」


ケリーは琥珀色の瞳を細め、嬉しそうに破顔した。


「……ふん。不調和な味であれば即座に摂取を中断している。私が完食に向かっている事実そのものが、回答だ」


アリアは少し照れくさそうにそっぽを向きながら、パンをスープに浸して口へと放り込んだ。香ばしい小麦の味わいとスープの旨味が絡み合い、幸福感が胸を満たしていく。


「なあ、アリア」


ケリーが自分のスープを飲みながら、ふと店内を見渡して呟いた。


「南の海へ行く前はさ……正直、世界の時間とか地軸の傾きなんて、スケールが大きすぎて俺にはよく分からなかったんだ。でも、アリアと一緒に旅をして、水門を直して、今日の大時計を直して……分かった気がするよ」


ケリーは温かい眼差しで、静かにスープを飲む少女を見つめた。


「世界がいくらでっかくて難しくてもさ。こうしてアリアが直してくれた正しい時間の中で、温かい飯を食って、笑い合える……それが一番大事なことなんだなって」


「……当たり前だ」


アリアは匙を止め、静かに答えた。


「時計とは、単に時を刻むための物理機構ではない。人間が生きるための『生活の規律』であり、日常の足場だ。足場が狂えば、日々の営みそのものが瓦解する。……私はただ、職人としてその足場を守ったに過ぎない」


「くくく……かっこいいこと言うじゃないか、アリア。まあ、俺にとっては、お前が元気にスープを飲んでくれるのが一番の『正しさ』だけどな」


「っ……!? ば、不確定な感情論を述べるな! 作業の妨げになる!」


アリアは顔を耳の先まで真っ赤にして怒鳴り散らした。


そんな二人の掛け合いを、隣でスープを美味そうに舐めとっていた黒猫のシルクが、目を細めて眺めていた。


「やれやれ。大仕事を終えても、相変わらずの二人じゃのう。……だが、これでいい。この静けさと温かさこそが、ワシらの帰る場所じゃ」


夕闇がすっかり王都を包み込み、工房の外では静かな夜の帳が降りていた。


格子窓からは、街灯の柔らかい光と、遠くで聞こえる人々の穏やかな暮らしの気配。

そして店内には、チクタクと規則正しく刻まれるアンティーク時計たちの優しい和音と、大鍋から立ち上る湯気の温もり。


過酷な冒険を経て取り戻した、何気なくもかけがえのない日常。

二人と一匹の止まっていた時間は、この温かなスープの匂いと共に、どこまでも深く、愛おしく、未来へと刻み続けられていた。

 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。