第4節 静けさという名の初動
翌朝。――といっても、この世界に“太陽”があるのかは未確認だった。
カナスは、ある部屋の中央に立っていた。
そこは魔王城の一角、いわゆる“作戦参謀室”と呼ばれる部署の中枢だという。
……と、説明されたが、彼女の目に映ったのは、“戦略を立てる場所”ではなかった。
紙の山。棚の隙間。割れたインク壺。
“誰かが何かを探した後、探しきれずに去っていった”痕跡が、そのまま化石のように積み重なっている。
部屋の四隅には、それぞれデスクらしきものがあるが、全て私物で埋まっていた。
武器の手入れをしている魔族、居眠りしている獣人、書類を破って玉にしている亜人、そして――誰もいない椅子。
ここが、魔王軍の中枢作戦室。
思わず、カナスは目を閉じた。
――言葉を発すれば、“怒り”になる。
“何してんの?”とか、“頭使ってる?”とか、そういった全てが出そうになる。
しかし、それを抑え込む。
口を開けば、全てを壊す。そう判断した。
だから、まずは――黙る。
それは逃げではなかった。沈黙による「停止命令」だった。
職場が崩壊寸前の時、何より必要なのは“整理”だ。そして“整理”には、まず情報の流入を止める必要がある。
「……」
立ったまま、一周見渡す。誰とも目を合わせず、しかし全員の顔を把握する。
床の傾き、紙の配置、棚の順序、筆記具の種類――全てが、何かの“痕跡”だ。
この部屋には、誰も“責任を取ってこなかった”。
つまり、“整理された記録”が一切ない。
「失礼。いまから30分、全員その場を動かないでください」
初めて発せられたカナスの声は、柔らかさの欠片もない“業務命令”だった。
だが、誰一人反論しなかった。
声の強さではない。**“理解されずとも従うべき声”**というのは、存在する。
彼女が纏っているのは、まさにそれだった。
ただの人間、ただの女、ただの“ハズレ”。
そのはずなのに、“空気の密度”が変わる。
カナスは黙々と、床に散らばる資料を拾い始めた。
破かれた紙、折れた羽根ペン、半分だけ書かれた報告書。
一つ一つを無言で拾い、机の上に項目ごとに並べていく。
“誰かがやるだろう”と捨てられた情報。
“もうどうでもいい”と見なされた書類。
そういった“捨てられた証拠”だけが、この職場における唯一の記録だった。
「ふむ……」
無意識に、声が漏れる。
全てを拾い上げて10分。構造が見えてきた。
部署が**“縦に割れて”いる**。
直属の上司が不在。担当範囲が未定義。書類に“誰が何をやったか”の記録がない。
それぞれが“勝手に動いて、勝手に終わらせて、勝手に諦める”ことで、形だけ機能しているように見えていた。
魔王軍の中枢――その実態は、部下不在の肩書と、定義不明の命令系統による“張りぼて”だった。
そして、もう一つ。
“この状況でも軍が瓦解していない”理由も見えてきた。
――末端が有能なのだ。
実際に命令を受け、実行に移す現場の兵士たち。
個別の隊長、現場の副官。彼らの“現場裁量”で全てが繋がっている。
つまり魔王軍は、“現場に丸投げして成り立っている”組織だった。
……何て、馴染みのある構造。
かつての職場と何も変わらない。
人材が流出する理由が、ここにもある。
有能な現場ほど、燃え尽き、辞めていく。
そして、責任者は誰も見ていない。
「……なるほど、これはもう」
カナスは一枚の紙を手に取った。
内容は“報告未完了の懲罰対象一覧”。
その大半に“対象者失踪”という文字が躍っていた。
――それでも回っている。だから“放置”されている。
魔王軍という組織は、言ってみれば、**“自然回復するブラック職場”**だった。
誰かが倒れれば、誰かが無言で穴を埋める。
誰も評価しないが、それでも回る。
それを“奇跡”と呼んで放置した結果が、これだ。
「改善は、可能。だが、まず必要なのは“停止”」
言葉を呟く。
この空間は、“少しずつ崩れている船”に似ていた。
今はまだ浮かんでいるが、誰も航路を知らない。
舵がない。操舵手がいない。地図もない。
そのくせ、今日も進み続けている。
カナスは、ゆっくりと深呼吸をした。
「まずは、一つだけ質問します」
顔を上げた。
部屋の魔族たちに向け、はっきりとした声で問いを投げた。
「この部署の“上司”は、誰ですか?」
沈黙。視線の交錯。口ごもる気配。
ようやく、一人が名を挙げた。
「……確か、“第四軍魔導参謀補佐長”が、一応……」
“確か”であり、“一応”だった。
――これが、“動かない”ということだ。
組織とは、“名前のある責任”がなければ、動けない。