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第12話:遠くで響く、くぐもった鐘の音



 夕暮れの気配が、王都の空をゆっくりと深い茜色に染め上げていく。


 石畳の路地裏には長く濃い影が落ち、日中の喧騒は少しずつ、夜の静寂へとその座を明け渡し始めていた。風が吹き抜けるたびに、どこかの家から夕餉の支度をする匂いが微かに漂ってくる。薪の爆ぜる匂い、肉を焼く香ばしい匂い。それらが、郷愁を誘う時間帯だった。


 アリアの時計修理店の中は、西日がすりガラスの窓を通して差し込み、無数のアンティーク時計たちを黄金色に縁取っていた。


 チクタク、チクタク。


 静かな店内に響く駆動音は、夕暮れの空気の中でより一層、澄んだ音色を奏でている。


 アリアは作業机の前に立ち、ベルベットの布で重厚なマホガニー材の箱の表面を丁寧に拭き上げていた。


 ワイズマン子爵家の家宝、オルゴール時計。


 狂った調律と削られた歯車によって、亡き父親の不器用な遺言を隠し持っていたそのからくり機械は、数日間にわたるアリアの徹底的な修復作業を経て、ついに本来の姿を取り戻していた。


 削られていた三番車は、アリアが真鍮の無垢材から新たに削り出した完璧な歯車へと交換されている。そして、不協和音を奏でるように細工されていた鋼鉄の櫛歯も、アリアの気の遠くなるような再調律によって、正しい周波数を取り戻していた。


「……各ギアの噛み合い、伝達効率、ガバナーの空気抵抗係数、すべて設計図通りの完全な数値だ。シリンダーの回転にも一切の淀みはない」


 アリアは満足げに呟き、最後にガラスカバーの真鍮枠をキュッと磨き上げた。


「相変わらず、見事な腕前じゃのう。あの耳障りな黒板を引っ掻くような音が、あそこまで美しい音色に戻るとはな」


 カウンターの上で丸くなっていた黒猫のシルクが、西日に目を細めながら言った。


「……当然だ。物理的に狂わされていたものを、物理的に正しい形へ戻しただけのこと。そこにあるのは感情や魔法ではなく、純粋な金属の共鳴と計算の成果だ」


 アリアが淡々と答えた、その時。


 カランコロン、と。


 夕暮れの路地裏に、控えめなドアベルの音が響いた。


 分厚いオーク材の扉を開けて入ってきたのは、数日前にこのオルゴール時計を持ち込んだ、ワイズマン子爵家の老執事だった。


「……いらっしゃい。ちょうど終わったところだ」


 アリアが抑揚のない声で迎えると、執事は店内の黄金色の光に照らされたマホガニーの箱を見て、ほうっと感嘆の吐息を漏らした。


「おお……。外装のくすみまで、すっかり綺麗にしていただいて……。それで、アリア様。音の具合は、いかがでしょうか」


「……聞けばわかる」


 アリアは多くを語らず、オルゴールの側面に付いている強制演奏の真鍮レバーを静かに引いた。


 カチリ。


 シュー……というガバナーの風切り音に続いて、箱の内部から、澄み切った美しい和音が弾け出した。


 ポロン、ポロロン。


 それは、ワイズマン家という貴族の栄華と歴史を象徴する、重厚でありながらも華やかで、そしてどこか物悲しさを帯びた行進曲だった。複数の音階が完璧なバランスで重なり合い、一切の濁りがない純粋な音の波となって、店内の空気を震わせる。


 数日前のような不協和音は、微塵も存在しなかった。


「ああ……っ。この音です。先代の旦那様が、まだお元気だった頃に書斎で鳴らしておられた、ワイズマン家の誇り高き音色……」


 執事は両手で顔を覆い、感極まったように肩を震わせた。


「……削られていた三番車の新規製作費用と、櫛歯の再調律、および全体のオーバーホール代だ。安くはないぞ」


 アリアは一切の感傷を交えることなく、羊皮紙に書かれた請求書をカウンターの上に滑らせた。


 執事は慌てて涙を拭うと、請求書を一瞥し、深い感謝の念を込めて深く頭を下げた。


「お支払いは、長男の当主様からお預かりしております。……アリア様。実は先日、ケリー坊っちゃんから、当主様宛てに手紙が届きまして」


 執事は懐から革袋を取り出し、アリアに渡しながら静かに語り始めた。


「先代が、この時計の音を狂わせてまで、息子たちを貴族の重圧から解放しようとしてくださっていたこと。その深い愛情の真実が、手紙には切々と綴られておりました。当主様は、それを読んで大層泣き崩れられまして……」


「……他人の家の事情に興味はない」


 アリアは受け取った革袋の中の硬貨の重さを確認しながら、冷たく言い放った。


「ええ、わかっております。ですが、これだけは言わせてください。当主様は、このオルゴール時計を売却することをやめられました。先代の愛情の証として、そして、兄弟たちの絆の象徴として、ワイズマン家で永遠に大切に守り抜くと誓われたのです」


 執事の顔には、没落貴族の重苦しい陰りはなく、どこか晴れやかな、誇りに満ちた光が宿っていた。


「……そうか。ならば、五年に一度は必ず古い油を拭き取り、新しい時計油を注ぐように伝えろ。湿気の多い部屋には置くな。ゼンマイは巻き切った状態で放置するな。それを守らなければ、百年後にはまた櫛歯が錆びて音が狂う」


「はい。肝に銘じます。……アリア様、この度は本当に、ありがとうございました」


 執事はもう一度深く、本当に深くお辞儀をすると、重厚なマホガニーの箱を大切そうに抱え、夕暮れの街へと帰っていった。


 扉が閉まり、再び静寂が戻った店内。


「やれやれ。嬢ちゃんは相変わらず、空気を読むという機能がすっぽり抜け落ちておるのう。あそこはもう少し、温かい言葉の一つでもかけてやる場面じゃろうに」


 シルクが呆れたように尻尾を揺らす。


「……時計職人の仕事は、機械を直すことだ。持ち主の心まで直す義務はないし、私にはその機能も必要ない」


 アリアは冷めた紅茶を一口飲み、作業机の上の工具を几帳面に片付け始めた。


 カランコロン、と。


 再びドアベルが鳴り、今度は勢いよく扉が開かれた。


「アリア! シルク! 夕飯持ってきたぞ!」


 夕日の逆光を背に受けて立っていたのは、私服姿のケリーだった。手にはいつものように、大きな魔法容器を提げている。


「……またお前か。騎士見習いは本当に暇なんだな」


 アリアは心底鬱陶しそうに眉をひそめた。


「暇じゃないさ! 今日は非番なんだよ。それに、じいが時計を取りに来るって聞いてたから、すれ違いで様子を見に来たんだ。……時計、直ったんだな」


 ケリーはカウンターの上に魔法容器を置きながら、少しだけ寂しそうに、しかし嬉しそうに微笑んだ。


「……ああ。お前の実家に帰った。売却も取りやめになったそうだな。貧乏貴族が無理をして維持できる代物ではないと思うが」


「いいんだ。兄貴たちも、親父の本当の気持ちを知って、もう一度一からやり直すって手紙をくれた。俺も、騎士としてもっと上に成り上がって、家の借金を少しでも減らせるように頑張るつもりだ」


 ケリーの琥珀色の瞳は、以前のような迷いや重圧から解放され、真っ直ぐで力強い光に満ちていた。


「おうおう、若いの。ずいぶんと良い顔つきになったじゃあないか。まるで一皮むけたようじゃな」


 シルクがケリーの足元に擦り寄りながら、喉をゴロゴロと鳴らす。


「シルクもありがとうな。ほら、今日は奮発して、牛すね肉と香味野菜の赤ワイン煮込みを作ってきたんだ。アリアに言われた通り、塩加減も岩塩を少し減らして、肉の旨味を引き出すように調整したぞ」


 ケリーが魔法容器の蓋を開けると、店内に極上の香りが広がった。赤ワインの芳醇な香りと、トロトロに煮込まれた牛肉の暴力的なまでの旨味の匂い。


 アリアの胃袋が、キュルルと小さく、しかしはっきりとした抗議の音を鳴らす。


「……笑うな。ただの生理現象だ」


 アリアは不機嫌そうに目を逸らしながらも、ケリーが木製の器に注ぎ分けたシチューを素直に引き寄せた。


 スプーンで一口すくい、口に運ぶ。


 ホロホロと崩れる牛肉の繊維。野菜の甘み。そして、完璧に計算された塩の浸透圧。


「……味は、悪くない。前回のミネストローネの反省が活きている。肉の繊維を断ち切るための事前の叩き込みも十分だ」


 アリアは無表情のまま、機械の評価をするように淡々と感想を述べたが、そのスプーンを動かす手は止まらなかった。


「だろ? 俺の料理の腕も、少しずつ上がってるんだぜ。アリアの舌を満足させるために、色々と研究してるからな」


 ケリーはカウンターに肘をつき、アリアがシチューを食べる姿を、相変わらず手のかかる子供を見守るような、底抜けに甘い眼差しで見つめていた。


「……なぜお前が私の舌を満足させるために研究する必要があるんだ。意味がわからない」


「え? いや、それは……その、アリアに美味しいものを食べて、元気でいてほしいからというか……」


 ケリーがしどろもどろになって顔を赤らめる。


 しかし、アリアの意識はすでにシチューの物理的な熱量と、次の時計の修理予定へと向かっており、ケリーの不器用な好意など、ノイズとして完全に遮断されていた。


「やれやれ、この岩よりも硬い機械オタクの心を開くには、まだまだ時間がかかりそうじゃのう、若いの」


 シルクがシチューの肉片を咀嚼しながら、哀れむようにケリーを見た。


 二人と一匹の、穏やかで温かい時間が過ぎていく。


 窓の外の空は、茜色から深い紫色へと変わり、夜の足音がもうそこまで近づいていた。


 ゴーン、と。


 不意に。


 空気を震わせ、内臓を直接撫でるような重低音が、王都の空に響き渡った。


 夕刻の六時を知らせる、大時計台の鐘の音だ。


 アリアの手から、カチャリとスプーンが落ちた。


「……アリア? どうしたんだ?」


 ケリーが不思議そうに声をかける。


 しかし、アリアは答えない。彼女は椅子から立ち上がり、すりガラスの窓へとゆっくりと歩み寄り、少しだけ開かれた窓の隙間から、夕闇に沈む巨大な時計台のシルエットを凝視した。


 ゴーン、と。


 二つ目の鐘の音が響く。


「……シルク」


 アリアの声は、限界まで張り詰めたピアノ線のようだった。


「嬢ちゃん。ワシにも聞こえたぞ。……ただ事ではないな」


 シルクも食べるのをやめ、毛を逆立てて窓際へと歩み寄る。


「え? 何が? いつもの鐘の音じゃないか。ちょっと音が籠もってる気はするけど……」


 ケリーには理解できない。魔法で動いていると信じられている大時計台の鐘。一般の王都の民にとっては、少し音が悪い程度の認識しかない。


 しかし、前世から時計の異常をすべて「音」と「振動」で捉えてきた天才時計職人の耳は、その音の奥底で起きている致命的な崩壊を、はっきりと捉えていた。


 ゴーン、と。


 三つ目の鐘。


「……遅れている」


 アリアは窓枠を強く握りしめ、青い瞳を見開いたまま呟いた。


「最初の鐘から二つ目の鐘までの間隔。そして、二つ目から三つ目までの間隔。……コンマ二秒。明確に、テンポが遅れた」


「コンマ二秒? そんなの、風のせいとかじゃないのか?」


「……違う。風の抵抗などというレベルの話じゃない。これは、時計の心臓部である『脱進機』の異常だ」


 アリアは振り返り、信じられないものを見るような目でケリーを見た。


「ケリー。あの大時計台の針を動かし、鐘を鳴らすための巨大な歯車を想像してみろ。あれほどの質量を動かすためには、凄まじいトルクが必要だ。本来なら、何トンもある重りの降下エネルギーを使う」


 アリアの言葉は早く、そして焦燥に満ちていた。


「だが、この世界はそれを魔法で無理やり回している。動力源が魔法であっても、歯車は物理的な金属だ。巨大な金属同士が噛み合い、莫大な力がかかり続ける。……当然、摩擦が生じる。摩耗する」


 ゴーン、と。


 四つ目の鐘が鳴る。


 その瞬間、アリアの耳には、鐘の音の裏側に隠れた、ギィィィッという巨大な鋼鉄の悲鳴が確かに聞こえた。


「……アンクルの爪石か、ガンギ車の歯が……欠け始めているんだ」


 アリアの呟きは、絶望的な響きを帯びていた。


「物理的な限界を超えた摩擦が、歯車を削り取っている。歯が欠ければ、噛み合わせが滑り、一瞬の『空振り』が生じる。それが、コンマ二秒の遅れという形で表に現れ始めた。……もう、あの時計台は死にかけているんだ」


 ゴーン、ゴーン。


 五つ目、六つ目の鐘が、連続して、不規則なリズムで夕闇の王都に響き渡った。


 それはもはや、時間を知らせる鐘ではない。巨大な機械が、自らの死を悟って上げる、断末魔の悲鳴だった。


「……そんな。でも、王城には優秀な魔法技師がたくさんいるんだろ? 魔法で直せないのか?」


「……魔法で削れた金属は元に戻らない。あんな巨大な歯車を魔法で無理やり動かし続ければ、いずれ完全に破断する。一番巨大なメインの歯車が砕け散れば、修復は不可能になる。王都の時間は、永遠に止まる」


 アリアは窓ガラスから視線を外し、自分の小さな手のひらを見つめた。


 毎日、小さな懐中時計や置き時計の異常を直し、持ち主の想いを紡いできたこの手。


 だが、あの巨大な時計台を直すには、あまりにも小さすぎる。それに、路地裏の無名の時計屋が、王城の管轄である大時計台に触れることなど、身分制度の厳しいこの世界では絶対に許されない。


 アリアの握りしめた拳が、微かに震えていた。


 それは、時計職人としての強烈な使命感と、何もできない無力感の板挟みによる震えだった。


 ケリーは、そのアリアの小さな背中を、言葉を失ったまま見つめていた。


 いつも無表情で、冷静沈着な彼女が、見えない巨大な敵に怯えるように震えている。


 夕闇が完全に王都を包み込んだ。


 狂い始めた鐘の残響が、いつまでも冷たい夜風に乗って、路地裏の空を重く漂っていた。


 王都の時間が、少しずつ、しかし確実に終わりへと向かって崩壊を始めている。


 その事実を知っているのは、世界でただ一人、路地裏の時計職人だけであった。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。


本作を応援してくださる方は、ぜひブックマークや下の評価【★★★★★】をいただけますと幸いです。


次回お楽しみに。

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