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第31話:王城に轟く「裏路地の天才」の噂



 冬の王城は、突き刺すような冷気と、厳格な規律が生み出す特有の張り詰めた空気に支配されていた。


 巨大な白い石壁に囲まれた騎士団の広大な訓練場では、夜明け前から若い騎士見習いたちの威勢の良い掛け声と、木剣が激しくぶつかり合う乾いた音が響き渡っている。吐く息は白く濁り、鎧の下に薄っすらとかいた汗は、立ち止まればすぐに氷のように冷たくなって体温を奪っていく。


 ケリー・ワイズマンもまた、その集団の中に混じり、額に汗を滲ませながら素振りを繰り返していた。


 彼の恵まれた体躯と、生来の真っ直ぐな気性から放たれる剣の軌道は、粗削りながらも確かな威力を秘めている。没落しつつあるとはいえ、ワイズマン子爵家の血を引く五男坊としての矜持が、日々の鍛錬に手を抜くことを許さなかった。


 しかし、今日の訓練場の空気は、いつもとは少し違っていた。


 休憩時間になるや否や、若い騎士たちが一箇所に集まり、声を潜めて何やらヒソヒソと話し込んでいるのだ。ケリーが木剣を片付けて水差しへ向かうと、同僚の一人が興奮気味に声をかけてきた。


「おい、ケリー。お前も聞いたか、昨日の夜の騒ぎを」


「騒ぎ? 何かあったのか」


 ケリーが首に巻いたタオルで汗を拭いながら尋ねると、同僚は周囲をチラチラと気にしながら顔を近づけてきた。


「あの王城魔法技師団の第一席、ルキウス・ヴァン・アスター侯爵子息が、顔面蒼白で王城に逃げ帰ってきたらしいんだ。お付きの者も連れず、服は埃まみれで、杖すら落としそうになるほど震えていたって話だぞ。門番をしていた奴が、あんな無様な第一席を見たのは初めてだって言ってた」


「……へえ」


 ケリーは平静を装いながら、内心で苦笑を漏らした。昨夜、アリアの店から逃げ出すように去っていったあの傲慢な男の後ろ姿を思い出したからだ。


「それで、一体何があったって言うんだ」


「それが一番驚きなんだよ。どうやら、第一区画の端っこにある寂れた路地裏に、とんでもない天才時計職人がいるらしいんだ。ルキウス様は、魔法技師団が何百年も解けなかった古代の呪われた絡繰時計を持ち込んで、その職人に修理の勝負を挑んだらしい。そうしたら、その職人が魔法を一切使わずに、あっという間に結界を破って時計を直してしまったって噂だ」


「魔法を使わずに、結界を破った……」


「ああ。しかもその職人、まだ十代半ばの銀髪の少女だっていうじゃないか。魔法技師団の連中も大騒ぎで、事実関係の確認に追われてるらしいぞ。なんせ、王城の最高権威が路地裏の小娘に完全敗北したっていうんだからな。騎士団の上層部でも、その『裏路地の天才』の存在が今日の朝議で話題になったって話だ」


 同僚の言葉に、ケリーは思わず天を仰いだ。


 あの負けず嫌いのルキウスが自分から敗北を触れ回るとは思えないが、彼が持ち出した国宝級の古代時計が完璧に直って戻ってきたとなれば、魔法技師団の中で騒ぎになるのは当然だ。そして、人の口に戸は立てられない。噂は尾ひれをつけて、一夜にして王城の隅々まで広がってしまったのだろう。


「十代の銀髪の美少女が、魔法技師団を泣かせて追い返したか。痛快な話じゃないか。一度お目にかかってみたいもんだな」


 別の同僚が冗談めかして笑う。


「……まったくだな」


 ケリーは曖昧に相槌を打ちながら、複雑な心境を噛み締めていた。


 アリアの卓越した技術が認められたことは素直に嬉しい。彼女の時計に対する真摯な姿勢と、物理法則という名の絶対的なルールの前に、あの傲慢な魔法技師がひれ伏したのだ。痛快極まりない。


 だが同時に、王城の上層部が彼女の存在に気づき始めたということは、これまでの路地裏での静かな日常が脅かされる可能性があるということでもあった。権力者たちは、利用できる力を見つければ必ず手元に置こうとする。それが政治というものだ。


「ワイズマン見習い。第一中隊長が呼んでおる。至急、執務室へ向かえ」


 不意に、伝令の若い騎士がケリーの背後から声をかけた。


「中隊長が? 了解しました」


 ケリーは木剣をラックに戻し、乱れた身なりを整えてから、王城の奥にある騎士団の執務区画へと足を向けた。


 重厚な木の扉をノックし、入室の許可を得て中に入ると、第一中隊長である白髭の初老の騎士が、分厚い羊皮紙の書類の山に囲まれて眉間を揉みほぐしていた。


「失礼します。ケリー・ワイズマン、ただいま参りました」


「うむ。よく来た、ワイズマン。少しばかり、お前の耳に入れておきたい話があってな」


 中隊長はペンを置き、鋭い鷹のような目でケリーを見据えた。


「昨夜、王城を駆け巡った噂のことは、すでに耳にしておろう。魔法技師団のルキウス殿が、路地裏の時計職人に敗北したという一件だ」


「……はい。同僚たちの間で噂になっておりました」


「あのルキウス殿が持ち帰った古代の時計を、我ら騎士団の魔法鑑定士にも密かに調べさせた。……結果は、驚くべきものだった。結界の魔力は完全に消滅し、内部の機構は作り立てのように駆動していた。魔力を一切使わず、物理的なアプローチのみで、あの絶対の封印を解いた者が王都にいるということだ」


 中隊長はそこで言葉を区切り、探るような視線をケリーに向けた。


「ワイズマン。お前は最近、非番のたびに第一区画の路地裏に通っているそうだな。それに、先日解決した『十三時の怪盗』事件において、お前は犯人の手口を正確に見抜く情報提供を受けた。……その情報提供者こそが、噂の銀髪の天才時計職人ではないのか」


 ケリーは心臓が嫌な音を立てるのを感じたが、表情には一切出さず、直立不動の姿勢を保った。


「お答えいたします。怪盗事件の際、私が時計の物理的な構造について専門家の助言を求めたのは事実です。ですが、その人物がルキウス殿を打ち負かした時計職人と同一人物であるかどうかは、私には断言いたしかねます」


 ケリーの慎重な回答に、中隊長は少しだけ口角を上げた。


「……まあ良い。お前が情報源を守ろうとする姿勢は、騎士として正しい。だが、上層部はすでにその職人の居場所を特定しつつある。あの魔法技師団を出し抜くほどの頭脳と技術。もし彼女を我ら騎士団のお抱えとして取り込むことができれば、今後の防諜や魔法犯罪の捜査において、計り知れない利益をもたらすだろうという意見も出ている」


「中隊長。彼女は……いえ、その時計職人は、政治や権力争いに興味を持つような人物ではありません。ただ純粋に、壊れた時計を直すことだけを望む職人です。無理に王城へ引き入れようとすれば、反発を招くかと存じます」


 ケリーが思わず身を乗り出して進言すると、中隊長は深く息を吐き、静かに首を横に振った。


「わかっておる。職人の手は、剣を握らせるためのものではない。私とて、無理強いをするつもりはない。……だが、魔法技師団の面目は丸潰れだ。ルキウス殿は自身の失態を隠蔽しようと必死だが、彼を取り巻く派閥の連中が、恥をかかされた報復として、その時計店に嫌がらせを行う可能性は十分に考えられる」


 中隊長の懸念は、ケリーが最も恐れていた事態そのものだった。


「だからこそ、ワイズマン。お前に密命を下す」


 中隊長は声を一段階低くし、厳格な騎士としての顔つきになった。


「今後も、お前はその時計店への出入りを続けろ。そして、何か異変があれば直ちに私に報告しろ。我ら騎士団は、魔法技師団の専横を牽制するためにも、あの天才職人の身の安全を間接的に保障する。お前が持つワイズマン子爵家の名と、この中隊長直々の後ろ盾を存分に使い、彼女を厄介事から遠ざけるのだ。……できるな」


「……はっ。我が命に代えましても」


 ケリーは力強く敬礼し、執務室を後にした。


 彼の胸の中には、重い責任と同時に、確かな安堵が広がっていた。これで大義名分を得た。アリアのあの静かな店を、王城のくだらない権力闘争の巻き添えにさせるわけにはいかない。


 自分がアリアの助手になると宣言した昨夜の言葉は、決してその場限りの勢いではないのだ。


 一方、その頃。


 当の天才時計職人であるアリアは、王城で自分の噂が爆発的に広まっていることなど露知らず、いつもの路地裏の店で、静寂の中で一つの紙片と睨み合っていた。


 カウンターの上に広げられているのは、昨夜ルキウスが置いていった分厚い羊皮紙。王城魔法技師団・第一席の署名と、王城の正式な紋章の蝋封が施された、大時計台への特別立ち入り許可証である。


「……魔力の偽装はない。法的な効力を持った正式な書類だ。ルキウスのプライドはへし折れたが、契約は果たされたというわけだな」


 アリアは許可証の隅を指で弾きながら、小さく呟いた。


「じゃが、嬢ちゃん。許可証を手に入れたからといって、すんなりとあの化け物の中に入れるとは思えんぞ」


 ストーブの前のクッションから起き上がったシルクが、前足を伸ばしてあくびをしながら言った。


「王都の大時計台は、単なる時計ではない。あれは王都の時間を支配し、生活の基準を定める絶対的な象徴じゃ。内部は王城の近衛兵によって厳重に警備されており、魔法技師団の限られた人間しか入ることを許されておらん。第一席の許可証があるとはいえ、怪しまれるのは必至じゃろうな」


「……だからこそ、ケリーという人間が必要なんだ」


 アリアは作業机の引き出しから、古い皮表紙の書物を取り出し、ページをパラパラと捲り始めた。


「彼は没落したとはいえ貴族の血を引き、王都騎士団に所属している。私のような素性の知れない平民が一人で許可証を見せるよりも、彼が同行し、第一席からの極秘の依頼として堂々と振る舞えば、入り口の兵士を物理的にも心理的にも突破できる確率が飛躍的に高まる」


「なるほどな。あの大型犬を、単なる荷物持ちではなく、権威の盾として使うつもりか。相変わらず、人間を機能でしか見ておらん冷徹な思考じゃわい」


 シルクが呆れたように鼻を鳴らすが、アリアは気にする素振りも見せずに書物のページを読み進めた。


「……盾として使うだけではない。あの時計台の内部に足を踏み入れるということは、途方もない物理的質量の海に飛び込むということだ」


 アリアの指先が、書物に描かれた巨大な塔の断面図の上で止まった。


 それは、今から百年以上前、大時計台が建造された当時の基本設計図の写しだった。王都の古書店を巡り、埃まみれになって探し出したものだ。


「文字盤の直径だけで五メートル。内部を駆動させる重錘の重さは数トンに及ぶ。これほど巨大な機械構造となれば、私が普段扱っているようなピンセットやドライバーでは太刀打ちできない。巨大な歯車を固定し、チェーンを巻き上げ、物理的な応力を支えるための『絶対的な筋力』が必要になるんだ。……ケリーのあの身体能力は、巨大時計の修理において最も重要な工具の一つになり得る」


「工具扱いか。不憫な男じゃな。……して、その古い設計図から、あの時計が止まりかけている原因は掴めそうか」


 シルクがカウンターに飛び乗り、設計図を覗き込む。


「……基礎的な構造は、地球……私の前世に存在した、巨大な塔時計の設計と酷似している。重錘の力で巨大な歯車を回し、脱進機でその速度を一定に保ち、長大なシャフトで四方の文字盤の針を動かす。ここまでは、極めて合理的な物理法則に従っている」


 アリアの青い瞳が、設計図の奥にある見えない意図を読み解こうと、鋭く細められた。


「だが、おかしな点がある。この時計が建造された百年前、すでに王都の魔法技術は一定の成熟を見せていたはずだ。動力源として水精霊の力や魔石を使えば、巨大な重りなど必要ない。それなのに、設計者はなぜ、これほどまでに旧時代的で、純粋な物理的質量に依存した設計を採用したんだ」


「ふむ。確かに、狂王の時代の古代時計でさえ、魔力伝導液を使っていたからのう。百年前の最新鋭の時計台が、ただの鉄の塊の重力で動いておるというのは、魔法使いの視点から見ても不可解じゃ」


「……設計者が、魔法を嫌っていたのか。あるいは、魔法の不確実性を排除し、重力という絶対に裏切らない物理法則だけを信じたのか。……どちらにせよ、この巨大な質量の塊が今、摩擦と金属疲労の限界を迎えて悲鳴を上げていることは間違いない」


 アリアは書物を閉じ、静かに息を吐いた。


 昨日の夕刻に聞いた、あの空振りした鐘の音。それは、数トンの重量を支える歯車の噛み合いが、限界を超えて滑り落ちた証拠だ。次にあのような空転が起きれば、内部で連鎖的な破壊が起こり、大時計台は完全に停止する。いや、最悪の場合、巨大な歯車の破片が塔を突き破り、王都の街に降り注ぐかもしれない。


「……時間は、残されていない」


 アリアがそう呟いた、まさにその瞬間だった。


 ゴーン、と。


 遠く、王都の中心から、時刻を知らせる鐘の音が響いてきた。


 午前十時の打鐘。


 しかし、その音は、昨日聞いた時よりもさらに重く、苦しげに濁っていた。


 ゴーン、ゴーン、ゴーン。


 打撃の間隔が不規則に乱れている。ハンマーを持ち上げるためのカムが削れ、十分な高さまで持ち上がっていないのだ。まるで、病床で息を引き取る寸前の老人が、最後の力を振り絞って咳き込んでいるような、痛ましい音だった。


 四回、五回、六回。


 アリアは懐中時計を取り出し、秒針の動きと鐘の音の遅れを冷徹な目と耳で計測し続けた。


 七回、八回、九回。


 そして。


 ……。


 十回目の鐘の音が鳴るべきタイミングで、再び恐ろしい静寂が王都を包み込んだ。


 空振りだ。


 アリアの心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。昨日は一回だけだった空転が、また起きた。


 一秒、二秒の空白の後。


 ガギィィィンッ……!!


 鐘の音とは到底呼べない、金属と金属が暴力的に削り合い、ひしゃげるような凄惨な破壊音が、王都の空気を切り裂いて響き渡った。


 その衝撃は、路地裏の店にいるアリアの足元の床にまで、微かな振動となって伝わってきたほどだった。


「……限界だ」


 アリアは懐中時計の蓋をカチリと閉じ、窓の外にそびえる大時計台の黒い塔を見上げた。


「時計の心臓が、今、完全に砕けた」


 彼女の冷徹な死刑宣告が店内に響いたのと同時に。


 大時計台の四方を向いた巨大な針が、ガクンと不自然な動きを見せた後、完全にその動きを停止した。


 王都の空を支配していたチクタクという巨大な駆動音が、永遠の沈黙へと落ちていく。


 それは、王都の時間が完全に死滅した瞬間であった。


 天才時計修理職人のアリアと、彼女を守ることを決意した騎士見習いのケリー。


 王都を巻き込む最大の物理的崩壊を止めるための、静かで苛烈な戦いの幕が、ついに切って落とされたのだった。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。


本作を応援してくださる方は、ぜひブックマークや下の評価【★★★★★】をいただけますと幸いです。


次回お楽しみに。

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