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顔良  作者: 床擦れ
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 顔という姓は古くより尊き名であっただろう。

 それは、古く孔子の弟子であった顔回(あるいは顔淵。字は子淵)がその才を高く讃えられながらも、師匠に先立ってその生涯を閉じたことから始まっていると見える。


 そういった先例があることからか後代、顔という姓には学者・政治家などが多く、その中で武の道に至る者は少なくとも名が残る限り少なかった。


 しかしながら、その風潮に多少なりとも抗おうとしたか、或いはそうならざるを得なかったのかは判らないが、武の道に進む者もいた。もっとも、三国志の後の時代に顔姓の政治家や学者が複数みられるのに対して、武将に顔姓の名が少ないということはその活躍ぶりは推して知るべしと言えるかもしれない。

 武よりも文の家。それが顔氏と云えよう。


 そのような気風の中で、武の道を進んだと思われる人物の一人に

「顔良」

という人がいる。字はわかっていないが、向後、文章中の統一性を持たせるために敢えて

「叔善」

という字を用いるが、宥赦いただきたい。


 この人が登場する三国志中の記述は極めて少ない。

 例えば孔融が「勇将なり」と評したとか、逆に荀攸が「匹夫の勇」と評したなど。顔良だけではないが、こと袁紹の周りは情報が錯綜していてなかなか実像が掴みづらい部分がある。


 これは袁紹という人物が、「華北の雄」という側面と「曹操に負けた敗者」という二つの面を持っていること、そして乱世に突き進んでいく中で記録を十分にすることができなかった為だと思われる。


 結局、顔良は荀攸の言うとおりに敵陣で孤立して関羽に身体を貫かれてその生涯を閉じることになるが、彼は人生の中でいくつもの岐路を進んできたはずである。

 果たして名が出るまでの彼はどのように躍動したのか。その興味が、この小説の源流である。

 暗い部屋の中、南東の隅に置かれた机の前に座り、窓から注ぎ込む日の光を頼りにして書物を読む青年がいた。

「いつかは自分も、辿り着いてみたい」

 手には一昨年に兄たちが洛陽にて学んだ数々の経典の写しがひらかれている。

 易、書、詩、礼、楽、春秋。

 果たして魯鈍な三男坊の自分では、都に行って高名な学士の下でこれらの書物を修めることはできなかった。そんな自分でも、この写本たちを見るだけで

──きっと、この世に必要なまつりごとの形とはこうなのだ

と確信めいた実感がわいてくる。それと同時に、古き人々の呼吸と偉大さが身に迫ってきた。


 窓から降ってくる陽光に手をかざし、左右に揺らしてみると窓の枠から手が外れるたびに光が自らの目を襲った。その光に人を見た。

 常に光は自分に向かって降り注いでくる。それに向かって手を向けてみれば、光は遮られて自分からは見えなくなる。逆に手を退けてみれば、光は自らの目を焼くように襲ってくる。そして指を少し広げて翳してみれば、ちょうど景色が見えるほどの光となって自らの視界をひらいてくれる。

 そしていずれの行為をしてみても、手には陽が当たり続けて温かみを与えてくれるのである。人の本性は酷虐でも冷徹でもない。きっと、陽の光なのである。


 顔良はこういった感覚に優れていた。

 彼は上に年の離れた二人の兄がいる。長兄を顔毅(字を伯剛)といい、次兄を顔粛(字を仲貞)という。長兄の毅は遊学を終えたのちに父に推されるかたちで県廷に入り、下働きとして働いている。そして次兄の粛は、家に入って実家の田畑や人々を父のもとで取りまとめている。

 顔良はというと、まだわかいこともあって未だ外界に居を置くことはできていないうえ、三男であるから家の中での序列も低く、学途に就こうということもできない。己ができることといえば、家にある畑を耕すことだけである。


 ただ彼は、こういった無聊をかこつだけの性格ではなかった。地に触れ、天を仰いで、その中で自分が得られるものは何かということを考えながら過ごすという、人間として、あるいは生物として重要な感覚を持っていた。そしてその中で「天にしたがう」とは如何なることなのかということを自らに問い続けてきた。その結果、年少ながらにして真っ直ぐな人間に育った。

 あるいは彼が長男であって、学途に就き、洛陽に遊学していたとするならば。そうして官途についての中に一生を終えるようなことがあれば、さぞ陰険な人間になったかもしれない。もし兄たちになくて顔良にあるものは何かとただされれば、きっと畑を耕して、風雨に吹かれながら育まれてきた素直さと頑強さであった。


 顔良の家族もすでに跡取りとは言えない立場にある彼のうちにあるものを認め、特に父親なぞは

「世間様から見れば、まっとうに育っているのは毅や粛だろう。だが何か大きなことを成し遂げようとするならば、それを為しえるのは良である」

というふうに周囲に言っていた。これには、子の中では一番の年少こそが可愛いという親心もあるかもしれないが、学問を習得した者の目線で見たなりのまっとうな評価だったのかもしれない。


 大業をなす人間は本人か、あるいは周りに底抜けた明るさを持った人間がいるものである。顔良の父にとっては、それが三男には備わっていると見たのだろう。そしてその言葉が、顔良にとって生きる上での大きな励みになったことは言うまでもない。

 しかし母や周りの人間はそういった父の言をただの親馬鹿であると受け取っていた。特に母は

「三男は学も無く、無口で臆病。もう二足で立てるのですから、働き扶持としてすぐに畑を与えて外に出すべきです」

と父に対してしきりに言っていた。確かに世情に合わせればそれは正しい言であり、従わないことでこうむる損害もあるだろう。ただ父は

「兄の持ってきた写しを読んでいるのを見たことがないのか。また剛毅朴訥は仁に近しいという言を聞いたことがないのか。普段の行いを見ていても、彼は天に準じているだけで臆病者とは言えまい。家に留めておけ。飛ぶためには屈まねばならぬ」

と言って家に置いてくれていた。まだ十五にも満たない顔良ではあったが、このことに孝の一字を超えた恩義を感じないような愚か者ではない。

 自らの良という名を体現して世に報いなければならないと思い始めた、その萌芽たる時期がこの時であった。そして、自らがその意思を体現するときは、ここからしばらく経って訪れることになる。



 時を少々遡らせてみる。

 顔良の住まいは、冀州の安平郡堂陽県にある。作物を育てるのに適した地で、秋になれば黄金色の穂が風に撫でられる様を見ることができる。そんな土地であっても、漢の最盛期に比べればその収穫量は年々減っていた。

 それ故に最近では食料に貧窮する民が増え、また政府にあってもその状況を危惧してなのか税として取り上げる作物の量を増やしているのだという。


 代々学問に秀で、周辺の家を取りまとめる立場にあった顔良の家はそれ故に、このあたりで税がいかほどばかり取り立てられたのかとか、それに対して民がどう思っているのかを知ることができた。そして官僚の取り立てが厳しくなっていることに対して、衆人が

──道理にもとっている

と不満を募らせていることも肌身に感じていた。


 これは当然のことである。自らが生きるために必要な食べ物がただでさえ少なくなっているにも拘らず、税収としてより多く納めなければならないとくれば、さらに少なくなる。これでは餓死するものが多くなり、人々は食物のために流浪せざるを得なくなる。人が流浪するようになれば、元あった田畑すらも荒れて使えなくなり、さらに食べるものが少なくなるかもしれない。こうなってしまえば、負の循環に陥ってしまう。


「国衙は自らの宮殿の中だけで国が回っているとでも思っているのか」

 とは父の言である。もしも民によって回っているという意識があるのであれば、むしろ国の倉庫を開放してでも民を食べさせるはずである。それなのに収奪するほうに向くというのは

──己さえ生きていれば良い

という傲慢な保身行為でしかない。父は儒教に準じてはいるし、極めて敬虔な人であったが

──これが儒のわるいところよ

という思念がこちらにも伝わってきた。


 漢という国は教学として儒学を基としてきた歴史があるが、その中で育まれてきた「長幼の序」というものは、本来の「年長者には敬意をもって接する」という意味からはかけ離れた存在になった。

 世の中は多くのものがあるようでいて、実は情報に有り触れているわけではなく、さして知りたくないものは知ろうともしないものである。ただ年を重ねるうちに、そういったものは嫌でも耳に入り、単純な知識量が増えていくだけでなく、世の内にあって自らはどこにいるのかが判ってくるようになる。

 そうして自らの立ち位置がはっきりとした人間から発せられる一言は、いまだ自らの存在すらよくわかっていない人間の百言に値する。むろん、儒学が伝統を重んじる性格を持っているが故に、それを伝えてくれる人間の言を重用するということも理由の一つには挙げられるだろうが、本来の「長幼の序」というひと言はその長者の発する一言にある重みを、確かに受け取れということなのではないか。


 ところが官学となって久しい現在では、単純に「目上の者を敬え」という強迫に終始するようになってしまった。本当はその基準が敬う側、すなわち立場が下の者や年齢の若いものにあるはずのものが、いつの間にか年長あるいは立場が上の者の基準に従うようになってしまったのである。そしてそれは、今に見えるような権力を持つ者の横暴にも繋がったのだ。


 さらに言えば、このころの朝政というものは宦官や外戚に支配されていた。有能な臣下がいなかったわけではないが、度重なる政治権威の失墜に焦ったためか、忠言や諫言よりも讒言や風聞に対して耳を貸す体質となっていた。


 延熹九年(166年)に行われた党錮の禁もまた、その流れが生んだ事件である。

 もともと、九十年近く前に和帝が幼少で即位したがゆえにとう氏一族が専権したことに始まっている。それを快く思わなかった和帝は鄭衆ていしゅうという宦官にはかりごとを任せ、この時は見事に実権を取り戻した。これによって鄭衆は鄲郷たんきょう侯、および大長秋(宦官の最高位)となり、この後も経験則から和帝が宦官らを頼りにしたことで、宦官らが朝堂内で大きな権力を持つようになった。


 このような何かに頼りきりの形式を作ってしまうと、少しでもずれが出てきてしまえばすぐに崩れてしまう。実際、和帝の死んだ後に外戚も勢力を盛り返して、都度に権力闘争が起きるようになってしまった。


 霊帝の時に世の情勢の不安もあってか、これが顕在化した。宦官の勢力拡大に歯止めが利かなくなってしまうと、権勢と謀をもってのし上がってきた者たちの、己の利と欲を追求する姿勢も次第に強くなっていき、汚職の規模は大きくなっていく。

 これらを快く思わなかったのは、各地方より集ってきた士大夫たちだった。

 彼らは己のいた処と民との位置が近いものだから、民が何を求めているのかをよく知って登朝してきた者たちである。そういった者たちから見れば、何かにつけてまいないを求めようとするこの宦官たちの行動は、人々にのみ負担を求め、国を傾ける愚行でしかない。


 特にこの時代の上流階級にある者は儒教にある「徳」を重視したため、宦官という存在やそれに近しい者たちが行っていた拝金主義的な行為は、到底受け入れられるものではなかったのかもしれない。

 その嫌悪を示すかのように、こういった士大夫たちは自らの集団を「清流」、宦官らを「濁流」と呼んで公然と罵り、それに刺激されたのか、宦官らはこういった士大夫たちを「党人」と呼んで弾圧の対象としたのである。


 「清流派」である司隷校尉しれいこうい李膺りよう)らが朝廷にて中常侍ちゅうじょうじ(宦官の中で大長秋に次ぐ位)を弾劾する動きを起こしたが、むしろこれを

「我らは朝廷のためを思って人を厳しく(さら)い、その徳を計らんとしているのです。古来より他人ひとのために財を(なげう)つことのできる者こそ徳があると言います。社稷を継ぐ天子のためならば尚更でしょう。それなのに彼奴等はそれを否定し、吝嗇に努めよというのです。これでは中華は物が滞り、人々が己の元に物を蓄えるだけ蓄えてなお、他者を貧窮させます。これが愚であることを知らぬばかりか、責を朝廷に、あるいは天子になすりつけるために我々を面罵しているのです」

と逆手にとって朝廷への罵倒であると主張した中常侍たちが、清流派の人間を捕え、死罪にこそしなかったものの終身禁固(この場合は、官界からの永久追放)の身としたのである。


 まだこのころの顔良は幼く、世の道理というものにも通暁しなかったが、この惨状を伝え聞くに及んで

──宦官というものは意地が汚い

と思った。しかし、父を視れば顎をさすりながら難しい顔をして考え込んでいたので、その心情はいかばかりなのかと父に問うたとき、

「清流派の人間は国の大事であるからと言って大義を得た気になっているが、その実、自らの内にある権威を楯にしている時点で濁流派と変わらぬではないか」

という答えが返ってきた。

 顔良ははっとして、自らの心の内にあった傲慢と向き合う機会であったと素直に得心した。


 しかし、いまだ渾沌とした宮中ではそういったことを考える由もなく、同じ過ちがまた繰り返されることとなってしまった。


 建寧二年(169年)、二度目の党錮の禁が起きる。今度は清流派官僚もその力を増大させなければ宦官らに勝てないと思ったのか、一度目の党錮の禁が起きた直後から、清流派の陳蕃ちんはんは外戚に属する竇氏の一人である竇武とうぶと結んで宦官の悉くを誅殺しようと挙兵した。しかしながら逃げ場を無くさんとした彼らが多くの人にこの計画を伝えたことで、宦官の耳に届くところまで話が広まってしまい、逆に宦官側の根回しを促進した結果、当代でも一二を争う異民族討伐の名将の張奐ちょうかんらを抱き込んだ宦官たちがこれに勝った。

 竇武は自殺し、陳蕃は獄中死。また桓帝の皇后であった竇太后は廃され幽閉。こうして外戚の権力が一気にそがれて、宦官の権力をさらに引き上げる結果となった。

 当然、この竇武の乱に加担した者たちは獄に繋がれ、清流派への圧力もさらに厳しいものになった。


 朝廷内で権力闘争が起こっていたころ、長兄からは頻りに簡牘かんとくが届いた。一度ならず、二度までも官僚を弾劾するような事態が続いたのである。それ故に、官途に就いている者の特有の悩みが切実に書かれていた。

「私は国のためになると思って官の冠を被った。しかしながら今の朝廷は私腹を肥やすものか剛腹なものがいるばかりで、我々が陳情を出そうもそれを聞き入れることはなく、己を高位にのぼらせんとして、それぞれの人格を責めるばかり。此処にはこのように書いてはいるがその実、我々のような小人であっても、立場を明確にすると何方からか誹謗を受けてしまい身を排されかねず、自らの中に義はあったとしても、ただ口を噤むことしかできない」

 兄の苦労はいかばかりか。それを想うことはできても、自分は近くにいて手を差し伸べられるわけではない。この国における官たらざる者のうれいが、顔良の身を覆った。



 竇武らの死からから十年が経った。顔良はこの頃にはすでに二十歳をすぎ、

「叔善」

という字を使うようになっていた。


 家を実質的に管理している次兄とともに家と畑を耕すようになり、何かを取りまとめるという経験を経た彼は、あたりを飛び交っている数々の不祥事について

──これが続くのならば、国家が持ちえることは有り得まい

と確信した。それと同時に、これからは世が荒れるという危惧が顔良の中に生まれたのである。


 さて、ついこの頃から冀州、いや中華一帯の地でこう言った噂が流れるようになった。

「太平道という教えが、民の間に流布されている」

 不安定な世情の中、民たちが何かに縋るのは当然のことである。この教団は符水や術をもって病人を看病するほか、内省に努めさせることで自らの病を治すということをしていた。作物を十分に蓄えられない民にとっては水を与えられるというだけでも恵まれていることだし、内省すれば病が治るというのであれば、それに己の身を託すのは何も不思議なことではない。

 そしてなにより、ここ最近の凶作が続く中では、自らの身を安んずることができる場があるというだけで、そこに人が集まるというのは必然の事象である。


 だが気になる部分もあった。

 まず彼らの教義の上では、特段に内省を要求されて、病が治らなければそれが足りないと理由づけされるのだという。しかし病というものは外からか、あるいはもともと内にいる蟲がその人の臓腑に巣食って生じるものであって、多少は影響したとしても、その人の精神に準じるというのは少し強引であるように思える。

 そしてもうひとつ。あまりに教えが広まるのが早すぎるという部分である。ふつう、こういった教えというものは孔子がそうであったように、己が何かに順う姿勢を見せ、そしてそれに共感するものが出てくることによって大きくなっていき、これが噂によって誰かの耳に入っていくことで広がるものである。

 しかし太平道では聞くところによると、自らの弟子の中でも優秀な者を「帥」として各地方に赴かせて統括しているのだという。そうして彼らに教えを流布させることによって、またそれぞれの地方で信者を獲得している。


 これを聞いた顔良は即座に

──これでは指導者を天とする国を作ろうとしているようなものだ

と勘ぐった。

 「信仰」というにはあまりに組織化されすぎている。もしも頂に立つものが漢に反旗を翻さんとしたならば。ただでさえ民は国に恨みを持っている。顔良は眉をひそめた。 


 その後、太平道に関する情報が顔良のもとに入ってくるのは早かった。それもそのはずで、教祖である張角は冀州鉅鹿郡の出身であり、また本拠もその辺りに置いていた。

 物理的な距離の近さが、情報伝達の速さと正確さにつながっていたのである。


 

 太平道が着々と勢力を伸ばす中、顔良の住む堂陽のあたりで反乱がおきた。凶作と重税で困窮した大勢の民が自らの家と田畑を捨て、流浪の集団となって各地で蜂起し始めたその一端が、顔良の住む地にも顕れたのである。

 その一団が暴徒化して、自らの住むあたりに迫ってきている、という言伝ことづてを聞いた顔良たちは、ほかの地へ逃げようとも考えたが

──それでは土地を荒らされるばかりで、世のためにはならぬ

 そう思ってこの集団と対決する道を選ぶと、すぐに次兄の粛に簡牘を託して衙にいる長兄に送ってもらうとともに、自らは周囲の人たちに避難を訴えて、近くにある城の中にその身を移らせた。


 吏士りしに陳情したのち、自らもその勇を顕してこれを防ぐのに参加せんと言った。

 顔良はこの時、畑を耕していた最中に城へと入ったために極めて粗末な服を着ていた。そのせいか吏士たちは顔良のことを僕俾ぼくひか何かだろうと見くびって

「ならば剣を与えるから、城の外にでも打って出てみよ」

という態度で備えてあった武具を手渡してきた。

 顔良はこの態度にむっとはしたが、今はこのような些事に心を惑わされている時ではない、と気を取り直して、近くの俊敏さに優れていそうな者を上から三十人ほど選んだ。また、ともに城の中に逃げ込んだ父に自らの策を授けて、壁の外へ向かっていったのである。


 城の外に出ると、その反乱集団が歩くたびに起こす砂煙が遠くに見えた。

 顔良はもとは民が離散集合したものであるから、数はよくて数百だと思っていたが、それにしては余りにも煙が縦横に広がっていた。

──数千はいるな

と大体の数を察した顔良は、城の北にある林の中に身を潜めて動向をうかがいつつ、父に伝えた言葉も含めて、次にどう動くかを考えた。


 彼の集団はまずどちらに動くのだろうか。彼らがただ食料を欲する集団であるならば、無理に人の籠る城を攻めることなく畑に向かって作物や倉を略奪すれば良いと判断するはずだ。だが、彼らの目的はどこにあるのだろうか。徒党を組み、暴徒と化して一帯を闊歩しているのであれば、ただ物を食べる為だけではあるまい。先に畑に行こうと、城に行こうと、官吏を襲い自治権を獲得しようと動くのではないか。


 次に彼らがする動きを予測しながらにいると、やがて濛々もうもうとした砂煙から人の影を捉えられるようになった。集団の動きをつぶさに見ていると兵卒ではないぶん、規律だってはいないが、ある程度の統率が取れているのはわかる。

 彼らは畑に向かわずして、城に向かって歩を進めた。彼らは食料が足らぬことよりも、救いの手を差し延べない人に恨みを抱いている。彼らが城というものに庇護されている人に対して、その矛先を向けて攻撃をしてくるのであれば、そのことはこの集団がただの流民ではなく、ひとつの思惑のもとに集まった同志となっていることも表している。


 城に迫ってきた賊に対する一の策として、父には膂力に優れたものを選んでもらい、城壁の上に置くように頼んだ。取りついてきた者があれば、壁の上から石を落として迎え撃つように、と伝えていた。

 城を守るこちらの攻め手は見え透いているだろうから、この方法で敵を打ち破れるわけではない。あくまで牽制として行ったのである。

 また、弓や弩の類も使わないようにと言っていた。こういった強力な兵器を見せびらかしてしまえば相手はすぐに逃走する。相手はあくまで民である。彼らを先導する人物を真っ先に討ち取ることができなければ、むやみに民を殺すだけではなく、首魁は勢力を何処かで取り戻して再び襲ってくる。

 このふたつの行為をもって動きを膠着させているうちに、この集団の指麾を執る者は誰なのかを見極めようとした。少なくとも、これだけの規模の集団が誰からの指図も受けずに統率をもって行動できるとは言い難い。誰か目立つ者が指示をして全体の方針を決め、そして動かしているはずだ。


 顔良は鍬鋤くわすきの類を持って城を襲わんとしている集団の中に、目立つ格好をしている者がいないかを探した。衣服が目立っていなかったとしても、他と比べて行動が異質なはずである。

──居た

 その人物は集団のやや後方にいて剣を振り、城を攻めさせようと声を張り上げていた。

 しかし、壁から降ってくる石礫になかなか歩が進んでいかず、苛立った彼は隣にいる男を斬りつけて、全員に前に進めと号令をかけた。その後、城側との一進一退の攻防を繰り返していると、辺りが次第に暗くなっていったのを境にして退いていった。


 顔良はこの一連の攻防を持ち堪えた城に戻ることなく、かの集団の持つ炬火きょかの光を目印にした。林の中を、先に選抜した三十人と共に追いかけて、彼らが夜営するところを襲いに向かった。これが、第二の策である。


 三十人の人夫達には支給された剣を持たせている。声を出さないように、そのあたりに落ちている枝や葉をばいの代わりとして口に含み、剣の反射光で察知されないように自らの衣を脱いで、それに包んで持っていた。物音を立てないように進んでいくと、炬火の光が大きくなっていった。

 言葉を発さないまでも、手でもって後ろに附いてきた人夫を制止させると、枚を外させ

「行くぞ、声を出せ」

と大声を出し、剣の身を剝いて一挙に夜営の準備をしている賊たちの中に突っ込んでいった。

 所詮は訓練を受けていない平民たちであるから一息に散り散りとなり、その場は混乱状態に陥った。先に見た、この集団の帥とみられる男も奥にいて

「静まれ、静まれ」

と声を張ってこれを治めようとしていたが、すでに統率を戻せる状態からは逸脱していた。

 顔良たちは何人かを斬ったが深く敵の陣の中に入ることはせず、むしろ浅い位置で剣を幾度か振ると、すぐさま林の中に戻ってもときた道筋を辿り、城へと帰った。


 城門の前に立ち、

「我は顔叔善なり。賊軍の首を二、三持って参った」

と門を守る兵士に先ほどってきた首を示した。これを見た兵士は、彼は賊が遣わした囮で、門を開けた瞬間に攻め込まれはしまいかと疑った。こうなってしまっては城に入るのも容易ではあるまいと溜息をついた時、城の門が僅かに開いた。

「叔善よ、門を閉じる者が現れる前に早く入れ」

 次兄の粛が内から門を開けて、迎え入れてくれたのである。

「兄上、申し訳ない。さあ行こう」

 連れ立った人夫たちと城の中に駆け込むと、父と長兄、そして母が待っていた。

「敵の営に乗り込んで首を取ってくるとは、よほど無茶をしたようだな。彼奴らはどこに留まっていたのだ」

「父上、ご心配をおかけしました。賊はここから東北の方向、七、八里(2.8~3.2㎞)の林の中に営を築いておりました」

「そうかそうか。これで賊もおののいて、こちらに手を出すことはしなくなるだろう」

「いえ、そうとは限りません。彼らは家を持たぬ流浪の民。城が無理となれば、周りの畑やくらを狙うでしょう。そうなれば、これから冬に向かうのにこちらが飢えてしまいます」

「確かに、そうなってしまえば困ることになろうな。伯剛よ、冬に向けて衙の廩を放つことはできそうか」

「掛け合わないとわかりません。何しろ、近頃は鼠がおりますから」

「何とも、困ったことよ。この期に及んで──」

 父が言いかけると、向こうから速足で吏士がやってきた。

「勝手に門を開けたのは貴様らか」

 荒らげるようにして言い放った吏士に対して、次兄の粛が前に出て慇懃いんぎんに述べた。

「たしかに、そうでございます。門の前に居りましたのは我が弟で、さきの賊が留まっていた場所に三十人を率いて向かい、幾つかの首を取ったうえで還ってまいりました。ところが門の衛兵がその勇気に報いることなく、門を開けるのを拒みましたので、私が引き入れたのでございます」

 顔粛は顔良を立てるようにして吏士にこれまでの経緯を話したが、吏士たちからすれば許可もなく門を開けたこの行為を許すことはできず

「いくら門の外に打って出たとはいえ、それはこちらの許していない匹夫の勇を発したに過ぎぬ。周りに賊軍がいるのだ。家族の情にかまけて門を開けてはならぬというのは、そなたも知らぬ訳ではなかろう」

と顔粛を責めた。


 顔毅はこの言葉に慍然とした。彼の胸中には二人の弟の行動と勇気を賞する心があったため、吏士の威圧に退くことはなく割って入り

「賊が来たときに、まず最初に門を閉めて礫にて応戦せよといったのは門外に出た叔善です。これに従って我々は城を守り、その行為に彼は信と勇をもって応えた。仲貞が門を開けたのは、家族の情などではなく一人の勇士を迎えるため。その行為を批判するのであれば、今度はあなた方が信を失って門外に出される番ですぞ」

と言葉に怒気を含ませた。

 周りにいた三十人の士も吏士の言葉に怒りを覚えていたのが見え、顔良は自らの行為をもとに城の中に不和が生じてはまずいと思い、これから自分のやろうとしていることを説き始めた。

「相手は流民です。ここで無闇にころしてしまえば、今は良いでしょうがのちに禍根が残り、より多くの叛意を起こすことになります。ゆえに、戮す数をなるべく抑えて首魁のみを討ち、これに参じた者には善道を示すべきです。それは即ち、帰農させること。今年ばかりは廩を開けて彼らを養い、次の年から田畑を与えて自らで食べられるようにしてやれば、それは天下に徳として広まり、人民を安心させることができます」

 吏士はこれを聴き分けたのか、あごひげを撫でながら顔良に対して

「で、そのためにこれから何をするのだ」

と問うた。顔良はこれに答えて自らの策を話した。

「彼らは住まいがない分、執拗にこの地を狙うはずです。ならば襲われるたびに彼らの営所に向かい、今日行ったような夜襲を何度か行います。彼らは兵卒ではありませんから不満が起きるには数日あれば充分でしょう。そうすれば、彼らのほうから和議を申し立てに来ます。それに、我らは応じればよいのです」

「しかし、和議を容れれば彼らは増長し、また叛きかねん」

 吏士は反駁したが、顔良は

「私にお任せください」

とだけ言って、次の夜に向けて休みを取りに行った。


 そこから二日、三日と続けて夜襲をかけた。さすがに賊も警戒をしていたのか警邏を置いてはいたが、顔良はその間隙を縫って躍り込むと、たびごとに何人もの首を取って城に戻った。傷を幾つも負ったが、それでも賊の中に幾度となく斬って入る活躍を見て、吏士たちは

──顔良に勇あり

と感嘆し、見る目を変えた。

 そうした行為を七日続けた昼に、城の外に陣取っていた賊から使者がやってきた。

「我々は貴公らの兵の持つ勇気に戦慄しております。どうか、降伏を受けてくださりますよう」

 この言を待っていた顔良は、吏士にこう言った。

「条件を付けずに受け入れるのがよろしいでしょう。ただ、首魁だけは連れ出さねばなりません」

 しかし、吏士の側がそれに納得するわけがなく

「相手を得意にさせはしまいか」

と懸念したが、顔良は

「むしろそれが狙いなのです」

と微笑みをたたえながら言った。


 会談の場には吏士が席につき、顔良がそのかたわらに立った。賊の側からは先ほどの使者と、何日か前に見た首魁とみられる男もいる。降伏に向けての話が進み、酒を酌み交わすことで雰囲気がほぐれたのを見計らって、顔良は突然、剣を抜き放ち

「民を惑わせた罪は重い、覚悟しろ」

と言うや否や、一刀のもとに首魁を斬り殺した。怯えた表情を見せる使者に剣を突き付け、厳然とした態度で

「よいか、城外の者に伝えてこい。貴様らの長は死んだ。これ以上、無用に首は取らぬ。また害されたくなければ我らの命に従え、とな」

と言って、城の外にいる流民たちに自らの言葉を伝えさせたのである。

 使者が城の外に出たのち、顔良は返り血が付いたままの顔を拭って吏士に目を向けると、先までの厳めしい顔を和らげて、元来の柔和な表情に戻った。

「吏士どの、ここからが我らの真価が問われるときです」

吏士はこの急烈な行動に戸惑いはしたものの、顔良の言葉に従って城の門を開けて、外にいた流民を迎えた。そして廩を開放して粥を作り、畑を作らせることを約束したのである。

 顔良は賊たちとの対決を選んだことによって、その驍勇と謀略を評価されるようになり、その名を挙げた。



 五年ほど経った光和七年(184年)に入ったころ、各地の衙に奇妙な落書きがされるようになった。白亜を使って

「甲子」

と書きつけられたことに不吉を感じた朝廷は、各地にその調査を求めた。


 甲子は十干と十二支の初めの文字である「甲」と「子」が重なっていることから、何か大きな変事がおこる、という認識が一般であった。そのこともあって、巨大な叛乱勢力が眠っているのではないか、という判断が下されたのである。


 この影響があって各地で取り締まりが強化された結果、唐周という人物がこれを恐れて密告をしてきた。

──馬元義という人が、洛陽に出入りして宦官に連絡を取り、外で太平道の信徒らが決起するのに合わせて都の内でも兵を起こし、天子を捕らえることを約束させている

 この知らせを受けたその日のうちから宦官や兵士らに尋問を行い、これに加わったと疑われるものを尽く捕らえて誅殺したほか、馬元義を探し出して市場に引きずり出し、車裂きの刑に処した。

 これに太平道の首領である張角は、直ちに各地の信徒らに報せを送り、各地の官衙を襲わせて蜂起決行のしるしとしたのである。


 ただ、もともと準備をしていた朝廷側と、慌てて蜂起した張角の側とでは統率の差が出た。

 霊帝は臣下の諫言に従って、党錮の禁によって追放されていた官僚たちを官界に復帰させた。これは優秀な人材を再び表舞台に立たせるだけではなく、そういった人材を叛乱者側にくみさせないための処置でもある。

 そして各地の主だった反乱地域に対して、王朝の中でも特に優秀な人物に軍をひきいさせて差し向けた。


 果たして、彼らが向かった先で見た光景は、黄色い頭巾で頭をくるめた人々の海だった。ゆえに、この一大動乱をのちに

「黄巾の乱」

といい、叛乱した人々が結託した集団を

「黄巾賊」

と呼んだ。

 顔良たちも、当然この大きな乱の波に揉まれることとなった。


 各地の広い版図で起こったこの乱は、張角がいる冀州においても大々的に行われた。五年前の反乱の際に威徳を示して難民を受け入れたことが生きたのか、顔良の周りの小さい範囲では加わるものも少なかったが、それ以外の地ではそのほとんどにおいて民衆が蜂起した。

──堂陽にも大きな波が来る

 顔良と次兄の顔粛は、あの時と同じように民を集めて城に逃げ込むことを選んだ。以前は数百人だったが今度は千人を超える規模での移動になる。しかし、顔家の人物がいかなる性か知っている彼らは逆らうことなく、素直に従って城へのみちを歩んでいった。


 門前で官服を着た長兄の顔毅が民たちを城の中に促していた。顔良たちもその前を通ったが、長兄は一瞥もせずに

「早く入れ、夕刻には閉めるぞ」

と呼びかけを繰り返している。

──この中にいて私心を持ち込まない兄は逞しい

と顔良は思った。兄や父も同様なことを思っていたようで、堂々とした態度で門をくぐった。


 三日三晩ののち、遠くから太鼓の音が聞こえてきた。

──官軍か

 そう思った衛兵たちが城壁の上に上って、手で陽の光を遮りながら遠くをる。

 大きく、朱色に染められた旗。間違いなく官軍だ。

 この報せを聴いた吏士たちは城壁上に漢に属することを表す旗を挿すように指示し、自らは門のもとへ向かった。

 官軍が城に着くと、門を開けてこれを迎え入れた。軍についていた使者の一人が布帛を広げて、そこに書いてある内容を読み上げる。

「我らは朝廷より命を受け、黄巾の族を打つために遣わされた、盧持節北中郎将の軍である。廩を開け、義勇の者がいればこれを軍に徴発し、恭順の姿勢を見せるべし」

 そういわれた吏士たちは廩から麦やまめを出して官軍に渡すと同時に、城に集まった民衆から軍に参加しようと言う若者を募った。


 夕刻。軍が城の周りに駐屯の準備をする中、民の受け入れをあらかた終えた長兄の顔毅が、顔良らのいる街のに姿を現した。

「兄上」

「嗚呼、みな無事で何よりだ。われは今から義勇兵らをあつめにいかねばならんのだ」

「そうでしたか。ならば、ちょうど良かった」

「ちょうど良いとは、まさか」

「わたしも兵として参ります」

「良、相手は已然の体の整わぬ賊とは違う。一国の軍を相手にするようなものなのだぞ」

「承知しております。しかしながら、わたしを三男の身でありながら育ててくれた恩義に報いたいのです。行かせてください」

 顔良の目は爛々と輝いていた。あまりに真っ直ぐ気魄を向けてくる末弟の姿に、顔毅は断らないわけにもいかない。

「良よ」

父が口を開いた。

「これからは絶えず世が乱れようや。もしお前が死ぬことがあれば、慚愧に耐えん」

 息を漏らす父の姿を見た顔良も往くべきなのかを迷ったが、次兄の粛は彼の背を推した。

「父上、かつて大事を成すのは必ずや良だと言っていました。かれが雄飛する機会はここなのではありませんか。いまこそ勇ましさを評して行かせてやるべきです」


 顔良の父には、次男の粛の方が自分よりもよほど家の中を見ているのではないか、という思いがある。学業に齧り付いていた自分よりも、畑で身を焦がしながら人の中に置かれた彼の方が人を知ってはいまいか。その負い目とも言える感情が父から

「諾」

というひと言を引き出したのである。


 顔良の属した軍は、朝になると城を出立。堂陽から北に向かい、ある程度進んだところで、阜城から向かってくる黄巾賊に対して迎撃の構えをとり、その場に留まるために営所を築いた。

 夜になると、兵卒たちに粥が一杯ずつ配られる。顔良もそれを受け取ってにわびのそばで啜っていると、長軀の老兵が一人、隣に腰を下ろし

「ちょいと宜しいか」

と鐘を鳴らすような音声で話しかけてきた。

「はい、如何様でしょうか」

顔良はその老兵をみたとき

──この人からは優れた気が満ち満ちている

と感じたが、声や態度には出さず淡々と返事をした。

「さきに堂陽で兵を集めていただろう。その時に兵を管轄する物が、今回加わった者の中で一番智勇のあるものは誰かと聞いたのだ。すると皆が顔叔善だと言ったらしくてな。いてもたってもいられず、こうして顔を見にきたのよ」

声は笑っているが、顔はいかめしい。

──この人は誤解を受けやすい人かも知れぬ

 顔良はこうして近づいてきた理由を詮索する意味も込めて、敢えて問うてみた。


「そうですか。いまこんなことを聞くのも変ですが、この反乱が終わったとして天下が再び治まると思いますか」

 老兵は不意を突かれたのか、顔良を見つめたままに口を閉ざす。一度瞬きをしたのち、ゆっくりと話し始めた。

「荒れる、だろうな」

 顔良はその顔が曇ったのを見逃さなかった。

──きっとこの人も、父と同じような憂士である

 そう感じて、続けて言葉を投げかける。

「ならば、その原因は何でしょう」

「さあ、われにも解らぬ。あるいはこの国が、あるいは天そのものが、望んでおるのかもな」

──天命にその理由を求めているのか

 顔良は拍子抜けしたような気分に陥った。この人からは、もっと実体を持った言葉を聞きたかったからだ。目を燎に向けて粥を注いだ椀に口をつけ、そして啜った。

「それで。聞くばかりではつまらなかろう。お主はどう思っておるのだ」

 逆に聞き返され、自らの思うところは何なのかを実際に口から出す。

「わたしも荒れると思っています。此度の乱が起こったのも、もとは民が貧窮したからです。凶作となり廩を満たせないままに皆が飢えているにもかかわらず、官衙からは次の政柄はだれが握るのかという争いばかりを聞き、民を思って政治をしたという話を聞きません。それなのに、民たちをだれが責められましょうか。私が思うに官吏たちがその態度を改めない限りは、第二、第三と乱がおきて収まらないでしょう」

 老兵は首肯をしながら顔良に目線を送り続けている。

「ふむ、それで」

「そののち国の力が削がれた分、対処は難しくなり、中華はやぶれていってしまいます」

 老兵は眉をぴくりと動かした。

「随分と悲観的だな。おぬしは実際に官衙に上ったことはあるのか」

「いえ、堂陽のあたりでずっと田畑を耕しておりました」

「そうか、そうか」

 顔良は老兵の笑った顔を始めてみた。しかし身にまとう雰囲気はさきとは一変したといって良い。

「おぬしの言ったことにはふたつの正しいことと、ふたつの間違いとがある。よろしいかな」

 何を言い出すのか、それを注聴しようと身を乗り出した。


「まず正しいこと。この乱がおこったのは饑饉ききんとそれをないがしろにする者たちが大本になったということ。これは特別言わなくても、もと民として田畑を耕していた者たちならば皆が知っていることだ。この問題が根付いている限り、不満を持った民が蜂起してまた乱がおきるというのも然り。これでは延々と回廊を歩くようなものだ」

 むろん、これは皆がわかっていることだから何も言うことはない。しかし気になるのは間違っていることとは何かという点である。

「そして、間違っていること。この状況で一番笑うのは誰だと思う。」

 突然の問いに口ごもってしまったが、しばらく考えたのちに

「乱の首魁、でしょうか」

と答えたが、老兵がまた肯くことはなかった。

「違う。乱の首魁はわれらが必ず討ち果たす」

「ならば、だれですか」

「それはな顔叔善、各地の諸侯や隠れて爪を研いでいる者たちよ」

 顔良は目を見開いて老兵を見た。

「老父殿、滅多なことは言わないでください。あなたの言っていることはすなわち」

「ああ、そうだ」

 顔良は粥の入った椀を地に置いて、身を乗り出す。それを老兵が手で招いて、耳元に手を翳した。

「世の中には野心を持った者がいるものだ。世に乱れが生じると必ず幾人かは天下を狙う。いま戦っている黄巾賊の首魁、張角のようにな」

 耳元から離れた老兵は手の指を二本立てて

「わしはそういった者を少なくとも二人、知っておる」

と示した。

 顔良は

──誰が

と言いかけたがその言葉をぐっと飲みこみ、誰にも言うまいと肚に決めたのである。

「そしてそういった者たちがいる限り、中華は弊れぬ」

 言い切った老兵が立ち去ろうとしたとき名前を尋ねたが、笑ってはぐらかされて結局けなかった。



 六月に入って、顔良の所属する盧植の軍は張角の立て籠もった広宗を取り囲んだ。

 黄巾軍は数多くの民を扇動して連れこんでいる分、ひとところに閉じ込めてしまえば糧秣が尽きるのも早い。敵が多いならば、多くなったぶんを含めて城に閉じ籠らせ、飢えさせる。城攻めの方法としては、時に力攻めよりも悲惨になる方法だが、盧植は悲惨なものにはさせまいとしたのか、逃げてきた者たちは受け入れて手当てをした。

 むろん、ただの慈悲によってやったことではなく、物理的なけつは作らずに食料を運びこませないようにした代わりに、これによって心理的な闕を作ったのである。

 心の移ろいやすい民の集合体である黄巾の賊たちには効果的であった。ひと月経って城の中から脱け出すものが増え、またぞろ隙ができるであろうと思った矢先、突如としてこの軍の長たる盧植が更迭され、代わりに西方軍閥の長である董卓が指麾を執るという知らせが舞い込んできた。

──なぜ

 この軍にいたものは皆がそう思ったであろう。

 その実は、監督のために朝廷より派遣された左豊が賄賂を受け渡さない盧植の潔白さを恨んだため、という何とも言えない理由によるものだったのだが、兵卒として参画していた顔良がそれを知ることはなかった。


 新しく派遣されてきた将軍の董卓は、西方にてきょう族などを相手取って戦をしていた将軍だったが、その本領は野戦にあって攻城戦にはなかった。それゆえに野戦の戦術を攻城戦に持ち込んで力攻めを敢行した結果、連戦連敗を喫して兵を多く失ったのである。

 顔良もこれに参加し、矛を振るって幾人かを斬ったが、心の中では

──これでは無謀である

と判断してとにかく生き残ることを一番に考えた。多くの犠牲を要する力攻めが十数日続いて、ひとつの結果も出せなかったことに痺れを切らした朝廷は董卓をすぐに解任し、豫州と兗州の黄巾討伐にてすでに成果を出していた皇甫嵩を、広宗攻めの軍の将帥として派遣した。

 皇甫嵩が軍中に来ると、すぐに損害と現在の布陣を確かめて

──盧子幹どのの見立てが正しい

として、元通りに包囲して持久する形に戻した。

 相次いだ強引な力攻めに疲弊していた漢軍の兵たちもこれに喜んだ。気を緩めることはできないとはいえ、英気を養うだけの時間を設けられたのである。


 包囲はふた月ほどに及んだ。顔良をはじめ周りの兵卒も徐々に粥が薄くなっているというのを感じ取っていた中、幾人かの将のもとに命が届く。

──配下より勇気に勝るものを数人選んで皇甫左中郎将さちゅうろうしょうのもとに送るべし。

と書かれた文言に従って、各軍団の帥は勇士を選抜して皇甫嵩のもとに行くように命令を下した。そして、その中には顔良の姿もあった。

──これから将軍は何をするつもりなのか

 そう思いながら皇甫嵩のもとに足を運んだ顔良は、初めて高官につく人間の顔を見る経験をしたのである。

「よくぞきてくれた。感謝する」

 頭を下げたその人物は穏やかで、腰が低い。それなのに他にはない気高さがある。相手は下から出ているのに、その実際は超えられない山のように感じた。

──これが人の上に立つ者の気か

そう思った顔良の感動を発散させる間もないまま、言葉が連ねられる。

「我が貴公らを呼んだのは他でもない。敵首魁の一人、張梁が城を脱して北に逃げようとしているとの報が入ったためだ」

 首魁が逃げる、という言葉を聞いた者の中には機転が利いた者も利かない者もいたが、一様にどよめきが起こった。

──逃げるところを一気に襲うのか

 顔良は得心したが、一兵卒が言葉を発するわけにもいかない。ただ黙って、言葉を待つ。

「われらは夜に広宗の城より北の道沿いにある林にむかう」

 その言葉の通り夜になるまで待ってから、顔良は矛を担いで、馬に乗った将帥の後をついていった。


 北の林の中、城の中にいる見張りに気づかれないように、なるべく速足で向かう。

 林までは二十里(約8km)ほどを歩いた。木の陰に身を潜め、城のほうを見る。

 皇甫嵩は前もって、張梁の逃げ道がこちらに向くように、あえて北の一角に闕を作っていた。

 しばらくして月が天の上から傾いたころ、北から小さな光が漏れた。誰かが門から出てきた証左である。林の中、撒いた餌が魚を釣る瞬間が迫ってくる。やがて蹄音が小さく聞こえてきた。

──まだだ、まだ遠い

 顔良は矛を握る手を強く締めた。

「かかれ、かかれっ」

 その声が上がるとともに顔良は喊声を上げながら林の外にいる集団に斬りかかった。

 一気に上がった声の塊に馬は驚き立ち上がって乗っていた人物を振り落とす。

 狙うべきはこの中にいるであろう張梁その人である。絶対に逃すまいと雪崩をうって人影に殺到した。

 相手も抵抗する姿勢を見せて剣を振り回したが、顔良はそれを打ち払って鉾の穂を突き刺した。

 あがる呻き声。横に払って刺さったものを振り払うと、斬りかかってきた敵の一撃を柄で受けてそのまま打ち据え、止めを刺した。

 後ろから声が聞こえる。怯え恐れる声ではなく、凱歌の声であった。

「逃げてきたものは全員討ち取った。張梁の首もあろう。これを城下に晒す」

 皇甫嵩がそう言い放ち、この奇襲に参加した兵卒たちは各々がたおした者の首を獲って広宗城下の軍営へと戻った。

 朝になり、城門の近くに昨晩獲った首を並べた。これをた城壁上は俄かに慌ただしくなった。慌て方を見るに、確かに重要な人間がこの首の中に含まれているようである。


 日が中天を突いたころ、城の門が開いた。

「先に城下に晒されました首は首領の一人、張梁のものにございます。彼のものが居なくなれば、われらは逆らう理由もございません。降伏いたします。」

 地に頭をついて平伏した使者に、皇甫嵩は優しく声をかけてから軍を率いて入城した。黄巾賊の蓄えていた食料や財宝を収容したのち、広宗のもとの衙の中に葬られていた張角の遺体を引きずりだしてくびきり、旗の柄に括り付けて梟首きょうしゅとした。


 これにて凡その勝利をものにした官軍は、続いて曲陽にいる張角の末弟の

「張宝」

が率いる軍を狙い、これを木端微塵にする。これによって首魁たる張三兄弟が、みな命を落としたことになり、黄巾賊が瓦解。ひとまず、官軍の勝利となったのである。



 顔良はこの戦役を終えて、故郷の堂陽に帰った。もとの田畑を耕す生活に戻るためである。

 父や兄、母も彼の帰還を喜んだ。広宗で出会った老父や皇甫将軍、広宗と曲陽での戦い。それを家族に語り、

「私は畑を耕すような生活のほうが、性にあっているようです」

といって、鋤を手に取った。

 しかし時勢は乱世に進むにあって、彼の存在を放っておかなかったのである。

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