第5節 名前のない責任と、第一歩の停滞
「確か、“第四軍魔導参謀補佐長”が、一応……」
誰ともなく呟かれたその肩書に、カナスは眉をぴくりとも動かさず、無言で頷いた。
“確か”であり、“一応”――この言葉こそが、魔王軍組織の現状を最も象徴している。
人事上の責任者が「曖昧」なのだ。それはつまり、誰も責任を取らず、誰も責任を割り振らないまま、時だけが進んでいるということに他ならない。
「……その補佐長は、今どこに?」
「あー……たぶん、前線です。三日前に“出張”って言って、馬車で出てったきり戻ってなくて……」
“馬車”。
カナスはその単語を聞いた瞬間、わずかに目を細めた。
――移動速度が遅すぎる。
この世界には魔導通信や転移術など、いくつかの“利便性の象徴”も存在するが、それを用いず馬車で移動するあたり、責任回避か、現場放棄の可能性が極めて高い。
あるいは、ただの“逃走”。
「じゃあ、補佐長の代理は?」
「……さあ?」
その返答には、“当然知らないでしょ”というニュアンスが色濃く滲んでいた。
組織図が機能していない。
権限者が不在。代理者もいない。
この状態は、“上意下達”が成立しないということだ。
「……了解しました」
カナスは短くそう言って、椅子に腰を下ろした。
部屋の空気が少し揺れる。
誰も何も言わない。だが、**“何かが始まった”**という無言の感触が、空間に染み込んでいた。
そして、静かに一枚の紙を机上に置く。
「人事配置図、です。仮のものですが」
魔族たちの目が、紙の上に吸い寄せられる。
――配置図。
それは本来、指揮系統を明示するための図面であり、組織が“どう動くか”を左右する根幹の一部だ。
だがその紙には、何も書かれていなかった。
空白。真っ白な用紙。中央に日付と、“業務開始時刻”だけが記されていた。
「……書いてない、じゃないか」
一人が口にした。
「はい。“書けなかった”のです。今の時点では、誰が誰を指揮しているのか、明確な証拠が存在しない。報告書も記録も、すべてが断片的で不完全でした」
カナスの声には、一切の感情が含まれていなかった。
「この紙は“証明”です。現状、魔王軍第四軍作戦参謀部においては、業務再配置が必要な状態である――と」
静まり返る室内。
誰も反論できない。なぜなら、それは“事実”でしかなかったからだ。
カナスはさらに続ける。
「そこで、提案があります。――全業務、48時間停止しましょう」
この一言に、さすがに魔族たちがざわついた。
「業務停止?」「バカか、そんなことしてどうすんだ」「戦況に影響が……」
だが、カナスは構わず言い切った。
「いいえ、むしろ“これ以上進ませないため”に止めるのです。
現状のまま業務を続ければ、“壊れているのに気付かないまま”処理が進みます。修正が困難になります。
つまり、“記録”も“責任”も不在のまま、未来が汚染されていく」
その言葉に、ざわつきが止まる。
“記録”と“責任”という単語が、この場において異質すぎたのだ。
「……本当に、ただの人間かよ」
誰かがぽつりと漏らす。
確かに、ただの人間にしては冷静すぎる。
感情を抑え込み、論理で戦場を静かに支配しようとするその姿勢は、むしろ“組織に喰われた者”の典型に見えた。
だが、それが理解できる者ほど――その言葉の意味がわかる。
「情報と責任が整理されていないまま動く組織は、“崩壊予備軍”です。
いずれ、何かの“事件”を引き金に、全てが一気に崩れます。……それを“未然に止める”のが、私のスキル《平時調整》です」
その言葉に、誰も笑わなかった。
かつては“ハズレスキル”とされたその名が、今――“機能”しているように聞こえた。
カナスは立ち上がった。
「……では、始めましょう。“本当の初動”を」
椅子の背に手を添えて、静かに一礼する。
その姿は、まるで――“職場改善コンサルタント”だった。