第14話:航海士の少女と、狂った航海時計
南の風が運んでくる塩の匂いは、さらに濃く、そして硬質になっていた。
アルト・マリーナからさらに南下した沿岸地域——通称『塩害の街』と呼ばれる古港ポルト・サリナは、その名の通り、白く結晶化した塩の皮膜に街全体が覆われていた。
石造りの家々の壁は潮風によって白く粉を吹き、街灯の鉄枠や船留めの繋留柱は、赤茶けた錆と塩の結晶が固まりとなってこびりついている。かつて大航海時代の黄金期を支えた港町だが、強い塩害によって鉄製品がすぐに傷むため、今では古い船乗りと風奇奇異な職人だけが身を寄せる静かな街となっていた。
「うわあ……すげえな。手すりも看板も、全部白く錆びついてるぞ」
旅籠へ荷物を置いたケリーが、街の目抜き通りを見渡して感嘆の声を上げた。
アリアは革鞄のベルトを肩に掛け直し、冷たい眼差しで街並みを視察する。
「……塩化ナトリウムと湿気が引き起こす強烈なガルバニック腐食だ。鉄や銅のような普通の金属では、この街で数ヶ月も保たないだろうな」
「やれやれ、毛並みが塩でゴワゴワになりそうじゃわい。ケリー、宿に戻ったら入念にブラッシングしろよ」
足元でシルクが前足を交互に上げ、不満げに鼻を鳴らした。
三人は、三つ目の『星図パーツ』の裏に刻まれていた天文学的座標が指し示す、港の古い造船ドック地区へと足を運んだ。
巨大な木造船の骨組みが打ち捨てられたように並ぶ埠頭の片隅。潮騒の音に混じって、カン、カン、と真鍮の小槌で金属を叩く不器用な音が聞こえてくる。
音の鳴る方へ視線を向けると、古びた小型練習船の甲板の上で、一人の少女が膝を突き合わせて作業をしていた。
頭に頭巾を巻き、煤と油で頬を汚した十五歳ほどの少女だ。革製の作業エプロンを身につけ、手元に置かれた重厚な木箱の中身を、泣きそうな顔で見つめている。
「クソッ……また止まった。なんでよ……陸の上だと完璧に動くのに……!」
少女が悔しそうに拳で甲板を叩くと、木箱の中からチク、タク、チク、タクと、規則正しくもどこか苦しげな金属音が漏れた。
「おいおい、そんな乱暴に扱ったら壊れちまうぞ」
見かねたケリーが声をかけると、少女は跳ね上がるように振り向いた。
栗色の短い髪を揺らし、気の強そうな大きな茶色の瞳でケリーたちを警戒するように睨みつける。
「な、なに!? あんたたち誰よ! ここは『シエラ航海事務所』の敷地よ! 冷やかしなら出て行って!」
「冷やかしじゃないって。俺たちは王都から来た……あー、出張中の時計屋だ」
「時計屋……?」
少女——シエラは怪しむように眉をひそめたが、ケリーの背後に立つ小さな銀髪の少女と、その肩に乗る黒猫に視線を移すと、不意に息を呑んだ。
「待って……銀髪の小さな女の子に、喋る黒猫……? まさか、アルト・マリーナの船乗りギルドで『呪いの船鐘』を直したっていう、あの噂の天才時計師……!?」
「……天才ではない。ただの時計屋だ」
アリアは無愛想に言い放つと、シエラの膝元にある木箱へと近づいた。
右目にルーペ(キズミ)を嵌め込み、一切の遠慮なく木箱の中身を覗き込む。
重厚なマホガニー材の箱の中に収められていたのは、二重の真鍮製リング(ジンバル構造)によって常に水平を保つよう浮遊配置された、掌ほどもある巨大な銀色の懐中時計——最高級の航海用精密時計『マリンクロノメーター』であった。
「……見事なデテント脱進機だ」
アリアの口から、専門用語が滑り出た。
「円動テンプには、温度補正用のバイメタル(双金属)切込みテン輪。ヒゲゼンマイは等時性を極限まで高める円筒ヒゲ(シリンドリカル・スプリング)。外装の真鍮にも高度な金メッキ処理が施されている。極めて精巧な、一級品の航海時計だ」
「え……ええ!? 一目見ただけで、そこまで分かるの!?」
シエラが驚きのあまり目を丸くした。
「当たり前じゃ。この小娘の眼をごまかせる機械など、この世に存在せんよ」
シルクがアリアの肩の上で鼻を鳴らし、誇らしげに髭を揺らす。
アリアはルーペを覗き込んだまま、静かにシエラへ尋ねた。
「……で、何が問題なんだ。外観を見る限り、機構に目立った損傷はない。振動の振り角も正常だ」
「それが……っ」
シエラは悔しそうに唇を噛み締め、手元のクロノメーターを愛おしそうに抱きかかえた。
「この時計はね、二ヶ月前に亡くなった私の父さん……この街で一番だった大航海士が遺してくれた、唯一の形見なの。私は父さんの遺したこの小さな船で、南の最果ての海へ出るのが夢で……」
「ほう。大航海士の遺品か」
「うん。父さんは『どんな嵐の中でも、このクロノメーターがあれば絶対に自分の位置を見失わない』って言ってた。……でも、父さんが死んで私がこの時計を受け継いでから、おかしくなっちゃったの」
シエラは涙ぐみながら、時計の文字盤を指差した。
「港のドックや陸の上にある時は、一日に一秒の狂いもなく完璧に動くわ。……だけど、私がこの船に乗り込んで、いざ海へ出ると……必ず、時間が大幅に遅れ始めるの!」
「海に出ると、遅れる……?」
ケリーが首を傾げた。
「波の揺れで止まりかけるのか? 船ってのは揺れるもんだろ」
「違うわ! このクロノメーターは、船がどんなに激しく揺れても時計を水平に保つ『ジンバル(水平台)』に入ってるの! 父さんが生きていた頃は、大嵐の海でも正確に時を刻んでいたのよ! なのに……私が船を出すと、一時間で三分も、五分も遅れていくの……!」
シエラは声を詰まらせ、俯いた。
「地元の時計屋にも見せたわ。でも『塩害で内部が錆びついているだけだ』とか『女の子が海に出るのを父親の霊が嫌がっているんだ』なんて言われて……! 部品を全部磨いてもらっても、海に出るとやっぱり遅れるの……」
父親の遺志を継ぎたいという少女の切実な想いと、海に出るたびに狂い出す完璧なはずの精密時計。
アリアは無言でルーペを外し、冷ややかな瞳でクロノメーターの真鍮製ケースを見つめた。
(陸上では完璧な精度を保ち、船の動揺を吸収するジンバルも正常に機能している。にもかかわらず、海へ出た瞬間に法則的な『遅れ』が発生する……)
前世の地球でも、マリンクロノメーターは国家の最高技術を結集して作られる極限の精密機械だった。経度を正確に測定し、船の遭難を防ぐための「命の時計」。それが壊れてもいないのに、海上でだけ挙動を変える。
「……面白いな」
アリアの口元に、微かな……しかし確かな職人としての探求の火が灯った。
「呪いでも、父親の霊でもない。海という環境、船という構造体、そしてこのクロノメーターの間に存在する……まだ誰も気づいていない『物理的不協和音』が原因だ」
「ふ、物理的不協和音……?」
シエラが呆然とアリアを見つめる。
「シエラと言ったな。この時計を預かる。……明日、実際にこの船を海へ出せ」
「えっ!? 海に出すの!?」
「ああ。実験と検証は、現場で行うのが鉄則だ。海の上で何が起きているのか、私の眼で直接確かめてやる」
アリアは迷いのない手つきでクロノメーターの木箱の蓋を閉め、抱え上げた。
塩化ナトリウムの白い粉が舞う古港で、新たな日常の謎が、その歯車を回し始めていた。




