了 官渡
公孫瓚、劉備、臧洪。
様々な経験を経て着実に成長を遂げた顔良は、袁紹幕下における立ち位置を確固たるものとし始めていた。
ときに戦いの中の変化に翻弄されながら、ときに人の内にある義とは何かを問いながら。
袁術との戦いも終わり、曹操との決戦に楫をとり始めた袁紹の動きを見た顔良は、ついに水際へと辿り着く。
斜陽に至る最終話。
顔良は徐州の小沛に留まっている劉備の元へと馳せた。
徐州は先般の虐殺による影響で曹操に反する気風が強い土地であり、なおかつ劉備が過去に陶謙から牧の位を譲られた土地でもある。
そこに目を付けた劉備は下邳に関羽を置いたのち、周囲の郡県を味方にした上で曹操に反抗した。
「漢室を蔑ろにする曹操を討て」
と号令を発し、劉岱と王忠という将軍を破ったが、曹操が徐州に攻めあがってくると
──こりゃ敵わん
とばかりに小沛へと籠ったのである。
劉備からしてみると
──この機に曹操を攻めぬほどの馬鹿ではあるまい
という風に袁紹を見ていたが、果たして袁紹は子の病を理由として曹操を攻めることはなかった。
したがって劉備は逃げるほかなく、過去に袁譚を孝廉に推挙していた縁故を頼りに、袁紹領へと遁走の旅を始めたのである。
その道中に迎えの者として駆けてきたのが顔良であった。
劉備は顔良がわざわざ来たことによって、袁紹側の人間が自身を歓迎するであろうことを予感して、大きく手を振って歓んだ。
「あなたは劉玄徳様では御座りませぬか」
顔良は今まで乗ってきた馬から降りて拱手し、劉備に礼を示した。
「おやめくだされ、私は曹操を恐れて逃げ隠れする身なのですぞ。礼を示される格はありませぬ」
劉備は大げさな謙辞を述べると、顔良に近寄ってその手を取った。
「玄徳殿。殿がお迎えしたいと申しております。鄴の地までお越しくださりませぬか」
「おうおう、当然です。さ、善は急げ。早速参りましょう」
劉備は敗戦の直後だというのに、疲れた様子を見せなかった。むしろ精気が漲っている顔をしている。
──そもそも、この人は人としての強さが違うのだろうな
顔良は劉備の顔を初めて真正面から見たが、そのような感想がまず初めに浮かび上がった。
劉備の後ろにいる兵卒たちも、負けたという悲惨さはない。この人に附いていれば、何時かは勝てると思いながら随っているのだろう。
「おい、兄貴」
後ろから勁い目をした武者形の男が、馬に乗ったまま近寄ってきた。
「袁冀州は俺たちが戦っているとき、援兵を出さなかったじゃないか。それが今更、使者を送ってきたところで信用できるのか」
──いま、ここに殿がいなくてよかった
顔良は、正直にものをいうこの武者の言葉に冷や汗をかいた。
むろん、この男の言う言葉は正論である。だが、正論が正しいということもない。場所によっては首が飛んでいただろう。
「益徳よ。われは過去にご子息の顕思殿を推したこともある。さきに兵を出さなかったのは時機が合わなかっただけにすぎぬ。これ以上悪く言えば、そなたは立場をなくすぞ」
劉備はさきほどの気の良さそうな態度から一変して、厳格な雰囲気を漂わせ始めた。しかし、顔良のほうに向くと、再びがらりと雰囲気を変えて
「誠に失礼いたしました。わが部下が失言を」
と鄭重に謝罪の言葉を述べてきたのである。顔良は、この身の翻りように胆が冷えるような感覚がしたが、同時に
──名は体を表すとはこのことだな
劉備の字である
「玄徳」
という二文字を頭の中に書き記した。
顔良と劉備は鄴に向かう道中、馬の背に跨りながら、互いに言葉を交わしていた。
「叔善殿は堂陽の生まれでしたか。それが今は袁冀州に仕えて鄴にいると」
「はい。そうです」
「良いですな。故郷と近くて」
「親に何かあれば、すぐに帰れるのは嬉しいことです。玄徳殿の生まれは」
「私は涿県の楼桑村です」
「涿県。幽州でしたか。遠いですね」
「まあ、荊州や揚州に行くよりは近いですがね」
劉備は哄笑した。人と接するうちに言葉遣いを覚えたような人で、もともとは義侠心の強い豪快な人物なのかもしれない。
「しかし、玄徳殿の兵は精悍ですな。規律が整って、それでいて堅くない」
「ま、われらは正規の官軍ではなく、部曲のような存在ですから」
「それでいて、あの強さですか。驚きました」
「ほう、叔善殿はわれらの働きを見たことが有るのですかな」
「ええ。それも、敵として」
「敵として、ですか。袁冀州と矛を交えた時期といえば、もしや高唐ですかな」
「そのとおりです。私はあのとき、淳于将軍の下で矛を振っておりました」
劉備は再び呵々と笑った。後ろにいた張益徳、すなわち張飛も笑っている。
「いやはや、あの時は焦りました。わたしが川を背にさせようとしたら、見事に逆手を突かれてしまいましたのでな。そのあとはご存じの通り、将軍のほうへ突っ込むしかなかった」
「私も胆を潰しました。まさか逃げるために突撃するなどとは」
「ほう、それも分かっていましたか。それとも、その淳于将軍が仰せられていたのですかな」
「淳于将軍が、玄徳殿は戦巧者だと仰っていました」
「はは、そんな訳がありますまい。戦に敗ければ即ち死。私は敗けながらにして生き永らえたに過ぎません。淳于将軍こそ巧者だというのに、謙遜が過ぎますな」
顔良は言葉を交わすうちに、劉備という人が恐ろしくなっていた。自らが命を落としていたかもしれない場面を、こうやって洗い浚い人に話すだろうか。しかも、ここまで明るい口調で。
自らの戦略すらも明け透けに話したうえで、相手を讃えるということは、それは次があれば負けることはないという自信があることの裏返し、と言うこともできる。
劉備という人間は、ただ実直で誠実であるから、こういう言を弄しているのではない。その心は、まさしく玄い水を湛えている。
「しかし、叔善殿は正直ですな」
「は」
「いやいや、こちらが言ったことに全くの偽りなく答えられる。こういった人間は存外少ないものです」
「そんなことはありません。私には、皆が正直に見えます」
「それは、あなたが嘘を吐くことを知らないからだ。この世は偽りに溢れています。此度の曹操も然りでしょう」
「曹操も、嘘を吐いているのですか」
「もちろん」
「どんな嘘ですか」
「知らぬことは素直に聞く。孔子の道ですな」
「勿体ぶらず、教えてください」
「曹操は天子様を実質的に廃されようとしています」
「それでは、董卓と一緒ではありませんか。事を起こせば、すぐに周辺の諸侯が押しかけますぞ」
「しかし、董卓とは違うことがある。それは世に合った政を布いていることです」
「董卓が行ったような暴政をしていないのですか」
「ええ。このままでは、世の人々は漢室よりも曹操を祀り上げるようになるでしょう。そうなれば、もはや漢は力で屈服させるよりも容易く畢わります」
「そうですか、漢はもうそこまで──」
「ですが、曹操の統治に納得していない人々は多い。特に徐州や、そこから逃げた人々は、あの道を外した行いを忘れてはいません。その人々の支えになるのは、やはり漢がまだ終わっていない、という事実でしょう」
劉備には間違いなく野心がある。だがそれは、自らの栄達のために、というよりも、自らを求める人のためにしていることのように思えた。
かつてあの老兵は
「野心があるものがいる限り、中華は弊れぬ」
といっていた。
曹操が権力を増して世に合った政を敷衍しようとするように、そして劉備が曹操に従えぬ人々を導いて漢を蘇らせようとするように。
野心を持った者がいる限り、中華は弊れない。
顔良は僅かながらに希望を見出した気がした。
「ところで叔善殿。さきの高唐の戦で、髯の立派な壮士に見覚えはありませんかな」
「髯の長い──」
確かに、見た覚えがある。
「刃の大きな戟を持って、頭に蒼色の頭巾を被っていませんでしたか」
「おお、まさしく。名を関雲長と云いましてな。この益徳と共に、兄弟の如く過ごしていたのですが、曹操に敗戦した折、はぐれたのです」
劉備は大きく嘆息した。恐らく、関羽とはぐれたのは自分の責だと思っているのだろう。
「われらが曹操の下に居たころ、曹操は雲長のことを甚く気に入っていた。おそらく下邳に圍まれたのち、捕らえられているでしょう。もしかしたら、曹操の軍幕に加わっているかもしれません。叔善殿。もし曹操と矛を交えることになり、軍中に髯の立派な壮士を見かけましたら、劉玄徳は袁冀州の下にいると伝えてはくれませぬか」
劉備は顔良の目を見て、歎願した。
戦場で出会う可能性など、僅かばかりしかない。しかし、これだけの奥深さを抱える劉備が気に掛けるその男が還ったならば、劉備はその時こそ、雄飛するかもしれない。
「玄徳殿。あなたは殿よりも、民を導く器があるのかもしれませぬな」
顔良は鄴に着く直前に、劉備を面前にしてそう評した。
「叔善殿、それは言い過ぎですぞ」
劉備は打って変わって、厳然とした口調で言い放った。
「嘘を吐くのはお辞めください。あなたは野心があるのでしょう」
劉備は顔良に向けていた目線を他に向けた。顔良は変わらず、劉備に眼を向けている。
──やはり、この男はいち群雄で終わるつもりはないか
顔良は劉備の真意を知って、敢えてそれを煽った。
「殿は将や官吏を集めております。しかしその実、それを使いこなせてはおりませぬ。玄徳殿は腰に二本の剣を佩いておりますが、剣そのものを知らなければ振るうことは能わず、剣を一本しか使いこなせなければ、一本は無駄になります。政は百本の剣を振るうに同じ。その百本の剣とは、即ち文武百官です」
劉備は透き通った眼を虚空に向けている。顔良はそれでも構わず、言葉を発し続けた。
「わが殿は、二本の剣しか使えていない。それ即ち武と寛。武によって敵を断ち、寛治によって手懐ける。これだけでは武によって反発が生まれたときには寛治によって宥めるしかなく、寛治によって風紀が乱れれば、武によって断罪しなければならない。これでは延々と尾を追って回る狗のようになってしまいます」
「叔善殿、主君に対して言いすぎですぞ。あなたのしていることは、罷りならぬことです」
顔良は首を振った。
「私は敢えて言っているのです。わが殿は諫言を聞かず、自らの心の身に従うようになってしまった。曹操に勝つために、玄徳殿に申し上げているのです」
「曹操に勝つのは袁冀州でしょう。私なぞにはとても」
「玄徳を備える。あなたの名です。玄はくろ、と読むことが多いですが、転じて見渡せぬほどに奥深いことを表します。底の解らぬほどに奥深い徳、あなたと会話するほどにこの名に違わぬ器を持っていると確信した。使わずして如何に致しますか。さらに言えば、あなたは劉の姓を持っておられる。曹操に反するものは漢の存在を心の支えにしていると仰られたこと、覚えております。きっと、あなたの名に魅かれて訪れる人は多いでしょう。その時は、あなたの徳性を以って迎え入れるべきです」
「私はただの流浪の身です。土地も持たない人間が今の曹操に歯向かったとて──」
「玄は水の色。水には魚がいてこそ、豊かになります。きっと、まだその魚が、あなたの下にはいないのです」
「私には良き人傑が多く附いてくれている。それを魚がいないなどと謂えば」
劉備は剣把に手を掛けたが、顔良は怯まなかった。
「ならば鱗の王である、龍を探せば宜しかろう」
彼の腹から声が出たのは初めてのことだった。一人の人間からでた最大ともいえる音声に、戦の中に身を置いてきた劉備も身が固まって、動けなくなった。
「袁紹と曹操とのことが終わったら、私はどこに行けば良い」
劉備の声色が変わり、袁紹のことも諱で呼び捨てにした。きっとこれが、この男の本性だ。
「南。荊州に行くのがよろしい」
劉備は黙り、しばらく目を瞑ったのちに顔を和らげ
「しかと、心に刻みました」
そういって、顔良に礼をとった。
「雲長殿の件、私にしかとお任せくだされ。必ずや、あなたのもとに還れるよう説得します」
「それは心強い。ただ注意なされよ。関雲長はあなたにも増して剛直だ。曹操に命を救われたならば、功の一つでも打ち建てない限りは還っては来ないでしょう」
「わかりました。心して当たります」
顔良も劉備に礼の形をとった。
その時、袁紹のいる城の内では議論が紛糾していた。
曹操との決戦がいよいよ目前に迫ってきていた中で、田豊、沮授らの持久戦派と、郭図、審配らの速戦派とで割れたのである。
そも、持久戦派はもともと戦をすること自体を、あまりに促急であるとして批判していたのだが、郭図ら速戦派の言葉に袁紹が深く肯いていたのを見て、決戦への意志が固いと見るや、敢え無く次善の策として持久すべしと説いたのである。
沮授は
「義と驕を履き間違えられますな。義は敵なしといえども、驕は先ず滅びるのです。曹操は天子を許都に安んじられております。南進してこれを討とうとしたならば、それは天子の膝元を脅かす行為に他ならないのです。これが義に則っているのか、よくよく勘案なされませ。また曹操は法を行き渡らせ、兵卒は精鋭が揃っています。自らに驕り、辺境に籠った公孫瓚とは違うのです」
と戦における大義名分の欠如を主張し、また曹操の兵の精強さを取り上げて持久戦を主張した。
しかし郭図らは殷周革命の故事を引き合いに出して、大義名分がないとは言えない、といったのち
「殿は曹操に怒っておられ、その身を滾らせ、蓋世の気を放っておられるというのに、こと此処にあって大業を為さざるのは明晰たらざる者の失敗なのです。此度は天命。受け取らざれば寧ろ禍が起こりましょう。沮監軍はそのことをわかっておられぬのです」
と言って沮授を批判した。
果たして袁紹は、沮授の姿勢を弱気であると判断して郭図の意見を採ったのち、
「臣が思いますに、沮監軍は内外にその権勢を轟かせております。彼がこのまま権勢を強めれば、黄石公の戒めるところとなりますぞ」
という讒言に従って、監軍(軍の監督官)の権限を分割して沮授、郭図、淳于瓊に一軍ずつを監督させるようにしたのである。
これを聞いて怒ったのは田豊であった。
──主は道理の一切を分かっておらぬ
思った時には足が動き、やがて袁紹の居室にまで伸びたのである。道中、門をくぐるたびに衛兵が
「元皓殿、ここはあなたの入ってよい場所ではありません。お引き取りください」
と引き留めようとしたが
「うるさい。我が主の身命が係っておるのだ。退かぬか」
大喝一声して退けると面前に袁紹を見据え、舌鋒をもって攻撃し始めた。
「言っただろう。劉玄徳が徐州において反旗を翻しているうちに攻めるべきだと。劉玄徳は徐州から追い出され、曹操は許昌に戻った。主は我が子ひとりの病を理由に、好機をみすみす逃したのだ。曹操の兵は精強なことくらい解っていようものを、面として戦おうなど、もう遅い。──三年だ。富国に努め、各地に使者と将兵を遣って乱を起こさせれば、自ずと曹操は疲弊する。そこを狙えば必ずや勝てよう」
唾を飛ばしながらの説教であった。田豊は言った後の鼻息も荒くし、睨むようにして袁紹を見ていた。
袁紹も当然、自らの私室にずけずけと入り込まれ、己の判断を非難されたことに怒気を隠さなかった。顔が紅潮し、口を歪ませて田豊を睨んでいる。
「兵を呼べ」
袁紹は叫んだ。田豊は堂々と立ち、その場を動かない。
「こやつを連れて行け。獄に繋ぐのだ、早く」
田豊は脇を抱えられたが、両腕を払って兵を離れさせると
「我が足で行く」
そうとだけ言って、袁紹の私室を出て行った。
建安五年(200年)二月。袁紹は陳琳に檄文を書かせた。
袁紹を称揚し、曹操をその祖父の代より恥からしめて、かつその罪を弾劾する文章である。
宣戦布告と同時に、袁紹は歩騎合わせて十一万に上る大軍勢をもって南下を始めた。
顔良は多くの戦を経験した袁紹軍屈指の将帥として、その名を連ねていたのである。
「義弟、この戦に勝てば、殿の天下は一気に近づくな」
「そうかもな。まだ戦は続くだろうが、兄哥といれば何とかできるだろう」
「父上や兄上に良い報せとなればよいのだが」
「良いに決まってんだろ。戦が遠ざかっていくんだ。嬉しいことだろうよ」
「そうか、そうだな。顔良と文醜の名、轟かせてみせよう」
袁紹はやがて黎陽に布陣すると、
「顔良には多くの戦に付き従った経験がある。これを信用せずしてなんとするのか」
といって顔良に一軍を任せ、南岸の曹操軍下である劉延を攻撃させようとした。
しかし、監軍の一人である沮授が
「顔将軍は促狭です。単独で行かせることがあれば、深くに入り込んで兵が閉じ込められますぞ」
と袁紹を諫めたのである。促狭の促はせわしいという意味があり、狭はその通り、心が狭いことを意味している。
顔良はことあるごとに人に意味を尋ねる癖があったので、それが悪いほうに取られたか、あるいは劉備とのやり取りを沮授の手のものが聞いていて、顔良に叛意の疑いをかけたのかのかも知れない。
この沮授の進言を聞き入れた袁紹は、監軍である淳于瓊、郭図と顔良の三人を将軍として白馬津へ派兵した。
曹操は荀攸の策に従って、于禁と楽進を五里(約2キロメートル)ほど離れた延津より渡河させる動きを見せる。
──曹操は用兵に優れている。きっと何か裏があるに違いない
顔良は構わずに黄河を渡ったが、淳于瓊と郭図はともに黄河を渡ることを躊躇った。
淳于瓊は顔良と同じく裏があることを察知していたが
──たとい陽動でも、この隊を本陣急襲へ転じさせることもできよう
と読んで軍を後退させる為に下げ、郭図は
──いかん、延津より渡ってくる隊を撃たねば
と焦った為に下げたのである。
「二人の隊は下がったのか。しかし、ここで還れば水を背にして戦うことになる。寡兵でも渡り切って劉延を襲うしかない」
顔良は五百に満たない兵士を引き連れて黄河を渡った。顔良は将帥として麾蓋を立てた戎車に乗っていた。それが枷となって、河を渡るのにより時間がかかった。
──われにこんなものは似合わぬ
顔良はもどかしい思いをしながら、やっと白馬につくと
「前には敵、後ろには水。もう後には退けぬ。この一戦の勝敗は、われらの勇に懸かっている。進め」
と号令をかけて劉延隊への突撃を開始した。
寡兵といえども、顔良は多くの戦を経験してきた中で戦い方を熟知していた。戎車の上から指示を送って互角の戦いを演じていたが、遠くから騎馬隊が猛然と迫ってくるのが見えた。
夜の暗闇の中、炬火だけが頼りだったが、その炬火の明かりが近いだけに遠くの闇の中が見えない。
気付いた時には、刃が目前まで迫っていた。
──まずい
顔良は咄嗟の構えで体の前に剣を横たえたが
「覚悟」
その一言と同時に、胸に衝撃が走った。
そしてそのまま、戎車から放り出されたのである。
地面に衝突して、胸に激痛が走っているのを感じ取った。
息ができない。
ふと見上げると、長い髯を蓄えた長身の武者が、馬上から顔良を見下ろしていた。
「ああ、雲長殿か」
泡を含んだ声で、そう言った。
「われを知っているのか」
顔良は首肯した。
きっと自分はこのまま死ぬ。だが、何もできなかったとは思いたくない。曹操に勝つ一手。最後に講じなければ。
この男は関雲長に間違いない。いま劉玄徳は袁紹のもとにいる。もしこの男が劉備の下に還ったなら、曹操軍の情報を袁紹幕下に持ち込むことになる。
そしてもし、袁紹が勝てなかったとしても、劉玄徳という新たな星が世に放たれ、曹操に敵する。
一刻も早くこの男を劉備の下へ
──功の一つでも立てない限りは
「雲長殿、わが首を獲られよ──」
堂陽の顔家の畑に、顔毅と顔粛がいた。
長兄の顔毅は、堂陽の衙から里帰りを許され、帰ってきていた。
次兄の顔粛は、ちょうど朝からやっていた畑の見聞を終えて戻ってきたところであった。
「兄上、久々の生まれ故郷です。休んでいかれませ」
「すまんな。父上も息災にしておられるか」
「七十ですからな。足腰が弱くなったと嘆いておられますよ」
「はは、嘆くだけの元気があるのであれば、心配の必要は無いということだ」
顔毅は、麦の穂を手で弄びながら笑った。
「良はいま、どうしているのでしょうか」
「袁冀州が官渡で敗れたというからな。あいつも責めは逃れられんかもしれんな」
心地よい微風が吹いている。畑を眺めながら、二人は嘆息していた。
「もし。顔家の方ですかな」
後ろから声をかけられた。振り向くと、官服を着た男がこちらを覗いている。
「はい。そうですが」
顔毅が応答した。
「そうでしたか。わたくしは袁冀州の幕府より遣わされました、李秀弦と申します」
「これは、わざわざご足労を。まさか、叔善のことですか」
顔兄弟は唾を飲み込んだ。まさか、と思った。
「お悔やみ申し上げます。さきの官渡での戦の折、顔将軍は討ち死にをなされました」
──そうか、そうだったのか
ふたりは李秀弦から詳しく話を聞き、弟の死を悼んだ。すぐに家に帰って、父にもその死を伝えると
「吁、長く生きるべきではなかった」
と慨嘆を隠さなかった。
兄たるふたりも痛悼の念を隠すことはできなかったが、すぐに顔良が太陽の光と麦畑が好きだったことを思い出した。
もういちど畑に出ると、顔粛はこう言った。
「兄上が帰ってくるのと同時に顔良の訃報が届いたのは、きっと兄弟三人、同じ処で会いたかったということなのでしょう」
顔毅は悲しみに眉を顰めながら陽の在る方向を見つめていた。
また、風が吹く。
黄色く染まった麦の穂が、笑うような声で風になびいた。
顔良の死後、知っての通り袁紹陣営は敗戦へと向かっていく。
むろん、ただで負けたわけではない。
顔良、文醜両名の死によって大きく出鼻を挫かれる結果となったが、数の優勢は依然として袁紹の側にあり、曹操は官渡の塞に入ったのである。
ここから要塞を使った攻城戦のような様相となり、戦は長期化した。
この間に袁紹は、曹操の背後にあたる豫洲の諸郡(汝南袁氏は豫州を本貫とする)の反乱に乗じて劉備を派遣し、許昌付近を襲って各県を寝返らせた。
曹操はこれに曹仁を充たらせたが、戦況は次第に苦しくなっていった。
また食糧面においても、曹操は袁紹軍の輜重を焼くなどしたが、戦の長期化にあたって曹操軍の食料は底をつき始め、かなり深刻な状態になっていたようである。
このとき曹操は荀彧に撤退を示唆する手紙を出しているが、荀彧はこれを許さなかったという記録がある。
しかしそんな中、袁紹の陣営から一人の投降者が出る。許攸である。
彼は袁紹が洛陽にいるころから「奔走の友」として付き合ってきた中ではあったが、強欲であったことから疎んじられていた。また家族の罪を審配に咎められたことで、恨みを晴らさんとして曹操の下にやってきたのである。
曰く、烏巣に駐屯する、淳于瓊が指揮する輜重隊は防備が手薄であり、奇襲をかければ破れる、というものだった。
それに従った曹操は、見事にこれを焼いて淳于瓊とその配下の四将を討ち果たしたのである。
曹操軍襲来の報せが袁紹の陣営に報告されると、郭図のいう本陣急襲と、張郃らの言う烏巣救援とで意見が分かれた。
袁紹は何を思ったのか、張郃と高覧に歩兵を与えて曹操軍の本陣に向かわせ、軽騎を淳于瓊の救援に向かわせた。
張郃らは本陣を守っていた曹洪に防がれただけでなく、郭図が袁紹に讒言をしたことや、淳于瓊敗北の報を聞いて曹操に寝返ってしまった。
混乱に混乱を重ねて袁紹の軍は瓦解し、敗走することになるのである。
こののち、袁紹の勢力は内輪揉めなども重なって、衰退の途をたどるようになってしまった。
さて、本文において主役とした顔良が果たした役割は何だったのか。
顔良の将帥として軍を率いたことは、まずその第一である。しかし、それを明言するだけの資料がないことも、また事実である。
顔良を何らかの事物の分水嶺としたとき、白馬において関羽に討ち取られ、袁紹軍の動揺を招いたことがまず取り上げられるだろうが、その後を瞰るに、それだけでは弱いようにも感じた。
先述したとおり、袁紹は顔良と文醜が打ち取られた後も、許攸の一件が起こるまでは袁紹がある程度、優勢に事を運んでいたからである。
では、三国志を物語としてみたときに、顔良が果たした本当の役割とは何だったのだろうか。
思うに、それは関羽が劉備のもとに還る切っ掛けを作ったことではなかったか。
関羽はどこか常人を逸した感覚を持っている。その関羽が曹操の下を立ち去るには、顔良の首というものが必要だったのではないか。そして関羽が還ってきたからこそ、劉備は天下に飛躍することができたのではないか。
そのことを空想して創り上げたのが今回の小説である。
本来の顔良は、沮授の言う通り促狭な人間だったのかもしれない。だが、もし顔良が清廉な人であったとしても、こういった物語は成立するのではないか、と思った。
これが歴史というものが人々に与えてくれる、陽の光なのである。