第9節 辞めたくても辞められない理由
「なあ、お前……いつから“正規兵”になったんだ?」
その問いに、若いオーク兵士はぽかんとした顔をした。
「え、えっと……たぶん、半年くらい前です。戦果出したんで昇格したって言われて――」
「俺は三年だ。で、戦果は三度。にもかかわらず、肩章は変わらん。なぜだと思う?」
「……さあ……?」
「人事記録が、行方不明なんだとよ。書いた奴が、戦死してな」
その一言に、場の空気が重くなった。
ここは魔王軍・第六方面軍。
西方戦線、地上駐屯部隊。
“魔界と人間界の狭間”と呼ばれる、もっとも不安定で、もっとも人が壊れやすい前線のひとつ。
兵舎の片隅、薄暗い食堂。
数人の兵士が、冷めた汁物を啜りながら、誰も笑わない冗談を交わすのが“日常”だった。
「俺、実家に手紙出してない」
ぽつりと、獣人系の女兵士が言った。
「出したら、たぶん戻れない気がして。……向こうの記憶が、あっという間に薄れていくんだよね」
「それは、お前がここに“適応した”証拠さ。誇れよ。――“軍用犬”としてのな」
言い放ったのは、爬虫族の上等兵。
淡々としているが、目の奥には“焦げた灰の色”があった。
彼は、二年前に一度“脱走”を図った。
だが見つかり、“再教育”を受けて戻ってきた。
以来、彼は“あまり喋らない人”になった。
「なあ、ほんとに疑問なんだが……なんで俺たち、ここまでして戦ってんだ?」
それは、誰もが心の奥底で思っていたことだった。
――守るものがあるのか?
――報酬が充分なのか?
――名誉が、意味を持つのか?
どれも、曖昧。
むしろ、“辞めたい”という願いだけが明確だった。
だが。
「辞めたら、“裏切り者”だろ?」
「そう。魔王軍からの離脱は、戦死と同義。“裏切り”というラベルが、家族ごと潰す」
「……で、どうする?」
「死ぬしかないだろ。“自己都合退職”なんて、存在しないんだから」
そう、ここでは“辞める”という選択肢がない。
正式な離脱ルートは、書類上存在していても、実行された前例が皆無。
そのすべてが、“行方不明”か“戦死”に分類されている。
それを知ってなお、口にする者がいた。
「俺、辞めるよ。マジで、今日限り」
そう言ったのは、珍しく元気なトロール兵だった。
「死にたくねえもん。命令が変だって気づいた時点で、こっちも変わるべきだろ?」
誰も反論しなかった。
ただ、その“辞める”という言葉の重さに、沈黙が落ちた。
彼は翌日から、姿を見せなかった。
代わりに回ってきたのは、一通の報告書。
《○○兵(トロール族):敵地偵察任務中に消息不明。戦死扱いにより処理完了》
誰も何も言わなかった。
その日から、“辞める”という言葉を口にした者はいない。
そして、カナス・アスカルトは、その報告書に目を通していた。
静かに、赤線を引く。
そして、メモ欄に書き込む。
【発言直後の消失/辞職希望表明と対応事例の検出/記録の不自然な“早さ”】
何かが、起きている。
“辞めたい”と言った者の末路が、誰かによって操作されている。
辞めさせないために。
辞めたという記録を残させないために。
では、“誰が”?
「……組織が、意思を持って動くとすれば、その意思を代行している“誰か”がいる」
彼女は呟く。
もはや、これは“人材流出”ではない。
むしろ、**“人材の封じ込め”であり、“思想拘束”**だった。
それは、企業で言えばブラックの極致。
戦場で言えば、**“自死の軍”**だ。
「そんなものを、“軍”とは呼ばない。呼ばせない」
カナスは立ち上がる。
そして、ひとつの帳票を魔王軍本部・人事部の“改変案件フォルダ”に投函した。
【提案:自発的離脱制度の創設について】
【付随提案:帰還支援・再教育無し・記録開示の義務付け】
内容は、軍の常識から見れば“異常”。
だが、これを通さなければ“正常な離職”という概念が永遠に存在しない。
だからこそ、提案する。
それが潰される前提であろうとも。
“異端”と呼ばれようとも。
「人が辞められない組織は、崩壊するだけです」
彼女の言葉は、誰にも届かないかもしれない。
だが、確実に“火種”を投じたのだった。