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第14話:亡き大魔法使いが遺した「時間」



 深夜の王都は、深い底知れぬ静寂に沈み込んでいた。


 昼間の喧騒が嘘のように消え去り、冷たい夜気が石畳を這うように流れている。分厚い雲が月明かりを遮り、窓の外は墨汁を流したような漆黒の世界だった。


 しかし、アリアの時計修理店の中だけは、その暗闇と沈黙から完全に切り離されていた。


 チクタク、チクタク、チクタク。


 壁掛け時計の重厚な振り子の音、懐中時計の繊細なテンプの刻み、置き時計の規則正しいステップ。それぞれが異なるリズムを持ちながらも、店内の空間で不思議な調和を保ち、心地よい子守唄のような和音を形成している。


 作業机の上に灯されたアルコールランプの青白い炎が、アリアの銀色の髪を神秘的に照らし出していた。


 彼女は右目にルーペを嵌め込んだまま、微動だにせず、目の前に置かれた金属の塊を覗き込んでいた。


 今日の午後に、大魔法使いの孫であるエリオットが持ち込んだ、無骨な魔導時計。


 黒みを帯びた「星屑の鋼」で作られた外装は、ただ頑丈であることだけを目的とした要塞のようであり、一切の装飾や美しさを拒絶している。


 だが、その裏蓋を開けた内部には、外見からは想像もつかないほどの、狂気的なまでに美しい小宇宙が広がっていた。


「……信じられない構造だ。物理法則と魔法が、これほど高次元で融合しているなんて」


 アリアはピンセットの先を宙に浮かせたまま、感嘆の吐息を漏らした。


 ランプの光に照らされた時計の内部は、まるで切り出された宝石の晶洞ジオードのようだった。半透明に輝く未知の結晶物質で削り出された無数の歯車たちが、重力という絶対的なルールを無視して、空中にふわりと浮遊しているのだ。


 ホゾと穴による物理的な接触がない。磁力と魔力の反発を利用して、すべての部品が完璧なクリアランスを保ったまま、中空に固定されている。


「……接触がないということは、摩擦抵抗が完全にゼロだということだ。金属の摩耗も、油の劣化も起こり得ない。永遠に部品が劣化しない、究極の駆動機構」


 アリアはピンセットの先端で、一番大きな結晶の歯車をそっと押し回してみた。


 音もなく、そして一切の抵抗もなく、歯車は滑らかに回転を始めた。その回転は隣の歯車へ、さらにその隣へと、見えない魔力の噛み合わせを通じて伝達されていく。


 チクタクという駆動音すら発生しない。完全な無音のまま、美しい結晶の連鎖がランプの光を乱反射させ、きらきらと輝いている。


 しかし、アリアがピンセットを離すと、その回転は数秒で緩やかに減速し、やがて完全に停止してしまった。


「……やはり、動かない。外から物理的な動力を与えれば回るが、自立駆動をしない」


 アリアはルーペを外し、静かに背もたれに体を預けた。


「どうじゃ、嬢ちゃん。ワシの前のマスターの腕前は。頭のおかしい偏屈ジジイじゃったが、魔法具の設計にかけては天才じゃったじゃろ」


 カウンターの端で、シルクが誇らしげに尻尾を揺らした。彼はエリオットが帰った後も、ずっとこの魔導時計のそばから離れようとしない。かつての主の匂いや、魔力の残滓を感じ取っているのだろう。


「……ああ。狂気的なまでの天才だ。私のような時計職人は、いかに金属の摩擦を減らし、油の保持力を高めるかに一生を費やす。だが、この大魔法使いは『摩擦そのものを無くす』という力技で、時計の寿命を永遠の域まで引き上げようとした」


 アリアは冷めた紅茶のカップを手に取り、その縁を指でなぞった。


「動力源は、中央に鎮座しているあの巨大な魔石だ。エリオットは魔力も十分に満ちていると言っていたし、私が見ても、石の周囲に強烈なエネルギーの渦が滞留しているのがわかる」


「ふむ。動力は十分。歯車も劣化なし。摩擦もない。ならば、なぜ時計は止まっておるんじゃ?」


 シルクの金色の瞳が、不思議そうに瞬きをした。


「……それが問題だ」


 アリアは再び机に向き直り、魔導時計の内部を見据えた。


「機械が動かない理由の九割は、物理的な破損か、エネルギーの枯渇だ。だが、この時計にはそのどちらも当てはまらない。完璧な素材が、完璧に組み上げられ、完璧な動力が用意されている。それなのに、針は一秒たりとも進まない」


 アリアは極小のドライバーの背で、コンコンと星屑の鋼のケースを軽く叩いた。


「……シルク。お前は、アルドゥスという男の傍に長くいたはずだ。彼は、何のためにこの時計を作ったんだ?」


 アリアの問いに、シルクは目を閉じ、古い記憶の糸をたぐるようにゆっくりと喉を鳴らした。


「さあな。あいつは元々、時間を気にするような男ではなかった。日が昇れば研究をし、本を読み、腹が減れば適当にパンをかじる。魔法の深淵を覗くこと以外には、身なりにも食事にも全く無頓着な男じゃったよ」


 シルクのしわがれた声が、夜の店内に静かに響く。


「ワシは使い魔として、そんなあいつの生活の世話を焼くのに苦労したもんじゃ。『アルドゥス、飯の時間じゃ』『アルドゥス、少しは寝んか』と、毎日毎日小言を言うのがワシの仕事のようなもんじゃった」


「……お節介な猫だ。まるでどこかの大型犬騎士のようだな」


「ふん。誰かさんのように、放っておくと倒れるまで机から離れんような不器用な連中ばかりじゃからな、ワシの周りは」


 シルクは呆れたように鼻を鳴らしたが、その声には確かな愛情と、深い喪失の響きが混じっていた。


「……アルドゥスがこの奇妙な箱を作り始めたのは、あいつが病に倒れ、いよいよ自分の寿命が長くないと悟ってからのことじゃった」


 シルクは魔導時計の無骨な表面を、前足でそっと撫でた。


「ベッドから起き上がるのも辛いはずなのに、あいつは最後の力を振り絞って、這うようにして工房へ向かい、この時計の部品を削り出しておった。ワシが止めても聞かずにな。……『どうしても、完成させなければならないものがある』と、血を吐きながら笑っておったよ」


 その言葉を聞き、アリアは静かに目を伏せた。


 死の淵にあってなお、執念のように機械に向かい続ける。その狂気にも似た渇望を、アリアは痛いほどよく理解できた。


 前世の自分もまた、病室のベッドの上で、ただ時計の構造のことばかりを考えて死んでいったのだから。


「……自分の死期を悟った魔法使いが、最後に求めたのが『永遠に壊れない時計』か」


 アリアは呟き、再びルーペを右目に嵌め込んだ。


「自分の命が有限であることを突きつけられたからこそ、決して止まらない、摩耗しない、永遠の時間を刻む機械をこの世に残したかった。……時計職人としては、その傲慢なまでの美学には敬意を表する」


 アリアの視線が、再び浮遊する結晶の歯車たちの間を縫うように移動していく。


 魔石から放出されるエネルギーは、確かに一番最初の伝達歯車の周囲まで到達している。しかし、そこから先へは進んでいない。まるで、見えない分厚い壁に遮られているかのように。


「……物理的な欠損がないならば、答えは一つしかない」


 アリアはピンセットを置き、はっきりと断言した。


「……壊れているんじゃない。『止めている』んだ。意図的に」


「止めている? アルドゥス自身が、永遠の時計を作っておきながら、それを動かないように細工したというのか?」


 シルクが驚きの声を上げる。


「……そうだ。よく見ろ、シルク」


 アリアは極小の指示棒を取り出し、魔石と一番歯車の接点にあたる、わずかな空間を指し示した。


「動力が伝わらない理由は、歯車の噛み合わせが悪いからじゃない。魔石からあふれ出す魔力を、歯車に伝達するための『クラッチ』……魔法的な接続回路が、意図的に切断された状態になっている」


 アリアは指示棒の先で、回路の終端部分を軽く叩いた。


「物理的に壊れているなら、修理すればいい。だが、これは設計上、最初から『動力を遮断する』という状態がデフォルトとして組み込まれているんだ。門には頑丈な鍵がかけられ、動力が歯車に流れ込むのを拒絶している」


「なんと……。じゃあ、この時計は永遠に動かんガラクタということか?」


「……違う。機械に無意味な機構は存在しない」


 アリアの青い瞳が、鋭い知性の光で燃え上がった。


「……鍵がかけられているということは、それを開けるための『鍵穴』が存在するということだ。何らかの特定の条件を満たした時、あるいは特定の干渉を受けた時だけ、このクラッチが繋がり、魔石のエネルギーが歯車へと流れ込むようにプログラミングされている」


 アリアは魔導時計から顔を上げ、シルクを見つめた。


「お前のマスターは、ただ永遠に動く時計を作りたかったわけじゃない。特定の『何か』を待つために、この時計を永遠の眠りにつかせたんだ。部品が摩耗しない素材を選んだのも、その『何か』が訪れるのが百年後か千年後かわからないから、それまで絶対に朽ち果てないようにするためだ」


 沈黙が店内に降りた。


 チクタク、という周囲の時計たちの駆動音が、焦燥を煽るように静寂の輪郭をなぞっていく。


 エリオットの言う通り、この時計は完璧だった。

 だが、完璧であるがゆえに、この時計は「時計」としての機能を果たしていない。誰の目にも触れず、時間を刻むこともなく、ただ硬い星屑の鋼の殻の中で、終わらない眠りを貪っているだけなのだ。


「……皮肉なものだ」


 アリアは冷たい金属のケースに触れながら、小さく吐き捨てた。


「時間を残したくて永遠の機械を作ったのに、時計として動いていなければ、それはただの綺麗な石の塊でしかない。……時計は、針が動き、他人の時間を刻んでこそ意味があるのに」


 ゴーン、と。


 その時、深夜の冷え切った空気を切り裂くように、王都の大時計台が時刻を知らせる鐘を鳴らした。


 深夜の二時。


 誰も起きていない、誰も聞いていない時間であっても、あの巨大な時計台は休むことなく鐘を鳴らし続けている。


 分厚い石壁越しに聞こえてくるその音は、やはり重く、濁り、そして悲痛な金属の軋みを伴っていた。


 ゴーン……ゴ、ーン。


 二つ目の鐘が鳴るまでの間隔が、昼間よりもさらに遅れている。歯車の欠けが、確実に、そして残酷なまでに進行している証拠だ。


 アリアは窓ガラスの方へと視線を向けた。


 見えない王都の空の中心で、無理やり魔法で回され、自らの身を削りながら必死に時間を刻もうとしている、死にゆく巨大な時計。


 そして目の前にあるのは、絶対に摩耗しない完璧な体を手に入れながら、自ら時を止めてしまった、永遠の魔導時計。


「……動けよ」


 アリアの口から、無意識のうちに、感情の乗った言葉がこぼれ落ちていた。


「お前は、時計だろう。時間を刻むために生まれてきたんだろう。なら、こんな冷たい箱の中で、鍵をかけて引きこもっているんじゃない」


 アリアは再びルーペを右目に嵌め込み、極小のドライバーを握り直した。


「……嬢ちゃん?」


「……私は、時計職人だ。止まっている時計を直すのが私の仕事だ。魔法の呪いだろうと、設計者のエゴだろうと関係ない」


 アリアの周囲の空気が、冷徹な職人のそれへと完全に切り替わった。


「この分厚い魔力回路の鍵穴に、何が適合するのか。物理的なアプローチで、すべての可能性を検証する。温度、湿度、磁場、気圧、あるいは特定の音波。……お前のマスターが仕掛けた『起動条件』を、必ず私が暴き出してやる」


 夜はまだ深い。


 王都の時間が少しずつ崩壊の足音を響かせる中、路地裏の小さな修理店では、前世の天才時計職人と、大魔法使いが残した永遠のパズルとの、静かで苛烈な知恵比べが始まっていた。


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