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第22話:過集中の代償と、強引な休日

強制休息タイムです



 冬の朝日は、すりガラスを通して王都の路地裏に柔らかく、しかしどこかよそよそしい光を落としている。


 アリアの時計修理店の中は、いつものように外界の喧騒から切り離された静謐な空間であった。石炭ストーブの中で燃える赤い炎が、チロチロと微かな音を立てて周囲の空気を温めている。壁際に並んだいくつもの振り子が、チクタク、チクタクと、終わりのない子守唄のような駆動音を奏でていた。


 その心地よい和音の海の中で、アリアは作業机の前に座り、右目にルーペを嵌め込んだまま微動だにしていなかった。


 彼女の目の前にあるのは、複雑な機構を持つクォーター・リピーター、すなわち側面のレバーを引くことで現在時刻を鐘の音で知らせる、極めて精巧な懐中時計だった。連続窃盗事件の騒動が落ち着いた後、彼女は溜まっていた修理依頼の山を一気に片付けようと、文字通り不眠不休で作業に没頭していたのだ。


「……リピーター機構のラックとスネイルの噛み合い、クリアランスがコンマ数ミリずれている。これでは打鐘のタイミングが狂う」


 アリアは乾ききった唇から専門用語をボソボソとこぼし、極小のヤスリを手にした。


 数ミクロン単位で真鍮の部品を削り、形を整えていく。呼吸すらも手元のブレに繋がるため、彼女はヤスリを動かす瞬間、無意識に息を止めていた。わずかな力の入れ具合で、部品は使い物にならなくなる。極限の集中力が要求されるその作業を、彼女はすでに七十時間以上、ほとんど休息を取ることなく続けていた。


 しかし、その精神力がどれほど強靭であろうとも、肉体という物理的な器が限界を超えようとしていることは明白だった。


 不意に、ルーペ越しの視界がぐにゃりと歪んだ。


 まるで水の中で目を開けたように、精緻な歯車の輪郭がぼやけ、焦点が合わなくなる。アリアは小さく瞬きをして視界をクリアにしようとしたが、今度は手元のピンセットを持つ指先が、微かに、しかし制御不能な震えを起こし始めた。


「……っ」


 アリアは咄嗟にヤスリとピンセットを作業机の上に置き、目を閉じて眉間を強く押さえた。


 立ちくらみだ。それも、ただの貧血ではない。脳の奥で警鐘が鳴り響くような、強烈な目眩と吐き気。


 前世で地球の時計職人として生きていた頃、三十代の男の体であった時でさえ、徹夜での作業はこたえた。ましてや今の彼女の体は、まだ成長途中の十五歳の少女のものだ。睡眠を削り、食事もろくに摂らずに過集中を維持すれば、物理的な限界が訪れるのは自明の理であった。


「……嬢ちゃん、どうした。手が止まっておるぞ」


 ストーブの前のクッションで丸くなっていた黒猫のシルクが、異変を察知して顔を上げた。その金色の瞳には、普段の飄々とした態度の裏にある明確な心配の色が浮かんでいる。


「……なんでもない。ただの、一時的な血圧の低下に伴う脳への血流不足だ。糖分を摂取し、五分ほど目を閉じれば回復する。作業効率への影響は最小限に留める」


 アリアは強がって言い返そうとしたが、その声はひどく掠れ、か細いものだった。立ち上がって引き出しの角砂糖を取ろうと椅子から腰を浮かせた瞬間、ぐらりと、世界が大きく傾いた。


「おわっ。嬢ちゃん」


 シルクが悲鳴のような声を上げる。


 アリアの体がバランスを崩し、冷たい木の床へと崩れ落ちそうになった、まさにその時だった。


 カランコロン、と。


 勢いよくドアベルが鳴り響き、冷たい冬の空気と共に、分厚いマントを羽織った大柄な青年が店内に飛び込んできた。


「アリア。おはよう、今日も冷えるな……って、おい」


 手作りの料理が入った魔法容器を片手に提げていたケリーは、作業机から滑り落ちそうになっている銀髪の少女の姿を見るなり、荷物をカウンターの上に乱暴に放り出し、風のような速度で床を蹴った。


 ガシッ、と。


 冷たい床に叩きつけられる寸前で、アリアの華奢な体は、ケリーの太く力強い腕の中にすっぽりと受け止められていた。


「アリア。おい、しっかりしろ。顔面蒼白じゃないか」


 ケリーの切羽詰まった声が、アリアの耳元で響く。彼の体温が、分厚い革鎧越しにでも伝わってくるほど温かく、そして力強かった。


「……騒ぐな、ケリー。耳障りだ。私はただ、少し足がもつれただけで……」


 アリアはケリーの腕から逃れようと身じろぎしたが、手足にはまったく力が入らず、まるで糸の切れた操り人形のように重力に逆らうことができなかった。自分の体がひどく軽く、そして氷のように冷え切っていることに、彼女自身も驚いていた。


「足がもつれただけなわけないだろ。体が氷みたいに冷たいぞ。シルク、アリアはいつから起きてるんだ」


 ケリーが鋭い視線で黒猫を睨みつける。普段の温厚な大型犬のような面影は消え去り、そこには仲間を守ろうとする騎士としての、あるいは家族を心配する母親のような、強い怒りと焦燥があった。


「ワシが止めるのも聞かずに、怪盗騒ぎが終わった日の夜から、ずっとあそこの椅子に座りっぱなしじゃ。食事も、お前さんが置いていったパンをひとかじりしただけじゃぞ」


 シルクの容赦ない密告に、ケリーの琥珀色の瞳が大きく見開かれた。


「三日……三日も寝てないのか。お前、死ぬ気かよ」


「……死にはしない。人間の体は、水さえ摂取していれば一週間は機能するようにできている。それに、まだ依頼の時計が十二個も残っているんだ。私が止まれば、彼らの時間が止まったままになる」


 アリアは薄く目を開け、執念のように作業机の上の時計を見つめた。


 前世で、何も成し遂げられないまま病室のベッドで死んでいった記憶。自分が止まってしまえば、すべてが終わってしまうという恐怖が、彼女を休むことのない機械へと駆り立てていた。直せる技術があるのに、それを放置することなど、彼女には到底耐えられないのだ。


「馬鹿野郎」


 ケリーの怒鳴り声が、静かな店内の空気をビリビリと震わせた。


 アリアはわずかに目を瞬かせ、目の前にある青年の顔を見上げた。彼の顔は本気で怒っており、そして、泣き出しそうなほど悲痛に歪んでいた。


「時計の時間が止まっても、死にはしない。でも、お前が倒れたら、お前の時間は永遠に止まっちまうんだぞ。お前がいなくなったら、俺は……俺たちは、どうすればいいんだよ」


 ケリーの真っ直ぐで不器用な叫びが、アリアの胸の奥底にある、冷たく硬い金属の殻をガンッと強く叩いた。


 時計は直せる。部品を交換し、油を注げば、何度でも蘇る。


 しかし、人間の命は一度止まれば二度と動かない。それは、前世で死を経験したアリア自身が、誰よりも痛いほど理解している物理法則だったはずだ。それなのに、時計を直すことに固執するあまり、自分自身のぜんまいを巻き上げることを完全に忘れていた。


「……」


 アリアが言葉を失って沈黙すると、ケリーは大きく息を吐き出し、己の怒りを鎮めるように目を閉じた。そして、再び目を開けた時には、強引で有無を言わせない決意の光が宿っていた。


「……決めた。お前は今日、強制的に休みだ。俺の権限で、店も閉めさせる」


「な……何を言っている。お前にそんな権限はない。私は店主で……」


「問答無用。患者は大人しくしてろ」


 ケリーはアリアを抱き上げたまま、居住スペースへと続く階段の入り口にあるコート掛けから、アリアの分厚いウールの外套をむんずと掴み取った。そして、抵抗する気力もない銀髪の少女をその外套でくるくると簀巻きにし、さらに自分の首に巻いていた分厚いマフラーを外して、アリアの首から口元までをぐるぐると厳重に巻きつけた。


 あっという間に、アリアは身動き一つ取れない、目だけを出した銀髪の毛玉のような姿にされてしまった。


「……ケリー。これは、明らかな不当拘束だ。法治国家の騎士見習いとしてあるまじき行為……」


「はいはい、文句は後で聞くよ。シルク、店番を頼めるか」


「おうよ。この分からず屋の嬢ちゃんを、外の空気でも吸わせて頭を冷やしてやってくれ。戸締まりはワシが完璧にやっておくわい」


 シルクが尻尾を立てて見送る中、ケリーは毛玉状態のアリアを小脇に抱え、自分が持ってきた魔法容器を反対の手に持つと、店の扉を足で押し開けて外へと飛び出した。


 王都の街並みは、昨日降った雪が薄っすらと積もり、朝の陽光を反射して眩いばかりの白に輝いていた。


「……眩しい。網膜が焼ける」


 三日間、薄暗いランプの光しか見ていなかったアリアは、思わず目を強く閉じた。


「我慢しろ。お前には太陽の光と、新鮮な空気が必要なんだ」


 ケリーは大通りに出ると、流しの乗り合い馬車ではなく、少し値の張る屋根付きの貸し切り馬車を呼び止めた。御者に何やら行き先を告げ、銀貨を何枚か握らせると、アリアを抱えたまま馬車の後部座席へと乗り込んだ。


 馬車がゆっくりと動き出し、石畳の振動が車輪を通して伝わってくる。


「……どこへ行く気だ。王城の騎士団の牢屋にでも放り込むつもりか」


 アリアはマフラーの隙間からくぐもった声で尋ねた。


「馬鹿言うな。お前を牢屋に入れても、頭の中で時計の設計図を描き続けるだけだろ。……視界に時計の部品が一つもない場所へ行くんだよ」


 ケリーは隣に座り、まだ青白いアリアの顔を心配そうに覗き込みながら、魔法容器の蓋を開けた。中からは、温かいカモミールティーの甘い香りが漂ってきた。


「ほら、これを少しずつ飲め。胃が空っぽの状態で固形物を入れると吐くかもしれないから、まずは水分と糖分だ。蜂蜜をたっぷり入れてある」


 ケリーが差し出した木製のカップを、アリアは毛布の中からおずおずと両手を出して受け取った。


 カップから伝わる温もりが、凍りついていた指先をゆっくりと溶かしていく。一口すすると、花の優しい香りと蜂蜜の濃厚な甘さが、疲労しきった脳髄の奥深くまで染み渡っていくのがわかった。


「……味は悪くない。花の抽出時間も適切だ」


 アリアが無意識に評価を下すと、ケリーは柔らかく微笑んだ。


 馬車は王都の中心部を抜け、徐々に建物の数が減っていく郊外へと向かっていた。


 窓の外の景色が、レンガや石造りの無機質な街並みから、冬枯れの木々が立ち並ぶ自然の風景へと変わっていく。


「……この馬車は、板バネのサスペンションの調整が甘い。右後輪の車軸のグリスも切れているな。このまま走り続ければ、金属疲労で車軸が折れる確率が……」


 アリアは照れ隠しと、何もしていないことへの手持ち無沙汰さから、馬車の構造に対してブツブツと文句を言い始めた。


「はいはい、今は金属疲労の心配はお休み。お前自身の金属疲労を癒やすのが先だ」


 ケリーは笑って取り合わず、アリアの頭を大きな手でポンポンと優しく撫でた。そのリズムが、不思議と馬車の揺れと調和して、アリアの重い瞼をゆっくりと押し下げていく。


 過集中の糸がプツリと切れ、安全で温かい場所にいるという認識が、彼女を深い微睡みへと誘った。


 どれくらい眠っていたのだろうか。


 ふと、馬車の揺れが止まり、外から聞こえていた馬の蹄の音が静寂に変わったことで、アリアは目を覚ました。


「着いたぞ、アリア。降りられるか」


 先に降りていたケリーが、馬車の扉を開けて手を差し伸べている。


 アリアは寝ぼけ眼をこすりながら、ケリーの手を借りて馬車の外へと足を踏み出した。


 その瞬間、彼女の視界に飛び込んできたのは、圧倒的なまでの自然の静寂だった。


 王都から少し離れた郊外にある、広大な湖。


 風のない冬の朝の冷気が、湖面を一枚の巨大な鏡のように平滑に保ち、周囲を取り囲む雪化粧をした針葉樹の森と、澄み渡る青空を完璧に反射していた。


 空気は王都の石炭の匂いが一切混じっていない、松の葉と澄んだ水の匂いがした。肺の奥まで吸い込むと、内臓が浄化されていくような清涼感がある。


「……ここは」


「王都の郊外にある、静寂の湖さ。俺が子供の頃、家の中が息苦しくなった時によく逃げ込んできた秘密の場所だ。冬は誰も来ないから、貸し切りだぞ」


 ケリーは馬車を帰らせると、湖畔に設置されていた古い木製のベンチの雪を払い、持参した厚手の毛布を敷いてアリアを座らせた。


「……時計が、ない」


 アリアはポツリと呟いた。


 見渡す限り、歯車も、ゼンマイも、時間を刻む金属の音も、何も存在しない。


 ただ、広大な水面が微かに揺らぎ、遠くで水鳥が羽ばたく音だけが、のんびりと、そして果てしなく続いている。


「ああ。ここには人工的な時間は流れてない。あるのは、太陽の動きと、風の音と、お前の腹の虫が鳴る音だけだ」


 ケリーは悪戯っぽく笑い、魔法容器から今度は温かいコンソメスープと、柔らかい白パンを取り出してアリアの隣に座った。


「食え。食って、太陽の光を浴びて、ただ湖を見てろ。……何もしない時間ってのも、生きていく上では必要な部品なんだぜ。時計職人さん」


 ケリーの言葉は、普段のアリアが口にするような論理的で物理的な説明とは無縁のものだった。しかし、その不器用で温かい声は、どんな精密な歯車よりも真っ直ぐに、アリアの心の奥底へと届いた。


 アリアはマフラーを少し下げ、温かいスープを一口飲んだ。


 湖面を渡る冷たい風が、銀色の髪を揺らす。


 チクタクという駆動音に急かされることのない、果てしなく続く自然のリズム。それは、前世からずっと時間に追われ続けてきた彼女にとって、ひどく非効率で、しかし、どうしようもなく心地よいものだった。


「……非合理だな。ただ景色を見て座っているだけの時間など、生産性が皆無だ」


 アリアはいつも通りの憎まれ口を叩きながらも、その手はスープの器をしっかりと握りしめ、視線は穏やかな湖面に釘付けになっていた。


「ははっ。非合理で上等さ。今日は一日、その非合理に付き合ってもらうからな」


 ケリーの明るい笑い声が、冬の湖畔に響く。


 張り詰めていた天才時計職人の心と体が、大きな温もりに包まれて、少しずつ、ゆっくりと解きほぐされていく。


 それは、彼女の止まっていた人間としての時間が、静かに再び動き始めたような、かけがえのない休日の始まりだった。


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