中
顔良、字は叔善。
冀州安平郡堂陽県に産まれた。
長兄の毅と次兄の粛に次ぐ三男として学問一家で育った彼は、田畑を耕しながら毎日を過ごしていた。
しかし時代が混迷に向かっていく中で、ただの三男坊とは違う生き方を強いられるようになっていく。
流民たちの暴動や、黄巾の乱を経験して、彼の持ち得る才を発揮していった先に何が待ち受けるのか。
日の出を迎える第二話。
黄巾の乱が収まったことを祝して、朝廷は光和七年(184年)の十二月に改元を行い、中平元年とした。
しかし天下を揺るがした動乱の爪痕は凄まじく、その後も各地で小規模な反乱が頻発。乱の収束後も自らの定住する場所を失っている者は各地に結集して、独自の勢力圏を作り上げた。
このような情勢下でも朝廷内での権力争いや民への圧迫は已むことを知らず、世は荒れるばかりになったのである。
顔良は変わらずに堂陽で次兄の粛と家の田畑を耕す生活をしていたが、阜城の手前に駐屯していた時の、あの老兵の言葉が忘れられなかった。
──必ずや、爪を研いでいたものが起つ
これからそうなったならば。すなわち国の體が崩れ去るような事態が起こったならば、自分はどのような行動をするべきなのだろうか。
夕刻になって畑仕事を済ませ、家に帰って座しているときにはいつもそのような自問自答を繰り返していた。
家を出て自分も放浪してみるか、碩学の門下に入って教えを授かるべきなか、田畑を耕して平穏となるのを待つのか、それとも自分もいっそ賊となってみるか。
放浪をしたならば野垂れ死にをするだけだろうし、教えを授かっても生かせる場所がない。田畑を耕しても既に賊が多くいる以上は平穏を望めないし、賊となってしまうのは信義に外れる行為である。
辺りがすっかり暗くなって月の明かりが窓から見えた時
──こんな人は出てこないのだろうか
と淡く思った。
黄巾の乱から三年経った中平四年(187年)。冀州中山国の太守を務めたこともある張純という人物が反乱を起こす。彼はこのとき幽州にいたが、黄巾の乱によって辺境の地における漢の勢力が弱まったことを見て
──いまならば張温と漢に仕返しができる
と、かつての恨みを晴らすように烏桓大人の丘力居と手を組んで幽州広陽郡の薊を中心にして周りを荒らし、右北平郡や遼西郡の太守を殺して幽州を掌握した。
このとき朝廷は、同じく反乱を起こしていた涼州軍閥の討伐のために、各地に派兵を求めていた。それに応じた公孫瓚は、自らの本拠である遼西郡の令支から涼州に向かおうと幽州を移動していた折に
「張純反乱」
の報を聞いたのである。
実を言えば、張純の乱の原因の一端はこの公孫瓚の出師にあった。
涼州の反乱に対処せんとした朝廷から、その督軍を引き受けた張温が将帥を選定する際、張純が従軍を望んでいたのにも関わらず、彼をではなく公孫瓚を呼んだのである。
張温が張純を敢えて呼ばず、公孫瓚に従軍の指令を出した理由はよくわかっていない。
あるいは、張温は臆病だったとあるので、張純の動きにある自ら戦に参加しようとしたり、恨みを抱いて乱を起こしたという人物描写から想像できる、彼の烈しい性格を嫌ったのは一因にあろう。
さて、公孫瓚の軍と張純、丘力居の軍は幽州にて戈矛を交えたが、強力な騎馬部隊を編成していた公孫瓚が野戦において連戦連勝した。
叛乱軍を都度敗走させたが、いまだ黄巾の乱の余波が残っているせいで、張純の乱とは別に各地で叛乱が起こってしまう。
張純は遼東に近い石門山という地で公孫瓚に敗れると、多勢に無勢であると思ったのか、長城の北へと逃れた一方で、丘力居は逆に冀州、青州、徐州に進出して各地の反乱勢力を糾合し、十万ともいえる勢力を築き上げて、再び幽州に向かった。
張純を追いかけて深追いをしてしまった公孫瓚は、北辺にある管子城にて南から戻ってきた丘力居に包囲を受けて、数百日という戦闘の末に両軍の糧秣が尽きて双方が撤退すると、朝廷はこの乱がなかなか収まらないのを見て宗正(皇室の名簿管理や諮問などを行う)の劉虞を幽州へと派遣した。
この劉虞は、後漢創設者の光武帝の長男である劉彊の末裔という由緒ある血統と、幽州の刺史を務めたときの徳治に評判があった人物である。
彼が幽州に入った途端、状況は一転した。もともと烏桓などの異民族に対して融和的な態度をとって、それによって慕われていた人物であるため、烏桓大人たる丘力居も
──劉虞殿なら間違えまい
と講和の準備を始めた。
しかし、これに焦ったのはこれまで命を懸けて戦ってきた公孫瓚とその配下である。
たくさんの将兵を失いながら張純や丘力居に対峙してきたというのに、劉虞の舌口ひとつで納められてしまっては自分たちの面目が立たない。
その焦りから公孫瓚はなんと、丘力居が劉虞に送った使者を捕らえて斬ってしまった。
公孫瓚はこの首を
「劉伯安様からの返答である」
という書簡とともに丘力居へ送ったが、これまでの劉虞があくまで融和を基にした外交を敷いてきたことを知っていた丘力居は
──きっと公孫瓚の策謀に違いあるまい
と相手にせずに再び使者を出し、今度は見つかりにくい間道を通らせて劉虞のもとに辿り着かせた。
劉虞は
「確かに」
と短い言葉のもとにこれを受け取ると、展開していた軍を撤退させ、万一の時に備えて土地勘のある公孫瓚を、そのまま右北平に駐屯させてうえで帰還した。
張純は孤立したため鮮卑のもとに逃げ込んだが、のちに自らの食客に殺されることになる。
冀州は丘力居が来襲した時に叛く民もいたものの、張角らがいた時よりもその数は少なく、むしろ隣接する青州や、その南の徐州のほうが、再びの叛乱を目論む勢力が多かった。
これは黄巾の乱が起こった後に、張角や張宝の討伐に当たった皇甫嵩が、州内で税を免除するなど緩和的な政治を敷いたからである。
この時の緩和の範囲は民のみならず、官吏にも及んだという。特に汚職をした吏士に対して
「貧窮させてすまなかった。いりようならば、またこれに加えて給わせよう」
とまで言って、後日改めて金銭を与えたという話が残っている。こうして金銭を追加で与えられた者の中には
──あの皇甫将軍に恥をかかせるとは
と恥じ入って自死する者も出たというのだから、この時の徳治というものは尋常のものではなかったとみることができる。
皇甫嵩の経世済民はたった一年ばかりのものであった。しかしこれを経験して活気を取り戻した冀州の民たちは、またこうした治世となることを期待して生活することができたのである。
顔良は
「いまだ漢王朝にはこのような優れた人がいるのだ」
と声に出して欣快の表情を隠さなかった。
何しろ、皇甫嵩をこの目で見たこともあるし、どのような戦いをする人なのかも知っている。峻烈な威と寛大な徳を両立できる人間こそ必要とされているが、しかしてそんな人はこの世にそう存在しない。
──いっそ皇甫将軍が漢を治めたならば
そう思ったが、彼に何か野心があったならば、このように人を想った政はできなかったかもしれない。
「ならば、わたしがやるしかない」
ともに土地を管理している次兄の粛と話し合って、周りにいる民たちの負担が軽くなるように何をすればよいのか話し合った。
「年貢として納めるべき麦の量を皇甫将軍の行ったの年貢免除が終わったのちも、以前の五分の三にしばらくの間保ったのち、世情が安定したら廩にある麦菽(麦と豆)から十分の七を五年間、衙(役所のこと)に収めるようにできないか」
という陳情を堂陽の衙に届けた。
衙の中には兄もいる。きっとすべては聞き入れてはくれなくても、部分的には受け入れてくれるはずだ。そうおもって衙から応えが返ってくるのを待った。
十日ののち衙から呼び出され、出した陳情に対しての回答を得ることになった。
「先の陳情について、こちらでも検討はした。だが、先の乱によってこちらも疲弊してしまった。言われた通りの条件ではこちらも立ち行かぬと判断し、以下の通りでよいならば、これを行うことにする」
吏士の発した言葉は顔良らの思った通りのものだった。そのために、こちらもやや数字を有利なものに設けていたのである。あとは納得のできる数字が吏士の口から出てくるかどうかであった。
「まず年貢の量であるが、陳情にあった通りで問題ない。向後五年間は規定された量の五分の三とする」
まずは良い結果を得られた。しかし、これからが重要だった。廩から出さなければならない作物の量が免除された年貢の量と釣り合っていなければ、いずれ破綻が起きる。
「そして五年の免納を過ぎたのち、廩に蓄えられた麦菽を六年間にわたり十分の六、納めてもらう」
顔良はこの数字を聞いて、明らかに納めなければいけない量が増えているように感じた。十分の七が五年間であれば十分の三十五となり、十分の六が六年間なら十分の三十六である。
わずかだが納めるべき量が増えているし、何より今の不安定な世情では期間が増えるということに危なさを感じる。
いつ、何が起こるのかわからない。廩から追加で年貢を出さなければいけない期間のうちに、また大乱が起きればそれだけ民の負担が大きくなる。それでは、本末転倒でしかない。
「それでは、納得いきません。われらが望むのはみなが安心して食えることです。徴税におびえながら過ごすことになれば、また民は安住の地を目指して流浪します。それが何を呼ぶのかは吏士殿もお判りでしょう。どうか賢明なご判断を」
顔良は語気に力を入れた。この機を逃せばまた天下が危うくなる。それを避けるための一歩が、この陳情にある。そう信じて疑わない彼は一歩も引かない覚悟で、いや、捕らえられ罰される覚悟でここにきている。
吏士は黙った。しかし表情を見るに、顔良の言葉にむっとしたのではない。自らの中にある義心と、官吏として収支を考えなければいけない心とが鬩ぎあっているのである。
吏士の姿を見た顔良は、その表情に明るさを見た。
──きっとこの人は、受け入れてくれる
その確信を持った時、俯いていた吏士は顔を上げて
「わかった。むしろ、三年。十分の八とできないかを掛け合ってみよう」
蓄えられた髯を揺らしながら発した言葉が耳に届いたとき、顔良は喜色を満面にした。
この努力はすぐに周囲の人に届き、三度顔良は称えられることになる。
このころにはすっかり堂陽のあたりで有名になり、顔叔善の名を知らぬ人は居なくなったといえる。
それから四年。中平六年(189年)となった。
この年の三月は、先述した張純の乱が終熄した時期である。
霊帝の体調がすぐれない日々が続き五月に入って没すると、少帝が即位した。
しかしこの少帝の即位の際にも外戚間での対立が起き、霊帝の母親であった董氏と、皇后の何氏の間で争いが始まってしまった。
霊帝に寵愛されていた宦官の蹇碩が霊帝からの遺詔を受けたとし、劉協を支持すると、董氏の甥である董重と組んで天子として祀り上げようとしたのに対し、宦官を汚職や暴吏の蔓延の根源であるとを嫌っていた士大夫と、何氏の兄である何進が手を組んで、のちの少帝である劉辯を推戴し、これを阻止しようとしたのである。
結局この争いが劉辯側の勝利に終わり、蹇碩や董氏一派の排除という結果を招いたが、この事件はのちに繋がる禍根を残すことになった。
この騒動が一段落したのち、大将軍の何進が十常侍をはじめとした宦官らの排除に動き始めた。
朝廷の内外でいまだ汚職や搾取が行われていることに対して、効果的な対策を打てなかったことで宦官排除の議論が朝廷内外に紛糾したことや、自身もさきの後継争いで蹇碩に謀殺されかけたことで、宦官勢力に恨みを持っていたことが引き金である。
当初、何進は名家の出身として名を知られていた袁紹らと積極的に結び、
──悪しき膿は出さねばならぬ
と意気込んで計画を諮っていた。
しかしここで待ったをかけた人物がいる。皇太后となった異母妹の何氏、そして義弟の何苗である。
もともとこの三人はは屠殺業を営む家で生活していた。
何氏は母に似た美貌を持っていた。それに目をつけた宦官に賄賂を送ることで後宮に入ると、そののち霊帝から寵愛を受けて貴人(後宮における最高位)となり、最初の皇后である宋氏が王甫の謀略によって廃されたのちに新たに皇后となった。
しかし彼女の性格は生来、激情家であった。
霊帝の寵妃である王美人が懐妊し、劉協を産むと、これに不満を抱いた何氏は
──このままでは我が身が危ない
と思ったのか王美人を毒殺した。
当然ながら霊帝は
──この毒婦を生かしてはおかぬ
と激怒し、何氏を誅さんとしたが、このときも宦官らが助命を嘆願して事なきを得ていたのである。
宦官らが何氏を庇ったのは、彼女自身が宦官あるいはそれに近しい人物に取り立てられたこと。そして何より、妹が十常侍の一人である張譲の養子たる張朔の妻であったことが関係している。
何氏はこの行為に報いようとした。
そして何苗も彼女と宦官の間に生じている縁を重んじた。考えるならば、ある程度成長してから出会った兄よりも、幼い時から共にいた同腹の妹への方が情が強かったのだろう。
そうしてこの兄妹は、何進より宦官に駁す姿勢をとったのだ。
これに困ったのは何進であった。
さすがに兄妹の間で分裂してしまうと、この状態で宦官勢力を滅ぼそうとすれば
──わが弟妹にも害が及ぶ
と考えたし、これに乗じて張譲らも何度となく宦官粛清の実行を思いとどまるように進言していたため、実行に移すことを躊躇った。
この姿勢を見た袁紹は
「弱気になれば、それに漬け込むのが彼奴らですぞ」
と何進に決起を促したうえで、
「今の洛陽には太后(何氏)たちを御せる者がおりません。ここは地方より将士を呼び込んで、圧力をかけるべきです。さすれば太后はわれらに遵いましょうし、宦官を抑えるのにも役に立ちます」
つまり、軍事的な圧力をもって圧し潰してしまうことを提案している。
これに反対したのは盧植らであった。
「たしかに地方より軍を呼べば、太后らも怯えるでしょうし、宦官が武力蜂起した時も容易く対処できましょう。しかし無道理に洛陽を震撼させることがあれば、のちに害が及びます。凡そこれは、剛を持って剛を制すの法。硬いものをぶつけ合って片方が砕ければ、もう片方は無軌道にその後ろにあるものをも砕きます。我々が相けんとするものが斃すべき者共の後ろにあることを、努々忘れなさいますな」
双方の意見を聞き届けた何進は盧植らの意見に理があるとして、慎重な態度をとっていた。
だが四世三公といわれる袁紹は、漢王朝が持ち得る力がすでに弱まっていると考えて
「いま決起しなければ、やがて大乱に繋がりかねません」
「洛陽の中にいる軍だけで突き崩そうとすれば、宦官に察知されたときに叛かれることもあります」
「帝位を宦官の恣にすることが大義ですか」
などといって促した結果、何進は
──致し方なし
と肚を括って外部から諸侯の軍を呼び寄せると、袁紹に司隷校尉の役職を授けたうえで洛陽周辺の軍を糾合させて大軍団を作り上げたのである。
ところが、ここまでで期間を浪費した上に、議論の紛糾した場面もあって、何進らの動きは外部に漏れていた。
張譲の耳に入るのもその分早く、策謀を練らせる時間を作らせることとなり
「大将軍何進、洛陽に軍を輳めている由は存じておる。朕が詔勅を下すゆえ、参内せよ」
という偽の詔で参内した何進を嘉徳殿の前で取り囲み、ついに殺した。
張譲らは偽装した詔と、何進の首をもって都の内を掌握しようとした。
だが何進は人望があった。自らが高貴な生まれでないために、周りにいる者たちと足先を合わせることができる人物であり、そのことが宦官に対する反撃を生んだのである。
「何進将軍の仇討ちである。宦官どもは絶対に逃がすな」
何進の部曲であった呉匡、そして即戦派であった袁術と袁紹がおもだった軍を帥いて宮中に入り込むと、誤って手に掛かった者も含めて二千人余りを皆殺しとした。
この混乱の中張譲ら少数の宦官は、少帝(劉辯)と陳留王(劉協)を連れて小平津まで逃げたものの、董卓らの帥いる軍勢に追いつかれて入水し、また少帝と陳留王はその周囲を歩いていたところを董卓によって保護された。
「陛下、玉体に傷はございませぬかな。われらが来たからには、もう安心なさいませ」
董卓は笑みを浮かべて問いかけたが、少帝はここまでの動乱の恐怖で唇が震えて
「すまぬ」
としか言えなかった。
しかし、陳留王は
「陛下に傷はございませぬ。宦官らも横暴していたとはいえ、そこまで不躾には扱わないでしょう」
とはっきりとした目と声で董卓に応えたのである。
──これは
董卓はこの時、目のうちに野望の火を灯した。
冀州では中央の動乱についての情報はよく入ってくるものの、その影響がそのまま届いてくることはなかった。
──所詮は隣の州で御上が行っていること
という風に思う民も多かったかもしれない。それよりは、自らのいる郡や県に直接的な害があるかどうかこそ、重要だっただろう。
顔良の周辺ではいまだに税の徴収に猶予が続いていたことから、廩は八、九割がた満たされるようになった。
さきの洛陽の動乱の時にいくらか兵糧として供出したが、それでもなお
──即座に枯れることはあるまい
と安心できるだけの量が蓄えられている。
畑を耕し、今年の収穫を楽しみにしつつ、収穫量はいくらほどになるのかと目算をしていた時、次兄の顔粛が手に簡をもって慌てた様子で近づいてきた。
「どうしました、兄上」
「それが、洛陽で天子が廃されたらしい」
「なっ」
顔良は顔に雪を投げつけられたかのような表情で兄の顔を見つめると、渡された簡に書かれた文章を読み下した。簡は、堂陽県の衙にいる長兄の顔毅からのものである。
そこには簡潔に一文だけ、こう書かれていた。
「董司空、天子を廃し陳留王を帝とす」
この文に衝撃を受け、思わず手に持っていたものを土中に落としてしまった。
これまで父から話されてきた宦官と外戚との争いでも、帝を傀儡とするような行為はしたことはあろうが、廃してしまうことなどなかった。
──董。まさか広宗の時の董将軍ではあるまいな
もしそうだとしたならば、いち地方軍閥の将軍にすぎなかった男が、動乱の最中にそこまでの力をつけたということではないか。
さきの太后である董氏と同姓であることから、何氏とその後ろ盾をもって即位した少帝を嫌った可能性はあるが、それにしても直情的にすぎる。
「これでは、世は収まらない」
いつの間にか、頭上は曇天となっていた。
董卓が入洛し、武力を背景にして専横を働いていたころ
──我々のした行為は意味がないどころか、董卓の専横を許すとは
と唇を嚙んでいた人物がいた。袁紹である。
かれは少帝の廃位を董卓が議題に挙げた時も
「我々のしたことの大義名分をお忘れか。あくまで陛下の身をお救いするためにしたことを、我らの力を持って廃したとなれば天下の非難は万丈の布帛をもってしても足りぬぞ」
といって断固として反対した。
しかし言ったと同時に袁紹は、董卓が殺意を向けてきているのを感じ取り
──まずい
そう思って、即座に洛陽を発って冀州へ向かって逃亡した。
董卓は
「袁紹許すまじ」
と意気込んで、賞金を懸けてまで袁紹を追わせたが、やがて
──袁家は名高い。諸勢力を抱いて反攻するのではないか
その不安に押されて逆に袁紹を懐柔しようと勃海郡の太守としたのである。
勃海太守となった袁紹は、董卓と対するための対抗策を考え始めた。
そしてそのひとつとして、勃海郡あるいはその周辺にいる有能な者を聚めることにした。
文に優れるものも、武に優れるものも、それぞれに袁の旗の下に集うように促したのである。当然、董卓にこの動きが察知されないよう
「今の漢には有能な者が必要です。董相国(相国はいまの首相に近い)の憂いを断つため、わたしもはたらきましょう」
と阿る姿勢を見せながらの企みであった。
この当時、董卓も自らの専横と、相国へのおおよそ強引とも言える就任で落ちた名声や威厳を取り戻そうと、多くの名士を取り立てる動きをしていた。
袁紹に対する動きもそうではあるが、自らを批判する者も採りたてて徳を示そうとしていた。だが、そこまでに行っていた略奪や虐殺などの暴虐を埋め合わせるほどではなく、次第に
──董卓を討伐する
という動きをみせる気風が高まっていたのである。
顔良のもとに、顔毅から一通の書簡が来た。
時候の挨拶や、家族の安否を尋ねる温和な文章であったが、最後の一文に
「叔善よ。いますぐ堂陽の衙に来てくれ」
とあったのを見て、顔良はただ事ではない雰囲気を感じ取ると、顔粛に家のことを頼んだのち、自らはすぐに荷造りをして長兄のもとへと事の次第を確認しに出た。
堂陽の衙につき、門兵に対して
「この衙に努めている顔伯剛に呼ばれて参った、顔叔善です。お目通り願えますか」
と腰を曲げ、書簡を差し出しながら挨拶をすると
「顔叔善、なるほど。名は知っている。すぐに通れると思うから待っていろ」
といって書簡を受け取り、門の奥へと入っていった。
しばらくすると、門兵が出てきた。
「すこし待っていれば、伯剛殿が出てくるだろう」
そう聞いた顔良は、自らが疑われなかったことに胸を撫でおろした。
──しかし長兄はどういう意味合いで言ったのだろう
意味を詮索しながら屹立とする。兄から発せられる言葉が怖くもあり、楽しみでもあった。
「叔善、苦労を掛けるな」
四半刻に満たない時間で顔毅が出てきた。
「兄上、ご用件がおありなのでしょう。どうか、お話しください」
顔良はまっすぐと、兄の目を見つめる。
「ああ、そのことだったな。喜べ、叔善。お前に袁勃海太守から招聘が来ているんだ」
「なんですって」
「お前の雄姿は、想像以上に人の間に広がっていたようだぞ」
顔毅は満足そうな顔をして、顔良の肩を叩いた。
──私が、袁家のもとに入るのか
父から聞いたことがある。袁家は四世三公の名門だ。その袁家から辟かれるとは、顔良の思ってもみなかったことであった。
「お前は行かねばならぬ、叔善。断れば」
「わかっています。家族には兄から伝えてくれますか」
「ああ。われらが家の名も、お前のおかげで上がろう」
「はい。心して向かいます」
顔良は堂陽の衙の中へと兄に迎えられ、旅に必要な金銭や食料などを受け取ったのち、即座に勃海郡の郡府へと向かった。
翌年、初平元年(190年)の正月。東郡太守の橋瑁が檄文を発した。
「董卓、権を恣に暴虐を働くとは、許すまじ」
彼らの起こした反董卓の動きは、よく漢の衰退を見越した各諸侯や群雄による決起である、という見方をされることがある。
確かに一国の相国となった董卓に対して反抗するということは、その権力基盤を確保させた朝廷に対して叛意を向けるということである。もとは陳留王であり、少帝の代わりに推戴された献帝(ここではあえて通りの良いこの諡号を使う)も
──われの生殺与奪は董卓が握っているのか、諸将が握っているのか
そのことで恐怖心があったはずである。
ところが、この見方には疑問もある。
これまで外戚と宦官の間で争われていた、天子を元手とした権力争いがあった。そして劉辯と劉協の帝位争いの際に、もしくはそれ以前の党錮の禁の際に官僚とまで結びついて拡大され、収拾がつかなくなった結果が、この動きなのではないか。
つまり董卓と献帝は距離が近いだけで、決して反董卓は漢から離脱する動きであると直結はできないだろう。
いずれにせよ、天子を守らんとして漢の内から決起したはずの諸将が、今度は天子のいる宮城の外から漢を攻めるような図式になったのは、この国の衰退を露骨に表す事態であった。
その反董卓を抱げる連合軍で盟主として推されたのが、勃海太守とされていた袁紹だった。
前述したとおり、袁紹は名門の生まれであり、ことに及んで果敢な人である。袁氏の生まれの嫡流にあたる人物に、同じ年代の袁術という人物もいるが彼はこの時期、朝廷の中にあって動くことができなかった。
冀州より発った袁紹の軍は、洛陽から黄河を挟んだ位置にある河内郡に駐屯し、都を睨む格好としたが
──董卓、ひいては漢の軍は精強である
として攻め込むことを躊躇していた。
顔良はその能力を買われて、兵を監督する任についていた。
しかし買われた能力は賊将を打った剛腕ではなく、そこに至るまでの機転である。
「袁太守は、何を思われて河内に駐屯されているのだろうか」
戦では機先を制する者こそが勝利するのではないのか。董卓の疑心が膨れ上がる前に軍を洛陽に入れてしまえば、自然と洛陽の内から董卓を討つ者が出るはずである。
──私の眼は狂っていたのか
そんな疑問が頭の中を巡った。
初めて袁紹の立ち振る舞いを見たとき、顔良は
──太陽のような人である
と感じた。言葉がはっきりとしていて、驕りを見せない。鷹揚に両手を振って歩いたと思えば、将兵とは慈しみを持った態度で接する。
この人の下で働きを重ねれば、まず間違いはない。この明るさと温かさに照らされない人はいないだろうという直観である。
しかし、ここでは軍をいつまで経っても進発させない。曹操という人物からも
「躊躇ってはいけない」
と発破をかける文が届いているらしいが、袁紹らの軍は動かなかった。
これは当然、単純に怖気づいたというわけではなく、河内郡と洛陽のある河南尹の間には、言わずと知れた黄河があるためである。これを渡って突撃をかけるのは通常の進軍より労力がかかるし、渡った後に反撃を仕掛けられれば水を背にしてしまう。
さらに言えば袁紹は盟主であって、その軍が打ち破られるようなことがあれば連合が離散しかねないという理由もある。
この文を本当に曹操から受け取ったのならば、袁紹はむしろ
──宴ばかりの酸棗の軍に言え
という感想を持っただろう。むろん記録には曹操は酸棗の軍にも送ったとあるので、曹操には水を背にしたとしても、勝つ道筋が見えていたのかもしれない。
全ての軍が洛陽へと攻め手を向けない中、果敢に攻め手を向けた将軍がいる。
先に述べた酸棗の曹操と、張邈、鮑信らの軍である。
この三将は榮陽において戦闘した。
しかしながら、この軍は衛茲と鮑韜といった将軍を失ったのである。
これとほぼ同時に、袁家のこの時期における宗家であった袁基(袁術の兄)、そしてその叔父にあたる袁隗ら袁氏一族が処刑されている。
一族の死に憤激したのか、それとも曹操らの動きに便乗したのか。袁術は幕下にいた孫堅に、南陽において漢軍と戦闘を開始させるが、この軍も打ち破られてしまった。
このとき曹操らを敗走させた将軍と、孫堅らを敗走させた将軍はともに徐栄という漢の将軍である。こういった優秀な将帥が漢の軍にも未だに居たあたり、衰えてなお漢軍は強力であったことが解る。
その後、河内太守の王匡が帥いる軍も破られると、集結した諸将らは勢いを失って、いよいよ董卓のいる洛陽に攻め上がることを嫌がるようになってしまった。
──これではきりがない
そう思った袁紹は献帝の行方が知れないとして、このとき幽州にいた劉虞を擁立しようと提議した。
このことは冀州牧の韓馥や張超は賛同したものの、袁術を含む諸将の多くは
「前の帝はおらずとも、今の帝がいるのですぞ。もしこちらが勝手に擁立することがあれば、それは董卓と同じです」
として反対が多かった。
それでも
──今の漢に対抗するには別の漢にて対抗するしかない
と息巻いていた賛成派が劉虞に使者を遣わして帝位につくことを願ったが、劉虞は
「漢の都は洛陽である」
として、その姿勢を崩さずにこれを固辞した。
このとき劉虞は董卓からも招きを受けていたが、これも辞していたというから、混乱した情勢下だからこそ、天子の命令しか受けないという姿勢を貫いていたのかもしれない。
「漢は弊れぬというが、その実──」
漢のためと言っている群臣ですらその意思を統一できていないではないか。
顔良の胸中には
──いったい義とは何ぞや
という問いが一年間、ずっと渦を巻いていた。
袁紹幕下に加わってからこの方、主人たる袁紹の行動を見ていたが、本当にこの人の進み方はあっているのだろうかという疑問があった。
太陽のような人。その見立ては間違っていない。軍中に在るいまですら臆病な姿勢は見せていない。雄偉であり、威厳がある。
だが、太陽は余りに熱い。周りを焦がして灰にしてしまう。主人はそういう人間なのだ、と思う。近づけば近づくほど、いや彼の核を覗こうとするほどに、滅びに向かっていくような気配がする。
──自分は、なるべく離れていたほうが良いかもしれない
顔良は目立たぬように隅のほうに立っていたが、それを許してはくれない人もいた。
「おう、叔善殿」
右手を振りながら、顔に満面の笑みを持って男が一人近づいてきた。
「大興殿ですか、如何ようでしょうか」
身の丈八尺で筋骨に優れた体を持っているこの男は、袁紹軍でも随一の武勇を持っているとの評判があった。
「いや、軍もなかなか動かんだろう。百人隊を任されてるんだが、どうにも暇を持て余していてな」
「そうですか。私のほうは交わされる文書の整理などがありますが」
「そうだろう、そうだろう。こういう時は、武官より文官のほうが暇無しなもんさ」
口調はかなり砕けているが、嫌みがない。こざっぱりとした人間だった。
「しかし、帝をこっちでおっ立てようってのは、驚いたなあ」
大興は小声でそういった。さすがに周りに聞かれるとまずいと思ったのだろう。
「大興殿も、驚かれましたか」
「まあな。殿はとんでもないことを考える。だが、そういう人間が大きなことを成し遂げるんだろうなあ」
顔良は言葉に窮した。肯定すれば漢は終わったというようなものだし、否定すれば自らの仕えている主を批判することになる。
「叔善殿。俺はその実、天下を誰が治めていても良いと思ってる」
自分の立場では「そうですか」とも言えない。ただ黙って、独白を聴くしかなかった。
「皆に食料がいきわたること、皆が屋根の下で寝れること、皆が襤褸布を纏わなくて良くなること。そうしたら」
「そうしたら、なんでしょう」
顔良は思わず言葉を発した。
「そうしたら、皆が笑えるかもしれん」
この人の持つ志は凡庸で飾り気がないが、それが変に言葉で取り繕うよりも大きな説得力を持って、顔良の耳に届いた。
「この戦が終わったら、俺が使っている鉞を折れるのかねえ」
「私にはわかりません。ただ」
「ただ、なんだ」
「大興殿の持っている鉞は、太平を望めば望むほど必要な気がします」
「そうか、そういうもんかね」
二人して山の有るほうを見ると、ちょうど日が沈むところだった。
年が明けて初平二年(191年)。連合軍は再び行動を開始した。孫堅が敗残兵を集めたうえで陽人に軍を置いたのである。
董卓はこれに反応して胡軫、呂布を派遣して迎え撃たせた。
しかし陽人城にいた孫堅の守りが固かったことや、胡軫に嫌悪の感情を抱いていた呂布が譎謀を図ったこともあって、将軍の華雄が討ち取られるなど、大敗を喫することになる。
その後、孫堅らの軍は反攻を開始して洛陽に攻め入る姿勢を見せると
──洛陽に勝機なし
と董卓は判断をして洛陽を焼き払い、長安に遷都した。四月のことだった。
董卓が逃げた。このことは諸侯軍の勝利ともいえる戦果であったが、いまだ董卓は健在である。しかし、彼らの間では実質的な対董卓戦の畢竟であると判断した。
ここから諸侯らは、董卓を自身に逼迫した脅威である、という意識を持たなくなったのか、内紛を起こすようになった。
特に影響が大きかったであろう動きがある。
公孫瓚が韓馥のいる冀州の安平を攻めたこと。
袁紹が周昂ら兄弟を派遣して、袁術が豫州刺史としていた孫堅を攻撃したこと。
劉虞が袁術の作った書簡によって兵を袁術のもとに送り、それに公孫瓚が公孫越を伴わせたこと。
この三つの主な動きが、関東(この場合は函谷関の東)における覇権争いを肥大化させることになる。
韓馥が公孫瓚から攻撃されると、その周りの郡を収める人間も、それに付け込んで冀州の土地を掠め取ろうとした。
冀州はもとから天下の食糧庫ともいえる地域で、後漢を創設した劉秀ですら、最初にこの土地を抑えたことが、のちの勝利につながったと云われているほどである。
そう考えると、天下が総じて食料に困窮し、国力が弱まると同時に各地の領主が台頭し始めた時代に、冀州という土地が狙われるのは当然の流れともいえる。
韓馥は平時ならば良い領主となれたかもしれないが、こういった乱れた世には似合わない人物であった。公孫瓚を含めた周りの動きに怯えて、この諸郡の行為を弾劾することができなかったのである。
この動きは顔良も知っていた。各地から送られてくる文書に情勢が記されていて、それを確認するたびに
「冀州の静まることなし」
という文言がある。さらに、兄から送られてくる簡牘にも
「最近は臨戦の構えを崩せず、皆が疲弊の色を見せている」
という言葉を書き添えられているからである。
顔良はこの文を読むたびに、家族が育てている作物が炎に巻かれる様を想像して不安になった。
──戦が苛烈になる前兆でしかなかった
自分がこうなることを予期していながら、果たして阻止することなどできない小人物であることに落胆していた。
もしかしたら、戦乱のうちに家族が死ぬかもしれない。それが惨い形であったら。
身が震えた。口を押えてこれに耐えようとしていたが、芯から氷のような冷たさが湧き出てくる。
「叔善殿、叔善殿」
声がすぐ横から聞こえた。今まで気づいていなかったらしい。慌てて返事をした。
「ああ、これは」
「叔善殿、顔色が優れませんな。酒でも飲まれますか」
「いえ、仕事中ですので。友若殿はもう飲まれたのですか」
すでに夕日は落ちている。酒を飲んでから来ていても可笑しくはなかった。
「叔善殿と話をするのにそんなことは致しますまい。政務の延長できたのですよ」
友若、とは荀諶の字である。顔良とは日ごろから話をする中だった。
彼は名家の生まれで、董卓政権下で司空に陞った荀爽の甥であり
「王佐の才」
とまで評された荀彧の兄弟である。
「もしかして、家のことを思い出されていたのですかな」
荀諶が問いかけてきた。かれもその才能と家格を袁紹に買われて直に招聘された人物の一人なだけあって、その読みは鋭い。
「ええ、私の家は冀州ですから」
「そういえば、そうでしたな。堂陽でしたか」
荀諶はその口を結んだ。冀州がいま戦火の的になりかけているのは知っているだけに、ここからは自分ではなく顔良に会話の主導権を渡そうとしたのかもしれない。
「友若殿。私がこのまま袁太守と共に行動したとして、もし冀州を攻めることになったら、それは私が私自身の故地を攻めることになるのです。ひいては、私の家族も。そうなれば、私はただの不孝者でしかありません。なにか、そういったことをせずに済む方法はないのかと考えるのですが、あいにく私はいち官吏です。なにも、できないのが歯痒い」
顔良は思うところをありったけ、言葉にしてみた。もしかしたら、荀諶ならこれを受け止めてくれるかもしれない。そう思ったのである。
荀諶は少し俯いて、腕を組んだ。考え事をするときに、彼はいつもこうしていた。
「叔善殿」
荀諶が顔を上げた。何かを考え付いたようである。
「今、冀州は主に韓冀州と公孫将軍の間で揺れ動いています。公孫将軍は騎兵に強く、韓冀州は糧がありますゆえ、この二者がまともにぶつかれば、冀州はただでは済みますまい。ただ、これを止めつつ冀州を抑える方法があるとすれば、私は太守の下で重用されていますから、なんとかできるかもしれません」
顔良は、何かを掴んだ。堂陽を、冀州を守る方法。
「私に、案があります」
顔良は策を話し始めた。
まず、公孫瓚と袁紹が協力関係にあることが前提である。例えば、冀州の内いくらかの郡を公孫瓚に割譲するなどの条件を与えるのが良いかもしれない。
そして、公孫瓚には韓馥に対して圧力をかけるようにだけ指示する。そうすれば、公孫瓚も無理に攻め込むようなことはしないはずである。
今の対応を見る限り、この動きに対して韓馥は大きな軍事行動は起こさない。むしろ、城の中に引きこもって、軍事行動の終結を望むばかりになる。その不安を利用して、袁紹側から冀州明け渡しの使者を出す。
これで明け渡してくれれば、損害を冀州北部の小さな範囲に抑えるのみで、争いを鎮静化できるのではないか。
荀諶は顔良の言った策を興味深そうに聴いていた。そして、聞き終わった瞬間に
「なるほど、なるほど」
と相槌を打った後で、こう聞き返してくる。
「叔善殿、あなたの言っていることは詭道です。人を欺けば、その分が己に帰ってくるかもしれませんよ。良いのですか」
「ええ、わたしは守りたいのです。守るためにするのです。傷つかせはしたくないのです」
「そうですか。上手くいかなければ──」
「自らに縄をかけて参内いたします」
「わかりました。次に府に呼ばれることがあれば、私から具申してみましょう」
「ありがとうございます。お願いいたします」
荀諶はその言葉の通り、勃海郡府での議でこの策を袁紹に上申した。顔良の名は、出さなかった。
袁紹はこの策に則ったが、その一方で冀州を公孫瓚に割譲する、という部分については疑問符を示した。
「そのようなことをすれば、のちの敵に兵糧を送るようなものではないか」
袁紹は公孫瓚を信用していなかった。
それもそうである。先の反董卓の動きに参画する、と言っていたのにも関わらず、その背後を脅かすように韓馥を攻め、敗走させているからである。
すでに袁紹の中では敵である、という認識があったかもしれないし、それは幕下の群臣の間でも共通していただろう。
荀諶は
「公孫瓚は確かに信用できません。しかし、冀州を手にしてしまえば天下に名が轟いているのは袁太守です。諸侯は寄る辺を見つけて集ってくるでしょう」
と説得を試みたが、覆すには苦しい言説だった。
けっきょく冀州を実質乗っ取るための策は、こののち張楊の軍を併合し、韓馥配下の麴義が反旗を翻して袁紹に属したことで袁紹側に大きく傾いた。
そして荀諶、高幹、郭図などが韓馥のもとに赴いて説得することで、冀州牧の地位を譲られるという形で成った。
ここで終われば袁紹は冀州牧としてその名を広めて、少なくとも周辺地域は慰撫できたかもしれない。だが、豫州方面での動きがそうはさせなかった。
袁術が豫州に孫堅を派遣してその刺史としたとき、袁紹は周昂ら兄弟を派遣して同じく豫州の刺史としよう目論んだ。当然、豫州では争いが起こる。
陽城という場所で起こったこの戦いは最初、不意を突かれる形で孫堅が敗れた。
突然の来襲に対策を迫られた袁術は、献帝から援軍を求めるために劉虞に送られた使者の劉和を拘束し、陽城へ援軍を寄せるように書かれた文書を用意させると、これを劉虞に届けた。
劉虞はこの手紙を信じた。その傍にいた公孫瓚は
「長安におられる献帝が、わざわざ袁将軍を通じて手紙を寄こすものでしょうか。もしや袁将軍は兵を奪おうとしているのではないですかな」
と諫めたものの劉虞には聞かれなかった。ならばと袁術との繋がりを作るために自らも従弟の公孫越を指揮官として、さらに袁術への告げ口も持たせて派遣したのである。
こうして豫州に向かった公孫越であったが、陽城での周兄弟との攻防において流れ矢にあたって戦死してしまう。
公孫瓚がこの知らせを受けたときに
──おのれ袁紹
と思ったのは当然で、さらに言えば公孫越の告げ口によって捕らえられそうになった劉和が袁紹のもとに逃げ込んだことによって、袁紹と公孫瓚の対立は決定的になった。
さらに言えば袁紹と袁術の豫州を奪い合ったことによる分裂も、反董卓連合の完全な瓦解を象徴する出来事であった。
顔良は拡大していく戦線を瞰て、時代が泰平を求めていないことを悟った。
──われは、もう畑を耕せないやもしれぬ
今となっては、あの日々を懐かしく感じる自分がいる。
だが、今の自分には前に進むことしか許されていない。高きから低きに流れる水のようなものだ、と感じた。
「飛ぶためには屈まねばならぬ」
父の言葉が蘇ってきた。まだ自分では気が付いていないだけなのかもしれない。自分が知り得ない翅を持っていたとしたら、それをどう使うべきなのか。
顔良の手の中には
「麴将軍に副き、参陣せよ」
と書かれた簡が握られていた。