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顔良  作者: 床擦れ
3/4

注意

 今回は臧洪ぞうこうとの戦いの中で、刺激の強い描写が入っています。

 読む際には十分に気を付けていただき、気分が悪くなったら読むのを止め、部屋の窓を開けて深呼吸をすることをお勧めいたします。


 ※具体的な個所でいうと

  「生きていた者がいた」という文から、「顔良は、後悔していた」という文までです。

  グロテスクな描写が苦手な方は、飛ばしてください。



 顔良がんりょう袁紹えんしょうの幕下に入り、その勇気と誠直さを以って反董卓とうたくの軍として戦った。

 そして袁紹が州を取る際にも、故郷を案じる心から策を講じて、それを荀諶じゅんしんに託したのである。

 次第に袁紹と袁術の間での対立が浮き彫りになり、乱世は混迷を深めていくなかで、幽州の公孫瓚こうそんさんが袁紹に恨みを抱き、北から侵攻を開始した。


 陽が中天に上っていく、第三話。

──公孫瓚こうそんさん、出陣せり

 その報が届いたのは、初平しょへい二年(191年)に入ってからだった。

 この前年、州での袁術、袁紹による領土の奪い合いと、袁術のもとに派遣した公孫越こうそんえつの死が伝わってきた。

 これに怒った公孫瓚は、そのまま軍を州に侵入させる動きを見せたのである。

 袁紹も公孫瓚が大きな動きを見せたことに危機感を抱いて、公孫瓚の従弟である公孫範こうそんはんに、自らの持つ勃海ぼっかい太守の印綬を送った。公孫瓚も印綬を受けはしたものの

──狐狸こりのごとき袁紹にしたがうものか

という思いは変えず、勃海郡に現れた黄巾賊残党の三十万を公孫範と共に打ち倒すと、のちに迎える袁紹との決戦に向けて大量の捕虜を獲得した。

「領内の賊は討った。これからわれらは冀州に向かう」

 公孫瓚の軍は勢いづいて、冀州の内に侵入した。

 もともと、公孫瓚の軍は騎兵を主とした精強な軍である。また、もともと冀州は韓馥かんふくのものであり、それを騙し取った袁紹の動きに反感を持った城主が多かったことも想像できる。そのこともあってか、冀州各地の城主はこぞって門を開けた。

 袁紹は各地の城に軍を送って、奪還しようと図ったが、ついに界橋にまで軍を進められたのである。


 顔良がんりょうにとって、戦場は黄巾が決起して以来の場所であった。公孫瓚が橋の向こうに軍を駐屯させているのが、よく見える。

 まだ戦闘を始めていないせいか、この場所に血が流れるとは思えないほどに穏やかな風があたりを吹いている。

「兄上──」

 公孫瓚がここまで、ほぼ抵抗のないままに進んできたということは、兄の居るも門を開いたということであろう。ただ、長兄ならば許せ、とは言わないはずだ。顔毅がんきという名の通り、一本気なところがある。むしろ

──袁冀州に命じられたのならば、遠慮なく攻めるが良い

とすら言うかもしれない。そうして敵同士になったのなら、兄は自分に容赦はしないだろう。

 実家の次兄はどうしているであろうか。くらから不要に徴発されていないだろうか。満遍なく畑を耕すことはできていようか。

 さきに自分が講じた策が、混迷を極めるための一助になったような気がして、悔いる気持ちがあった。

きく将軍、公孫瓚の軍は整っています。本当に歩兵が騎兵にかなうのでしょうか」

 顔良は先陣の主将である麴義きくぎに問いかけた。

 袁紹が韓馥から冀州を譲られた際に、先んじて袁紹の下に降った人物である。

 麴義は黙って公孫瓚の軍を見ていた。あごさすりながら、じっくりと吟味するような恰好をしている。

「お前は、勝てないと思うか。叔善」

「歩騎を比べると八倍の差があるといいます。かの軍とわれらの軍を比べると、数は変わらないのに騎兵は圧倒的に向こうのほうが多く、洗練されています」

 顔良は自分の思う正直な所感を述べた。しかし、これを聞いた麴義は鼻哂びしんした。

「甘いな。数と質だけで判断するのは戦を知らない」

 戦の経験は麴義のほうが圧倒的に多い。彼は涼州の生まれで、何度となく異民族と戦った経験のある男である。

 顔良は個人で戦ったことはあるが、将軍として戦場を俯瞰したことはない。きっと知らない視点が自分の目の前にはあるはずだ。

「麴将軍、我々はどのように動けばよいのでしょうか」

「聞くだけか。知らないのなら、知ろうとするのなら、黙ってこれから起こることを目に焼き付けろ。そして、後から考えろ。盗めるものは盗め」

 麴義は革袋に入った水を一口飲むと、自分の寝る場所へと帰っていった。


 翌日、公孫瓚の軍は本隊を除いた主力が、橋を越えてきた。そして袁紹軍の目前に迫ると、陣形を整えて今にもぶつかり合おうという姿勢をとった。

 麴義らの軍は袁紹軍の本営から突出するようにして、布陣していた。

 将である麴義と顔良の前には大きな盾を持った歩兵が八百。そして両翼には弩兵が二百五十ずつ並んでいる。

──こんなに少ない兵で白馬義従はくばぎじゅうを止めることができるのか

 彼方には厳綱げんこうの帥いる歩兵の大軍と、翼を広げるようにして左右に並ぶ白馬の軍勢が見える。彼らは間違いなく、突出して配置されている自分たちを狙ってくる。

 麴義の配置した千三百の軍勢は、みな盾に身を隠し、防御の姿勢をとっている。

 攻めてこないと見た公孫瓚の軍は、袁紹軍の先鋒が少なく突出しているのを見て

──まずは、この軍を討って士気を挙げる

と狙いを定めて軍を動かした。

「将軍、きましたぞ」

 顔良が麴義にそういったが、麴義は何も反応を示さなかった。敵の騎兵はすでに一里(約400m)もないところまで来ている。

 顔良の心の臓が、鼓動を速くした。

──このまま、われは轢かれて死ぬのではないか

 そういった想像が冷たい汗を流させる。その焦燥を抱えた顔良とは対蹠たいしょ的に、麴義は平静としたままであった。

 あと半里(約200m)。蹄音ていおんが大きく聞こえる。敵の兵があげる殺気立った声も、耳元で炸裂しているように感じる。

 あと百歩(約140m)。顔良は眩暈めまいもよおした。勝つための策とは何なのか。空気が揺れて、砂で空気が煙る。

 あと五十歩(約70m)。突如として麴義が立ち上がり、手に持っていた小旗を振るった。

 周りの兵もそれに従って立ち上がる。大音声を発し、弩を放つ。

 ここまで駆けてきた騎馬たちは、突如立ち上がった鎧士がいしたちの姿と、雷鳴のような兵の声とでその足を急に止めた。

 後ろから来る兵と、前から撃たれる矢の雨とに揉まれ、混乱した敵軍をた麴義は

「突撃をかけるぞ」

と更なる気勢を上げさせ、一気に突っ込んでいった。

 顔良も剣を抜き、駆けていく歩兵を後ろから追いかける。敵との距離は近い。百歩も行かぬうちに敵兵の集団と当たった。ひたすらに剣を振り二、三人を斬った。

 すると、馬に乗った一人の武者が鋭い眼光をこちらに向けて、突っ込んできた。

「袁紹軍の将とみた。覚悟」

 そう叫びながら武者は矛を振り上げた。顔良は寸でのところで一撃を避けると、次の一撃に備えて剣を構える。

 二回、三回。相手の斬撃を避けたが、姿勢を崩してしまった。

──ここでわるか

 そう思った瞬間、武者に矢が当たって馬から落ちた。顔良はすかさず剣をその武者に突き刺し、止めを刺す。

 武者の乗っていた馬が逃げると、その陰には麴義が立っていた。

「ぼさっとするな。来い」

 そういうと、橋の方向に向かって走り出した。顔良も、これにおくれを取れば自分は大きな経験を失うと思って、すぐにその姿を追いかけ始めた。



 界橋にて大勝を得た袁紹軍は、勢いを駆って公孫瓚の本拠である幽州を攻めようとした。

 崔巨業さいきょぎょう涿たく郡の故安こあん県を攻めさせたが、これが界橋のときとは逆に大敗を喫することになる。

 公孫瓚は再び南下を開始して青州まで到達するなど、徐々に勢力を回復させたため、界橋での一戦は大勝とはいえども、公孫瓚に対する致命傷とはならなかった。

 この辺りから公孫瓚は、劉虞りゅうぐとの対立を激化させる。

 武力の行使に反対して兵糧を送らなかった劉虞と、それに対する報復として民を脅かした公孫瓚。

 劉虞は公孫瓚の動きに激怒して、討伐を諫めていた魏攸ぎゆうが没すると同時に、異民族などを糾合して大軍勢を向かわせた。

 ところが、劉虞は軍を動かす能力には長けていなかった。

 諫言した程緒ていしょを斬首して混乱を呼んだほか、公孫瓚が民を盾にして城に籠ると

──人民に罪なし、公孫伯珪はくけいのみを斬る

と公孫瓚のみを狙うように指示したことで、城を攻めあぐねる状況も自ら作ったのである。

 劉虞の従事じゅうじであった公孫紀こうそんきが、同族の公孫瓚に計画を漏らしていたこともあって、手玉に取られる形となった劉虞は、火攻めに遭って捕らえられたのち

「皇帝に推戴までされていたではないか。雨乞いでもして見せよ」

という無理難題を言い渡され、それを成せなかったが為に処刑された。

 人望のあった劉虞およびその配下を虐殺したことは、先に軍を動かしたのは劉虞であったとはいえ、公孫瓚の名声に大きな傷をつけた。

 さらに、大きな怨恨を残したことによる影響は、自身が滅ぶときに現れてくることとなる。



 時は、袁紹が公孫瓚を界橋において破ったころに戻る。

 初平三年(192年)。いまだ公孫瓚の進行が続いているころ、兗州において黒山こくざん賊が争いを起こした。

 この騒乱は黒山賊が独立権を目指した戦いだったのだろうか。

 黒山賊の首魁である張燕ちょうえん(あるいは張飛燕ちょうひえん)は、黄巾の乱の前にすでに漢に降伏しているため

──袁紹の動きは漢に叛している

という判断があって、まだ政情が不安定な中央に身を寄せずに劉虞を頼った、という推測もできる。

 この黒山賊という集団は非常に大きく、総勢で百万に上るといわれていた。もちろん、この中には老病者、婦女、子供といった人々も含まれているだろうが、それでも大変に大きな勢力である。

 これに対策を講じなくてはいけなくなった袁紹は、群臣に対して何か良い案はないかと諮った。すると、一人の将軍が拱手をして、袁紹に自らの出撃を懇願したのである。

 その将軍こそ、文醜ぶんしゅうであった。

 彼の身の丈は八尺あり、壮健で馬の扱いにも長けていた。

 袁紹は文醜を兗州に派遣した。かれはその意気を消沈させることなく、気勢を上げて黒山賊とぶつかったが、幾度戦っても衰えない勢いと、地の利を抑えられた戦術とに苦しめられた。

──このままじゃ埒が開かねえ

 文醜は何度となく戦う中で、かれらの信念がわかってきた。

 彼らは安住の地が欲しいだけなのだ。だから、矛を振るわねばならなくなったのだ。

 顔叔善は堂陽のあたりで田畑を耕していた頃、流民の集団を帰農させたらしい。そういった人が天下に多ければ、もしかしたら彼らと闘わなくてもよかったのではないか。

 かれらの張る根がここまで頑強なのは、むしろそれだけ求めていることが普遍的ものである証なのかもしれない。

 文醜は軍幕の中にいながら思慮を巡らせたが、それで答えが出るようなものではない。今はただひたすらにける。それだけだ。


 董卓とうたく長安ちょうあんの宮城にて殺されたらしい。

 当時の司徒しと(教育や人事、土地の管理をする)であった王允おういんなどが、董卓と父子の契りを結んでいた呂布りょふを仲間に引き入れて、詔のもとに斬ったのである。

 董卓派の人間や、董卓の親族はこれを切っ掛けとして、みな殺された。

 しかし、王允も清廉でありながら、それが過ぎたような人だった。

 呂布らが涼州の兵をゆるすべきだ、といった。これを王允は

「年に二回の特赦をすれば、それはこれまでのしきたりに背くことになる」

として却下した。

 また、董卓の貯えた財宝は兵に分けるべきである、という意見に対しても

「もとは人民のものである」

と、これを拒んだ。

 王允の名を傷つけた極めつけの行為は、高名な学者であった蔡邕を投獄し、獄死させてしまったことであった。

 董卓に重用され、それを受け入れた蔡邕さいようは、董卓の死に際して嘆いたのである。これを見た王允が

──悪辣にくみするもの

と思ったのか、蔡邕を捕らえた。

 さらには獄に入った後も、史書の編纂を続ける蔡邕に対して

「武帝は偉大であるのに、その醜聞を残されることとなったのは司馬遷しばせんが宮刑(去勢する刑)にとどめられたせいだ」

すなわち

──このまま蔡邕を生かしておけば、必ずや漢の汚点がさらされる

といって死罪を言い渡したのである。

 蔡邕も黥首げいしゅ(入れ墨刑)と刖足げっそく(足斬り刑)にて代替をさせてくれ、と懇願した。しかし、これを受け入れられることはなく、獄中で命を絶たれた。

 涼州兵への特赦と恩賞を拒否したことは彼らの反発を招き、蔡邕をころしたことは当代の学者の心を離れさせた。

 王允に拒絶された涼州出身の将軍たちは、長安に攻め寄せる。門外にて陣を張っていた呂布を猛烈な勢いの下で打ち破り、復讐戦と銘を打って董卓の殺害に加担した者たちを殺していった。

 王允の首は、市中に晒された。


「忠義とはまた、ここまで脆いものか」

 そう思った呂布は、各地を巡った。

 まず、袁術のもとへ行った。かれは漢の臣として権勢を保っている一家であり、今回の一件で呂布の名前を知っているのであれば、軽く扱うことはしないだろう、と思ったからである。

 だが、受け入れられなかった。

 袁術は、最初に丁原ていげんを義父と仰ぎながら丁原を殺し、董卓の下にいながら董卓を殺した、その呂布の裏切り行為をうとましく思ったのである。

 次いで張楊ちょうようのもとに向かった。彼とは地縁がある。だが彼からも

「いまは郭汜かくし李傕りかくらの軍が近すぎる。そなたを長くは留められぬのだ」

と、ひと月も居ることはできなかった。

 ならばと、呂布は袁紹のもとに向かった。いま、袁紹は戦力を必要としているはずである。北には公孫瓚がいて、領内に黒山賊が、そして南に袁術がいる。

 きっと必要とされるはず。愛馬に鞭を入れて、北に向かった。


 顔良は大興だいこうから、黒山賊との戦いの顛末てんまつを聞いた。

「あいつは、すごかった」

 大興はしきりに感嘆していた。袁紹のもとに逃げ込んできた呂奉先ほうせんが、日に三度の突撃を仕掛ける、ということを数十日にわたって続けたのだという。

 だが、そのことを語る彼の顔にも、一片ばかりの曇りが見えた。

 酒を柄杓で杯に注いで、一気に飲み干したところで、顔良はその曇りの理由をさらってみることにした。

「大興殿。私にはあなたが称賛の言葉を挙げているにも拘らず、表情がすぐれないように見えます」

「そうか?そんなことはないと思うんだがな」

 顔良は、この言葉は嘘だと思った。彼は噓を吐くとき、必ず右の眉が吊り上がるのだ。

「ええ。実は、あなたの思うような戦ではなかったのではないか、と思いまして」

「思うような戦ねえ」

 大興は初めて、顔良に少し軽蔑するような目線を向けた。顔良にとっては、かまを掛けただけのつもりだったが、大興にとってはそういう受け取り方ができない質問だったのかもしれない。

「思うような戦ってのは、あるわけがねえ。俺らはただ、思いもよらねえことに関わっていく。それだけだと思わねえか」

「たしかに、そうですね。わたしも界橋で思い知りました」

 大興は、少し笑った。

「お前のことだから、少しだけ教えてやるよ。呂布はな、あいつは暴食の輩よ」

「暴食──」

 顔良は真意を測ろうとした。食物を欲するとも、財宝を欲するとも、土地を欲するとも聞いたことがない。呂奉先という人間は、何をむのか。それは転じて、その人物が何を欲しているのか、という問いでもある。

「人によって欲しがるものは違うだろう。食いもん、財宝、土地、人。俺は食いもんが一番欲しいと思う。だけどな、呂奉先が欲しいものは、そういうもんじゃない」

「ならば、なんでしょうか」

「あいつが欲しいのはな、名誉だ」

 文醜は一本気の武人だ。だからこそ、名誉は要らないと常に言っている。いや、態度からしてそれが出ている。そういった彼から見る、名誉を求める武人の姿とは何だろうか。

「戦場ではな、俺はなんも欲しくねえ。何かを欲しいと思えば、奪わなきゃなんねえからだ。それは戦うということにとっては、無駄なんだよ」

 確かに、奪うには奪うための労力が必要になるし、奪った後に残った怨嗟を解消させるのは難しい。

「だが、呂奉先は欲しがる。いくつ首を獲った、誰を討った、何度戦った、いくら城を落とした。ただそれだけを求めてせてるんだよ。だがよ、そういうやつは──」

「そういう奴は、なんです」

「矛にしかなれねえんだよ」

「矛にしか、ですか。人を傷つけることしかできない、ということですか」

「まあ、なんていうんだろうな。少なくとも、そういう奴が中華を平定したとしても、永くはもたねえだろうな」

「なんだか、悲しい話のように感じますね。彼には守るものはないんでしょうか」

「有るに決まってるさ。自分も、部下も、家族も。盾をぶん回しても遠くに届かねえだろ。そういうこった」

 顔良は押し黙った。呂奉先という人は、もしかしたら重圧に耐えれるような人ではないのかもしれない。自分一人で自由に駆け回りたい人だったのかもしれない。

──火のような人だ

 そう思った。

 大興が再び口を開いた。

「見てらんなかったぜ。突っ込んで、帰ってきて、突っ込んで、帰ってきて。俺もその中にいたが、次第に黒山の奴らの兵が変わってくんだ。どんどん、歳食った奴や弱った奴が増えていく。それでも、俺たちは突っ込んで首を獲って帰ってくるんだ。それで確信したんだよ。呂奉先は食わねえと、生きられねえ奴なんだってな」

 顔良は相槌を打つことしかできなかった。

「ああいう風に突っ込まねえといけねえ奴は、臆病なんだよ。だけど」

「臆病だから強い」

 顔良は大興の言葉に被せるように言った。大興はにっこりと笑って

「そうだ。戦は臆病なほうが強い」

そういって、顔良の杯に酒を注いできた。顔良は何も言わずに飲み干す。

「叔善殿、ひとつお願いしたい」

 大興が態度を改めて、語り掛けてきた。顔良は何事か、という表情を隠さなかった。

「義兄弟となってほしい」

「なんですと」

 顔良は思わず声を上げたが、大興は顔色一つ変えない。ここに来る前に肚を決めていたのだろう。

「俺は袁冀州の配下の中でも、叔善殿が一番に民に近いと思っている。そういうやつは、きっと良いまつりごとをできる。どうにか、頼む」

 頭を下げられた顔良は、動揺しきっていた。だが、いちど頷くと、頭を下げたままの大興の杯に酒を注いだ。

「今日は飲み明かしましょうか」



 初平四年(193年)になると、袁紹と袁術の直接的な戦闘が増えてくるようになった。

 袁紹が公孫瓚から袁術に矛先を変えることができたのは、先述した公孫瓚と劉虞の争いにて、劉虞が殺されたことに起因している。

 劉虞の旧臣は、かねてから親交のあった烏桓うがんの人々と呼応して反乱を起こし、それに袁紹は劉和りゅうかを支援する形で介入したのである。

 これによって公孫瓚の領内は混乱し、幽州から冀州まで攻め入ることが困難になった。

 兗州牧として招かれていた曹操そうそうは、長安から送られてきた金尚きんしょうという人物を追い返す。すると金尚は袁術のもとに落ち延びた。これを受けた袁術は兗州に向けて進発。公孫瓚に

「背後をくように」

したためた書状をもって援兵を求めた。

 先に述べた反乱で、自領から軍を出せないと思った公孫瓚は、平原へいげん国の高唐こうとうにいた劉備りゅうびと、徐州牧の陶謙とうけんを遣わせている。


 顔良が対したのは、高唐に駐屯していた劉備らの軍だった。

 高唐のあたりは平らかな土地であり、城の周りは川が流れている。

 川を渡り、城に迫った。少数ながら兵団が見える。

淳于じゅんう将軍。劉備は各地を流れて功を挙げている武辺者ですぞ」

 顔良は警戒を怠らないように告げた。

「なに、数自体は少ない。相手が強かろうと、こちらが勝てる戦になろう」

 この時の顔良の上官は、淳于瓊じゅんうけい(字は仲簡ちゅうかん)という人だった。もともと、霊帝の作った西園八校尉せいえん はちこういに、袁紹とともに選ばれていた武人である。だが武骨さはなく、名門出身の鷹揚さが勝る人だった。

「ふむ、敵は少ないか。だが騎兵が多いな」

 淳于瓊は旌旗せいきの下で相手の陣を眺めた。

「将軍、目の前でこんなことをしていると」

「なに、心配いらん」

 こちらの言うことに耳を貸してくれない。それほどまでに自信があるのか、それとも楽観視しているのか。表情からは掴み取れない。

 劉備軍は動かない。こちらが水を背にしているのにもかかわらず、その場で留まっているのである。

ろ、叔善。やはり劉備は練達しておる」

 顔良は大興との会話を思い出した。

──臆病だからこそ、強い

 劉備は臆病さがある。しかし怖気づいているのではなく、盤石としている。

「さて、叔善。劉備はこれからどちらに動く」

「えっ」

 急な問いを出された顔良は固まった。

 軍を動かす方向に何か決まりがあるのか。彼方をじっと見て、何とか動く方向を導き出そうとする。

 右か、左か。劉備軍の最前列の馬が少し足を動かすほどにその意見が変わっていく。

「まだ出んか。ならば、教えてやろう」

 淳于瓊が伸びやかな声で言いながら、指を差した。

「左だ」

 指をゆっくり左へと動かすと、それに釣られるように向こうにいる騎兵たちが動き始めた。

──どうして

 淳于瓊がにやりと笑った。そして

「雷鼓せよ。われらは円弧して右へ向かう」

 そう声を張り上げると、自ら馬を御して馳せだした。

 劉備軍が左側から回り込もうとするところを、淳于瓊らの軍は距離を保つようにして、右側に回り込もうと動いていた。

 ふたつの軍が円を描くようにして移動していくと、次第に劉備らの軍が川に近づき、淳于瓊の軍が川から遠ざかっていく。そうすると、それぞれの軍が置かれる状況が逆転していく。

 劉備軍の背後に、川の水面が光った。

──いまよ

 淳于瓊は勝機を逃さなかった。太鼓の調子が突撃するときのものに変わり、将兵が劉備の軍の方向に殺到していく。

 劉備の軍はこの光景を見て、後ろに下がろうとした。だが後ろに水を負ってしまったかれらは、それが叶わない。

 こうなったら、横か、前か。

 劉備は迷わず突っ込んできた。騎馬の部隊をきりのようにして、真正面からぶつかってくる。

「なるほど、劉備は巧いものよ」

淳于瓊はそう言って笑いながらも、自ら剣を振りかざして兵を鼓舞した。

 顔良もまた

「劉備を逃がすな。敵を撃滅せよ」

と矛を振るいながら、前線に立った。

 劉備の軍団の勢いは怒涛の流れを持つ川のようなものだった。止めようと壁を作っても、その勢いによってすぐに決壊する。ひとつ、ふたつと兵の作った防御網を突破していくと、あっという間に後ろ姿しか見えなくなった。

「なんという」

 顔良は驚嘆した。公孫瓚配下のいち武将が、こんなに洗練された強さを持つものなのか。

 果たして、さきに大興が言っていた呂奉先という武将の強さは、このようなものだったのだろうか。顔良は身震いを隠し切れなかった。


 戦後、淳于瓊に顔良は

「なぜ、劉備の動きが分かったのですか」

と問いかけた。

 淳于瓊は泥と汗で汚れた体を拭いながら、顔良に目を向けると

「あれは劉備が巧いからこそ、ああなったのよ」

そういって、息を吐いた。

「劉備が巧いから。それは如何なることでしょうか」

「後ろにあった川は、北に行くにつれて東側に逸れていくだろう。つまり、両軍ともがまっすぐ北に駈けようとすれば、自然とぶつかることになる」

「はあ。それで、なぜ左であると」

「まだ解らんのか。人は前にいる人が左に行けば、左に行きたがる。右に行けば、その逆。左に行くことで川に沿わせ、近づいたときに側面からぶつかれば、川で逃げ場を無くさせたうえで側撃を加えられるのだ」

 あのとき自分たちの軍から見て、左といえば北だった。ここに、劉備の戦に対する嗅覚の鋭さが現れている。

「では、それを避けるために将軍は右へ動いたと」

「然り。いちど攻めに転ずれば、離れることはまかりならん。ゆえに劉備らは、われらと同じように円弧を描いて、川を背にした」

「なるほど。しかし、そのあとの劉備の動きも驚きました。まさか突っ込んでくるとは」

「ははは。確かに、おぬしは目をひん剥いておったな」

「面目ない」

「いや、良いのだ。われも正直、考えていなかった。だがあそこで後ろや横に逃げず、あえて突っ込んでくるというのは、劉備の配下がよく統率のとれた集団であることと、劉備自身が優れた将器を持った人間であることを表しておる」

「今後、ふたたび敵になったら厄介ですね」

「味方になってくれれば、頼もしいがな。逃げるための乾坤一擲を打つような奴だ。少なくとも、名誉は求めておらんだろうよ」

 顔良は劉備のことを

──水のような人だ

と思った。



 秋になった。実りの季節といわれ、各地で作物が収穫されるころ。

 たった一州だけ、それとは真逆の光景が広がった。兗州の曹操が、陶謙の治める徐州を攻めたのである。

 これに至る経緯はさまざまに言われる。綜合してみると、袁紹派であった曹操の父、曹嵩ら曹操の一族を、袁術派であった陶謙あるいは配下の張闓ちょうがいが殺した、ということになる。

 いずれにせよ、陶謙も張闓に対して何か罰を下そうとした記録はないようなので、曹操から見れば陶謙が仇敵となるのは無理もない。

 のちに

「徐州大虐殺」

ともいわれる一連の侵攻行為には、袁紹も朱霊しゅれいという将軍を派遣して援護させている。

 ここでの援助行為は曹操の仇討ちを支援する意味ではなく、あくまで袁術派として圧力をかけ続けてきた陶謙を弱体化させるためだったのだろう。

 もっとも、この時代は

不倶戴天ふぐたいてん

という考えが美徳であったため、特に自らの父に対しての仕打ちに憤激した曹操を、純粋に応援する意味合いもあったのかもしれない。


 翌年に当たる興平元年(194年)。曹操は兗州で反乱がおこったことを機に、徐州より撤退した。

 陶謙は病を患い、そしてそれが重くなっていくと、後継者をだれにするのか悩んだ。

 二人の子がいるが、いずれもひとつの州を支えられるほどの器を持っていない。配下にいる人間も優秀ではあるが、彼らの何れかを長にすれば必ず内輪揉めが起こる。

 陶謙は散々思い悩んだ挙句、各地を流浪しながらやとわれとしてその身を立てていた劉備を徐州の牧とするため、麋竺びじく小沛しょうはいへと遣いに出した。

 劉備はこれをけて徐州牧となったのである。


 一方、曹操は兗州一帯の反乱に苦慮していた。

 信頼していた張超ちょうちょう陳宮ちんきゅうが呂布を引き入れて反乱を起こすと、まず濮陽ぼくようを奇襲され、腹心の夏侯惇かこうとんを捕らえられた。

 この一戦のみで兗州の多くの城が張超らに投降し、寄る辺を無くしたのである。

 曹操に味方をする城もあったが、それはたった数城に過ぎなかった。曹操も徐州から帰ってのち、呂布の居座る濮陽に連戦を仕掛けたが、その全てを打ち破られて、自身も左手を火に焼かれて負傷している。

 呂布はこのまま一気に曹操を叩き潰そうとしたが、旱魃と蝗害によって軍に必要な糧秣を獲れなくなったこともあり、山陽に留まった。

 曹操は

──これで、また戦略を立て直せる

と一息吐くことができたが、いまだ穏やかな状況ではない。そこで、袁紹に対して兵糧と兵卒の支給を願ったのである。

 袁紹はこれを承諾して、曹操を援助した。

 この時期、袁紹は地盤固めを進めており、青州において長子の袁譚えんたん孔融こうゆうを攻めさせ、青州刺史に任じた。またへい州には甥の高幹こうかんを遣わせている。

 徐州牧となった劉備に対しても、もともと対立していた過去を洗って友好関係を築こうとした。袁紹が劉備の支配を容認し、劉備は袁譚を孝廉こうれんに推挙することで繋がりを持ったのである。

 


 顔良は臧洪ぞうこうの籠る東武陽とうぶようにいた。

 臧洪という人は世に傑出した義士として名高く、さきの反董卓連合の時には各諸侯らが盟を結ぶ際に、彼らを代表して演説をしたこともある。

 かねてより張超と親しくしており、雍丘ようきゅうにおいて張超が曹操に包囲された際

子源しげん(臧洪の字)は必ず来る」

といって、臧洪の来援を待っていた。張超の部下が

「臧子源殿は袁冀州に重用されていれます。そして、袁冀州は徐州を曹操が攻めたときに兵を貸したほど、親密だというではありませんか。臧子源殿は袁紹の顔色を窺って、こちらには来ないのではありますまいか」

と疑問を呈した時も

「子源は天下一の義士なのだ。自らの信義にもとることは絶対にすまい」

この反論をもって一蹴し、臧洪を待ち続けた。

 臧洪も、これを聞いてすぐに張超のいる雍丘へ救援の軍を出そうとした。袁紹に軍を出してくれと懇願したが、袁紹は今後の袁術との決戦には曹操の力こそが必要と考えて、これを聞き容れることはなかった。

──張超が死んだ

 興平二年(195年)の十二月、寒い日の夕方にその報が臧洪のもとに届けられた。彼の一族も、老少の区別なく、曹操軍の手によって皆殺しにされたという。

 臧洪は静かであったが、その実、怒髪は冠を衝いていた。

──貴様は民を殺すためにこそ、剣を振るうのだな

 徐州での動きもある。天下一の義士とも称された臧洪がそう思っても不思議ではない。


「臧洪の罪を問い、ここに兵を発する」

 袁紹は、臧洪と同県の生まれである能書家の陳琳ちんりんに八条からなる書状を書かせて、とう郡へと向かわせた。

「子源殿、どうか門を開けていただきたい」

 陳琳はその文書をもって臧洪との面会を求め、そして袁紹への投降を進めた。

 だが

「これをもって、自らの軍幕に戻られよ」

と千字からなる文書をもって、陳琳に投降の意思がないことを示し、追い返したのである。

──そうか。臧洪殿の憤りはそこまでのものであるのか

 千字文をもって臧洪の意思の硬さを知った陳琳は、軍幕に戻るとそこにいた将軍に

「即座に攻めるべし」

憂慼ゆうせきの表情を浮かべながら告げた。


 建安元年(196年)に入ってから、袁紹はもと居た軍に加えて兵を派遣し、攻めの手を強めた。

 顔良はその中の一員として、麴義きくぎとともに弩兵を率いて東武陽の城外に陣を敷き、留まっている。

「麴将軍、臧洪は打って出るでしょうか」

 軍幕の下、床几に座る麴義は微動だにしない。

「麴将軍」

 もう一度呼んでみたが、机に開いた通達の簡に目を遣ったままで何一つ言葉を発しなかった。

「私は兵の様子を見てきます。弩兵にいくらか矢を射ち込ませますが、騎馬とは勝手が違います。牽制程度にしかならないでしょう」

 そう言って背を向け、帳の内から出ようとした時

「叔善」

不意に麴義が声を発した。

「はっ。将軍、何でしょうか」

「俺が直近で何をしたか、知っているか」

「はい。鮑丘ほうきゅうで公孫瓚を破り、易京えききょうに籠らせました」

「その通りだ。そして、いまは直轄の軍を城の包囲にまわし、ここで臧洪を攻めている」

「袁冀州も大胆なことをなさいます。騎馬の戦が得意な麴将軍を城攻めのために呼ぶとは」

 顔良は簡から目を逸らさない麴義を見てそう言った。

「ふん。時に顔叔善、この書を見てどう思う」

 麴義は顔良に、今まで目を逸らさなかった簡を投げ渡した。

 顔良はこれを掴み、拡げて、認めてある内容を読んだ。

「麴将軍、これまでの公孫瓚に向けた働き、誠に見事であった。今回の臧洪攻めにも参画したこと、感謝する。我もこれから東武陽に向かい、包囲に加わる。その折に恩賞を授けるゆえ、待つように」

 顔良は特に違和感を感じなかったが、麴義は違ったようだ。

「麴将軍。まさかはかりごとが──」

「それ以上は言うな。聞かれればただでは済まない。もっとも、このままでも、俺の命はない」

 顔良は言葉の意味が分からなかった。これだけの材料で、麴義がどのようにして、その答えにたどり着いたのかが解らなかったのだ。

「わたしは、将軍の思うところを考えるべきでしょうか」

「いや、此度は考えなくていい」

 麴義は語り始めた。

 自分が裏切るという行為をもって、韓馥かんふくから袁紹のもとに入ったこと。

 それがもとで、袁紹からは一定の不信感を持たれている、ということ。

 袁紹が、甥の高幹に并州を治めさせるために、野戦に長けた軍団を高幹の配下に欲していること。

 公孫瓚が風前の灯火となったことで、騎馬の攻略に自信を持つ麴義自身の存在意義が薄れていること。

 そして、袁紹は自らに権勢を集めるために、韓馥の配下だった人間を黙らせようとしていること。

「まさか、将軍がそのためのにえとなるというのではありますまいな」

「そのまさかだ、と思っている。袁冀州がいきなり本拠に近い位置にわれを呼び出し、そしてそこに赴く。きっと俺を自分の目の届くところに置いておき、然るべき時にころそうというのだろう」

 顔良はそんな訳がない、と言いたかったが、近頃の袁紹の様子を見て、そうも言えなくなっていた。


 長男の袁譚えんたんと次男の袁煕えんきを、なるべく遠くに置こうとした一方で、三男の袁尚えんしょうを自らの近くにおいて溺愛していた。

 この袁尚、生まれつき美貌があり、体力に優れていたという点で、袁紹は

──この子に家督を継いでもらいたい

と独断し、後年まで明らかにはしていなかったものの、実質的な後継者として目論んでいた節があった。

 長子存続が基本の儒教社会であるから、当然群臣から

「乱のもとになりますゆえ、おやめください」

そう言われていたが、ついぞこれを改めようとはしなかったのである。

 袁尚はいまだ年少ではあったが、顔良はその光景を見て

──これが後年の禍になろう

と予感していた。

 また、袁紹の勢力が肥大化するに従って、袁紹自身の態度も尊大なものになっていた。

 自らは王者であるという態度を隠さなくなっていた。むろん、その誇り自体は否定されるべくものではないのだろうが

──われが尽力しているおかげだ

という独尊思考が見え透くようになっていたのである。これもまた、顔良は危惧していた。


「して、麴将軍。その贄となる宿命から逃れられる方法はあるのでしょうか」

 顔良は、麴義が助かる道はないのか、という思いの渦中でそういった。だが麴義は少し笑って

「ない。逃げても無駄だ。武人らしく死ぬ」

とはっきりとした口調で答えた。

「もしも俺がいなくなったとしたら、田元皓でんげんこう殿を頼るのが良い。韓馥のもとにいた時からの付き合いだが、あの人は賢人だ」

 その言葉は、諦観の響きを持って顔良の耳に届いた。


 やがて、臧洪は死んだ。袁紹が豫州に来てから二十日後のことである。

 臧洪と、臧洪の同郷の人で共に城に籠っていた陳容ちんようが引き立てられ、袁紹に尋問されているところを顔良は見ていた。骨と皮だけになった体に似つかわしくない、目の爛々らんらんとした輝きに、圧倒された。

──これが天下の義士というものか

 顔良は人の気迫というものに驚嘆することが今までなかったが、この日のこの時ばかりは胸を熱くする何かを感じ取ったのである。

「臧洪。負けてなお、私に背くか」

 袁紹が臧洪に向けて、眉間を絞りながらそう言った。

「ふん」

 臧洪は目に瞋恚しんにの表情を浮かべて、袁紹を睨みつける。

──この男こそが、張一族を殺した。

 その恨みの炎が、目の奥に燃えていた。

「袁氏は四世五公に至るまで漢に仕え恩を受けてきた。王室が衰え、それをたすけようともしない者が際会さいかいを望んでも、非冀ひき觖望きぼうに過ぎぬ。惜しいかな、我が力の至らぬばかりに、天下の仇を討つことも叶わなかった。なぜ貴様に服しようというのか」

 袁紹がこの言葉を聞くと、即座に両脇の吏士に命じて臧洪の首をらせた。

 これを見た陳容が座したままに、袁紹をまくし立てたのである。

「将軍、聴かれたか。天下の暴を除かんと欲するのに、ず忠義の者をころしたのだ。これが天意に合った行為だといえるのか」

 袁紹は陳容に向けていた眼を脇に逸らした。そしてそのまま左手で合図を出し、陳容を牽き出させた。彼は牽きずられながらも

「貴様に臧洪のともがらを名乗れようか。むなしきかな、空しきかな」

 そういって、最期は

「仁義に常あり。君子にみ、小人にそむく。今日、むしろ死なん。将軍もまた、今日より生を受けることは無い」

 と言ったあとに斬られた。

 顔良は二人の人間の首が落ちるところを見て

──義とは何ぞや

何時いつかに感じた疑問を覚えた。義を持ってった人であろうとも、世の大きな流れに逆らえずに命を落とす。臧洪も、陳容も、そして、いずれは麴義も。

 自分もまた、この波に飲まれるのかもしれない。それが恐く感じた。


 臧洪と陳容の死したのち、顔良は戦後処理のために、城の中に入った。

 門を潜った途端、いや潜る前から不快な匂いが鼻をつく。半年以上の間、臧洪はこの城に籠っていたのだ。死人も相当に出ていただろうと思ったが、それにしてはあまりにも濃い匂いにせ返った。

 壁の中。辺りを見回すと、人の形をしたものがごろごろと転がっている。腐って蝿のたかるもの、未だ白い肌のもの、そして骨を露わにしたもの。

 折り重なるようにしてたおれている。

──これが、われらのしたことか

 ここにいる者たちは、みな臧洪の誠実さに魅せられて共に籠城したに違いなかった。

 そういった、無辜の民なのである。それを閉じ込めて、鏖殺おうさつしたのだ。

 顔良は盧植ろしょくがかつて行った、広宗における包囲の光景を思い出した。あの時はけつを設け、民が逃げられるようにしていた。董卓とうたくの手によって一度は解かれたが、皇甫嵩(こうほすうの手によって再び敷き直され、制圧した折には二万と公称される首を獲りながらも、その後は温情を持って民を導いた。

 だが、ここは死者こそ二万より少なくとも、よりむごく感じたのである。

──この戦いはただころすためにしたのだ

そう言われれば信じたくなるほどの光景だ。



 生きていた者がいた。

 顔良はひざまずいて水を飲ませ

「命は取らない。だが──」

言い終わらないうちに、男は

「太守様、太守様はどこに」

うめいた。顔良の口から事の顛末が出そうになったが、寸出すんでのところで堪えた。

「いまは、お上と会っておられる」

 精一杯の嘘だった。

──下手な事が口をついた

と思ったが、男は安心したような表情をした。

「なら、良いんだ」

 男は微笑んでいた。

 水をひとくち、ふたくちと飲んで息を入れたところで、顔良はこれまでの城の様子を男にいた。男の表情が一変した。

「話したく無いなら、話すな。それも、お前のできる事だ」

 臧洪たちの最期を知っているだけに、無理強いする気にはなれない。顔良が

「悪かった」

といって立ち去ろうとした時、男は掣肘せいちゅうしたのである。

「どうか、どうか訊いてやってください」

 その言葉は男一人だけの思念では捻出し得ない、鬼気迫ったものだった。


 顔良は城壁に登って、朝日を見ていた。

 赤紫に染まる空を見ると、いつもは心が晴れやかになるものだが、今日ばかりは陰鬱として心が晴れない。

 男から城の中で起こったことをすべて聞いたが、惨憺さんたんの二文字で表すような、軽いものではなかった。あまりに凄絶な様子を伝え聞いて、心が揺らいだのである。

 城にいた者は、最初は薄い粥を啜って飢えを凌いでいた。

 しかし、備蓄している米や麦、まめには限りがある。やがて、それらは尽きた。

 すると今度は、城や廩の中に這って出てくる鼠や虫、そしてまばらに生えてくる雑草を煮て食べた。どぶ臭く、平常ならとても食べられないようなものを、この時ばかりは鼻をつまんで口に運んだのだという。

 臧洪は、そこまでして自らについてくる人々の姿を見て、自らは恵まれていると感じたに違いない。そして、彼らの払っている犠牲に対して、自らも相応の犠牲を払わねばならないと考えたのかもしれない。

 彼は、愛妾あいしょうを殺した。

 そしてその後、あつものを振舞った。

 将兵らは臧洪の、人倫の竟地に至った行いに

「われらの為に、ここまでしてくださるとは」

と感じ入って、死ぬまでついていこうと決心した。将兵だけではない。城の中にいた老若男女の全てが、心からの忠誠を誓ったのである。

 身命を賭すとはこのことなのだろう。共に籠った八千人の人々は頑強に抵抗した。女子供までもが矛や弩を手繰たぐって、袁紹の軍と戦った。

 だが訓練された兵士と、玉石混淆の衆徒──ましてや女子供を含むような──では、まるで力量が違った。結果として七、八千の人民がほとんど死に、臧洪らだけが生きて城外に引き立てられたのである。

 その中を、あの男は生き延びたのである。

 臧洪の抵抗の裏で起こっていた事。これだけの人々を巻き込んで起こした反乱の真実を話せば、むしろ臧洪の行為は疎まれるだろう。そうすれば、袁紹の風聞に傷がつくこともある程度は避けられるかもしれない。

──だが

 顔良は話す気になれなかった。

 人の苦しみをもって、人の栄誉を守っても良いものなのだろうかと、逡巡した。


 男に

「お前は一人だけで、ここにいたのか」

と訊いた。

 途端、男は目をおよがせて喉に手を突っ込んだ。先に飲んだ水を吐いてしまうと

「許してくれ、許して──」

ぼろぼろとなみだこぼして、その場にうずくまった。

 顔良は全てを察して

「吐くな、吐いてはいけない」

背中をさすりながら、そう語りかけた。

 この男の命を縮めてしまったのかもしれない。果たしてこの後、自責の念に耐えられるのか。

──義とは、何ぞや

 顔良は、後悔していた。



 袁紹が、公孫瓚と臧洪の反乱に手を焼いている頃。周辺地域で動きがあった。

 興平二年(195年)に献帝が長安ちょうあんを脱出した。

 郭汜かくし李傕りかくの両者が、郭汜の妻の猜疑心から内紛を起こし、共に軍を率いて争うようになったことを切っ掛けとしている。

 彼らの盟友であった張済ちょうさいが、どんどんと激化していく争いを見て

──これでは権力の基盤たる天子が害される

と感じ、二人に対して和議を結ばせると同時に、洛陽に献帝を送るようにさとしたのである。

 李傕、郭汜の両名はこれに同意して洛陽への護送について行くこととなるのだが、

──これは罠だ。こやつらは俺から天子を奪おうとしている

と思った郭汜が、その態度を翻して献帝を取り戻そうとした。

 しかし、献帝についていた董承とうしょうの抵抗によって跳ね返されると、郭汜は李傕、張済と手を結んで官軍を追った。

 弘農こうのうにおいて官軍を破ったが

──楊奉ようほうと結んで恩を売れば、離れていようとも手繰れるわい

そうして、もと配下の楊奉と和議を結んだうえで、洛陽へと献帝を帰還させたのである。


 これに反応したのは、袁術、曹操、そして袁紹だった。

 袁術は

「天子はすでに賊にすら追われる身。命数すでに無し」

と言って、自らが帝位にこうとした。これには讖緯しんい書に

──代漢者當塗高

という一文があったのも理由である。

 この中の一字である「みち」の字が、自らのいみなの術と、あざなの路とに通ずることから、彼自身の中で確信を深めたのだ。

 もっとも、この文章は如何ようにも読める、非常に抽象的な文章ではある。だが、これをいかに解釈するのか、というのはこの時代における非常に重要な学問であった。

 さて、袁術は自らが帝位につく前段階として、献帝を自らの居城に招こうとした。

 董承に対して使者を送ったが、県廷の周囲にいた人物は

「曹操こそが最も善し」

と言って、これをうけなかった。

 これはもしかしたら、献帝らの思惑として

──袁家では力が大きすぎて、吞まれてしまうのではないか

という一存があったためかもしれない。


 一方、曹操は定陶ていとうにて呂布を、雍丘ようきゅうにて張超を破ったのちに、献帝脱出の報を受けた。

 建安けんあん元年(196年)の正月に荀彧じゅんいく程昱ていいく勧説かんせつに乗って、献帝を許昌きょしょうに迎えた。

 曹操は大将軍、武平侯となり、袁紹に対して大尉(軍事宰相)の地位を送ろうとした。

 袁紹は大将軍という地位が、かつて外戚の最高位でもあった事実を思い出し

──これでは曹操のほうが、天子に近いということではないか

と考えてこれを拒否すると

「ならば、大将軍の地位を袁紹殿に譲る」

そういって曹操は袁紹を大将軍とし、自らは司空、行車騎将軍となって袁術に賞金を懸けたのである。

 この一件は袁紹からすれば、もともとの家格に従った順当な行為であった。しかし、はたから見れば袁紹の狭量さと、曹操の寛容さを同時に見せつけられたようなもので、曹操に対する支持が集まるのは当然の結果だったといって良い。

──腐者の家に生まれながら、調子に乗りおって

 袁紹の心は晴れなかったかもしれない。なぜなら、自らの判断の遅れによって献帝を自らのもとに引き込めなかったからである。そのせいで、自らの名に傷がついた。

 傍流の人間、めかけばらの子として目を向けられず、袁氏の中でも地位が低かった。自分の力で這い上がろうとして、多少の無理をした。

 奔走の友を作っているときは

「袁氏を滅ぼす気か」

と叔父の袁隗えんかいに怒鳴られた。

 さきの界橋かいきょうの戦いでも、敵に囲まれたときには田豊でんほうの諫めを聴かず

「大丈夫たるもの、邁進まいしんして死せども陰に隠れて生きはせぬ」

そう叫んで兜を地に叩きつけた。

 だからこそ、いま曹操が己の上にいることが許せなかったのである。

 そして袁紹はこののち、曹操に煽情的な文書を送るようになっていく。


「元皓殿、元皓殿は居られますか」

 顔良は、田豊のいえの前で使用人にそう尋ねていた。

「申し訳ありません。元皓様はいま、大事な用事の最中でありまして」

「そうであっても、少しでも良いのです。お顔を合わせたく」

「いや、困りましたな」

 使用人は眉を八の字にして、右顧左眄うこさべんしながら額に手を当てた。

「もうよい、通せ」

 門戸の奥から、白髪交じりのひげを蓄えた硬骨そうな老人が出てきた。

「もしや、あなたが元皓殿ですか」

「ああ、そうだ。とりあえず、中に入れ」

 右手を大きくくようにして、顔良を中に導いた。

「顔叔善。麴義から言われてここに来たのだろう。実のある話があるのか、ただの挨拶か。どちらだ」

 頬杖をつき、顔良を威圧するように問いかけてくる。目は切れ長で、冷ややかな鋭さがある。

「麴将軍が処断され、天子様は曹操が手中に収めました。いまだ袁術は健在。われらは今、窮地にいるのではないかと思いまして」

 顔良は震える唇を動かして、田豊の思うところを引き出そうと言葉をつむいだ。

「ふん、ただの挨拶か。ならば去れ」

 田豊は興味を失ったように顔を背け、むしろから立ち上がると奥に下がろうとする。

「お、お待ちください」

 顔良は声を張って田豊を引き留めようとしたが、田豊の歩が止まることはない。

「田元皓殿、貴公は麴将軍が処されたことをいたましく思わなんだか。天子が殿をたのまなかったことを恨めしく思わなんだか。袁術がまだ豫州に根を張っていることをじなんだか」

 思うだけの言葉をもって、田豊の背に捲し立てた。

 田豊がぴたりと足を止めた。

 肩が揺れている。どうやら笑っているようだ。

「顔叔善よ。そなたは赤子のようだな」

「なっ」

 顔良もこのときには不惑に近い。自らを赤子とわれたことに、多少の憤懣ふんまんを感じた。

「麴義は自らがそのうちに処断されることを知っていながら、何も策を練らなかった。これは傲慢だ。曹操が天子を庇護したが、すでに漢の天下ではない。彼奴きゃつはきっと捨て駒のように扱うだろうよ。袁術はすでに命運が尽きている。放っておいても滅びる」

 ゆったりと、しかりとした口調でそういうと、舘の奥へと姿を消した。

 きっと、この人に自分は敵わない。顔良は無言のまま、自らの宅に向かって帰っていった。



 建安二年(197年)の正月。袁術は部下の進言を採用して国家を建てた。

 国号は仲。都は寿春じゅしゅん

 袁術の行為は当然、諸侯から反発を受けた。また、袁術の政は世情に合ったものではなく、奢侈しゃしふけって人民を苦しめるものであり、離反者が相次いだ。

 このとき、劉備を徐州から追い出し、実質的な徐州の支配者となった呂布に使者を派遣して

「奉先殿のむすめと朕の子との婚姻を望む」

といって自らの陣営に引き込もうとしたが、呂布配下の陳珪ちんけい

「いま、袁術は天下の敵です。袁術は自らの行いで窮しているところを、一時いっときだけ補おうとしているのです。これに応じてしまえば呂徐州も諸侯から大挙として攻められるどころか、事が終われば袁術からも命を狙われますぞ」

と説得し、呂布もこれを然りと受け取って、逆に使者として送られてきた韓胤かんいんを曹操に引き渡すことによって、身の安全を図ったのである。

 また、袁術の実質的な配下であった孫策そんさくは、袁術から借り受けた兵士をもって丹陽たんよう郡、郡、会稽かいけい郡といった江東こうとう地域を、おおよそ手中に収めた。

 丹陽太守として遣わされた袁胤えんいんを配下の徐琨じょこんが追放し、さらに袁術即位に対する諫言も聴き容れられないと見ると

「袁術は驕慢きょうまん不義の人物なり。今こそ叛旗を翻す時だ」

と軍令を発し、袁術の下にいた孫策に縁故のある人々も孫策に附いた。

 こののち朝廷より討逆将軍、呉侯の位と、袁術討伐の詔勅とを受けている。

 曹操はここまでの間に、えん城での大敗や、袁紹との対立の露見などがあって各地を大きく移動していたが、いよいよ袁術が帝位を僭称せんしょうしたとあって、呂布や孫策と盟を結んで袁術を包囲する形を作った。

 また、このころ曹操の下には劉備がいた。

 徐州を呂布に奪われたのち膝を曲げた劉備だったが、小沛にて兵を集めているところを疑われ、呂布の軍から攻撃を受けて敗走した。そこで頼ったのが、献帝の下にいた曹操だったのである。

 劉備は徐州や豫州にて暴れていた呂布の同盟者の楊奉、韓暹かんせんを討ち取ると、呂布がそのことを恨んで、建安三年(198年)の春に劉備を攻めた。

 半年以上の籠城ののちにはい城が陥落し、劉備は妻子を残して遁走とんそうすると、曹操と合流をしてついに呂布を打ち破り、左将軍の地位を得る。

 のち、劉備は曹操を暗殺する計画に加担したが、袁術討伐を口実にして徐州に逃れた。


「われの命数が尽きていることは、すでにこの通りである。戦に敗け、飢饉が起き、人民の怨嗟えんさの声が宮中に聞こえるのは、われの不徳の致すところに他ならない。もうこの際、われは帝位なぞに興味もない。本初よ、この帝位は貴公に譲る。財宝も、土地も、将兵も。どうか、助けてはくれまいか」

 袁術からこの手紙が届いたのは、建安四年(199年)の四月だった。

──この高慢さがなければ、生き永らえたものを

 袁紹は袁術の幼いころからの顔を思い出しながら、これを畳んだ。

「袁譚、何かがあるといかん。軍を率いて袁公路を迎えよ」

 袁術は、袁紹を頼ろうとしたが、道中で曹操の派遣した劉備と朱霊しゅれいに阻まれ停滞した。

 そして六月。

 病にかかり、部下に拒まれ、麦くずをむさぼりながら血を吐いて死んだ。

 袁紹はこれを聞いて

「袁術ともあろうものが、このざまか」

そうつぶやいて、次の政務に取り掛かった。



 劉備が徐州において、曹操に反乱を起こした。

 中原の大勢力となっていた袁紹に救援を求めていたが

「子の病が心配なのだ。この子こそ、わが後継に相応しい」

という理由でこれを拒んだのである。

「わが主はここまで愚劣であるか」

 そういかったのは田豊であった。

 献帝が曹操のもとに行ったとき、力ずくでも奪取するべきといったが聞かれなかった。

 今回もまた、相手の虚をつく絶好の機会だというのに、我が子の病を理由に軍を出さぬとは。

「子の病など、女中にでも任せておけばよいだろう」

 震える声でそう言うと、不意に後ろから気配を感じた。

「元皓殿」

 気配の正体は顔良だった。

「ふん、貴様か」

 田豊は、つまらぬ相手につまらぬ譫言うわごとを聞かれたと思った。

「殿は、最近になって臣の話を聞かなくなりました」

 聞かなくなったのは最近からではない。元からその気はあった。ただ、それが顕在化したのが最近というだけの話だ。

「曹操は許昌に劉備を招いた時、こう言ったそうだ。英雄は君と余だけだ、とな」

 不思議と、顔良になら自らの胸襟きょうきんを開いて話しても良い気がした。

「われはな、叔善。この機を逃すことがあれば、曹操との戦に速攻の戦を仕掛けることができなくなると思っておる」

「はい。袁術も公孫瓚こうそんさんもいなくなった今、殿は曹操と真正面から対することができます。対する曹操も、呂布や張繍がいなくなった今、背後を気にする必要はありません」

「左様。孫策は江東の地盤を固めるのに必死、劉表は自ら出るような戦はしない。だとすれば、殿と曹操が正面からぶつかり合うのは避けられない」

「だからこそ、場を荒らせるのは劉備のみと」

「あやつは敢えて曹操との対決を選んだ。天下に名を轟かせるやもしれんな」

 田豊は口の中に苦みを感じた。口惜しさが胃の腑を押して、苦い液を舌の根まで込み上げさせているのだ。

「河北を制する袁紹よりも、徐州一州のみの劉備のほうが、天下の趨勢に与える影響は大きいのかもしれぬ。われは、一体たれの為にこの頭を使っているのか」

 顔良が口を閉じた。思った通りだ。顔叔善は真っすぐだ。真っすぐすぎて、自らの身を削ることでしか人を導けないのだ。きっと、劉備の下に自分で行くというに違いない。

「元皓殿。私が劉備のもとへ行き、殿のもとに引き込めないか、図ってきます」

 そうか、やはりそう言うか。引き留めたほうが良いだろう。

 劉備を引き込んだところで、今の袁紹の態度では佞臣ねいしんの言に右往左往するだけになろう。

 さらに言えば、劉備はこれまで多くの群雄に仕えてなお、離れていった事実がある。端的に言えば、梟雄の風格がある。劉備の力を使って勝ったとしても、それは諸刃の剣だ。

 そうなってしまえば巨大な戦力を有してなお、負ける。

「──顔叔善。劉備のもとへ行ってこい」

 田豊は、これが最後に講じる策かもしれぬと思いながら、顔良にそう言った。

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