なんで俺はゴキブリじゃないんだよ!
ゴキブリって案外かわいいかも?
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夜はもう遅い。
浴室は静まり返っていて、聞こえるのは水の音と自分の呼吸だけ。
「君は誰?」
誰もが一度は自分に問いかけたことがあるような言葉。
でも、俺はちゃんと考えたことがなかった。
いつからだろう。
ある夜、一人で湯船に浸かりながら、ふと空気に向かってそう呟いていた。
湯が肩まである。背中は冷たいタイルに触れていて、世界に静かに押し潰されてるような気分だった。
「お前、誰なんだよ?」
目の前の空気をじっと見つめながら呟く。
もちろん、答えなんて返ってこない。
ただ、壁と湿気と蒸気がそこにあるだけ。
「知ってるくせに。俺の中にいるくせに。ずっと見てきたくせに。」
……沈黙。
でも空気は動かない。
「じゃあ言うよ。」
俺は吐き捨てるように言葉を重ねた。
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「俺って誰だよ……XXXXだろ?学生で、親の子供で、みんなからは“あの子”って呼ばれて……」
「宿題写させてくれる“いい人”。先生から“もっと頑張れそう”って言われるタイプ。」
「女の子から“いい人だけど今は恋愛とか…”って言われる役。グループでは静かで目立たない人。」
「たまに冗談を言っても、誰が言ったかは覚えてもらえない人。体育祭では選ばれず、でも嫌われもしない存在。」
「メッセージはいつも最後に返す。誰かに返すかどうかで悩んで、それでもスルーされる。」
「テストが大失敗した時、“君って勉強得意じゃなかった?”って言われる人。本当は疲れてるのに平気なふりをする人。」
「親から“もっと現実を見なさい”って言われる子供。親戚の集まりで話題にされない若者。」
「部活では名前は知られてるけど、何してたかは覚えられてない人。“行きたい”って言っても、誘われることのない人。」
「“手伝って”って言われて物を運んでも感謝されない人。人混みにいても存在感がない人。」
……
そこまで言って、俺は口をつぐんだ。
何も起きない。
ただ、自分の声だけが残って、湯の中に漂っていた。
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「……肩書きは、たくさんあるよね。」
思わず笑った。
けど、なんか笑えてなかった。
「でも、それで本当に“俺”って言えるのかな。」
湯のふちに頭を預ける。目を閉じる。
身体がどんどん沈んでいく気がした。
胸のあたりに、見えない石がいくつも積まれていく。
「記憶もあるし、名前もある。好きなアニメもあるし、成績も、レシートも、歯ブラシだってある。」
「それって、“人間”でしょ? “俺”でしょ?」
「……でも、わかんないんだよな。」
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「はぁ……」
ため息が、湯気と一緒に浮かんでいく。
「昔の自分、ちょっと恋しいな。」
「バカみたいに何も考えずに笑ってた頃。寝て、遊んで、食べて、ただそれだけで生きてた。」
「“自分とは何か”なんて考えもしなかった。ただ楽しくて、それで十分だった。」
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「……動物だったら、もっと楽だったのかな。」
天井を見ながら、ぽつりと呟く。
「犬とか、猫とか、鳥とか。誰かに連絡するべきかどうかで悩んだりしないし、未来のことを不安に思ったりもしない。」
「“ちゃんと生きてるか”なんて誰にも問われない。ただ、ご飯を食べて寝てるだけで、それでいい。」
「ゴキブリでもいいよ。」
「暗いところで這って、隙間に潜んで、生きてるだけで勝ち組。
勉強も、成果も、誰かに説明する必要もない。無理に笑う必要もない。」
「“俺っていいゴキブリかな”なんて思うゴキブリはいないし、
“俺の存在って意味ある?”なんて悩んでる昆虫もいない。」
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水面に映る自分の顔は、ゆらゆら揺れていて、もうどこまでが俺かわからない。
「……なんで俺は、そっちじゃなかったんだろう。」
「なんで“人間”なんだよ。」
「なんで、思考する存在なんだよ。」
「なんで、“生きる”だけじゃダメなんだよ。」
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湯が冷たくなってきた。
でも、もう上がりたくなかった。
目を閉じる。
そして、最後に一度だけ問う。
「人間って……結局、何なんだろう。」
……
水の音はまだしている。
でも、その音さえも、自分に届いてるのかよくわからなかった
「お前は誰?」と訊かれても、俺はうまく答えられない。
名前も、家族も、役割もあるのに、なぜかどこか、空っぽだ。
ひとり浴槽に沈みながら、俺は自分に問いかけ続ける。