第10話「消しゴムと、消えない安心。」
放課後。
夕焼けが校舎の窓を染めて、僕と佐々木さんは並んで歩いていた。
佐々木さんの習い事の日。
いつもの帰り道。だけど、今日は少しだけ、空気が違っていた。
「……木戸君」
「ん?」
「消しゴムって、便利だよね」
「急にどうしたの?」
「間違えたこと、なかったことにできる。
誰にも見られずに、そっと消せる」
佐々木さんは、制服のポケットから小さな消しゴムを取り出した。
角が丸くなっていて、少しだけインクの跡が残っている。
何度も使われたその形が、なんだか彼女らしいと思った。
「……私、こんなだから、みんな私のこと変な人だと思ってるの」
「えっ……」
「Wi-Fi猫とか、消しゴム積んでたりとか……。
“変わってるね”って言われること、よくある」
彼女の声は、夕暮れの風よりも静かだった。
その言葉に、僕は少しだけ胸が痛くなった。
「だから、たまに思うの。
この消しゴムで、自分の“変なところ”を消せたらいいのにって」
佐々木さんは、消しゴムを見つめながら、ぽつりとつぶやいた。
その表情は、どこか遠くを見ているようだった。
佐々木さんの手の中で、消しゴムが小さく震えているように見えた。
僕は、何か言わなきゃと思った。
でも、言葉がうまく出てこない。
「……でもね」
佐々木さんは、ふと僕の方を見て、少しだけ笑った。
「木戸君は、私のこと普通に接してくれるから……なんか安心する」
その笑顔は、夕焼けよりもあたたかかった。
風が吹いて、彼女の髪がふわりと揺れた。
「……僕は、佐々木さんの“変なところ”が好きだよ」
「ほんと?」
「うん。Wi-Fi猫も、消しゴムの塔も、佐々木さんらしくて……なんか、いいなって思う」
佐々木さんは、少しだけ顔をこちらに向けた。
夕焼けが、彼女の瞳にやさしく差し込んでいた。
「……それ、ちょっと嬉しい」
「よかった」
ふたりの影が、並んで伸びていく。
その影は、まるでふたりの距離をそっとなぞるようだった。
「じゃあ、この消しゴムは……木戸君の“照れ”を消す用にしようかな」
「それ、僕の感情が消去対象になってる!?」
「うん。でも、安心は消さない」
佐々木さんは、ふふっと笑って、消しゴムの側面に小さく「安心」と書き込んだ。
僕はその文字を見て、なぜか胸がじんわりと熱くなった。
それは、消せない気持ちだった。
「……じゃあ、僕も書いていい?」
「え?」
僕は、彼女のペンを借りて、消しゴムの反対側にそっと書いた。
『佐々木さんの“変なところ”は、僕の安心です』
佐々木さんは、目を丸くして、そして笑った。
「それ、ちょっと照れる」
「だから、消しゴムで消してもいいよ」
「ううん。これは、消さない」
――佐々木さんは、変な人かもしれない。
でも、僕にとっては、それが“普通”で、“特別”だった。
そして、今日の帰り道は、いつもより少しだけ、心が軽かった。
僕たちの関係はこれからも続いていくだろう。
変なところも、照れるところも、消しゴムで消さずに、 そのまま残していけたらいい。
たとえ言葉にできない気持ちがあっても、
夕焼けの帰り道みたいに、静かに並んで歩いていける気がする。
そして、僕の心の余白には、これからも少しずつ、 “消したくない気持ち”が増えていくのだと思う。
おまけ。
数学の授業中。 先生が黒板に図形を描いている。
僕は、ノートに三角形を描いていた。
その隣で、佐々木さんは――鉛筆を立てていた。
(……え?)
消しゴム塔の次は、鉛筆。 しかも、シャープペンでもなく、木軸の鉛筆。
机に垂直に、まっすぐに。 指先で微調整しながら、静かに立てている。
(また始まった……)
僕は、ノートの隅に書いた。 「鉛筆塔、第一段。重心、未知。」
佐々木さんは、集中していた。 まるで、空気と対話しているみたいに。
鉛筆は、かすかに揺れていた。 でも、倒れない。
先生が振り返る。 一瞬、佐々木さんの机に目をやる。
そして、何も言わずに黒板に戻った。
(……黙認!?)
僕は、ノートに追記した。 「先生、塔の進化を見守る姿勢。」
佐々木さんは、二本目の鉛筆を取り出した。
(まさか……二本立て!?)
その瞬間、一本目が――倒れた。
カラン。
教室に響く、乾いた音。 先生が振り返る。
佐々木さんは、静かに言った。
「……まだ、風が読めてません」
先生は、しばらく沈黙したあと、ぽつりとつぶやいた。
「……佐々木。次は、風速も計算に入れろ」
「はい」
僕は、ノートの隅に書いた。 「塔、倒壊。風、敵。佐々木、次の段階へ。」
たぶん、今日いちばん高度な物理を使ったのは、佐々木さんだった。




