表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/28

第17話:王都を騒がせる「13時」の怪盗

新シリーズです

21話までの予定です



 王都の石畳に、本格的な冬の足音が霜となって降り積もる季節になった。


 灰色の雲が重く垂れ込め、太陽の光はすりガラスを通したように弱々しい。路地裏を吹き抜ける風は刃のように冷たく、道行く人々は皆、分厚い外套の襟を立てて足早に家路を急いでいる。吐き出す息は真っ白な霧となって空気に溶け、建物の屋根にはうっすらと雪の予感が漂っていた。


 しかし、アリアの時計修理店の中だけは、その厳しい冬の冷気から完全に隔離された、温かく穏やかな聖域であった。


 部屋の隅に置かれた年代物の石炭ストーブが、パチパチと心地よい音を立てながら赤い火を燃やしている。ストーブの上に乗せられた鉄瓶からは、シュンシュンと細い湯気が立ち上り、乾燥しがちな室内に適度な湿度を与えていた。


 チクタク、チクタク、チクタク。


 壁一面に並べられたアンティーク時計たちは、外の寒さなど知る由もなく、今日もただ規則正しく、静かな和音を奏でながら時間を分割し続けている。


 アリアは作業机の前に座り、いつものように右目にルーペを嵌め込んでいた。


 手元にあるのは、真鍮製の美しいトラベルクロック(旅行用の小型置き時計)だ。彼女は極細の面相筆の先にほんの微量の時計油を取り、ガンギ車の歯の一枚一枚に、息を止めて正確に油を乗せていく。多すぎれば周囲に飛散してゴミを吸い寄せ、少なすぎれば摩耗を防げない。コンマ数ミリリットルの単位で油の量をコントロールする、極めて繊細な作業だった。


「……よし。すべての歯面への注油、完了。テンプの振り角も適正値まで回復した」


 アリアはルーペを外し、ふうっと小さく息を吐き出した。


 冷え切った指先をストーブの熱にかざして温め直していると、カウンターの上の特等席で丸くなっていた黒猫のシルクが、薄目を開けて長いあくびをした。


「相変わらず、息の詰まるような作業を飽きもせず続けるもんじゃ。外はすっかり冷え込んできたというのに、お前さんは時計の油のことしか頭にないようじゃな」


「……気温の低下は、金属の収縮と油の粘度変化を引き起こす。冬場は時計の精度が狂いやすい季節だ。職人として、気を抜ける時期など一年たりとも存在しない」


 アリアが淡々と答えると、シルクはやれやれと尻尾を揺らした。


 カランコロン、と。


 その時、重厚な真鍮のドアベルが、少し元気のない音を立てて鳴った。


 分厚いオーク材の扉がゆっくりと開き、冷たい外気と共に、一人の大柄な青年が店内に転がり込んできた。


「……ううっ、寒い! アリア、シルク、生きてるか……?」


 王都騎士団の制服である革鎧の上に、分厚いウールの防寒マントを羽織ったケリーだった。いつもなら大型犬のように勢いよく飛び込んでくるはずの彼だが、今日の足取りはひどく重く、肩にはうっすらと白い霜が降りている。日に焼けた健康的な顔には濃い疲労の色が浮かび、目の下にはうっすらと隈さえできていた。


「……なんだ、ケリーか。ずいぶんと顔色が悪いな。パトロール中に冬眠前の熊にでも襲われたか」


 アリアは作業机から振り返り、容赦のない観察結果を口にした。


「熊の方がまだマシだよ……。こっちは連日の深夜警備と非番返上で、もう三日もまともにベッドで寝てないんだ」


 ケリーはふらふらとした足取りでカウンターに近づくと、いつものように革袋の中から、魔法文字が刻まれた保温容器を取り出した。


「おうおう、若いの。ずいぶんとやつれたのう。そんなに疲れておるなら、まっすぐ寮に帰って寝ればよかろうに」


 シルクが同情するように鼻を鳴らす。


「そうもいかないさ。アリアのやつ、俺が来ないとまた作業に没頭して、飯を食い忘れるだろ。……ほら、今日は海鮮市場で新鮮なアサリが手に入ったから、クラムチャウダーを作ってきたぞ。冷えた体にはこれが一番だ」


 ケリーは疲労困憊の様子でありながらも、アリアの前に木製の深皿を置き、魔法容器から熱々の白いスープを注ぎ分けた。


 途端に、濃厚なミルクとバター、そして磯の香りが店内にふわりと広がる。角切りにされたジャガイモとベーコン、そしてたっぷりのアサリが、とろみのあるスープの中で食欲をそそる湯気を立てていた。


 アリアの胃袋が、キュルルと小さく鳴る。


「……笑うな。気温低下による基礎代謝の向上に伴う、自然な生理現象だ」


 アリアは誰にも笑われていないのに先手を打って言い訳をし、スプーンを手に取った。


 熱いクラムチャウダーを一口すする。


 ミルクの優しい甘みと、アサリから溶け出した濃厚な旨味が、冷えた体の芯からじんわりと温めてくれる。ジャガイモの煮崩れ具合も絶妙で、スープにとろみを与えつつも形を保っている。


「……味は悪くない。アサリの砂抜きも完璧だ。だが、白ワインのアルコール飛ばしが少し甘い。微かに酸味が残っている」


「うっ……。急いで作ったからな。次はもう少しじっくり煮立てるよ」


 ケリーは苦笑しながら、自分もカウンターの端に座り込み、深く、本当に深い溜息をついた。


 アリアは黙々とスプーンを動かしながら、その尋常ではない疲労感を横目で観察していた。


 いつもはお節介で騒がしいこの騎士見習いが、ここまで憔悴しているのは珍しい。ワイズマン子爵家のオルゴール事件の時のような、個人的な家庭の事情による悲壮感とは違う。もっと物理的で、組織的な重圧に押し潰されそうになっているような気配だった。


「……お前が三日も寝ていない理由。ただの冬のパトロール強化というわけではなさそうだな。何があった」


 アリアがスープの皿を空にしてから尋ねると、ケリーは少し驚いたように顔を上げた。アリアの方から他人の事情に踏み込んでくることは、極めて稀だったからだ。


「……気にかけてくれるのか?」


「……勘違いするな。お前が過労で倒れれば、この安定した塩分と栄養の供給源が絶たれる。それは私の修理作業の効率低下を意味する。だから原因を特定し、排除するべきだと判断しただけだ」


 アリアは相変わらずの無表情で、すげなく答えた。


「やれやれ、相変わらず可愛げのない言い回しじゃのう。じゃが若いの、嬢ちゃんなりに心配しておるんじゃよ。話してみい」


 シルクが前足を舐めながら促すと、ケリーは肩を落とし、重い口を開いた。


「実は最近、王都を騒がせている厄介な事件があってさ。俺たち王都騎士団も、その対応で全員駆り出されているんだよ」


「……事件?」


「ああ。連続窃盗事件だ。ターゲットにされているのは、王都の第一区画や第二区画に屋敷を構える、裕福な大商人や貴族たちばかり。金庫に保管されていた宝石や、高価な美術品が、夜の間に忽然と姿を消すんだ」


 ケリーは両手で顔を覆い、忌々しそうに呻いた。


「ただの泥棒なら、いくらでも捕まえてやる。だけど、今回の犯人は手口が異常なんだ。鍵を壊された形跡もなければ、窓ガラスが割られた跡もない。見張りの護衛たちも、誰も不審な人影を見ていない。まるで、壁を通り抜ける幽霊みたいに、目的のものだけを奪って消えちまう」


「……魔法による空間転移か、あるいは幻惑の魔法でも使っているのか?」


 アリアが物理以外の可能性を提示するが、ケリーは首を横に振った。


「それが、王城の魔法技師たちが現場を調べても、転移魔法の痕跡や、大規模な幻惑魔法の残留魔力は一切検出されなかったんだ。つまり、犯人は物理的に屋敷に侵入し、物理的に盗み出している。なのに、誰もその姿を捉えられない」


 ケリーの言葉に、シルクが興味深そうに耳をピンと立てた。


「ほう。魔法を使わずに、貴族の館の厳重な警備をすり抜ける怪盗か。それはまた、ずいぶんと腕の立つ輩じゃな。で、お前さんたちが三日も寝ておらんということは、その怪盗の尻尾すら掴めておらんということじゃな?」


「……その通りだよ。騎士団のメンツは丸潰れさ。上層部からは連日、早く捕まえろと怒号が飛んでくるし、夜間パトロールの人数は三倍に増員された。それでも、昨日の夜もまた一件、宝石商の屋敷がやられた」


 ケリーは力なくカウンターに突っ伏した。


「街の連中は、すっかり面白がって、その泥棒にふざけた異名をつけやがった。『13時の怪盗』だってさ」


「……13時?」


 その単語を聞いた瞬間、アリアの青い瞳に、わずかな光が宿った。


 時計職人にとって、「13時」という言葉は決して見過ごすことのできない響きを持っていた。


 この世界の一般的な時計は、十二時間で文字盤を一周する十二進法を採用している。昼の十二時、そして夜の十二時(零時)。十三時という表記は、基本的には存在しない。


「……なぜ、そんな異名がついたんだ。犯行時刻が午後一時だというのなら、堂々とした白昼夢の犯行ということになるが」


 アリアの問いに、ケリーは顔を上げ、ひどく奇妙なものを見るような目つきになった。


「違うんだ、アリア。犯行時刻は、常に深夜の零時ぴったりなんだ。……だけど、犯人が金庫を破って逃走するその瞬間、被害者の屋敷で、あり得ないことが起きるんだよ」


 ケリーは身を乗り出し、声を潜めて語り始めた。


「屋敷の中には、いくつも高価な振り子時計や置き時計があるだろう? 深夜の零時になれば、当然、それらの時計は『十二回』の鐘を鳴らすはずだ。……でも、怪盗が現れた屋敷の時計は、すべて一斉に狂うんだ」


「狂う……?」


「ああ。深夜の零時なのに、屋敷中のすべての時計が、狂ったように『十三回』の鐘を打ち鳴らすんだよ。ゴーン、ゴーンって、十三回。そして、文字盤の針は、本来なら真上を向いているはずの零時じゃなく、少し右にずれた『一時』……つまり、十三時を指した状態で、完全にピタリと止まっちまうんだ」


 静かな店内に、ケリーの言葉が不気味に響いた。


「見張りの護衛たちは、その十三回の鐘の音を聞いて、一瞬混乱するんだ。『あれ? 今、何時だ?』『鐘が十三回鳴ったぞ』って。時計の針を見ても、一時を指して止まっている。その時間の認識のズレ、わずかな混乱の隙を突いて、犯人は悠々と逃げおおせる。……だから、『13時の怪盗』だ」


 ケリーの説明を聞き終え、シルクが「なるほどな」と髭を撫でた。


「面白いトリックじゃ。人間の感覚というのは案外いい加減なものでな。視覚と聴覚で同時に『間違った時間』を提示されると、脳が一瞬バグを起こす。そのわずかな認識の隙間を利用した幻惑術の一種じゃろうな。……じゃが、複数の時計を同時に狂わせるとは、やはり強力な魔法の使い手じゃろう」


「だから、魔法の痕跡はないって言ってるだろ! 魔法技師たちがいくら調べても、時計に魔力が流された形跡はないんだ。物理的に壊されているわけでもない。ただ、すべての時計が十三回鳴って、一時の位置で止まっているんだよ!」


 ケリーが声を荒げた。未知の現象に対する恐怖と、疲労による苛立ちが混じっていた。


「……魔法じゃない」


 不意に、アリアの低く、冷徹な声が店内に響いた。


 ケリーとシルクが、同時にアリアの方を振り向く。


 彼女は作業机から立ち上がり、壁際に並べられた無数の時計たちを見上げていた。その青い瞳には、もはやスープの塩加減への関心も、騎士見習いへの気遣いもなかった。


 そこにあるのは、純粋な「時計職人」としての、静かで強烈な怒りと探求心だった。


「アリア……?」


「……時計は、ゼンマイの力と歯車の噛み合いだけで動く、純粋な物理法則の結晶だ。複数台の独立した機械式時計が、偶然同時に同じ狂い方をする確率など、天文学的な数字になる。つまり、これは偶然ではない」


 アリアは振り返り、ケリーを真っ直ぐに見据えた。


「……魔法の痕跡がないなら、犯人は『物理的な手段』を用いて、屋敷中の時計の機構に干渉し、強制的に針を動かし、鐘の回数を狂わせたということになる。……時計という精密機械の構造を悪用し、己の逃走のための道具として使い捨てる、極めて悪質な手口だ」


 アリアの言葉の端々に、冷たい刃のような怒りが混じっていた。


 彼女にとって、時計の針を止めること、意図的に狂わせることは、機械の命を弄ぶ冒涜に他ならない。


「……ケリー」


「お、おう」


「その被害に遭った屋敷の時計。止まったままのものがあるなら、一つでいい、私の店に持ってこい」


 アリアはケリーに歩み寄り、その大きな胸倉を掴まんばかりの勢いで告げた。


「魔法技師の節穴の目には見えなくても、私の目は誤魔化せない。時計が狂ったのなら、内部の部品に必ず物理的な証拠が残っている。……私が、その『13時の怪盗』のふざけたトリックを、完全に丸裸にしてやる」


 疲労で淀んでいたケリーの琥珀色の瞳に、パッと希望の光が点った。


 王都を騒がせる未知の怪盗と、前世の狂気を宿した天才時計職人。


 静かな路地裏の時計店を舞台に、時間を巡る新たな知恵比べの幕が、静かに切って落とされた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ