第1節 終電帰りとブラックオフィスの最果てで
終電は、とうに出ていた。
時計の針は午前二時を回っている。深夜の都心、無人の高層ビル群の中で、フロアの片隅だけが不自然に灯っていた。オフィスの蛍光灯が一列だけ点きっぱなしになっているのは、ビル管理のミスではない。そこに“まだ誰かが働いている”という事実が、異常なまでの静寂の中で逆に際立っていた。
壁際の非常灯が、まるで見張りのように青白い光を放っている。規則通りに照らされるそれは、むしろ監視灯のようだった。
その下、黒髪の女が一人、プリンターの排紙トレイから熱を持った紙を拾い上げていた。
彼女の名は、加納司――読みは“かのう つかさ”。大手人材系企業の人事部に所属し、役職は部長代理。とはいえ、実際の業務は主任も同然で、現場対応・部内調整・役員報告と、三役を一人でこなしているような存在だった。
部下は三人。だが一人は育休、もう一人は今月二度目のメンタル休職。残る一人は、来週辞める予定である。
そして加納自身は、いま上司の名を騙って文書の修正指示を出しながら、**“来月の人事異動をどう虚偽記載せずにすり抜けるか”**を考えていた。
彼女は、ただ“それが仕事だから”という理由で、まだ帰っていなかった。
熱を帯びた紙。よく見ると、上部のロゴが少し滲んでいる。プリンターも限界なのだ。人間と同じで、休ませずに使い続ければ、性能は落ちる。
“自分もそうだ”と、彼女は思った。
だが思っただけで、彼女は席に戻る。腰を下ろし、ブラウザを開き、承認フローの確認作業に入った。
赤いマーカーがついた箇所にカーソルを合わせ、クリック、チェック、スクロール、戻る。
光の点滅とキーボードの音。唯一の生活音。背後の夜は、都市の底で息をひそめていた。
「ここ……“差し戻し”ってついてるけど、フラグは“完了済”。つまり、見なかったことにされてるな」
彼女は誰にも聞かれない独り言をつぶやく。
声は低く、落ち着いていて、感情はこもっていない。
だが画面の先にいる“何か”に対して、粛々と裁きを下す者の口調だった。
無感情に見えるが、それは“疲れ果てた精度の高さ”だ。
彼女はずっと正確だった。常に冷静に、数値と人間と空気の間で、限界すれすれの選択を続けてきた。
だからこそ、彼女の身体がその正確性を維持できなくなったことに――本人だけが気づけなかった。
立ち上がった瞬間、床が揺れた。いや、揺れたのは頭か。耳鳴りのようなノイズ。視界の端が暗くなる。何かが倒れた音がした。だが音の方向が、現実と一致していない。
――やばい。これは、ほんとうに。
脳が警告を発したが、口には出さない。
次の瞬間、蛍光灯の光が歪み、赤いフィルターが視界に差し込んだ。
目を閉じた。いや、閉じさせられた。
息が抜け、肩の力が抜ける。椅子の背もたれが異様に遠く感じられた。
意識が――
落ちた。
*
目を開けたとき、最初に思ったのは「蛍光灯の色が変わった?」という職業病的な疑問だった。
だがそれはすぐ否定される。
まず視界に入ったのは、黒曜石のように黒く光る天井。微細な魔方文字のような文様が、光と呼吸のように脈動している。
空気が重い。皮膚ではなく、肺の中に“魔力”のようなものが直接入り込む感覚があった。
そして何より――足元に“書類”がある。
契約書。巻物型。蝋印付き。円状に山積みになっている。
上司からの業務引継ぎかと思ったが、明らかに“紙の気配”が違う。
感覚が嘘をついていないなら、ここは“会社”ではない。
だが、そうであっても――自分は、また**“人事部屋”にいる**気がしてならなかった。
そのとき、前方から足音。
高く、大きく、空間に響く。
顔を上げた。
巨大な影がいた。仮面のような顔。角の生えた頭部。黒いローブ。全身から“気圧”が漏れていた。
無言のまま、こちらを見下ろしている。
加納司――いまやカナスとなる彼女は、静かに理解した。
これは“面談”ではない。
これは――召喚だ。
冷静な判断が、感情よりも先に彼女を支配した。