第26話:店を訪れた不遜な王城魔法技師
王都の空に、鉛色の雲が再び戻ってきた午前。
アリアの時計修理店の中は、いつものように静寂と規則正しい和音に満たされていた。
石炭ストーブの上で鉄瓶が微かな湯気を立て、壁に掛けられた無数の振り子が、チクタク、チクタクと生命の鼓動を刻んでいる。外界の寒々しい冬の空気は分厚いオーク材の扉によって完全に遮断され、店内には紅茶のほのかな香りと、温められた木材の匂いが漂っていた。
アリアは作業机の前に座り、右目にルーペを嵌め込んだまま、細いピンセットを動かしていた。手元にあるのは、真鍮製の美しい置き時計の輪列機構だ。
しかし、彼女の思考の半分は、目の前の小さな歯車ではなく、王都の中心にそびえる巨大な黒い塔へと向いていた。
昨日、湖畔からの帰路で耳にした、大時計台の鳴り損ねた鐘の音。
それは単なる時刻の遅れではない。巨大な質量の空転と激突という、物理的な破壊の証明だった。数トンにも及ぶ金属の歯車が、摩擦と疲労の限界を超え、自らの重みに耐えかねて悲鳴を上げたのだ。あの衝撃で、間違いなく内部の部品は決定的なダメージを負っている。
次に鐘が鳴る時、あるいはその次の時か。
王都の時間は、もう長くは持たない。
アリアは小さく息を吐き、ピンセットで香箱車のホゾに微量の油を差した。自分がここで小さな時計を直したところで、王都全体の時間が止まってしまえば、人々の生活は根底から狂ってしまう。だが、一介の時計修理職人に過ぎない彼女が、王城の厳重な管理下にある大時計台に手を出せるはずもなかった。
今できることは、目の前にある時計の寿命を一日でも長く延ばすことだけだ。
その時、店の外からけたたましい馬の嘶きと、車輪が石畳を擦る派手な音が聞こえてきた。
普段、この寂れた路地裏に馬車が乗り付けてくることは珍しい。ケリーがやって来る時はいつも徒歩だ。
アリアがルーペを外し、不思議そうに扉の方へ視線を向けた直後。
カランコロン、と。
ドアベルが、乱暴に押し開けられた衝撃で悲鳴のような高い音を立てた。
吹き込んできた冷たい冬の風と共に、強烈な香水の匂いが店内に充満する。花の香りを極端に濃縮したような、鼻を突く人工的な匂いだった。
姿を現したのは、一人の背の高い男だった。
年齢は三十代半ばだろうか。上質な紫色のベルベットの外套を羽織り、首元には純白のレースのクラバットを派手に結んでいる。細身の体躯に見合わない、過剰なまでに宝石がちりばめられた金の杖を右手に握りしめていた。
顔立ちは整っていると言えなくもないが、その薄い唇と細められた目には、他者を見下す傲慢さと自己顕示欲が露骨に張り付いていた。
男は店内をぐるりと見渡し、嫌悪感を隠そうともせずに鼻で笑った。
「……ひどい埃の匂いだ。油と錆の悪臭が染み付いている。こんな薄汚れた穴倉が、噂の現場だというのか」
男の靴音が、静かな店内に不躾に響く。彼は壁に掛けられたアンティーク時計たちを一瞥し、まるでガラクタでも見るかのように杖の先でコンコンとガラスケースを叩いた。
「おい、店主はどこだ。まさか、そこの貧相な子供ではないだろうな」
男の視線が、作業机の前に座るアリアを真っ直ぐに射抜いた。
アリアは立ち上がりもせず、無表情のまま男を見返した。
「……ガラスケースを叩くな。振動はテンプの振り角に悪影響を及ぼす。時計に用がないのなら、すぐに出て行ってくれ。冷気が入って室温が下がる」
アリアの冷淡な応対に、男はわずかに眉をひそめたが、すぐに嘲笑を浮かべた。
「ふん、口の利き方も知らない平民の小娘か。まあいい、私が直々に赴いてやったのだ。光栄に思え。私は王城魔法技師団・第一席、ルキウス・ヴァン・アスターだ。この王都において、魔法具と機械構造のすべてを統括する最高権威である」
ルキウスと名乗った男は、大げさな身振りで胸を張った。
その肩書きを聞いて、カウンターの上で丸くなっていたシルクが、面倒くさそうに薄目を開けた。
「……やれやれ、またぞろ厄介な客が来たもんじゃ。王城の第一席じゃと? 魔法の腕はともかく、香水の選び方は三流以下じゃな。鼻が曲がりそうじゃわい」
シルクの容赦ない毒舌が店内に響く。
ルキウスは黒猫が喋ったことに一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに鼻で笑った。
「喋る使い魔か。こんな薄汚れた店に不釣り合いな高位の魔物だが、所詮は獣。主人の躾がなっていないようだな」
「……躾が必要なのはお前のほうだ、魔法技師。ここは私の店だ。階級や肩書きを振りかざして威圧したいなら、王城の温室にでも帰れ」
アリアは冷たく言い放ち、再びルーペを右目に嵌め込もうとした。
相手が貴族であろうと王城の権威であろうと、時計職人としての彼女の態度は変わらない。時計に対する敬意を持たない人間に、割くべき時間は一秒たりとも存在しなかった。
「待て、小娘。私がわざわざこんな掃き溜めまで足を運んだ理由を教えてやろう」
ルキウスは杖を床に強く突き立て、アリアを睨みつけた。
「少し前に、第一区画を騒がせた連続窃盗事件……通称、十三時の怪盗。あの事件の犯人の手口を、騎士団の馬鹿どもに教えたのはお前だそうだな」
その言葉に、アリアはルーペを机に置き、静かに男を見つめ返した。
ケリーは手柄を横取りするようなことはせず、上層部には匿名の情報提供者からのタレコミだと報告していたはずだ。だが、ルキウスほどの地位にいる人間であれば、騎士団の内部情報を探り出し、この路地裏の店に辿り着くことも不可能ではないだろう。
「……それがどうした。私はただ、時計を犯罪の道具として悪用した輩の物理的トリックを、ありのままに解説しただけだ」
「ふん、知ったふうな口を利く。あの怪盗は、雷魔法を磁力に変換し、風魔法で時計を操るという極めて高度な魔法の使い手だった。それを、魔法の欠片も使えない平民の時計屋が、さも自分が解き明かしたかのように吹聴していると聞いてな。我が魔法技師団の無能を嘲笑うかのようなその態度、到底看過できるものではない」
ルキウスの声には、明確な敵意と、傷つけられたプライドに対する怒りが滲んでいた。
怪盗事件の際、王城の魔法技師たちは魔力の痕跡がないという理由で捜査に行き詰まっていた。結果として、彼らは犯人の魔法を物理現象に変換するというトリックを見抜けず、路地裏の時計職人に手柄を出し抜かれた形になったのだ。
権威と名誉を何よりも重んじる彼にとって、それは耐え難い屈辱だったに違いない。
「……私は事実を述べたまでだ。魔法の痕跡が見えなかったのは、お前たちが物理法則という世界の基礎を軽視していたからだ。魔法は万能ではない」
「黙れ。魔力を持たぬ者が、魔法の真理を語るな」
ルキウスが声を荒らげると、彼の持つ杖の先端に埋め込まれた魔石が、呼応するように赤い光を明滅させた。店内の空気が一瞬にして重くなり、ピリピリとした静電気が肌を刺す。
だが、アリアは微動だにしなかった。彼女の青い瞳は、怒り狂う魔法技師を、まるで故障したゼンマイ仕掛けの玩具でも観察するかのように、冷徹に見つめているだけだった。
「……大声を出しても、真理は変わらない。お前たちは、魔法という便利な力に甘え、物事の根本的な構造を見る努力を怠った。だから足元をすくわれたんだ」
アリアの言葉に、ルキウスの顔が屈辱で赤く染まった。しかし、彼はすぐにその怒りを押し殺し、不気味な笑みを浮かべた。
「……強情な小娘だ。だが、口先だけでなら何とでも言える。お前が本当に、我が魔法技師団を凌ぐほどの天才だというのなら、それを証明してみせろ」
ルキウスは懐から、紫色のベルベットに包まれた小さな箱を取り出し、カウンターの上に乱暴に置いた。
ドスッという重い音が響き、箱の隙間から冷たい魔力の波動が漏れ出しているのがわかった。
「ほう。なんじゃ、その箱は。ただの時計ではないようじゃな」
シルクが鼻をヒクヒクと動かし、興味深そうに箱に近づく。
「これは、我が魔法技師団の倉庫の奥底に眠っていた、古代の遺物だ。数百年前の狂える魔法時計師が作り上げたと言われる、呪われた絡繰時計」
ルキウスは得意げに箱の布を払い除けた。
現れたのは、黒みがかった真鍮と、鈍く光る未知の鉱石で組み上げられた、異様な形をした置き時計だった。通常の時計のように文字盤はなく、表面には無数の歯車が剥き出しになっており、その歯車の隙間には、赤い血のような色をした液体がガラス管の中を満たしている。
そして何より異様なのは、その時計全体が、幾重にも張り巡らされた魔法陣の鎖のようなもので、ガチガチに封印されていることだった。
「この時計は、内部で完全に動力が焼き付き、何百年も前から停止している。これまで我が魔法技師団の歴代の天才たちが、あらゆる魔法を用いて修理を試みたが、誰一人としてこの時計の針を動かすことはできなかった」
ルキウスはアリアを見下ろし、残酷な笑みを深めた。
「お前が物理法則とやらをそこまで信奉するのなら、この絶対に直せない古代の絡繰を直してみせろ。魔法の力すら受け付けないこの完璧な死骸を、お前のその薄汚れた工具で蘇らせることができるのなら、お前のホラ話も信じてやろう」
それは、明らかな挑戦状だった。
直せるはずがないと確信しているからこその、傲慢な要求。アリアを絶望させ、路地裏の時計職人の限界を思い知らせるための、悪意に満ちたゲーム。
「……直せなかったら、どうするつもりだ」
アリアが静かに問うと、ルキウスは杖を弄りながら答えた。
「簡単なことだ。お前が稀代の詐欺師であることを王都中に触れ回り、この店を物理的に叩き潰してやる。騎士団を騙した罪は重いぞ。王都から追放されるくらいで済めば御の字だな」
静寂が、店内に重くのしかかる。
チクタクという時計たちの駆動音だけが、事の成り行きを見守るように一定のリズムを刻み続けていた。
「……嬢ちゃん、これは罠じゃぞ。この時計からは、とんでもない密度の魔力干渉を感じる。普通の物理的な構造じゃない。魔法で無理やり物理法則を捻じ曲げているような、嫌な気配じゃ」
シルクが警告を発する。魔法使いの使い魔として生きてきた彼の直感は、その時計が持つ異常性を正確に捉えていた。
しかし。
アリアの瞳に宿っていたのは、恐怖でも絶望でもなかった。
それは、先日の湖畔で古代の水時計を見た時と同じ、純粋な知的好奇心と、目の前に現れた未知の機械構造に対する、時計職人としての抗いがたい熱狂だった。
「……面白い」
アリアの乾いた唇から、微かな笑みと共にその言葉がこぼれ落ちた。
「な、なんだと?」
ルキウスが不審そうに眉をひそめる。
「歴代の魔法技師が束になっても直せなかった、物理法則を無視した古代の絡繰時計。……時計職人への挑戦状としては、これ以上ない極上の素材だ」
アリアは椅子から立ち上がり、その異様な絡繰時計の前へと歩み寄った。
右目に嵌め込まれたルーペの奥で、彼女の青い瞳が冷たい炎のように燃え上がる。
「いいだろう、魔法技師。その勝負、受けて立つ。だが、条件が一つある」
「条件だと? 負け犬になる運命の貴様が、私に条件を突きつけると言うのか」
「……私がこの時計を完璧に直し、お前たちの魔法の無力さを物理的に証明してみせた暁には」
アリアはルキウスを真っ直ぐに見据え、一切の感情を排した声で宣告した。
「お前が持つその王城魔法技師団・第一席という肩書きの権限を使って、私をあの巨大な時計台の内部へと案内しろ」
その言葉に、ルキウスは一瞬ぽかんと口を開け、次いで腹を抱えて笑い出した。
「はははっ。狂ったか、小娘。王都の心臓である大時計台に、貴様のような平民の職人が入れるはずがなかろう。だがいいだろう、どうせ直せはしないのだ。貴様がこの時計を蘇らせることができたなら、私の権限で時計台の扉を開けてやろう」
「……契約成立だ。シルク、証人になっておけ」
「やれやれ、また面倒なことになりそうじゃわい。じゃが、嬢ちゃんのその目を見る限り、止めても無駄なようじゃな」
アリアはルキウスの嘲笑を完全に無視し、目の前の絡繰時計に全神経を集中させた。
魔法でガチガチに固められた、絶対に直せないと言われる死骸。
だが、それが歯車とゼンマイを持つ機械である以上、アリアの持つ前世の知識と圧倒的な物理理論の前に、直せないものなど存在しない。
王城の権威を打ち砕く、天才時計修理職人の苛烈な解剖の儀式が、今まさに幕を開けようとしていた。




