第20話:裏路地の捕物帳。大型犬騎士の奮闘
深夜の王都、第一区画。
普段であれば、街灯の魔導火が優雅に石畳を照らし、夜会帰りの馬車の音が響くこの高級住宅街も、連日の怪盗騒ぎによって、今は死に絶えたような静寂に支配されていた。多くの屋敷は窓の雨戸を固く閉ざし、雇われた護衛たちが殺気立った視線を暗闇に投げかけている。
アリアとケリーは、その第一区画の端に位置する貿易商ドレイク家の屋敷を望む、古い石造りの倉庫の影に身を潜めていた。
冬の夜気は鋭い刃のように肌を刺し、吐き出す息は一瞬で白く凍りつく。アリアは外套の襟を深く立て、指先の感覚が失われないよう、革鞄の中で磁気測定用の針をじっと握りしめていた。
「……ケリー。一つ聞きたい。なぜお前たちの騎士団は、あんな怪しい時計工房の職人を今まで一度も調査対象に入れなかったんだ。時計が狂ったのなら、真っ先に疑われるべき専門家だろう」
隣で大きな体を縮めるようにしてしゃがみ込んでいるケリーに、アリアが低い声で問いかけた。
ケリーは申し訳なさそうに、そして騎士団の失態に歯噛みするように、深く溜息をついた。
「……返す言葉もないよ。騎士団の上層部は、最初から『魔法』という答えありきで動いていたんだ。あんな不気味な現象、高度な幻惑魔法に決まっているって。だから、現場に魔力の痕跡が見当たらないだけで、捜査は完全に行き詰まった。その上、ガレリア時計工房は王城の時計も任されている老舗中の老舗だ。そんな立派な工房が泥棒なんてするはずがないっていう、妙な信頼があったんだよ」
ケリーの声には、身内の偏った盲信に対する強い不満が混じっていた。
「犯行時刻に工房の連中には完璧なアリバイがあったのも大きかった。みんな寮で寝ていたとか、酒を飲んでいたとかね。まさか屋敷の外から遠隔で細工しているなんて、アリアに指摘されるまで誰も考えもしなかった。……俺たちは、機械という物理的な仕組みを、魔法よりもずっと格下に見すぎていたんだ」
「……傲慢だな。魔法は万能ではない。物質が存在する以上、この世界を支配しているのは物理法則だ」
アリアは冷淡に言い捨てると、手元の計器に視線を落とした。
時刻は深夜、零時五分前。
闇に包まれたドレイク家の屋敷の前に、音もなく一台の簡素な荷馬車が停まった。御者台から降りてきたのは、くたびれた作業着を着た一人の男だ。一見すると、夜遅くまで配達をこなしている運送業者にしか見えない。
だが、その男が荷台から取り出したのは、望遠鏡と集音器を複雑に組み合わせたような、奇妙にねじれた形状の金属器だった。
「アリア、あれか?」
「……静かにしろ。奴が『発射装置』を組み立てている」
アリアのルーペ越しの瞳が、獲物を狙う鷹のように鋭く細められた。
男は手慣れた動作で装置を屋敷の二階へと向け、三脚を固定した。その手元には、雷精霊の魔石が埋め込まれた特注のコイルが鈍く光っている。
「……計算通りだ。あの装置の先端にある円錐状の部品は、風の魔法を指向性のある極細の気流へと圧縮するための『加速管』。そして根本のコイルは、魔石のエネルギーを瞬間的な電磁パルスに変換するための『磁場収束機』だ」
アリアの声は、冷徹な機械の構造解説へと切り替わっていた。
「奴は一時間前のメンテナンス時に、屋敷中の時計を帯磁しやすい角度へと調整し、風が通りやすいように裏蓋のネジを緩めておいたんだろう。……来るぞ」
ゴーン、と。
遠く、王都の中心から零時を告げる鐘の音が、夜の空気を震わせて届いた。
その瞬間。
男が装置のレバーを引いた。
シュゥゥゥ……という、空気が激しく摩擦するような鋭い音が静寂を切り裂き、同時に雷精霊の魔石が眩い青白い光を放った。
アリアの持つ方位磁針の針が、狂ったように激しく回転を始める。
ドレイク家の屋敷の中から、一拍置いて、異様な音が響き渡った。
ゴーン、ゴーン、ゴーン……!
本来であれば鳴るはずのない、連続した、不気味な時計の鐘の音。屋敷中の時計が一斉に、命を削るような速さで針を早回しし、十三回の鐘を打ち鳴らしているのだ。
「泥棒だ!」「何だ今の音は!」「時計が十三回鳴ったぞ!」
屋敷の窓に次々と明かりが点り、護衛たちの混乱した声が上がる。彼らの意識が、その異常な鐘の音と『狂った時間』に釘付けにされた、まさにその隙。
男は装置を放り捨て、身軽な動作で屋敷の塀を乗り越えようとした。
「……今だ。行け、ケリー」
「任せとけ!」
アリアの短い号令と共に、ケリーが暗闇から弾き出された。
大柄な騎士見習いの体躯は、その巨体からは想像もつかないほどの瞬発力で石畳を蹴った。彼の背負った大剣は抜かず、ただその圧倒的な質量そのものを武器として、男の背後へと肉薄する。
「止まれ! 王都騎士団だ!」
ケリーの怒号が響く。
男は驚愕に顔を歪め、塀にかけた手を離して着地した。彼は懐から小型の杖を取り出し、ケリーに向けて振り抜いた。
「邪魔をするな、無能な騎士め!」
杖の先から、圧縮された鋭い鎌鼬のような風の刃が放たれた。
「ケリー、左三度! そこが風圧の死角だ!」
背後からのアリアの的確な指示。ケリーは考えるよりも先に体が反応し、わずかに身を屈めながら左へと跳んだ。風の刃は彼のマントの端をかすめ、背後の石壁を深く切り裂いた。
「くっ……何だ、その女は! なぜ俺の風の軌道がわかる!」
男が叫び、今度は雷の魔法を杖に溜め始めた。強力な電磁パルスを放ち、相手の神経を焼くつもりか。
「ケリー、正面から突っ込むな! 奴が持っているのは帯磁コイルだ、鉄の剣は吸い寄せられる! 右の廃材置き場にある木材を投げろ!」
「了解!」
ケリーは迷いなく、道端に積まれていた古い建築用の角材を片手で掴み上げ、全筋力を込めて男へと投げつけた。
巨大な丸太のような木材が空を割り、男の視界を塞ぐ。男は慌てて雷を放って木材を粉砕したが、その一瞬の隙が、ケリーという大型犬に距離を詰める機会を与えた。
「捕まえたぞ……泥棒さん!」
砕け散る木片の雨を潜り抜け、ケリーの強靭な腕が、男の襟首を鷲掴みにした。
「離せ、この……っ!」
男は必死に抵抗し、風の魔法でケリーを吹き飛ばそうとしたが、ケリーは一歩も引かなかった。彼はその太い腕にさらに力を込め、男を地面へと叩きつける。
「無駄だ! お前が時計を狂わせた理屈は、全部こっちの時計師様が解き明かしたんだよ。魔法が使えない場所での捕物なら、俺たち騎士団の独壇場だ!」
ケリーは男の腕を背後に捻り上げ、手際よく捕縛用の縄で縛り上げた。
男は「時計師……だと?」と呻き、石畳に顔を押し付けられながら、闇の中からゆっくりと歩み寄ってくる銀髪の少女を凝視した。
アリアは無表情のまま、男が残した『発射装置』の前に立ち、その構造を舐めるように観察した。
「……雷魔法の直流電流を、多層巻きのコイルで磁場へ変換し、風魔法の流体加速で遠隔射出する。……時計の弱点を知り尽くした、非常に効率的で、そして非常に卑劣な道具だ」
アリアはピンセットでコイルの一部を弾き、冷たい視線を男に向けた。
「……私の愛する時計たちの時間を、泥棒の道具として汚した罪。物理的に、法の下で償ってもらう」
「あ、アリア……。かっこいいけど、ちょっと怖いぞ……」
男を完璧に制圧したケリーが、引きつった笑いを浮かべた。
やがて、ケリーの鳴らした笛の音に応じ、騒ぎを聞きつけた騎士団の仲間たちが次々と駆けつけてきた。彼らは、捕らえられた『13時の怪盗』と、その横に置かれた奇妙な装置を見て、驚愕の声を上げた。
混乱が一段落し、ドレイク家の時計たちも「アリアの手による一時的な磁気抜き」によって再び正しい時間を刻み始めた頃。
アリアとケリーは、第一区画の喧騒を離れ、再び自分たちの拠点である路地裏へと向かっていた。
空には厚い雲が居座り、冬の冷たい風が二人の間を通り抜けていく。
「……終わったな」
アリアがぽつりと呟いた。
「ああ。おかげで騎士団の面目も保てたし、被害も最小限で済んだ。何より、あの工房の連中を徹底的に調査する口実ができたからな。……本当にありがとう、アリア」
ケリーはマントについた泥を払いながら、アリアの横顔を眩しそうに見つめた。
「……礼はいい。私はただ、自分の仕事の邪魔になりそうな要因を排除しただけだ。あの怪盗がのさばっていれば、王都の時計の信頼性が損なわれるからな」
アリアはぶっきらぼうに答え、革鞄をしっかりと抱え直した。
だが、その歩みは以前よりもわずかに遅く、ケリーの大きな歩幅に合わせるように、自然なリズムを刻んでいた。
ゴーン、と。
遠く、王都の中央から、一時を知らせる大時計台の鐘が鳴った。
その音はやはり濁り、苦しげな悲鳴を伴っていたが、今はもう、誰にも時間を誤認させることはなかった。
路地裏の時計店が、暗闇の中にその小さなシルエットを見せ始める。
アリアの脳内では、すでに次の修理依頼と、そしてあの巨大な時計台の崩壊を止めるための物理的な計算式が、静かに、そして力強く回り始めていた。




