第9話:港町の老舗ギルドと、不気味な嵐
白亜の港町アルト・マリーナに、激しい嵐が近づいていた。
昼間までの抜けるような青空と穏やかな潮風は霧散し、南の沖合から湧き上がったどす黒い暗雲が、夕闇よりも早く街全体を覆い尽くしていく。
海は不気味な黒褐色に濁り、地鳴りのような重い波音が港の防波堤を激しく叩きつけていた。急激な気圧の低下に伴い、湿った生暖かい風が街の坂道を吹き抜けていく。
「こいつはひどい荒れ模様になりそうだな。アリア、窓の鍵はちゃんと閉めたか?」
旅籠の自室で、ケリーが窓の分厚い木製鎧戸を固く閉ざし、太い閂を下ろしながら振り返った。
作業机の前では、アリアがランプの明かりの下で、昨日水没屋敷から回収したふたつの「星図パーツ」を精緻なノギスで計測していた。
「……閉めた。湿気で真鍮のパーツが変色する。無駄に開けるな」
「へいへい。しかし、海辺の嵐ってのは王都の夕立とはスケールが違うな。街の船乗りたちも、みんな船を港の奥に縛り付けて引き揚げてたぞ」
ケリーは手際よくストーブに薪をくべ、やかんに湯を沸かし始めた。
足元では黒猫のシルクが、外の突風が窓を叩く音に耳をぴくぴくさせながら、ソファーの上で丸くなっている。
「ふむ、潮の匂いが荒々しいのう。この気圧の下がり方は、今夜半には暴風雨になるぞい」
「……ああ。大気圧の急激な降下に伴い、海水の体積膨張と波浪の振幅が増大している。流体力学的にも、今夜の海へ出るのは自殺行為だ」
アリアは冷徹に言い放ち、ふたつのパーツを丁寧に布へ包んで革鞄の奥へと収めた。
その時——。
タタタタ、と階段を急ぎ足で駆け上がってくる重い靴音が聞こえ、旅籠の扉が激しく叩かれた。
「アリア技師! おられるか! バルトロだ!」
ケリーが急いで扉を開けると、濡れたレインコートを羽織った老船長バルトロが、肩を上下させて息を切らしながら立っていた。髪や髭には、風で吹き飛ばされた海水がしずくとなって滴っている。
「船長! どうしたんだ、こんな嵐の直前に?」
「技師さん……! 頼む、今すぐ『船乗りギルド』へ来てくれないか! 今夜の嵐を前に、ギルドの中で大騒動が起きているんだ!」
アリアは作業の手を止め、無愛想な視線を老船長へ向けた。
「……騒動? 嵐の夜のパニックなら、私の専門外だ。避難の手伝いならケリーに頼め」
「違うんだ! 時計……いや、鐘なんだよ!」
バルトロは必死の形相で両手を広げた。
「我がアルト・マリーナの船乗りギルドには、百年前に難破船から引き揚げられた『開運の船鐘』と呼ばれる巨大な青銅鐘がある。毎刻、時を知らせるために自動の空気圧打刻機で鳴らされているんだが……それが、海が荒れて『大嵐になる夜の十二時』にだけ、決まって鳴らなくなるんだ!」
「嵐の夜の、十二時にだけ……?」
ケリーが首を傾げた。
「ただの故障じゃないのか? 風が強くて仕掛けが煽られてるとか」
「それが、風の強さは関係ないんだ! 風が弱くても、大嵐が来る夜の十二時ぴったりにだけ、鐘の打刻ハンマーが完全に固直して一音も鳴らなくなる! そして朝になれば、何事もなかったかのように動き出すんだ!」
バルトロは声を潜め、不気味そうに身震いした。
「ギルドの老船乗りたちは『難破船の幽霊が、嵐の惨劇を思い出して鐘を止めている』って怯えていてな。今夜は特にデカい嵐が来る。このままだと、港の出航儀式や安全祈願の鐘が鳴らせず、船乗りたちがパニックを起こして暴れ出しかねないんだ。頼む、あの鐘を調べてくれ!」
幽霊、呪い、オカルト。
それらの単語を聞いた瞬間、アリアの青い瞳に冷ややかな、しかし確かな職人としての観察眼が宿った。
「……オカルトなど存在しない。現象には必ず物理的な因果関係がある」
アリアは立ち上がり、椅子に掛けていた分厚い外套を羽織った。
「気圧変化、風圧、あるいは空気力学的な摩擦抵抗の変動……。原因が何であれ、機械が動かない理由を突き止めるのが私の仕事だ。行くぞ、ケリー、シルク」
「おう! よし、雨具の準備だな!」
「やれやれ、嵐の中を外出とはのう。ワシの毛並みが濡れたら、ケリー、お前が責任を持って乾かせよ」
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暴風が吹き荒れる港町を、三人はバルトロの案内で急いだ。
石畳の坂道には横つけるような激しい雨が叩きつけ、遠くの暗い海からは、巨大な波が埠頭に激突する重低音が響き渡っている。
港の小高くなった岬に建つ『アルト・マリーナ船乗りギルド』は、まるで古城のように頑丈な黒石造りの大建築だった。
重厚なオーク材の扉を開けて中へ入ると、外の暴風雨の音がわずかに遠のき、湿った酒の匂いと煙草の煙、そして大勢の船乗りたちの熱気が一気に押し寄せてきた。
「おいバルトロ! 例の時計師を連れてきたのか!?」
「こんな小さな女の子が、あの呪われた鐘を直せるって言うのかよ!」
広いホールには、出港を見合わせた何十人もの荒くれ者の船乗りたちが集まり、不安と苛立ちから酒を煽っていた。
ホールの正面奥、吹き抜けになった中央の壁面に、その『問題の物体』が鎮座していた。
高さ一メートルを超える、見事な浮き彫りが施された巨大な青銅製の船鐘。
その脇には、複雑な真鍮製のシリンダーとパイプ群、そして巨大な打刻ハンマーを備えた『空気圧式自動打鐘装置』が組み込まれている。
「……見事な青銅鋳造だ」
アリアは周囲の船乗りたちの視線など一切無視し、真っ直ぐに鐘へと歩み寄った。
右目にルーペ(キズミ)を嵌め込み、懐中電灯代わりの魔導ランプの光を機構の奥深くへと当てる。
「空気圧ピストンによるペンドラム駆動か。外部の空気を取り込み、一定の圧力が溜まると弁が開放されてハンマーを持ち上げ、自重で鐘を打つ……。極めて堅牢で、機械的な無駄の少ない設計だな」
「だろう? この鐘はギルドの宝なんだ。だがな……」
ギルドの長老らしき白い髭の男が、苦々しい顔で歩み寄ってきた。
「嵐が来る夜、十二時の鐘だけが絶対に鳴らん。まるで何者かが、暗闇の中でハンマーを手で押さえつけているみたいにな。今夜もあと一時間で十二時だ。技師さんよ、原因が分かるか?」
アリアは返事をせず、ピンセットでシリンダーの吸気弁と排気パイプの隙間を慎重に探った。
前世の知識——流体力学と気圧配置の法則が、彼女の脳内で高速で計算されていく。
(大嵐の夜……急激な気圧低下……そして十二時という特定の時間。単なる部品の磨耗や油切れなら、時間に関係なく動かなくなるはずだ。なぜ『嵐の夜の十二時』だけに現象が限られる……?)
アリアの指先が、空気圧シリンダーの奥にある微小な空気弁に触れた瞬間、彼女の青い瞳が鋭く細められた。
「……ほう。これは不協和音どころではないな」
「何が分かったんだ、アリア?」
ケリーが心配そうに覗き込む。
アリアはルーペを外し、冷たい声でホール全体に響くように呟いた。
「この鐘が止まるのは、幽霊のせいでも、嵐の風のせいでもない。……極めて高度で、不愉快な『空気力学的なトリック』が仕掛けられている」
外でバリバリと激しい雷鳴が轟き、ギルドの窓ガラスを震わせた。
十二時の訪れまで、あとわずか。
大嵐の夜の港町で、怪しげな仕掛けと職人の矜持が激突する、新たな謎の幕が上がろうとしていた。




