ところで貴方は何故そこに?
成人間近とも言える年頃の貴族たちが通う学園では、成人前の人脈作りに精を出す者が多い。
学ぶ事も勿論大切なのだが、それ以外の事に関しても大人になる前の――所謂青春の思い出作りも重要視されていた。
婚約者が決まっていない者たちはどうせなら学生時代にいいお相手を見つけようとはりきったりもするし、そうでなくとも末永く付き合えそうな友人を得ようとする者たちも。
長いようで短い学生時代を、子女たちは精一杯駆け抜けるのである。
そんな青春時代は、しかし輝かしいだけのものではない。
嘆かわしい事に、ロクでもない方向に進み転がり落ちていく者も当然出てしまう。
それが、王子相手に恋に落ちた男爵令嬢アリエラである。
彼女は幼い頃から見目が良く、周囲もちやほやして彼女をお姫様のように扱っていた。
とはいっても、彼女の領地などちっぽけで、お姫様扱いといってもそれはあくまでも小さな範囲での話だ。
学園にいざ通うようになってからアリエラの天下は終わりを迎えたのである。
何故なら他にも高貴なる家柄の令嬢たちが存在しているので。
素材という意味ではアリエラの方が上かもしれない。しかし彼女たちは幼い頃より受けてきた教育によって所作が洗練されていたし、幼い頃からその美貌を磨いてきた。
アリエラも同じくらい磨いていれば彼女たちなど比べるまでもない程輝けたかもしれないが、悲しいかな、アリエラはまだ宝石ではなく磨かれる前の原石なのである。
なのでちょっとだけ周囲の目を惹く事はできても、誰よりも注目されるような事はなかったのだ。
それでもアリエラは夢を見た。
素敵な男性と出会って、将来は生活に困る事のない贅沢な暮らしをする事を。
アリエラがもう少し賢く思慮深ければ高位身分の令息に言い寄るよりも、素直に平民であろうとも商家に嫁いだ方がその望みは叶いやすいと気付けただろうが、しかしアリエラはとにかく権力を持っている相手と結ばれれば問題ないと思っていた。
たとえ権力を持っていたところで、長い歴史を持つ高位身分の貴族の家だからとて、必ずしも裕福とは限らないのに。
そして学園にはこれまたお誂え向きに王子が通っていた。
見た目はまさしく絵にかいたような王子様だ。
そして王子様の婚約者である令嬢は、これまたやっぱり絵にかいたようなお姫様然としていた。
どう見てもお似合いのカップル。
しかしアリエラは思ってしまったのだ。
アタシの方が可愛くない……?
いや絶対アタシのが勝ってる。
――と。
周囲が聞けば全員否定するだろうけれど、しかしアリエラは自信満々にそんな風に思っていた。身の程知らずもいいところである。
仮に見た目で勝てたとしても、知性と品性では負けているという事に気付いていない。
本人に面と向かって言おうものなら、不敬で一瞬でレッドカード。学園を退学して領地に逃げ帰るか身分を捨てて夜逃げするしかないレベル。
恐らく危機感が死んでるアリエラは、故に早速王子とお知り合いになろうと試みた。
手段なんて選ばなかった。
そのおかげか、アリエラを認識されはしたのだ。
王子様はにこにこと穏やかな微笑みを浮かべてアリエラの話に耳を傾けてくれている。
このままもっと仲良くなれば、王子様のお嫁さんだって夢じゃない……!
そう、アリエラは愚かにも信じ切っていたのである。
――王子アガレスは学園に入学早々珍獣に絡まれるようになった。
幼い頃に親から決められた高位身分の友人たちとはまた別の、普段関わる事のない下位貴族や、高位であってもあまり関わらなかった者たちとも交流せよ、と父王から言われていたので一応聞く耳を持ってはいるが、アガレスの中で彼女は珍獣枠だった。
父の言い分は要するに使えそうな人材を発掘してこい、という意味だ。
将来自分の側近として国の中枢にいるだろう幼い頃からの付き合いの者たちだけではなく、もっと多くの優秀な人材を発掘し国を更なる発展に導け、というのが父の本音だ。
幼い頃から高度な教育を受けている高位身分の人間以外でも、優秀な人間はいる。
そういった者たちを見過ごして、最終的に国に見切りをつけられて他国へ渡られては国力の低下である。国の損失だ。そうなる、というのはつまり、王家も見切りをつけられたという意味である。そんな事を良しとはできない。
故にアガレスは学園に入学した時点で身分に関係なく多くの者たちへ目を向けたし、耳を傾けた。
それは、将来自分の妻として隣に立つ婚約者――シルヴィアも同じである。
彼女は将来社交界の中心となるべき存在だ。
アガレスとはまた別の目線で優れた者を見つけるだろう。
実際、彼女は既に派閥間の壁を取り払って新たな派閥を作り上げる程であった。
それはそれとして、アガレスは珍獣に絡まれている。
見た目は愛らしいが、しかし中身はすっからかんとまではいかなくとも、どこか抜けている男爵令嬢。
名を、アリエラと言った。
彼女は最初から親し気にアガレスに接してきたが、本来なら許されない態度である、と果たして本当に理解しているかは謎だ。
アガレスが周囲との交流をするべくそういう態度をとっているから今のところは許されているだけで、そうでなければ馴れ馴れしく近づくのも許してもいないうちから名を呼ぶのも、全部アウトである。
この家の教育どうなってたんだろうな……とアリエラの生家である男爵家に関して思い返してみたりするが、男爵家に関して特に悪い噂はなかったはずだ。
つまり、彼女が特別頭がおかしいのだ、とアガレスは結論付けた。
失礼な態度だが、別に喧嘩を売っているとかそういうわけではない。
ただひたすらに懐いているだけだ。
一周回って面白くなってきたので、アガレスはアリエラの話を微笑んだままうんうんと優しく聞いていた。
彼女の話題は面白ネタとして婚約者と二人きりでの交流の時の話題にもなった。
シルヴィアもまた、アリエラの事を知ってはいるようだった。
「あぁ、彼女、何故か突然走り出してはわたくしの目の前で盛大に転んで涙目でこちらを見てから去っていったり、すれ違いざまに何故だかわたくしとは逆の方向に自ら飛んでいったりしておりますわね。
あとは中庭の噴水に飛び込んだ後、何故かこちらをじっと見つめていますの。
芸人を目指してでもいるのかしら? 市井ではそういった身体を張った芸というのが今流行りって聞きますし」
直接話した事はないが、見かける事は何度もあるらしい。
シルヴィアからその話を聞いて、アガレスは何それおもしろ、自分も見たいな、と思った。
「あれ? そう言えば前にあの珍獣、君に足を引っかけられたとか、突き飛ばされたとか言ってたような気がするな」
「そうなんですか? 指一本触れた事はないのですが。
だって、バタバタとみっともなく走り回って埃まみれになっていそうで。
正直汚い気がして触りたくありませんわ」
「だよね。そもそもの話、君の細い足じゃ珍獣を引っかけたら逆に君の足が折れてしまいそうだし」
「そこまでヤワではないのですが」
「でも、あの珍獣足はがっしりしてるよね」
「聞くところによると領地ではお転婆に駆けまわったりしていたようなので、そのせいでしょう」
どちらもアリエラの事は完全に珍獣扱いである。
令嬢扱いをしようという気にすらなっていない。
「……でも、じゃあ、それってつまり」
「えぇ、どうやらアレはわたくしに虐められている、という風に話を持っていきたいのだと思いますわ」
「ふぅん? それで同情を買って私にすり寄ろうと……?」
「でしょうね」
「くだらない」
あまりにもあっさりとアガレスは吐き捨てた。実際とてもくだらないのだから仕方がない。シルヴィアもアガレスのその反応に何も言わなかった。何故って実際本当にどうしようもないレベルでくだらなかったからだ。
そもそもアガレスとシルヴィアとの仲は決して悪くはない、どころか良好である。
そこに割り込めると本気で思っているのなら、頭の中身がどうかしている。
――そう、思いながらもアガレスはアリエラを相変わらず珍獣として眺めていたのだが。
ある日の事である。
普段よりボロボロになった状態でアリエラはアガレスの前に現れた。泣くのを堪えるようにして、しかしどうしても抑えきれなかったとばかりにぽろりと涙を一筋零す。
顔だけは愛らしいので、そこだけを見ればとても。
とても、儚く見えた。
誰かに何か、酷い事をされたのだと言わんばかりだ。
それは昼休みもそろそろ終わろうかという時間であった。
普段から周囲の目を気にせずあちこちドタバタ走り回る珍獣――既にアガレスだけではなく周囲の令息や令嬢たちにとっても共通認識だった――が、今日は随分おとなしい。
そう思っていたのだが、しかしここにきてアリエラは行動に出た。
アガレスは普段、用事がなければ昼休みは大抵他のクラスの者たちとの交流などをするために、食堂にいる。
食事を済ませた後、移動するでもなくその場で食後の紅茶を嗜み、その場で普段中々顔を合わせる機会のない他クラスの生徒たちとの交流に時間を費やすのだ。
それは周知の事実であった。
だからこそ、この場にアリエラがアガレスに会うためにやって来る事はおかしなことではない。
「殿下ぁ……」
今にも泣きそうな声で、アリエラはアガレスの元へ縋りつこうとした。
直前で他の生徒に押しとどめられたが。何故って、制服が随分と埃まみれで薄汚れているのだ。
そんなばっちい姿で殿下にくっつこうだなんて、不敬極まりない。そう判断した令息たちが、それとなく行く手を阻んだのである。押さえつけたりはしていない。後になって淑女に酷い事をした、なんて噂でも流されたら面倒なので。
彼らは紳士的に、やんわりと、暴力とは言われないよう注意を払ってアリエラをその場に留めたのだ。
その中でも一際自然に無駄のない動きだった令息の事をアガレスは注目した。
あれは確か男爵家の……将来は騎士になると言っていた……成程中々に有能そうだ。
アリエラの動きをそれとなく止めた男爵令息は、しかしアガレスの脳内の有能な人材リストに載ったなどとは知る由もなく今も彼女が下手に暴れまわらないようにしている。王子に近づきたくて足元をバタバタさせているアリエラは、傍から見るとなんだかトイレに行くのを我慢しているようにも見えた。実際トイレは逆方向なので、彼女がトイレに行きたいのを邪魔しているというように男爵令息が見られる事もなかった。
「ふむ、普段は勝手に名前を呼んでいたがようやく理解できたのかな?
それにしても、食堂に足を運ぶには随分と遅いし、随分と……その、みすぼらしい姿になったものだね。何事かな?」
言葉を選ぼうにも選びきれなかった。率直に言えばそんな汚い格好で食べ物を扱う場所に来るんじゃない、という意味なのだがアリエラは果たして理解したかどうか……
ともあれ、アガレスがアリエラに話を促した事で、アリエラはパッと笑みを浮かべた。
だがその笑みは一瞬で引っ込んだ。そうしてすぐに悲しそうな表情に変わる。
「アタシ……さっきシルヴィア様に呼び出されてぇ……そしたら階段の上から突き落とされたんですぅ……怖かったぁ……!」
ざわり、と周囲が騒めいた。
確かに普段からアリエラはシルヴィアの近くに行っては勝手に転んだりすっ飛んだり噴水飛び込みを見せつけては彼女のせいにしようと躍起であったけれど。そもそもシルヴィアは普段から決して一人きりになったりはしていない。彼女のクラスメイトか、他のクラスの友人が大抵近くにいる。その中には友人という立場を装った護衛もいるのだが、アリエラはそんな事にはこれっぽっちも気付いていないのだろう。
「ふぅん? それはついさっきの事かな?」
「そうです! 酷いですよね!」
アガレスがアリエラの言葉を否定せずに確認するように言った事で、アリエラはまたもパッと表情を輝かせた。
「それで、どこの階段から?」
「鐘楼塔です! そこの一番上から」
その言葉に。
「流石にそれはないよ」
アガレスは笑いをこらえきれずにそう突っ込んでいた。
「えっ……」
自分の言葉を信じてくれたのだろうと思っていたのに、急に手の平を返されたかのような反応をされて、アリエラは思わず表情を強張らせた。
ちなみに鐘楼塔とは学園の鐘があるところだ。
本来の鐘楼とはやや形状が異なるが、学園の最も高い位置に存在している。離れた場所からでも、学園がある方向を見れば鐘楼塔の上部分が見えるだろう程度には高さがある。
鐘からは長いロープが吊られていて下の方からでも鐘を鳴らす事ができるようになっていて、わざわざ上に行く必要は普段はない。
上に行く事があるのは、鐘の状態を調べたりする職人くらいだ。生徒が立ち入る必要はどこにもない。
上に行くためには螺旋階段を上がっていくのだが、そこそこの高さがあるので面白半分で立ち入ろうとする者はほとんどいなかった。そもそも、行っても何もないのだ。
ただ長いロープがあるだけ。勿論、壁側に作られた小部屋にはメンテナンスのための道具などがしまい込まれたりはしているが、隠れて何かしようとする程の広さもないのだ。授業をサボってそこにいても、授業の始まりと終わりの鐘を鳴らすために当番の教師が来るのですぐに見つかってしまう。
正直まだトイレにこもりっぱなしの方が見つからないだろう。
「もう一度聞くけど、上ってどこら辺の上かな?」
「一番上です! 本当に、本当に怖かったんだから……!」
信じてもらおうと必死にアリエラは訴えるが、その言葉で完全に嘘であることが発覚してしまっている事にアリエラはこれっぽっちも気付いていないようだった。
頭の中身がどうなっているのか。やっぱり珍獣の事はよくわからないな。
アガレスはそう思いながらも、ちらりと視線を移動させた。
そこにはアリエラ曰く、階段から突き落とした張本人であるシルヴィアがいる。
彼女は友人たちと共に食事をして、そうしてこちらも食後のお茶と共に他のクラスの生徒たちと話に花を咲かせていた。
アリバイが、あるのだ。
シルヴィアたちが食堂にやって来た時点で、他の生徒たちだってなんだかんだ注目するし、シルヴィアが途中で席を外した様子もない。それどころか、午前の授業が終わった後、彼女はクラスメイト達と共に食堂にやって来たのだから、一人になって鐘楼塔にアリエラを呼び出した上でわざわざ犯行に及んで食堂へ……という展開はないのである。
アガレスの婚約者である以上、彼女の家柄は言うまでもない。
そんな相手に冤罪をこうも堂々と吹っ掛けるなんて、あいつ正気か? と周囲は本当に珍獣を見る目を向けている。命知らず選手権でも開催されてたっけ……? なんて思い返しても、そんな催しは開催されてなどいなかった。当然である。
「それ以前に、わたくしが貴方を呼び出す事なんて有り得ませんわ。
仮に呼び出すにしても、鐘楼塔の最上階になんて行くわけないじゃありませんの」
アリエラのやらかしは離れていたシルヴィアにも当然聞こえていたので、彼女は席を立つこともなくその場で反論する。
「大体、そんな疲れる真似したくありませんもの」
疲れなかったら突き飛ばしていたのか、と言われたら恐らくシルヴィアは否定しなかったかもしれない。
だがしかし、その言葉で周囲の者たちは皆納得してしまったのだ。
そもそもの話。
学園は広い。生徒の数も多い。
学園は全部で四階建てになっている。
だが、生徒が使用する教室があるのは二階までなのだ。
それは単純にあまり高層階にしても上に行くために階段を移動するのは誰か、という話になるからだ。
階段を上がり下りするにしても、大抵の貴族はそんなに高低差を移動しない。階段だけではなくスロープのように緩やかな坂道にしている屋敷もあるけれど、家の中ですら必要な場所しか移動しないのだ。
複数の人間や荷物を載せて上下に移動するエレベーターなる物は存在しているが、あれとて人力なのだ。いずれ、もっと技術力が進化すれば人力ではないエレベーターができるかもしれないが、現状ではまだ無理。
一度に運べる人数も限られているし、そのための人員を雇うにしても、身元のハッキリした者たちでなければ貴族の子女が通う学園である。誰彼構わず立ち入らせるわけにもいかない。
それに、万が一上に移動中何かの拍子でロープが切れたりするような事が起きれば。
数名の貴族が怪我をする事態に陥れば。
そうなった場合の事を考えるのであれば、最初から建物の階は低くしたうえで、横に広く建物を作った方がマシであった。
二階くらいまでであれば、普段あまり歩かない令嬢たちでも移動はできる。屋敷でも二階くらいまでならよく移動しているからだ。だがそれ以上の階層を上らされれば、流石に文句の一つも出よう。
そして鐘楼塔はそれ以上の高さなのだ。
令嬢がわざわざ最上階まで上ってみましょう、なんてやるわけがなかった。そうでなくとも、うっかり落ちたら大惨事である。
疲れるだけで、しかも落ちたら大怪我最悪死ぬ可能性のある高さまで行くメリットは令嬢にも令息にもどこにもないのだ。
「そんな……っ」
なんとしてでも周囲の同情を買おうとしているのかアリエラは悲壮感たっぷりに言ってみせたが、誰もアリエラを信じる者はいなかった。何も事情を知らなければ一瞬信じたかもしれない。
だが、食堂にいるほとんどの者は早い段階でシルヴィアが食事をしている姿を見ているので、まさかシルヴィア様が……!? なんて疑いを持つ事は、一秒ですらなかったのである。
「今なら嘘でしたって白状すればまだ許してさしあげましてよ?」
アリエラに視線を向ける事なく優雅にカップを手に取ってシルヴィアが言う。
「そんな事……っ!」
しかしアリエラは余計意地になったのか、素直に嘘だったと認めるつもりはないようだ。
……いや、濡れ衣を着せるつもりの相手に言われたから余計にそうなったのかもしれない。
「認めない、というのならそれはそれで構わないのですけれど。
でも、でしたら」
そこまで言ってシルヴィアはカップに残っていた中身を口に含み、そうして飲み込む。
ほんの数秒。静けさが食堂を支配した。
「殿下の傍に置けばよろしい」
「え……?」
何を言っているのだろう。
そんな疑問がアリエラの表情にはありありと浮かんでいた。
「あの鐘楼塔の最上階から転落してその程度で済む程の頑丈さなら、近々遠征する殿下の傍におけば、盾として使えますわ」
「は……っ?」
「そうだと思いませんこと?」
「確かに、あの鐘楼塔の最上階から転落して普通に歩けるどころか元気いっぱいならこの国一番の頑丈さを誇るかもしれないな」
アリエラの言葉が嘘だとわかっていながら、アガレスはシルヴィアの言葉に便乗するように頷いた。
鐘楼塔の最上部は、学園で一番の高さを誇る場所だ。
螺旋階段には一応転落防止の柵がついているものの、しかし強度はどうだろうか。普通に使う分には問題ないかもしれないが、誰かしら転がり落ちてぶつかれば、その勢いのまま外れ落ちた相手は真っ逆さまになっても何もおかしくはない。
途中何かに引っ掛かるとか、下にクッションになってくれそうな物は存在していないので勢いよく転落しようものなら大怪我は免れないし、むしろ死ぬ可能性の方が高い。
故に生徒はそもそも足を踏み入れないし、立ち入るのは鐘を鳴らす当番の教師かメンテナンスに入る職人くらいなのだ。
その最上階にそもそもシルヴィアが自分の足で移動するなどとはあり得ないし、そうでなくともそこから突き飛ばされて転落したとして。
だとしたら、まず柵にぶつかるかその柵を通り越して頭から真っ逆さま。
どう足掻いたって今のアリエラのようにピンピンしていられるはずがない。
更に、近々アガレスは騎士たちを伴っての演習訓練に参加する事になっている。
戦争にいくわけではないので危険性は低いが、しかし万が一の事がないとも言えない。
アガレス自身、武勇に優れているので余程の事が無い限りは自分の身を守る事はできるけれど、それでも彼の身を守るために騎士たちも咄嗟に動けるかどうかを見定める事にもなっている。
そこに、ちょっとやそっとじゃ傷つかないであろう頑丈さが取り柄の盾がいれば、万が一の事にでくわしてもどうにかなりそうではある。
大体、鐘楼塔の最上階から転落したなら、いくら鍛えた騎士であっても無事では済まないのだ。
「成程、では、ない、とは思いますがそれでも万が一の時、最低でも一度は確実に貴方が殿下の事を身を挺してお守りできるという事ですね。我らが必ずしも間に合うとは限りませんし」
更にそこに便乗したのは、その様子を眺めるだけだった騎士見習いの一人である。
伯爵家の令息である彼はとても生真面目な顔をして言ったために、すっかり静かになった食堂にその声は思っていた以上に通り、よく響いた。
「あ……」
そして今更のようにアリエラは自身に身の危険が迫っている事を悟ったのだ。
どうにかしてシルヴィアを引きずり落としてその立場に自分が収まろうと考えていた。
そうして悪評をバラまこうとせっせと努力を重ねていた。無論、第三者からすればしなくていい努力である。
火のないところに煙は立たない、というようにこれだけアリエラが虐げられている噂が出れば、どれか一つくらいは関与していると疑われてもよさそうなのに、しかしそうはならなかった。
それが当然であるという事にアリエラは愚かにも気付かなかった。自分の思い通りにいくと思い込んでいたのか、それとも上手くいきっこないという現実から目を逸らしていたのかはわからない。
だが、ここにきてようやく風向きが自身にとって不味い方向になっている、と気付いたのである。
嘘だと言えば身分の高い令嬢に冤罪をかけようとした不届き者。
このまま真実だと貫き通そうとすれば、彼女は王子の護衛として、生きた盾として利用される事になる。
学舎内の階段から突き落とされた、と言えばまだ軽傷で済んだと言えたかもしれないが、しかしアリエラはその時点でいかにシルヴィアが悪辣な女で王子様に相応しくない相手であるかを周囲に信じ込ませなければならなかった。それ故にいかに彼女が悪党であるか――そう印象付けるか、という部分に注目しすぎた結果盛りに盛ったのである。
そしてその結果、自らが窮地に立たされている。
「ぁえ、っと、その……もしかしたら、アタシの勘違いだったかも……?」
勘違いも何も、という話ではあるが、あまりにも居た堪れない空気にアリエラはぎこちなくそう言って、すぐさま踵を返して食堂から逃げ去った。
勘違いであろうとなかろうと、濡れ衣をかけようとしたシルヴィアに一言謝罪していれば周囲の心証も多少は違っただろうに、しかしそこまでアリエラの頭は回らなかったのである。
ド下手くそとしか言いようのない誤魔化しをしたところで、誰も誤魔化されてはくれなかった。
――とはいえ。
元々何一つとしてアリエラの目論見は達成できていないのである。
シルヴィアの評判が落ちる事はなかったし、普通にアリエラが何かをやればやるだけ珍獣という評価だけがしっかりと積みあがっていく。
それ以前に、珍獣扱いのままどんどんその認識が周囲で固まっていくばかりなのだ。
やらかした分だけ珍獣扱いエピソードが増えていくばかりなので、アリエラは最早人間扱いをされていなかった。早く人間におなり。そんな風に突っ込んでくれる者すらいないのである。
何故ならあまりの奇行にマトモな令嬢はドン引きだからだ。そして令息たちは珍獣に親切に教える事はせず、娯楽として眺めていた。
故に、アリエラは。
嘘を吐くなとは言わないけれど、あまりにもつまらない嘘を吐くのはどうかと思う。
そうアガレスに言われて。
仮にもし、アリエラの目論見が上手くいって、アガレスがアリエラを守ろうとして庇護下において、その後なんやかんやあって恋をして結ばれたとしよう。想像上ですらあり得なさ過ぎて難しいが。
だが、そうやって結ばれた後、アガレスと共に他国の人間と話す機会があったとして、今回のような稚拙というのも稚拙という言葉に申し訳ないレベルのしょうもない嘘を吐かれてみろ。国まるごと赤っ恥じである。
下手をすれば外交問題にまで発展し、国力の低下につながるだけで済めばいいが最悪滅亡への道ができあがってしまう。
王族だけではなく、身分の高い貴族家が幼い頃から教育に力を入れているのはつまりそういう事である。
下手な事をやらかして結果我が身の破滅どころか一族郎党、果ては国まるごと滅びを迎えるような事になる可能性を考えれば当然と言えた。
下位貴族に関してはそこまで重要な場面にいない事が多いのでそこまで教育に力をいれていない家もあるが、それでも一般常識くらいは流石に学ぶわけで。
だがしかし、アリエラのように一応教育は受けていても肝心の本人がその学びを無駄なものと勝手に切り捨てて自分の中の常識が正しいものと、自己が築き上げた世界の中で生きていくような者も存在しているのもまた事実であった。
これが高位身分の者であったなら学園に入れる以前に屋敷に閉じ込められていた可能性も高いが、学園に来る以前までアリエラはそこまで非常識な事をしていたわけでもなかったので、周囲もそこまで危険視する事もなかったのだろう。
実際アリエラの身内は可愛い娘と甘やかし、周囲もちやほやとしていたためにアリエラはそれに満足していたからこそ、常軌を逸脱した事をやらかす事がなかっただけで。
もし、領地で過ごしていた時にアリエラと近しい年齢の、同じように愛らしい娘がいて自分にだけ注目が集まらなかったのなら、きっとアリエラはシルヴィアにやったようなありもしない嘘でもって相手を陥れようとしたかもしれない。だがそうならなかったからこそ、領地での彼女はマトモに見られていた。
淡々とアガレス直々に説教という以前の常識を注意されては流石のアリエラも、王子様に今とても構われている、と浮かれる程馬鹿ではなかったらしい。まぁそうだろう。
親世代や兄や姉と呼べる年上の相手からの説教は適当に聞き流す事のある者だって、同年代からとても残念なものを見る目を向けられて悪意ゼロで純粋に頭の出来を疑われている状況で受け流せば、流石に先も後もないと薄々であっても理解はするのだろう。
理解できなければ本当の意味で終わりなのだから。
生きていく上で人間どうしたって嘘を吐く場面はある。
けれど、必要に応じて吐く嘘ですらなかったのだ。アリエラの嘘は。
結局最終的にアリエラは学園を退学し、領地へ戻る事になった。
早々にやらかした以上、このままいてもアリエラの学園での立場は人間どころか珍獣のまま。
それも、以前のように害はまだない、と思われていた珍獣ではなく人に危害を加えるかもしれない珍獣、という認識になってしまったのだ。
その状態で他の令息がいくらアリエラの見た目に惹かれても嫁にする事はない。何故って王家から睨まれる可能性があるからだ。アガレスがなんとも思っていなくとも、シルヴィアを冤罪ではめようとした事は知られてしまった。そんな相手を迎え入れて公爵家との関係が良くなるか。答えは否。
妻でなくとも愛人にしたところで、ここまで考えなしな事をしでかした相手だ。
本人基準「これくらいなら大丈夫」という自己判断で自分以外の男としれっと関係を持つ可能性だってあり得る。そうして自分の子ではないのにさも貴方との子よ、なんて言って金だけ毟り取る……なんていう事も、想像できてしまうのだ。そういう想像ができてしまう時点で、そんな相手となら最初から関係を持たない方が余程安全である。
故に、現状アリエラが他の誰かに見初められて……という事にならないのは確定してしまった。
令嬢たちとて、遠目で見てる分には面白い珍獣だけど、しかし直接関わろうなんて思いもしなかった。
人懐こい様子ですり寄ってきて、自分の婚約者を奪おうとされでもしたら笑って許せる気がしないからだ。
流石に騙されるとは思わないが、自分の婚約者がうっかりコロッと珍獣に惚れでもしたらその時自分がどういう報復を行うかわかったものではないからだ。
己の知らぬ嫌な一面を見るかもしれない可能性をあえて自分からやらかすなんて、令嬢たちだってしたくはない。
高位身分の家柄の貴族たちは元より、アリエラと同じ程度の家格の家の令嬢や令息たちもアリエラと直接関わろうとは思わないのだ。離れて見ている分には見世物として愉快だけど。
素敵な誰かと恋に落ちて結婚できたらなぁ、とアリエラが望んだところで、学園でその相手は絶望的。
であれば。
領地という限られた場所で、ちっぽけな世界で自分を甘やかしてくれる相手との生活で満足するしかない。
やらかした事は確かだが、学園内の問題として今なら内々で片付けられる。下手に学園外の者――生徒の親や他国からの貴賓が来るような場面でなかった事だけはアリエラにとっても救いだっただろう。
もしそういった外部の者がいる場でやらかしていたら、今なら領地に帰って大人しくしてるだけで許してあげるよ? とはならなかったのだから。
とはいえ、アリエラの両親には一連の出来事を伝える必要があるので、仮に彼女が領地に戻ったとして、以前のようにちやほやされるかはわからないが。
だが不敬としてアリエラ本人が処分されるのみならず、その身内まで連座で処分、とならないのだからアリエラの家とて文句を言えるはずもない。最初から最後までやらかしたのはアリエラなのだから。
「――そういえば、以前いた珍獣なんだけど」
「まぁ懐かしい」
婚約者同士での交流の日。
アガレスはふと思い出したようにその言葉を口に出した。
学園を卒業する日が近づいた、ある日の事だった。
「部下がそこの領地方面に用があったっていうから、ついでにちょっと様子を見てきてもらったんだ」
「思い返せば一年もいませんでしたものね、あの子」
「うん、学園でのやらかしは男爵家に王家から通達されてたのもあって、以前ほど甘やかされたりはしていないようだったかな」
「でしょうね。これ以上増長させれば次に何かやらかせば家ごと纏めて……って想像できますもの」
「そう。領地の近くの貴族でもアリエラと結婚しようっていう家はないみたいで、結婚できそうな相手は平民ならかろうじて……って感じかな」
「では、裕福な商人の家とか、愛人や後妻として……?
あ、でも難しいですわね。商人なら貴族と縁を結んでそこを足掛かりに更なる人脈を……と考えるでしょうけれど、彼女、大抵の家から珍獣扱いされてますもの。その彼女を接点に懇意になろうという家はないでしょうし、であれば商人が彼女を迎えるとなると、そういう目的ではなく愛玩用……?」
「あぁ、それと同じように他の貴族の家の愛人や後妻もね。見た目がいくら良くたって、王家やそれに近しい高位身分の家からは関わりたくないと思われている。
悪い噂が流れているような家だって、更に面倒な事を抱え込みにはいかないさ。今は上手く尻尾を出していない家だってうっかりでやらかす珍獣のせいで、ってなったら……ね?」
「まぁ、そうですわね。上手く巧妙にやり過ごしていたのに、それが珍獣のせいで尻尾を掴まれでもしたら……彼女を恨もうにもその彼女を迎え入れたのは誰? ってなったら……結論自滅ですものね」
「そういう事。地元では姫様が帰ってきた、って領民たちは喜んでたみたいだけど、ほんの少しの学園生活とはいえ、ほら」
「……なんですの?」
「領地を離れて学生寮で生活していた彼女の周囲は同じ貴族ばかりだっただろう?
平民と比べて洗練されて見目の良い者が多かったわけで」
「あぁ……つまり、戻って以前のようにちやほやされても」
「そう、どうにも満足できなかったみたいだよ。様子を見にいった部下に声をかけて、嫁になって連れ出してもらおうとしたみたい」
「……えぇと、殿下の部下、と知って……?」
「いいや。だからだと思う。知ってたら流石に近づかないんじゃないかな。次はないよって釘を刺したわけだし」
「事情を知っている一定の身分を持った相手が彼女の誘いに乗る事はないでしょうし……そうなると後は、彼女の醜聞を知らない遠い国に嫁ぐ……にしても縁がないですわね」
「そうだね。仮に伝手ができたところで、彼女、他国の言語話せないんじゃないかな」
「……成績、悪かったですものね」
学園に入ってアガレスに絡みに行く前であれば、アリエラが望むような彼女を愛してくれる美男との結婚も、そこそこ贅沢な暮らしも可能であっただろう。
平民の中でも比較的裕福な――商人以外の――家に嫁いだのであれば、彼女が思っていたよりは裕福ではなくとも衣食住に困らない生活を送る事はできると思う。
……彼女がその生活に満足できるかは知らないが。
「殿下へのアプローチも、わたくしへの冤罪も、周囲への立ち回りも。
結局全部が全部雑すぎて、あの方が学園に来た意味、もしかしなくてもなかったのではないかしら?」
そんな、婚約者の言葉に。
アガレスは否定も肯定もしなかった。
何故って言わなくてもわかり切っている事なので。
次回短編予告
資金援助をするから結婚しろ、と言われ嫁いだ先で。
君を愛する事はない――そう、初夜の日に言われました。
次回 白い結婚は終活の手伝いでした
政略結婚 初夜の日の君を愛する事はない宣言 白い結婚
これだけ揃っててもジャンルは異世界恋愛にならない話です。
 




